■ 国際労働基準と日本               中嶋 滋

   ― ILOでの課題と新政権への期待 ―
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◇◇はじめに◇◇


  民主党政権が発足して4ヶ月目を迎える。主に新年度予算編成をめぐって、様
々な新政権への評価がなされているが、その多くは余りにも拙速で政局がらみの
稚拙な論評で、殆どケチ付けに等しい低レベルなものである。特にテレビに登場
するコメンテーターは、ごく少数の例外を除いて、評論家・佐高信氏がいう「テ
レビ芸者」そのもので、茶飲み話の域を超えない内容を「話芸」に載せ視聴者の
判断をミスリードしているにすぎない。

 非正規労働者問題に関する報道を見ても、労働コストを単純に国際競争力に結
びつけ企業の国外移転問題を論じたり、正社員労働者の解雇規制が強すぎるから
非正規労働者との「格差」が大きくなると更なる規制緩和を主張するコメンテー
ターはいても、非正規労働者の悲惨な実態の背景に国際労働基準の非適用・違反
問題があることを指摘する論者は皆無といってよい。派遣労働者に関してはILO1
81号条約違反が、パート労働者に関してはILO175号条約未批准の問題があるにも
かかわらず、一顧だにされていない。

 日本社会にかなり広範にあるILO軽視、国際労働基準非遵守・無関心の傾向は、
旧政権時代にあった「ILOは途上国のための機関」という傲慢で誤った認識に
拠っている面が強い。市場原理主義に依拠し規制緩和に狂奔して日本をとんでも
ない格差社会に導いた元総務大臣を会長にいただき、派遣業で暴利をむさぼって
いる某女性経営者は、厚労省関係の審議会の場で先進国である日本はILOから脱
退すべきとの見解を述べたという。この厚顔無恥の見解も、誤った認識がもたら
したものである。

 こうした状況を克服していくことも、新政権への期待の一つである。新政権に
は、まず、ILOで積年の問題となっている既批准条約の非適用・違反問題を早急
に解決することを求めたい。さらに、そのことを含め中核的労働基準の完全批准
・適用遵守を求めたい。その上に立って、ディーセント・ワークの実現とりわけ
雇用危機克服に関するILOを中心とした国際社会の取り組みに貢献し、労働の世
界でも存在感のある尊敬される国に変身してほしいと思う。

 ILOをはじめ国連機関への分担金負担率はGDPを基礎にして決められており、日
本の負担率はアメリカに次いで2位にあるが、最近の5年間で下降の一途をたどっ
ている。20%弱から18%台、16%台と急降下し今年はついに12%台となった。嘗
て、旧政権下で財政的な貢献度の高さを背景にした露骨なパワー・ポリティック
スを展開し、ILO事務局内で怒りと顰蹙をかった。それはILOでの日本のプレゼン
スの低下にも影響を与えたが、財政的貢献度の急激な低下は、従来の対応を続け
れば、更なるプレゼンスの低下を招くことは必定である。この観点からも、新政
権によるILO課題への取り組みの抜本的改革が強く求められる。


◇◇日本政府が重視すべき課題・対応


1)鳩山新政権に対する大きな期待


  昨年11月に開催されたILO理事会の際にも、ソマビア事務局長をはじめとするI
LO事務局、多くの労働側理事などから、鳩山新政権に対する非常に大きな期待が
寄せられた。ソマビア事務局長がG20ピッツバーグ・サミットで鳩山首相に会っ
た際の印象は、非常に良かったようで、評価も高いものであった。政労使ILO理
事をはじめ日本人関係者に、首相のILO総会またはアジア太平洋地域会議(2010
年10月)への参加を強く望んでいることを表明し、実現に向け努力するよう要請
がなされた。

 米オバマ新政権に関しても、ILOからの評価と期待が示されているが、米国政
府はそれに応える対応を示しつつある。米国政府は、ブッシュ政権下で開店休業
状態にあった「ILOに関する大統領委員会」ならびに「国際労働基準に関する諮
問委員会」を再機能化し、中核的労働基準のうちの未批准条約を全て批准する方
向で取り組むと表明しILO事務局に正式に伝えている。
  日本政府も期待に応えるべく積極的対応を表明し、具体的な課題に関する解決
方針を示すことが強く求められている。

2)既批准条約の適用遵守


  日本政府は、188あるILO条約の内、これまでに48条約を批准しているが、批准
数が少ないばかりか、適用実施に関しても幾つかの深刻な違反事例を抱えている。
これまで条約勧告適用専門家委員会、ILO総会・基準適用委員会、結社の自由
委員会などから再三に亘って法制度及び実態の両面での違反を指摘され改善勧告
を受けている事例もある。批准した条約を適用するためには、関係国内法を条約
の内容に即して改正し、労働分野を中心に関係する行政施策も条約内容に沿って
遂行しなければならない。ILO加盟国は、条約批准に関してそうした義務を負っ
ており、日本政府はその義務を果たしていない部分があったのだ。この問題を解
決するために早急に取り組むべき主な課題は、以下の如くである。

