【コラム】
風と土のカルテ(64)

「お福の会宣言」に込められた思い

色平 哲郎


 今年も、夏7月、私が勤める佐久総合病院で「農村医学夏季大学講座」が開かれた。この講座は、夏の信州、山間部の涼しさと静かな環境を利用した市民大学的な学びの場。地域の保健衛生活動の第一線でぶつかる現実的な苦難や困難に着目し、市民的な集いの中で基本的人権と民主的精神をよりどころに学び直そうという試みだ。1961年に始まって、今年で59回目を迎えた。

 スタートした当初は、昔ながらの農村生活の「医食住」の問題が主で、寄生虫、「農夫症」(肩凝り、腰痛、夜間頻尿、手足の痺れなどを呈する症候群)、その対策としての農村生活運動、農民体操などが論じられた。
 その後、「複合汚染」で一般に知られる農薬中毒の深刻な問題がクローズアップされ、「主婦農業」「農村と社会保障」「食品添加物と洗剤の危機」といった、高度経済成長の中での健康破壊的ひずみが取り上げられる。

 1980年代以降は、高齢者の保健医療、介護、福祉の問題が浮上。「寝たきり老人」「呆け老人」のケアのための「中間施設」の問題へとシフトしていった。
 そして、今回、「すべての人々に健康を〜認知症とともによりよく生きる〜」と題し、2日間、認知症の人本人にも参加いただき、活発な討論が行われた。
 佐久病院は「農民とともに」を標榜しているが、もうすぐ高齢者の5人に1人が認知症となる時代、「認知症の当事者とともに」地域を育む必要性と必然性が再認識された。

 様々なセッションの中でも特に印象深かったのが、福祉ジャーナリストで、NHK「福祉ネットワーク」のキャスターを務められた町永俊雄氏のご講演。町永氏がかかわっておられるグループに「お福の会」という集まりがあり、私も伺ったことがある。
 お福の会では、認知症の本人とご家族はもとより、様々な職種の人が集い、語り合っている。認知症に関する横断的議論の必要性を痛感した人たちが立ち上げた場である。
 その設立理念を表した「お福の会宣言」は、認知症の人とともに生きる意味を的確に述べている。
 やや長くなるが、引用しておきたい。

●「お福の会宣言」

人は人として生まれ、人として死ぬ。そしてその過程で誰もが認知症という病に遭遇する可能性をもっている。かつて認知症になると「人格が崩壊する」「こころが失われる」と恐れられた時代があった。だが、今や私たちは知っている。認知症になっても自分は自分であり続けることを。月が欠けているように見えても月が丸いことに変わりないのと同じである。
自分が、認知症になっても、家族の一員、社会の一員として、友人として権利と義務とを有する国民の一人として生活を続け人生を全うしたい。同じように、家族や友人が認知症になっても、ともに人生の旅を歩き続けたい。
「お福の会」はそういう思いをもつ市民が、本人や家族、医療、介護、行政、その他の立場を超えて集う場である。認知症になっても、生活の主体者として人生を全うできるように私たちは力を尽くしたい。

  https://www.ninchisho-forum.com/eyes/machinaga_063.html

 誰が認知症になってもおかしくない現代。
 認知症を他人ごとではなく、「自分ごと」として受けとめ、人生を全うしたいという思いがあふれている。

 では、そのために私たちは地域や認知症の人たちと連携して、何を、どう実践していけばいいのか。
 それは、一人ひとりが現場で積み上げていくしかない。
 夏季大学を終え、そんな思いを強くした。

 (長野県佐久総合病院医師・『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2019年8月30日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
  https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201908/562056.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