海外論潮短評(64)                初岡 昌一郎

神聖ローマ帝国 ―現在のヨーロッパ連合(EU)にとって驚くべき教訓―

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 ロンドン『エコノミスト』のクリスマス特集号(12月22日)の中で目を引いた
のが、「ヨーロッパの解体は正しかった」というエッセイである。この小論は神
聖ローマ帝国を今日のEUに擬え、その解体にはプラス面があったことを紹介し
ている。EU懐疑論の強いイギリス人の見方が色濃く出ている知的遊戯と見立
て、新春の読み物として提供する。以下はこのエッセイの要旨。この論文は無署
名なので、編集部スタッフによるものであろう。

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◆ヨーロッパの解体は善行

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 神聖ローマ帝国時代、サミットは今日よりも愉快な見世物であった。神聖ロー
マ帝国皇帝のハプスブルク家系君主フェルディナンド三世が1652年秋、当時のブ
リュッセルであるレーゲンスブルクに到着した時、60人の楽隊と3人の道化師を
伴っていた。橇競技と花火が行なわれ、ドイツの地で初めてイタリアオペラが上
演された。

 当時の帝国議会は今日の欧州首脳会議のようなもので、加盟国指導者の集会で
あった。皇帝は帝国内の貴族、大僧正、その他さまざまなVIPと会談するため
に、3000人の随行者を伴っていた。彼らの交渉は一年以上も続いた。

 フェエルディナンドが総勢164隻でドナウ川を遡行してウイーンに去るまで
に、多くのことが行なわれていた。それらの意味するものは、その後白熱的な論
議の的になったが、特に今日的な関心事に結びついている。1648年に終結した三
十年戦争で中欧各国は疲弊していたので、一致して行動するのに失敗し、中央主
権的な国家の創出ができなかった、というのが伝統的な見解である。

その後の150年間、「旧帝国」は漂流してバラバラとなり、地政学的な意義を失
った。それは「腐敗した帝国と未完成の領土統合という混沌とした混乱」に化し
たと、プロシャの歴史家ハインリッヒ・フォン・トライチュケが19世紀に書いて
いる。

 このような著作は、歴史が繰り返すと今日のEU指導者に警告を発しているよ
うに見える。ユーロ危機が求心力を遠心力に転化させ、ローマ帝国のようにEU
を次第に解体に追い込むかもしれない。そうなれば、アメリカ、中国、インドな
ど大国の世界において、ヨーロッパは小国主義に逆戻りすることになる。最悪の
ケースは、1806年以後の世紀のように旧いナショナリズムのエネルギーがガンの
ように増殖することである。

 EU指導者は、「緩やかな連邦主義」を恐れるべきではない。むしろ、ローマ
帝国のように構成国との重複主権の現実を受け入れ、ブリュッセルと加盟国の二
重主権を容認し、EU機構における連邦主義を確立すべきである。

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◆ローマ帝国のミレニアムを回顧して

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 ローマ帝国は、数え方によって差はあるが、約1000年続いた。その創始者であ
るフランス王シャルルマニーユが統一した地域は、EUの前身である欧州石炭鉄
鋼共同体(西ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、イタリ
ア)のエリアに匹敵する。シャルルマニーユは800年にローマ法王から戴冠さ
れ、その後継者は古代のカイゼル(皇帝)に擬せられた。

 ドイツでは「カール」と呼ばれた彼の帝国は、後継者の時代に今日の東独部分
が反乱を起こして崩壊し、EUとの地理的な親和性は消滅した。1500年ごろ、元
来はスイスア出身のハプスブルク家が権力を掌握したことで変化が生じた。

 当時、多くのヨーロッパ諸国でのトレンドは絶対王政に向かっていた。だが、
帝国内での絶対主義は強固だったものの、必ずしも主流ではなかった。皇帝職は
世襲のように見えたが、じつは選挙職であった。皇帝は7人の王侯貴族からなる
選定者(のちには、10人)によって選ばれていた。その下に、180の世俗的王侯
貴族領、136の教会領、83の都市(いくつかは共和国)があった。それらすべて
の単位は“自由”、すなわち自治領であった。

 何代かの皇帝は統合を強化しようとして絶えず格闘したが、王侯貴族は必要な
金と武力を確保する権限をなかなか譲らず、統合よりも二重権力的連邦を選好し
た。特に、それぞれの領民がカトリック、あるいはルーテル派やカルバン派であ
るうるように、宗教上の自主的決定権に固執した。

 しかし、ハプスブルク家のフェルディナンド二世は再び絶対主義を確立しよう
と狙った。彼が厳格なカトリック教徒だったので、新教徒は激しく抵抗した。
 1619年にカトリックの中心的指導者がプラハから追放されたので、彼が軍隊を
送り込み、ますます複雑化する戦争が断続的におこなわれるようになった。

