【オルタの視点】

「右傾化」から「退廃」へ
―世相の動きから見た日本の将来―

羽原 清雅


 政治を見る目が短視化して、「現実」重視に堕してはいないだろうか。権力への依存感が強まり、権力の説明に信頼を置きすぎていないだろうか。長い眼で見ると、戦前の政治が、「戦争準備・戦時」体制を少しずつ受け入れていった世相の背景・変容に似てきてはいないだろうか。
 もちろん戦前の、誘導と隠ぺいによる情報管理、天皇のもとでの軍部と官僚の専断、チェック機能たる政党やメディアの腐敗と沈滞、などの状況とは様変わりしている面も多く、同一視はしない。「いつか来た道」「戦前回帰」などというつもりもない。

 ただ、現状の政治課題の取り組みを見ていると、「民主」主義はやりようによっては、かなりもろい一面がある。そのように思わざるを得ない深刻さが進んでいるように思える。歴史のなんとない長期的な変動が、気付いた時に大きな禍根につながっていた、という事実は世界的にも決して少なくない。
 いささか悪い面を見過ぎ、強調することになると承知しつつ、いろいろな近事について書き進めたい。

◆◆ <政治>

 まずは、安倍政権を揺るがす森友学園問題。政治の典型的なおぞましく、不可解な事件である。
 安倍夫妻、稲田朋美防衛相夫妻、麻生財務相側近の鴻池元官房副長官・防災担当相、平沼赳夫元運輸・経産相らの政治家の名が浮かぶ。安倍首相周辺だけを見ても、昭恵夫人への5人の官僚従事、夫人の名誉校長受け入れ、教育基準法に抵触する学園教育への高い評価などに加えて、政治・行政がらみの国有地の不可解な払い下げ、設置認可の裏事情、政治家の口利きを思わせる動き、といった疑惑が消えない。

 首相周辺の「軽率」「権力乱用」「法令軽視」、そして相変わらずの政治家らのうごめきなど、問題は多いが、首相の疑惑への対応がおかしい。各行政機関に責任を負わせ、「私人」だとして逃げる。疑惑を持たれたら、行政や当事者らの説明を尽くさせるよう指揮を取り、また自らと夫人の関与の実態を反省も込めて明らかにしなければならない。宰相たるもの、李下に冠を正さず、である。疑惑を追及する野党やメディアに怒るまえに、首相は最大限に事実関係を明らかにすることで、批判にこたえるべきだ。

 首相は「印象操作だ!」と色をなすが、この問題は多くの不可解と疑念を抱かせており、その「印象」をぬぐうものは、夫妻周辺、関与の行政機関、あるいは当事者たちの国会出席など、首相のできる限りの解明努力を果すことしかない。むしろ、隠す姿勢が疑惑を拡散させている。
 歴史的に立証済みのとおり、長期に権力を握ることによる腐敗やデメリットを感じさせるところに根の深さがある。

 また、安倍政権再登場の舞台回しをし、その主張において共通部分の多い「日本会議」の影が色濃く見えていることも、政治路線への長期的な影響が懸念される。安倍首相のみならず、稲田、鴻池、平沼氏も日本会議国会議員懇談会の重要メンバーで、その思想傾向も首相らが「評価」したように、籠池理事長の主張、教育内容、幼稚園教育の実態などとかなりの共通項がある。

 この姿勢は、安倍政権の2021年までの長期政権化が具体化すれば、相当の定着ぶりとなる。この政治的方向が独り歩きするようになることは、日本の将来像に決してプラスにはなるまい。長期政権は、問題ある議席配分による「数」に依存している。一見すると、いかにも政策や政治の方向決定に正当性を与えているように見えて、支持率を高める結果になっているが、このままなら、いずれはゆがんだ方向に進んでいたことに気付かされるに違いない。

 この政治のゆがみやひずみは、すでに人事操作によって「正当化」されている。つまり内閣法制局長の差し替えによって、従来積み重ねてきた政府の指針を変えて集団的自衛権を容認する「論理」を生み出し、天皇退位問題のヒアリングに日本会議メンバーを3人以上含めることで方針を押し通し、また日銀、NHK人事などでも都合のいい人事によって方向性を打ち出している。この積み上げも、いつか誤った社会状況を作り出す懸念をはらむ。論議の始まる共謀罪法案、すでに成立した特定秘密保護法、集団的安保法制、カジノ法などについても、いろいろ指摘されているように、将来の展開に不安を招きかねない。

