【コラム】
中国単信(44)

「ヌーハラ」を蹴散らせ

趙 慶春

 成田行きのリムジンバス乗り場でのこと。
 筆者の前には日本語が片言程度らしく、心細そうな外国人が運転手から日本語で問いかけられていた。「大変申し訳ありませんが、ちょっと確認させていただきます。お客様はどのターミナルで降りられますか? お分かりになりますか?」

 口を開けたまま、困惑の表情を浮かべているその外国人を見て、多少日本語がわかる外国人に日本語の尊敬語や丁寧語を使うのは、「おもてなし」の一部である「お客様対応」としては不適切であり、却って不親切になってしまう可能性があることに筆者は遠い昔の自分を重ね合わせていた。

 現在、日本は3年後の東京オリンピックに向けて来日する外国人への「おもてなし」の一環として英語を始め、さまざまな外国語での会話可能なボランティアの協力を仰ぐ計画を立てている。またグローバル化の波に対応するため、日本人の英語運用能力の引き上げのため、さまざまな提言と実践が行われ始めている。

 それではこうした「おもてなし」を〝する側〟の対応ではなく、〝される側〟の目線ではどう映るのだろうか。まず筆者が体験した二つの実例を紹介しよう。

 数年前、一戸建てに転居した際、日本の習慣にならって〝向こう三軒両隣〟というわけで、近隣に転居挨拶に伺った。
 「新しく隣に引っ越してきた者ですが、外国人です・・・」と単刀直入にこちらが「外国人」であることを伝えたわれら夫婦に対して、ある家の方は「外国人」と聞いたからだろう、こちらの日本語能力がどの程度なのかも確かめずに急に英語を使い始めたのである。おそらく外国人に「おもてなし」をし、不快感を抱かせてはいけないとの心配りから、たとえ片言の英語であっても日本語よりは通じるだろうと判断したに違いない

 確かに〝グローバル外国語〟イコール〝英語〟という認識を持つ人が多いようだが、「外国人」であれば誰にでもすべて英語で対応すれば良いというわけではないだろう。

 もう一つの「体験」はつい最近のことである。来日した友人を出迎え、宿泊先の新宿のホテルに行ったのだが、チェックインカウンターが見つけられなかった。そこでエスカレーターの側でレストランの案内看板を掲げていた男性に「チェックインカウンターはどこですか?」と筆者が日本語で訊ねた。すると驚いたことに、返事は英語だったのである。

 友人と中国語で話していたのが聞こえていたのか、チェックインカウンターが1階ではなく3階にあるのを知らないのは外国人とでも思われたのか、まさか日本語使用歴20年で、「なまり」は自覚しているが、「通じる」には絶対的な自信がある筆者の日本語が通じなかったはずはないのだが。
 流暢な英語を誇らしげに話し続けているこの男性に「すみません、日本語で大丈夫ですから」と余計なことを言う羽目になってしまった。

 でも質問者が日本語で問いかけているのに、なぜ英語で応えるのだろうか。無論、日本人の誰もがそうだと言うつもりはないが、外国人には英語で、という発想はいささか短絡的過ぎないだろうか。

 冒頭に紹介した「成田行きのリムジンバス乗り場」のその後は、日本語がなかなか通じないと見た運転手が次に試みたのは片言の英語だった。しかしそれも徒労だった。相手は英語を理解しない外国人だったからである。こうして運転手が最後に取った手段は「ボディーランゲージ」。つまり身振り手振りで航空券を「見せてください」と伝えると、それが「通じ」て、ターミナルの確認ができたというわけである。

 日本語が不得手な外国人と対応するときには、何よりも「通じる」ことが最優先であり、それが「おもてなし」の最低条件だろう。だからこそ英語を始め、その他の外国語運用能力があれば「おもてなし」の一つの条件を満たすことにもなる。けれども外国語ができない日本人もたくさんいる。そうした人が外国人を「おもてなし」するのに、日本語の丁寧語や尊敬語はもちろんのこと、外国語の単語も使えないなら、身振り手振りでもいいのではないだろうか。それなりにコミュニケーションが成立することは、「成田行きのリムジンバス乗り場」で実証済みなのだから。柔軟な対応こそが肝要だろう。

 ところで東京都民の支持率70%を超える小池都知事はカイロ大学卒業で、アラビア語通訳者でもあり、英語にも堪能のためか、記者会見など公の場で「カタカナ語」をよく使う傾向がある。しかしこの「カタカナ語」の多用は日本人の誰にでも通じるとは限らないことを覚悟しなければならない。新聞報道ではわざわざその「カタカナ語」に注釈をつけていることさえあるのだから。小池都知事の会見から「なぜ日本語を使わず、わざわざカタカナ語を使うのだろう? なぜもっと日本語を大事にしないのだろう?」とは、我が家の二人の高校生の言である。

 また安倍総理大臣がアメリカで英語で講演したことは記憶に新しい。一般人にはわからないいろいろな事情から英語で話すことになったのだと推測されるが、少なくとも筆者はその英語を聞いて息が詰まりそうで、気分が悪く「日本人」として恥ずかしかった。安倍総理大臣の英語が流暢か否かではなく、一国を代表する首相が日本語で講演しなかったことが恥ずかしかったのである。相手国の言葉を使うのは相手国への「敬意」を示すことにもなりうるが、総理大臣安倍晋三である限り「媚び」にしか映らなかったのである。

 日本人は日本語や日本文化をもっと大事にすべきではないだろうか。
 「ヌーハラ」という言葉をご存じだろうか。
 「ヌードル+ハラスメント」からの造語で、日本人が麺類を音をたてて食べるのは国際的なマナー違反で、しかも下品、そのためハラスメント行為に当たるというのである。

 確かに「ズルズル」と音を立てて麺類を食べる日本人を見て、外国人は驚くだろうし、不快感を抱くかもしれない。ところがこの「ヌーハラ」に対して「音を立てて美味しそうに食べよう」「日本人の食文化を大切にしよう」「日本の麺類の食べ方を外国人に勧めてみよう」といった声の方が圧倒的に多いのである。

 「おもてなし」をするために外国人が不快に思うことは止めるという姿勢は大切だろう。しかし日本人の麺類の食べ方は、むしろ和食文化の一つの特徴といっていいものではないだろうか。これを「ヌーハラ」として日本から伝統的な麺類の食べ方を一掃することは外国人への迎合となってしまい、外国人が日本へ来る魅力も薄れ、外国人観光客離れを起こしかねない。

 箸を使って日本のそばを食べたという経験こそ、西洋文化とは異なる東洋文化の一端に触れたことになるし、さらに東洋文化の不思議さ、神秘さに魅了されていく入り口になる可能性だってあるだろう。

 最近、日本の包丁がお土産として外国人観光客に人気上昇中である。銀座や渋谷の店で包丁に「銘」を入れるサービスを提供したところ、「銘」として「漢字」を選ぶ人が圧倒的に多いそうである。日本語能力はなくても漢字や仮名に興味や関心を持つ外国人は少なくなく、日本文化の魅力の一部分となっていて、これも観光資源の一つであり、一部の外国人からは「憧れの的」にもなっているのである。

 日本人はもっともっと日本語を、そして日本文化を大切にし育てていかなければいけないのではないだろうか。
 自国の優れた文化や伝統を守らず、外国人に迎合することは自分の立つ位置を見失い、自分の首を絞めることにつながるだろう。
 日本語を含む日本の文化を大事にすることは、間違いなく「おもてなし」の前提条件にほかならない。

 (女子大学教員)


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