日中の不理解に挑む

「しっかりと自分を持つ、ということ」

宮崎 いずみ


 物価の上昇激しく、空気の悪化も激しいこの北京。ストレスフルな環境で、「幸福感」が少ない日々を送っているのですが、そんな中でも、「こんな人もいるのね」ということがありましたので、ご紹介したいと思います。

 夏の間、娘(7歳)と私は近くのあるプールに通っていました。その日は娘がロッカーの鍵を自分の手首にゴムを通して持っていました。プールでは水泳教室も開かれていて、若い女性コーチに女の子が二人、水泳を習っていたのですが、娘と一緒にプールの底に潜ってなにやらしています。

 なんでも、この二人が水泳を習っているところに娘が寄っていったところ、コーチの先生が娘の腕に通してある鍵をプールの底に落とし、それを潜って取りにいくよう、子どもたちに指示していたようなのです。ところが、その場所にはちょうど排水口があり、その鍵が排水口に落ちて、取れなくなってしまったとのこと。長い棒などで取る努力はしたけれど、どこにあるのかもわからない。受付に合鍵もない。残された方法は一つ、ロッカーをこじ開ける。しかし、それには費用として200元を出すようにと。でも、ちょっと待って。娘曰く、鍵を落とすように言ったのはそのコーチだと。娘が自分からやったことなら、もちろん費用は払いますが、コーチに言われてやったのなら、そのコーチの責任では? 私がそのコーチを問いただすと、「子供たちが遊んでて…」と口を濁すのです。

 困っていると、もう一人の女性コーチが助け舟を出してくれました。このコーチは日本語が話せ(北海道大学に留学経験があるそう)、以前から顔見知りだったのですが、その当事者のコーチと話をしてくれ、費用はコーチ側で対処するということで落ち着きました。

 自分がこの日本語の話せるコーチの立場だったら、同じように自分が正しいと思うことを同僚に主張できるだろうか? 私は思わず自問してしまいました。私は自分では違うと思っていても、まわりに流されがちなところがあるのですが、中国での生活で、ときどきこんなふうにしっかりと自分をもった人に出会うことがあり、その点には私も見習わなくてはと思います。

 (筆者は北京在住・日本語教師)

※ この記事は日中市民社会ネットワーク(CSネット)46号から著者の許諾を得て転載したものです。


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