 また、1,200兆円を超す借金財政を許容し、いつかアベノミクスによる景気浮上によって回復できる、といった論法で切り抜けているが、長期的に考えると、失うものが大きすぎはしないか。財政を一気に潤わせて借金を急減させる、といった可能性は皆無だ。これも将来を見通すと、一政権の誤りが及ぼす国民への大きな影響を考えざるを得ない。

 このように意図的に生み出される諸施策は、総体として国民から政治を預かっている「民主」の理念からどんどん遠ざかっていく原因になるのではないか。
 さらに、首相官邸や与党執行部の発言力の強大化とともに、与党議員の日和見的というか、自らの判断を示したり、発言したりせず、沈黙するうちにひとまとめに絡めとられ、一部の権力によって結論を出されてしまう傾向がある。多彩な議論の失われた政治のありようは「民主」とは言い難いだろう。

◆◆ <行政>

 国の施策を具体化するにあたり、重要な任務を負うのは官僚機構、つまり行政である。
 政権のもとに置かれるこの機能は有効に稼働しているだろうか。先の森友学園の例に見られるように、官僚が政治権力からの指揮を受けたり、あるいは「忖度(そんたく)」「権力追随」「おもねり」「強弁」「逃げ」などのビヘイビアをとったり、隠ぺいや黒塗り資料で隠したり、迎合的に権力の防護壁の役割を果たすことが目立っている。

 官僚が権力の意向を「忖度」して決定すると、こんどはその処理にあたっての責任を問われたとき、権力は守られ、官僚がその責任逃れに追われて、「ウソ」「黒塗り文書」「まやかし言葉」の乱発になる。と同時に、権力側が「なるほど」といえるだけの説明を避けること自体、疑惑をさらに増殖してくる。
 財務省は、国有財産の不当を思わせる払い下げと疑惑を増す答弁に終始しており、権力に対しておもねりの措置を取った、と思われてもやむを得ない説明ぶりだった。

 南スーダンの「戦闘」問題については、稲田防衛相のしどろもどろの答弁もさることながら、防衛省内で1ヵ月も大臣に報告しないでいたことが明らかになった。
 経産省は、各室に施錠して密室化を進め、メディア取材への対応はメモ化を命じるなど、情報閉鎖を一段と強化させた。
 官僚にはかつて、その任務に誇りを持ち、政治におもねらないだけの自律性がみられた。概して三権分立上のルールを守る気概に強いものがあった。それが、強い政権のもとで薄れて、自己保存、自己立身的な計算づくの姿勢が主流化してしまっている。

 政権が「一強」となることが行政の退廃傾向を招く。権力を支える行政が公正な姿勢を失った姿は、戦前に軍部の台頭を許し、行政機関が強きに流された経緯に近似しているように見えてくる。
 文科省の組織的な天下り機能もまた、違法な取り組みだ。民間には行政上の経験や知恵を持つ官僚を導入したい風土があり、民側の求めに応じるケースを封じることはない。ただ、一定のルールと、押し付けを許さないけじめは踏まえるべきだ。そうでないと、官民癒着の甘えや不正が生まれ、これが定着すれば長期的にマイナス要素になることは間違いない。

◆◆ <国会>

 腐敗や邪道への道は、各政党について言える。戦前、政党の精神がまず崩れ、軍部や官僚、戦争推進勢力の発言力が増し、ついには政党の理念、役割、責任を自ら放棄して解体に至った経緯を再考してほしい。政党のレベルダウン、無気力が、長い歴史にもたらしたものはなにか、いまこそ見直す重要なときなのだ。小選挙区制度の弊害を考えない限り、日本の政治の前途は暗い。「現実」容認にこだわり、ものごとの是非を見直さない限り、日本の進む方向はロマンを誘わないだろう。

 簡単に言えば、政権を握る自民党は、賛否を問う議論をせずに、執行幹部らの決定にひたすら追随する。議員の「数」も重要だろうが、「質」はもっと必要である。そのプロセスにおいて各種の意見を侃々諤々に述べあい、調整し、より高いレベルを求めてこそ、権力を握る資格がある。

