【コラム】
ザ・障害者(16)

「偏見」と「だから」の思想

堀 利和


●「偏見」は人間的、でも非人間的

 私が1989年に初めて参議院議員になった時に一番気にしたのは、私一人のふるまいから偏見が生まれてしまうのではないかということでした。特に、「議員」という看板を背負っていたからです。議員や国会職員の中には視覚障害者が身近にいる方もおられるかもしれませんが、しかし大半は視覚障害者と直接ふれあう機会も少ないと想定されます。

 議員会館の議員専用食堂で、秘書と一緒に昼食をとっていた時のことです。テレビにもでる有名な議員が私のところをチラチラ見ている、と秘書から言われました。真意のほどはもちろんわかりませんが、その時の様子ではどうも目の見えない私がどうやってご飯を食べているのか、関心を持ったようです。秘書の一言で、私は緊張してご飯を食べました。その時から、この「世界」で常に見られている存在、エイリアンなのだと自覚しました。

 そしてさらに厄介なのは、この空間で出会う人達の殆どが見ず知らずの人、つまりたとえ何度か会っても、すれ違うだけでは誰なのか認識できません。議員はもとより秘書、国会職員、霞が関の役人、陳情団等、不特定多数の人でにぎわう場所です。限られた人間関係の空間ではありません。そんな中、議員バッジをつけて白杖をついて歩くのはやはり目につきます。

 慣れてくると、たとえばこんなふうになります。廊下で議員とすれ違う際、一般的には少なくとも目を合わせる、あるいは軽く会釈などをするのでしょうが、私は声をかけられなければわかりません。「おはようございます」と声をかけてくる議員、次は「堀さん、おはようございます」、そしてさらには「堀さん、おはようございます。〇〇です」となります。こんな具合ですから、「偏見」についていえばこうなります。私「一人」が視覚障害者「一般」となります。私をして、視覚障害者ということになります。

 動物には偏見はありません。本能にしたがって行動します。動物も学習しますがそれを本能に転化します。だから偏見はありません。
 ところが、厄介なのは人間です。人間は動物と違って、想像力をもっています。想像します、類推します、推察します。それが偏見を生むのです。一人の視覚障害者をみて、視覚障害者とは、視覚障害者「一般」を体系化します。31万人の視覚障害者と出会わなくても――。

 想像、類推、推察。人間は偏見をつくる動物です。その限りにおいては人間的です。白人とは、黒人とは、アメリカ人とは、中国人とは、という具合に、経験と想像の中から偏見を作りあげてしまいます。13億人の中国人と出会わなくても。
 それがいかに不合理で不当なものかわかりませんが、そうしてしまうのです。偏見をもつ動物だから、それが人間だから、私たちは偏見から逃れることができません。そのため、私たちは常にその偏見に気づき、点検し、反省しなければなりません。

●「だから」の否定と肯定

 偏見としての視覚障害者「だから」は、否定されなければなりません。もっとひどい言い方になれば、視覚障害者のくせに、女のくせに、となります。
 視覚障害者「だから」、目が見えないから、あいつを社員旅行に連れていくのをやめよう、面倒をみるのが嫌だということになります。視覚障害者「だから」。しかし、敵もさるもの。かつてマッサージ師として病院に勤務していた先輩が、「目が見えないと大変でしょうから、無理して旅行に行かなくてもいいですよ」と、体よく断られてしまったそうです。

 1975年、先輩が東京都特別区職員採用試験の点字受験を求めた際、特別区人事委員会は、盲人の採用予定がないので点字受験を実施することはできないとしてきました。これに対して私たちは、受験要綱には一般的な受験資格が書いてあっても、盲人には受験「資格」がないとはどこにも書いてないと迫りました。しかしながら、点字受験は実施されませんでした。
 ところが、敵もさるもの。次の年の受験要綱には、「活字印刷物の出題に対応できる者」としてきました。敵もあっぱれ?だが、これはそれまで潜在化していたものを顕在化したにすぎません。見えすぎた「だから」と、体の良い「だから」があります。

 さて、もう一つの「だから」は、障害者差別解消法、あるいは障害者雇用促進法に関わるものです。すなわち、視覚障害者だから合理的配慮を行わなければならないということです。視覚障害を理由とする差別は許されません。
 社会的障壁を除去するための合理的配慮を行わないことが差別にあたります。社会的障壁とは、事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう、ということになります。ただし、この「ただし」が曲者なのですが、配慮する側にとって「過重な負担を課さない時」となります。しかもそれが「過重」であるかどうかの判断は今のところ配慮する側に委ねられているといえます。それだけに、私たちの運動が必要となります。

 「偏見」から「だから」の問題までを考えると、私たちの日常生活の周りにはそのようなことがたくさんあります。偏見を受けたり、あるいは私たちが偏見を持ったり、また、理由としての「だから」をいいようにも悪いようにも使ってしまっています。人のふり見てわが身を直せ、隗より始めよですかね。

 (元参議院議員・共同連代表)

※この記事は著者の許諾を得て東京ヘレンケラー協会出版『点字ジャーナル』2018年6月号から転載したものですが文責は「オルタ広場」編集部にあります。

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