 このいわゆる三十年戦争は、主権に関する未解決な問題をめぐる紛争から生じ
たのだが、勃発後は新教と旧教の宗派戦争の装いを纏った。神聖ローマ帝国全土
を巻き込んだこの戦争で、欧州人口の約三分の一が失われた。ヴュルテンブルク、
メケレンブルク、ポメラニアなどでは、80%の住民がいなくなった。深く傷つい
た欧州大陸は、1648年のウエストフェリア条約で講和を結んだ。

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◆最初のユーロクラット(欧州機構官僚)

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 条約締結後初の帝国議会が1653年に開かれた。中央集権的な同盟か、分権的な
連邦かを再度問われ、フェルディナンド三世は前者を求めた。しかし、カリスマ
的なブランデンブルク選帝侯に率いられた諸公候たちは、議会の決定した帝国共
通税をすべての領地に支払わせるという皇帝の提案を拒否した。その提案は、今
日のEUで構想されていることの初歩的な形態であった。

 緩やかな同盟で決着した帝国は、それが逆転しないように努力を傾注した。
1663年の次期議会以後、帝国議会は常設化された。その当時は、フェルディナン
ド三世の息子、レオポルド一世が皇帝になっていた。彼を議長とする帝国議会は
今日のEU議会に似ており、問題も似通っていた。

 人口減によって土地の供給が必要な小作人数を大幅に上回ったので、地価が急
落した。多くの諸侯は戦時における傭兵調達費の債務で首が回らなくなっていた。
今日のEUトロイカ(欧州委員会、欧州中銀、IMF)のように、皇帝は行政管
理官を派遣してリストラ交渉に臨んだ。その後の100年は債務救済が常態化し、
57件以上に達した。

 最大の中心的構想は「司法」原則で、それは紛争を兵隊ではなく、法律家によ
って解決しようとするものであった。領内の紛争は裁判所に委ねることが想定さ
れており、農民でも提訴できた。帝国議会自体が紛争解決の場であった。皇帝だ
けではなく、あらゆる諸侯が議会に法案を提出できた。

 帝国は今日のEUと同じ問題に直面していたが、もっと窮境に陥っていた。現
在のEU加盟国は27であるが、神聖ローマ帝国の最後の150年間、その領土の構
成単位は300を超えていた。加盟単位一票制だと小国が決定をブロックできるし、
領土の大きさで持ち票を定めると大国が支配する。決定を過半数とするか、限定
多数決(単純過半数ではなく、三分の二とか四分の三というより厳しい条件付き)
、あるいは満場一致とするか。今日のEUが抱える問題がすでに持ち上がってい
た。

 多大な流血の惨事を招いた宗教対立については、帝国は旧教と新教の二つの協
議会を設置し、両者の合意が必要というルールを作った。その他の問題の決定で
は、領土の大きな公候国が一票、小さな単位はグループ別の持ち票とされた。

 EUも原則的には同じアプローチをとっており、ある問題では満場一致、その
他では構成単位の大小を加味した、限定多数決を採用している。その結果、報告
書などの文書が膨大となり、意思決定に非常な時間がかかるようになった。そう
なると、意見が食い違うものはどんどん先送りされるようになる。

 しかし、意思決定のスローなことや非効率性を揶揄するものは、他の重要な側
面を見落としている。帝国とEU共に、対立や不一致を平和的に解決してきたこ
とである。これによって、EUはノーベル平和賞を2012年に受賞している。そし
て、これが小国の利益を保護しながら、連合体として行動することを可能にした。
帝国構成単位の国や都市、領地は独自の通貨を発行する権利を保持したが、コイ
ンの片面には帝国のシンボルである双頭の鷲を刻印し、共通性を誇示していた。

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◆統合はなぜ失敗したのか

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 その理由は、軍事的な弱点によるものではなかった。帝国は300年間にトルコ
の攻撃を8回も撃退しており、EUが経験したよりも軍事能力テストをうまく切
り抜けていた。しかし、ナポレオンには敵わなかった。彼は帝国を蹂躙し、遂に
1806年、最後の皇帝にそれを解体させた。

 ナポレオンに滅ぼされるよりもはるか以前に、帝国はすでに弱体化していた。
そのプロセスはEUに対して重大な警告を発している。18世紀中葉には、オース
トリアとプロシャの両加盟国の力が帝国を凌駕し、他の領土を“第三のドイツ”
として貶めていた。これが不安定化を招いた。