 同じ与党の公明党は、議席の「数」を補いながら、ごくわずかな主張を認めさせ、なんとか辻褄合わせをして良しとする。立党時と異なる姿勢が目立ち、一枚岩の党体質から反省なく唯々諾々に自民党に同調する。権力の座から滑り落ちないためか、「下駄の雪」状態を甘受してやまない。同じ与党であるからこそ、いうべきは言い、より望ましい方向に進めるべきだが、その姿勢に欠ける。

 政権の座を狙うはずの第二党の民進党は、憲法問題の取り組み、雇用と労働現場のありよう、プラス面なく揺らぐままの原発問題など、政党の存立をかけるべきところで党内の意見すらまとめられず、支持率は低迷するばかり。これが理念を掲げる政党なのか、政権再接近たるポジションにある政党なのか、と思わせる。政権時の基本的な体質改善ができていないところは、じり貧の今後を感じさせる。

 共産党。長い歴史に耐えてきた政党で、行動力については他党の及ばない力量がある。しかし、地方自治体での発言力は身についたとしても、国政では基本的な許容感が生まれてこない。

 そのほかの小型政党はかろうじて残存するが、現行の選挙制度では政党自体を維持する以上のエネルギーはない。気の毒ではあるが、昔ながらの主張が国民に届かない政党、与野党の間の<ユ党>など、足掻きにとどまり、それ以上の政治へのインパクトがない。

◆◆ <軍事>

 軍事費ないし国防費は、各国とも増え続けている。
 日本の2017年度は5兆1,251億円で、安倍政権下では増え続けている。予算総額97兆4,547億円の規模では大きいが、国際的、比率的に見れば多くはない、という論にはなるだろう。ただ、国の債務残高が1,223兆円という巨額の借金を抱え、福祉、教育費を減額している点から見ると、これでいいのか、と思えてくる。

 米国のトランプ大統領は、国防費を約6兆円(540億ドル)増額して約68兆円台(6,030億ドル)にするという。中国の国防費は約16兆8,000億円(1兆225億元=2017年)で、2017年度は7%の増加だという。

 こうした軍事費の増額はエスカレートしがちで、国際的なにらみ合いのなかで軍事競争が進められる。そこに歯止めはなく、むしろ戦時下なら軍需物資は消耗品として景気を刺激するので、経済界、産業界から歓迎され、戦時ではなくても緊張関係のもとではそれなりの効用が期待される。そこに、国家が戦火を求めやすくなるひとつの事情がある。ミサイルから核兵器へと走る北朝鮮の無軌道ぶりを非難しつつ、軍事的な対抗措置のみが具体化し、大義名分が立つ。

 平和外交の推進だ、と言いつつ、例えば中国包囲網をつくる狙いもあって各国訪問が行われる。そして、仮想敵の設定なり、攻撃的な国への対抗措置の必要が説かれる。国民には愛国心の名のもとに、必要以上の警戒心や嫌悪感、対抗意識を植え付ける。相互の理解、観光や文化などの民間交流、紛争回避の外交措置といった本来あるべき関係の構築の努力を怠る。

 防衛、国防といった名において国家の対立を恒常化させ、軍事的なコストをあえて増大させてはいく。こうしたごまかしの手法が定着、長期化することで、反省を生かさない歴史を繰り返すことになる。国民意識がそうした方向に向けられた戦前の教育、制度、政治体制などをぜひ見直しておきたい。経験のない若い世代が、またも誤らないで済む社会をめざさなければなるまい。

◆◆ <メディア>

 米国のトランプ旋風は、米国内に分裂を招き、大きな溝を浮き彫りにした。大都市部VS広範な農業や工業地帯。学歴・地位・収入に恵まれるエスタブリッシュメント(既得権益層)VSラストベルト(錆びついた工業地帯)に代表される生産を担う労農層。白人VS黒人や非白人。クリスチャンVSモスレム等。そこに既成のマスメディアに対する、新興のSNS時代を投影したフェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどの情報機能が加わる。

 そのような、見えにくかった亀裂が、トランプの登場によってくっきりと浮かび上がる。トランプはその傾向を敏感にとらえていたのだ。だが、新たな問題として、フェイクニュースをも信じる傾向、民族的差別を強める風潮、オバマ的社会の構築への反発と拒絶、国際的な戦闘・攻撃モードの高まりなど、社会の不安定ぶりを現出した。
 メディアへの信頼が損なわれ、従来型の報道を拒絶して事実をも受け入れない階層も増えている。既成メディアに反省も生まれるだろうが、これまでになかった現象である。

