【沖縄の地鳴り】

「不屈」の魂、再び ― 辺野古NOの闘いに連動 ―

大山 哲


 那覇市内の映画館で公開中のドキュメンタリー映画『米軍が最も恐れた男・その名はカメジロー』(佐古忠彦監督)が、空前のヒットを記録、ロングランを続けている。
 ロードショー初日の8月12日から2日間は、観客が館外に溢れ出し、500人以上が道路に行列をなした。普段は閑古鳥が鳴き、斜陽化が著しい映画館だが、人いきれの絶えない、時ならぬ大盛況ぶりは、近来まれな珍事であった。

 私は、人ごみを避けるつもりで、公開から2週間後に出かけたが、見事に思惑が外れた。この日も200人ほどが詰めかけ、上映1時間前から廊下に立ちんぼする羽目になったのだ。
 満員の館内は、上映中、時おりため息がもれるものの、シーンと静まり返り、例えようのない熱気が会場に充満した。映画が終わったとたん、一斉に拍手が沸き起こった。余韻の深さを見る光景だった。
 「カメジロー」が、なぜ、思想信条や党派を超えて、こんなにも多くの観衆の心を鷲掴みにしたのか。

 瀬長亀次郎といえば、1950年代、占領者の米軍権力に、真正面から抵抗した不屈の闘士として名高い。
 米軍政への忠誠拒否、投獄、パスポート拒否、那覇市長追放、被選挙権剥奪、際限のない米軍の弾圧、これに同調する保守勢力の圧力にも屈することはなかった。1956年の島ぐるみ土地闘争でも、住民の先頭に立つトップリーダーだった。
 あれから60年も経った今、観衆のほとんどがカメジローの不屈の志に共鳴するのは、沖縄基地の不条理、構造的差別の実態が、当時と何も変わっていないことへの、やり場のない憤りの発露に違いない。辺野古新基地NOで、安倍政権の強権に対峙する沖縄県民の「民意」と二重写しに見えるのだ。

 時あたかも、映画公開初日の12日はオール沖縄県民会議主催の『翁長知事を支え、辺野古に新基地を造らせない県民大会』が開かれ、奥武山競技場に4万5千人が結集した。
 わざわざ『翁長知事』の名前を大会名に冠したのは、全く異例なこと。政府の強硬姿勢を打破するには、翁長知事を先頭に、県民の総意を再構築せねばとの切羽詰まった事情。とりわけ、来年の名護市長選、県知事選勝利への決意が秘められていた。もちろん、事故続きの新型輸送機オスプレイの全面撤去要求は、緊急なテーマであった。
 聴衆を前に、翁長知事は「辺野古が唯一」を譲らない政府の強硬姿勢を「民主主義国家の体をなさない」と再び批判。改めて「辺野古に新基地を造らせない」と強調した。

 「辺野古問題の原点はなにか」を問われると、翁長知事は決まって、1950年代の島ぐるみ土地闘争で立ち上がった沖縄の民意を引き合いに出す。沖縄戦で焦土と化したうえ、米軍政による理不尽な土地の強奪。そのことが、今なお軍事基地偏重のいびつな県土を引きずっている、との認識である。
 これに対し、あくまで1996年のSACO(日米行動委員会)合意にだけ根拠を求める政府との間には、抜き差しならない見解の落差がある。

 かつてカメジローは、不屈の精神で占領下の米軍政と闘った。今、翁長県政に立ちはだかるのは日米政府、とりわけ面前の厚いカベは安倍政権である。

 国は、県の主張をものともせず、強大な国権を発動して、辺野古新基地工事を強引に進めている。機動隊や海上保安庁による反対派の強制排除。「国には従え」の実力行使には、思わず目を覆いたくなる。
 一方では、さまざまな「アメとムチ」の政策で世論の分断も公然と行われる。「醜い権力」のすべてが沖縄に集中し、日夜、暗躍しているのでは、との錯覚と不信感が脳裏をかすめて仕方がない。

 このところ、日本をはじめ国際情勢は、北朝鮮の相次ぐミサイル発射による危機的状況で、予断を許さない。また、尖閣諸島をめぐる日中間の緊迫状況も続く。
 冷静に考えれば、辺野古基地建設は、北朝鮮危機とは直結しない問題だ。だのに「沖縄は甘えるな」「沖縄どころではない」と、バッシングの声がかまびすしい。はたして、沖縄の要求は、かき消されてもいいものなのか。

 沖縄の民意は、全国にとって絶対的な少数派かも知れない。でも、その民意を信ずるほかはないのだ。カメジローの「不屈」に習って。

 (元沖縄タイムス編集局長) 

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