 オーストリアとプロシャは帝国の外に大きな領土を持っていたが、これは他の
国にも共通したことであった。例えば、ジョージ一世はハノーバー選帝侯(した
がって皇帝の臣下)であったが、同時にイギリス国王であった。このようなコミ
ットメントの二重性はEUにもあり、イギリスはその正加盟国であると同時に、
英連邦の盟主でもある。

 真の問題はプロシャが強大になりすぎ、帝国がもはや規制できなくなったこと
にあった。EUでドイツとフランスが協調しているように、プロシャがオースト
リアと協調している間は、帝国の秩序が保たれていた。だが、プロシャが自分の
利益を帝国の上に置き、オーストリアと争い始めると、先見の明のある人たちは
「終わりの始まり」を洞察した。

 このような歴史のレンズを通して観察すると、今日のEUの危機の起源を理解
できる。長期的な視野に立つと、東ドイツの統一によってドイツの力と地位が急
速に上昇したことに危険が潜在している。歴史家は慎重なので、拙速な比較を嫌
うが、その危険を明白に予測しているものもいる。

 ドイツに促されて、EUは「安定と成長の協定」に調印して、加盟国に財政規
律を強制し、危機を回避しようとした。しかし、ドイツ自からが10年前にそれを
破ったので、この協定はキバを失った。EUはドイツに誓約を守らせるべきであ
ったが、当時のシュレーダー首相は免罪符を得てしまった。EUはアイルランド
やギリシャに制裁を加えることができても、ドイツやフランスにはできない。

 歴史が今日のEU指導者にどのような教訓を与えているかについては、議論の
余地はあるだろう。1780年代の危機に瀕したとき、加盟単位の州債務を引き受け
ることにより、良いスタートを切ったアメリカのような連邦の好例がある。

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◆◆ コメント ◆◆

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 紹介した記事が掲載された『エコノミスト』クリスマス特大号は、地獄への
“ラフ・ガイド”を特集している。冒頭の解説によると、地獄の地獄たる所以は、
そこでの苦痛は永劫のものであり、一旦落ちこむと救済の道がないことである。
このような地獄が繁盛するのは、悪魔(サタン)の甘言に身をゆだね、目先の慾
に駆られて非理性的に行動する人が後を絶たないからだ。

 意図的か偶然かは不分明だが、この解説記事に続く最初の記事は、日本におけ
る安部政権の誕生とその経済政策に対する辛口の論評である。アベノミクスはか
つて破綻し否定されてきた、経済成長を口実にした旧来型バラマキ政策の復活で
あると断じている。不毛の公共事業と補助金に巨額資金投入をすることよって、
既に巨大化している公共債務をいやがうえにも急増させ、結局は国家の財政破綻
にいたるだろうと、保守的ながら良識的で、いつも物事を批判的に見る同誌は観
察している。

 その予言通りにその後の事態は進行しているのだが、マスメディアから聞こえ
てくるのは政権取り巻きの自画自賛とお先棒担ぎの声ばかりである。このような
危険を警告する人は国内にもかなりあるのに、メジャーなメディアではほとんど
取りあげられない。この政権は今夏の参議院選挙までは低姿勢だろうが、タガが
外れると、放漫経済政策だけではなく、憲法改正、防衛力増強、兵器輸出、海外
派兵に向けた暴走が始まりかねない。こうした地獄への道から日本と日本人を救
済しうる政治勢力の姿が視界に入ってこないのが悲劇だ。

 地獄特集号の豊富な記事と論説から新年向けの論文紹介に結局選んだのが、紹
介したEU論である。神聖ローマ帝国の経験から今日のEUへの教訓と警告を引
き出している視点が興味深かった。私にとっては、むしろ今日のEUの経験から
神聖ローマ帝国の崩壊を分析しているように見えた。「すべての歴史は現代史で
ある」という、イタリアの歴史家、クローチェの言葉を想起することになった。
今日の価値観が歴史に投影するのであって、その逆ではない。

 「ドイツのヨーロッパ」を求めることから、「ヨーロッパのドイツ」に転換し
たドイツ民族が、統一によって存在感をEU内でさらに高めている。ドイツの利
益を優先すればEUの崩壊につながるとみる『エコノミスト』誌の主張は、イギ
リス人の統合慎重論としての連邦主義から来ている。政治状況が閉塞感に左右さ
れると、短絡的な歴史主義が台頭する。先行きの不安感が自己中心的なナショナ
リズムを誘発する環境の中で、統合の理想が脚下照顧を迫られている。ヨーロッ
パ統合への逆風は、アジア共同体論にも冷や水を浴びせたように見えるが、問題
のレベルが全く異なるので、同じ括りで論ずることはできない。

          (筆者はソシアルアジア研究会代表)