 日本もまた、新聞は、テレビのみならず各種の情報源の登場で読者層を減らし、きびしい経営ぶりになってきている。さらに、朝日・毎日・東京VS読売・サンケイに分裂状態の論調で、権力側も都合のいい主張を受けて、批判に耳を傾けない傾向にある。

 フェイクニュースの大きな問題は起きてはいないが、テレビの質の低下、スマホやフェイスブック的な短文式で奥行きに触れにくい情報依存などの問題を抱える。IT大手のDeNAによる情報サイトでの不当書き換え、コピペ、画像の無断使用などの新たな問題も浮上した。

 この状態が進めば、高等教育を受けた人口は増えても、長い眼で見ると、社会全体の軽さ・薄さが拡大、二者択一的なイエスかノーかといったリスキーな選択の目立つ風潮が定着しかねない。これはポピュリズムを刺激し、右傾化する風潮に拍車をかけることにもなりかねない。

 ものごとを深く考えない傾向が強まれば、教条的な選択を迫る状況が生まれるだろう。社会の大勢がそうなるとは限らないとしても、戦前のような狭隘な愛国心や、嫌悪する敵対国ムードの鼓吹などに向かえば、状況に流される危険が出てくる。虚言の横行、事実関係の隠ぺい、批判などを茶化す傾向、そして権力への従順な追随・・・こうした流れの萌芽が昨今の社会状況のなかに見て取れるだろう。
 そこに、メディアとしての毅然とした自律性、より確実さを求める真実性、深い追及性、国民各層により説得力ある広範性が、従前以上に求められよう。

◆◆ <社会>

 軍事費の拡大についてはすでに触れた。その関連で言えば最近、軍事技術の基礎研究などに防衛予算が使われ、政府サイドの発言力が増してきている現実に対して、日本学術会議が研究者たちの論議のもとに3月、半世紀ぶりに声明を出した。要は「学問・研究の自由」が政府の介入で妨げられることがないよう、また学術会議が1950年、67年に出した声明を踏襲して、戦争目的と軍事目的の研究を拒否することを示した。たしかに、軍事技術の研究成果は日常生活に寄与する側面も大きいが、主目的の「軍事」「戦争」のおこぼれのためにこれを受け入れてはなるまい。その意味では、望ましい決定だと思う。

 だが、産業界から自民党への政治献金は、自民政権の復帰後に増え続け、2015年には3億9,000万円に達した。これは、安倍政権下での安保関連法の成立(15年9月)、防衛予算の5兆円超の増額(16年度)、武器禁輸の原則を見直し「防衛装備移転3原則」の閣議決定(14年4月)などの政策のもと、軍需産業の期待を大いに刺激したためだ。社会の傾向が、「景気刺激」を求める方向に引きずられ、また対外敵視的な政治姿勢と相俟って軍事許容の風潮に流されている。

 長い眼で歴史を見るとき、このような個々の変化が抜き差しならないリスクを増していくことはすでに実証されている。「安全保障」の名のもとに軍事体制を強化するのではなく、それ以前に相手国との相互理解、紛争回避、国民間の和平親睦交流の促進などの和平努力が必要ではないか。

 日本独自の平和路線を毅然として続ければ、そのありようは国際間のモデルとしてこれを認め、同調する国も登場してこよう。小型の島国ながら、戦争当事国であった反省の論理と、教育水準、知的産業、経済・技術支援などの実績のもと、米国の傘の下よりもアジアに生きる姿勢を頑固に示すことで、新しい価値観が定着していく余地はある。アマイと言われても、だ。
 7年目に入った東日本大震災の復興にいろいろの課題を抱えるなかで、福島の原発の反省が生かされず、原発依存の政策が進められている。経産省によれば、福島原発の事故の賠償、廃炉費はこれまでの試算は倍増し、21兆5,000億円になるという。この負担はだれが、という論議もあるが、公益性という点では税金による負担もある程度覚悟せざるを得まい。

 むしろ問題は、原発依存の政策を受け入れていいのか、将来の長きにわたる不安とリスクを抱えたままでいいのか、という点にある。原発環境の規制は強化されはしたが、災害の多い島国、原発廃炉に至るプロセスの未開発、原発立地地域の住民のくすぶる不安、補償や廃止原発の莫大な資金確保、といった課題にまだ応えきっていない。ほかに、現在の政策に固執することによって、原発依存のエネルギー政策を代替させる努力が見えてこないことの懸念もある。

