■ 【書評】

『ロシア・ショック』大前研一著(講談社刊・1500円)    望月 喜市

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<大前研一氏略歴>
1943年生まれ。
早稲田理工学部卒,東工大大学院修士,
マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院博士,
経営コンサルチング会社マッキンゼー&カンパニー日本支店長。
現在,(株)ビジネス・ブレークスルー代表取締役社長,同大学院大学学長,
96-97年スタンフォード大学客員教授。

 ロシア分野でオピニオンリーダーとして活躍する全ての方,北方領土返還運動
従事者,ロシアおよび日ロ関係に関心を持つ,マスコミ関係者,行政官,全ての
日本国民に,この本を早急に読んで頂きたいと思う。この本は,ロシアの変貌を
伝える部分,ロシアビジネスのメリットを説く部分,今後の世界でロシアがEUの
1員になると予言する部分の3部から構成され,最後に以上の議論を踏まえ,日ロ
は平和条約を1日でも早く結び,その後にもたらされる大きな可能性の扉を開く
べきだ,と結んでいる。

◇◆(A)この本の主な内容を,筆者なりにまとめれば,次のようになる。

(1) 領土問題にこだわらないで,一刻も早くロシアと平和条約を結び,その後
に展開する日ロ協力の大きな可能性を日ロ双方が享受することこそ,21世紀日本
の外交政策の1つであるべきだ。

(2) ロシアの変貌を率直に認めようとせず,米国への政治的追随,中国ビジネ
ス一辺倒という姿勢を一向に改めようとしていない日本の外交態度,ビジネス態
度は間違っている。

(3) 平均的日本人の対ロ感情は悪く,その認識は古いままだ。これと対照的にロ
シア人は日本を最も好きな国の1つと考えている。日本の商品なら多少高価でも
喜んで買ってくれるし,日本食品への安全性信頼は高く,日本の上得意のお客さ
んだ。意識調査によると,ロシア人の74%は「日本が好き」と答えている。日本
人の82%が「ロシアに親しみを感じない」と答えているのと対照的だ(P.100)。

(4) プーチンは,ゴルバチョフ,エリツインの残した負の遺産を引継ぎ,どん
底(地獄)からロシアを奇跡的に立て直した。それは,石油輸出価格の高騰とい
う神風が吹いたばかりでなく,プーチンの類稀(たぐいまれ)な強靭な肉体と精
神,政治手腕によるところが大きい。自分でジェット機を操縦し,55歳の引き締
まった肉体の写真を取らせなど,パフォーマンスは抜群だ。象徴的出来事があっ
た。07年7月IOC総会会場に乗り込み,流暢な英語でスピーチを行い,ソチで自分
がスキーで滑降するプロモーションビデオを見せ,ソチが黒海に面した温暖なリ
ゾート地でありながら,夏でもスキーができる場所であること,1500億円を投じ
て,世界最高の施設をつくることをアピールした。このプーチンのパフォーマン
スは圧倒的で,事前予想では絶対不利と見られていたのを,決戦投票で韓国を逆
転し,開催地指名を獲得したのだ。まさにプーチンは,ロシア国民にとって「希
望の星」なのだ(P.47)。プーチンは柔道5段で毎週1回は寿司屋に行くほど大の
日本好き。「強いロシアの復活」を追及し,2期目に大統領職を去るときは92%
の人がプーチンを支持していた(P.45)。

(5)経済立て直し政策として特筆すべきは,2001年に実施したフラットな所得
税(一律13%)の導入である。それまで,ロシアでは個人所得税は累進課税であ
った。この改革でアングラマネーが表面に浮上し,個人所得税収入が急上昇,国
家財政は劇的に好転した。申告所得が伸びたので,銀行の消費者ローンが増え,
車・家・その他大型消費需要が盛り上がり,小売売上高の年成長率は04年から10
%を超えるようになった(P.39)。

(6)ロシアは,日本にとって大切な資源の供給国であり,日本商品の潜在的一
大市場である。その上,人材(技術者)の豊富な国だ。ロシアはBRICsの中でと
りわけ高い教育水準を持つ(大学進学率は06年で73%,ブラジル25%,中国22%
,インド11%)。エネルギー資源がなく,国内消費市場が飽和状態に近い日本に
とって,ロシアビジネスは相互補完と相互利益をもたらす大きな可能性を秘めて
いる。

(7)日本が関与している石油・ガスサハリンプロジェクトで環境面で問題あり
として突然,開発中止命令をロシア側が出したり,国策会社ガスプロムが,プロ
ジェクト関連株式の過半数(50%+1)を買取ったことがあった。このとき,日
本では「ロシア政府の横槍」「権益を奪われた」と大騒ぎになり,日本のマスコ
ミ論調は非難一色に染まった。ところが,このプロジェクトに参加している三菱
商事の当事者の話しは全く内容が違う。 「開発過程でロシア法に抵触する環境
破壊があったことは事実で,環境監督当局の指導で改善・改修した。ガスプロム
の参画自体は,株式の買取りであり,経済的にフェアーなビジネスである。ホス
ト国の支援を得ながらプロジェクトを完成させ,エネルギーを日本に輸出してい
く上で,ガスプロムの参画はむしろプラスになった。」というものだ。