 破産に近い東芝経営の原因が、原発のコスト問題に発している点を見ても、そうした誤算が原発信奉の神話に寄りかかりすぎた結果であり、いい教訓であることに気付かなければなるまい。
 原発の不安をはらむ一方で、従来の政策に頑固に固執する。問題は、この課題が長期にわたって国民を拘束し、一朝ことあれば大量の生命を失い、悲しみを生み出す。ここにも、曲がり角をリスキーな方向に進もうとしている現実がある。

 最初にも触れた日本会議の存在だが、森友学園問題に伴って思想的共感を持つ政治家の名が浮かび、官僚群の権力維持のための「忖度」行為が見え見えになってきた。日本会議の権力への影響力の強さがうかがわれる。
 そして今、動き出しつつある問題がある。

 ひとつは、明2018年に迎える「明治維新150年」のイベントである。維新期の事態から和魂洋才・機会均等・チャレンジ精神などを汲み上げ、思いを新たにしようという趣旨で、政府中心に動き出している。歴史に学ぶこと自体は悪いことではない。しかし、この事業の推進に力を入れる日本会議は、皇室敬慕をうたい、歴史教科書を独自に編纂、あるいは歴史の改ざんの意思も散見するので、戦前型のナショナリズム礼賛に指向しそうであることを忘れてはなるまい。

 また、自民党が検討中の「家庭教育支援法案」には、日本会議の長年の思いがある。同党の憲法草案では「家族の助け合い」を義務付けようとしている。だが、現行憲法は「個人の尊重」を基調とし、これを最高の理念とするものだが、「家族」を義務付けることで、「個人」としての存在を薄めるかの意図がある。その先に、個人よりも国家尊重といった狙いを感じないでもない。この発想は、日本会議のかねての主張に合致しているというか、日本会議の大きな目標だと言っていいだろう。また、現在の家族は多様性を増しており、それぞれの立場から考えると、法的に拘束をかけることは無理があるだろう。さらに、社会福祉、社会保障の負担が増す現在、家族相互の助け合い優先を義務化することで公的責任を家庭に振り向けるという意図も感じられる。

 さらに、再来年度の教科に「道徳」が加えられる。この推進にも、日本会議の主張が生かされた経緯がある。道徳は、社会のルールを維持するうえで重要だが、子どもたちを一つの方向に束ねていくような指導となっては、「個人」育成の方向に反しかねない。この点は、教育現場において注意が必要だろう。
 日本会議の運動の特徴は、過激ではない。それなりの気持ちが広く存在する問題について、穏やかなかたちで政治活動とプロパガンダを進めて、時間をかけつつカーブを切る、といった取り組みだ。

◆◆ <終わりに>

 社会全体が個別の理由で、それぞれ別々の背景において、動いているように見える。本当にそうだろうか。一つひとつの動きが、共通の意図をもって動かされ、底流としてリンクしながら動いているのではないか。<知らせず・知ろうとせず・知らず>という現実が、カーブを切りやすくさせてはいないか。

 流されやすい社会がひとたび構築されると、個々人の集積された思いを乗り越えて、加速度的に事態を変えていく。ひとたび決めた制度や法令が変えにくいことは、7回の衆院選挙を経てなお維持されている小選挙区制度が典型的な例だ。民意としての政党得票率と議席数の配分が噛み合わないままに「一強」体制をつくり、異議や修正、少数意見を許さずに決めていく。その愚に甘んじることで、さらなる非を重ね続けている。

 このようにトータルとしては見えにくい社会の動きだが、どこかで連鎖していることに気付かされる。
 だが、いまの政治状況はこれらを見えにくくしている。

 各種選挙での棄権率の高まりや無関心、政治動向の情報へのアプローチの低下といった傾向、事実関係の解明を避ける狭隘な意識の政治家や官僚らに不信・蔑視の目を向けながらも許容してしまう傾向、などがその一因だろう。
 安倍政権の長期化が予測されるなかで、手堅い支持率が続く。このまま、この政権下でカーブを切っていくことでいいのか。戦後に積み上げた歴史が別の方向に進みつつあることでいいのか。

 このような流れの結果、10年後の社会はどうなっていくのだろうか。
 もう一度、踏み止まってあれこれの現象を見直してみてはどうだろうか。

 (元朝日新聞政治部長・オルタ編集委員)


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