 大前氏の著作では,大胆率直な命題が数々登場する。これがこの本の魅力とも
なっている。以下では,本書のなかで批判や論議を浴びそうな幾つかの判断を取
上げ考察する。

*1「プーチンの大統領統治は2020年まで続く。現在のメドベージェ
フは,プーチンの傀儡にすぎない」(p48)。この判断は,その後の経過を見る
とかなり確度が高い。メドベージェフ大統領は11月5日の年次教書演説で大統
領の任期を4年から6年に、下院議員の任期を4年から5年にそれぞれ延長する、
ただし現職には適用しない,という改革案を提起した。そこで2012年メドベー
ジェフの任期満了後,プーチンが大統領に再登場し,2024年まで2期12年間大
統領職につくという仮定も成り立つ。12月4日の国民とのTV対話では,「首
相ポストは気に入っている,4年間の任期が終わったあとで,身の振り方を考
える。現在は非常に効率的に2頭政治は行なわれている」と答えている。世論
調査(レバタ・センター)では,「最も信頼する政治家」は,プーチン56%,
メドベージェフ43%,「実権を握っているのは誰か」に対し,10人中9人まで
プーチンと答えている(朝日081105)。

*2中国よりロシアの方が社会不満を爆発させるマグマの蓄積は少な


  中国は共産党独裁体制のまま,資本主義をかぶせた状態で改革を行ったので,
改革時の混乱が少なく,順調な成長を遂げることに成功した。ところがロシアは
政治・経済体制を一挙に変革したので,大混乱を起こし,国民は地獄を経験した
。しかし,ドン底から這い上がった後は,順調な発展を続けている。一方,中国
ではいま巨大なマグマが堆積しつつある。7億人の貧しい農民と,2億5千万人の
インターネット市民(ネチズン)の存在だ。彼らが何らかの不満の連鎖を持った
とき,北京はコントロールできるだろうか(P.178-9)。

*3:ロシアの課題は,官僚制度改革と地方分権である(p.182)
  中国では,アメリカ以上に地方分権が進んでいる。地域の経済成長は,北京か
らの補助金でなく,農民から巻き上げた土地を商業用地として転売するときの利
益と,外資による直接投資である。ロシアは地方に経済的裁量権をもっと与える
べきだ。日本のある経営者は,ウラジオストックでゴルフ場の開発を思い立った
が,許認可が複雑の上,わざわざモスクワに出向かねばならない上,認可のため
の裏金も必要だったので,結局計画を放棄したという。「地方分権が進めば,モ
スクワに依存しなくても,世界中からお金を集めてシベリアや極東を開発するこ
とができるのだ」(p.184)。

*4領土問題にこだわらないで,一刻も早くロシアと平和条約を結び
,その後に展開する日ロ協力の大きな可能性を日ロ相互が享受すべきだ。「日
本が当事者能力を失っていた時に,米ソが日本抜きで割譲をを決めた(ヤルタ
会談)。このことを再考して,返してもらえるものなら返して欲しいと言い,
この問題を早く解決して新しい日ロ関係をスタートさせたい」と提案すべき
だ。「北方領土問題に日ロ関係という21世紀の極めて重要な2国関係を歪める
ほどの価値があるか疑問だ」(P.228)。中ロは4300キロの国境を巡り長い間
争ってきたが,04年10月に国境問題を全て解決した。協定内容は,実効支配し
ていたロシア側がかなり中国に譲った形になっている。ロシアは領有権で争い
続けるよりもっと大事な関係を築いていこうという"大人の態度"を示した。日
ロで「共同運営の自治体」をつくり,北方4島の共同利用を考えたらどうか。E
Uのように「原則」を決めて複数国が共同運営するというのは21世紀では別に"
珍案"ではない。仮に日本に返してもらっても,軍隊・警察・行政施設を置く
など,資金も人間も必要になる。さらにどれだけの旧島民が島に帰るかも疑問
であるし,その人々を介護する施設も必要になる。
  日本は北方4島にこだわらず,すぐにでも平和条約を結び,極東やシベリアを
共同で開発できるようにすれば,北方4島を返還してもらう以上のメリットがあ
る。シベリア・極東にしても日本が「人とカネと繁栄」を運んできてくれるから
大歓迎だ(P229~30)。日本が大好きのプーチンが君臨する期間こそ返還実現の
チャンスだ。日ロ間には複雑なビザ申請制度があり人の交流が厄介だ。ところが
,日本と主要交易国との間ではビザが不要か,インターネットで簡単に手続きが
できるのだ。これでは,日ロ関係だけが遅れてしまう。

*5ロシアは2020年ころまでにEUに加盟している(p203)。
  2020年,世界は多極化し,アメリカはもはやその1極を占めているに過ぎない
。アジアでは13億人の中国,11億人のインドが成長を続けている。EUはさらに
東に拡大して7億8000万人の巨大"国家"になっていよう。中国の暴走をどう止め
るか,アメリカの唯我独尊な態度にどう対応するかを考えたとき「ロシアをEU
化してしまうほうが得策だ」というメンタリテイがEUに出てくる可能性は高い
(p.205)。しかし,「リスボン条約」(EUの基本条約)に拘束されることにロ
シアは難色を示し,EU側もロシアを抱え込めば,「大国」に振り回されること
を心配するのではなかろうか。大前氏のこの命題は,議論の余地がありそうだ。
  この本は,一見とんでもないことを述べて,人目を引く類(たぐい)の本と受
取られがちだが,読み進めると,常識を超えた提言や命題の中に,それを裏付け
る科学的データや世界的視野をもつ具体例がちゃんと用意され,読者を飽きさせ
ない。一読を是非薦めたい本だ。 

  (評者は北海道大学名誉教授,ロシア・極東経済,日ロ経済専攻)

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