(1) 87号、98号条約適用に関する課題
  この課題の第一は、公務員労働者の労働基本権制約に関するもので、1965年に
87号条約を批准して以来の積年の課題である。ILOから実情調査調停委員会(ド
ライヤー委員会)が来日し詳細に亘った改善勧告をしたにもかかわらず、40年以
上経過しても法改正を含めた改善がなされなかったのである。消防職員や刑務所
職員を含めた公務員労働者への労働基本権保障が、条約に違反して放置され続け
てきたのである。

この問題に関しては、労働基本権制約の「代償措置」と位置づけられていた人
事院の給与等に関する改善勧告が不実施になるなどの不当な扱いがなされた際
などに、結社の自由委員会への提訴が再三なされ、その度に改善勧告が出され
てきた経過がある。現在も、旧政権時代に労働基本権制約を放置したまま公務
員制度変更(改革ではない)を強行しようとしたことに関して提訴がなされた
案件が結社の自由委員会で審査中であり、既に5回に亘って法改正を含めた抜
本的改善勧告が出されている。結社の自由委員会事務局も労働側委員も、新
政権が旧政権によって40年以上放置されてきた重要課題が早急に解決されること
を強く期待している。

 さらに団権津権及び団交権の保護に関する98号条約に関しても重大な問題があ
る。条約は「国の行政に携わる公務員(public servants engaged in the admin
istration of the state)」を適用の例外とすることを認めている。この点に関
して、条約勧告適用専門家委員会ならびに結社の自由委員会は、「国家の名にお
いて公権力を行使する」非常に限定された公務員を指すことを再三にわたって明
らかにしている。

しかし、旧政権下の日本国政府は、恣意的に「engaged in the administratio
n of the state」の部分を訳さず単に「公務員」として、国家公務員の大多数
のみならず全ての地方公務員を協約締結権を含む団体交渉権保障の適用範囲か
ら排除する法的・実際上の措置をとり続けてきた。再三再四に亘る是正勧告を
無視し続けてである。こうしたごまかしを平然と続ける態度は、軍事独裁政権
ですらなかなか取りえない恥ずべきもので、新政権によって早急に是正される
べきであることに異論はなかろう。

 第三は、国労組合員をはじめとする1047名に対するJRへの「就職差別」問題で、
結社の自由委員会から7次に亘って解決に向け具体的措置を執るよう勧告が出
されている。この問題に関しては、いくつかの地裁で原告側の主張を受け入れる
判決が出されており、東京高裁でも同様の判決が出され、それに基づいた和解の
動きもある。問題発生から20年以上の歳月が経過し、少なからぬ当事者が亡くな
り、高齢化と無年金問題もあり、事態は一刻の猶予もない状況にある。新政権は、
ILO結社の自由委員会勧告ならびに判決や和解の動向を真摯に受け止め、早急
に解決すべきである。

(2) 29号条約違反に関する問題
  これは、1996年以来、条約勧告適用専門家委員会で取り上げられ、総会・基準
適用委員会で個別審査の対象とするか否かの問題となっている「従軍慰安婦」と
強制連行・労働に関する29号条約違反の問題である。ほぼ毎年のILO総会で問題
となり、日本は国際的に非常に厳しい立場に立たされてきた。特に、2007年以降
は、孤立無援といった状況に置かれている。

米国議会での「従軍慰安婦」問題の解決を求める議会決議採択、それに対する
桜井よし子氏ら視野の狭いナショナリスティクな人々によるニューヨーク・タ
イムスへの反論・意見広告、安部元首相による「河野談話」否定発言、これら
の日本側の動向に対する非難と抗議の意味を含めたカナダ、オーストラリア、
韓国、台湾、フィリピン、オランダの国会とEU議会による一連の決議採択がな
されるという事態を背景に、日本政府に対する早期解決を求める声は非常に大
きなものとなった。

昨年のILO総会では、基準適用委員会副議長(労働側)のみならず総会副議長
(労働側)までもが、日本の「従軍慰安婦」問題を討議できなかったことを非
常に遺憾とし今後果たすべき課題だとする異例のコメントを閉会スピーチで発
した。この中には、15年近くも経つのに一向に解決に向けて具体的な努力をし
てこなかった日本政府への苛立ちが含まれており、この問題の解決について
も、新政権への強い期待がある。

(3) 100号条約違反の問題
 
100号条約は、男女の同一価値労働・同一賃金に関するもので、中核的労働基
準の一環をなす基本条約である。日本は名だたる男女不平等国とみられており、
男女差別賃金に関して何回も条約勧告適用専門家委員会ならびに総会・基準適用
委員会から違反状況の克服に向けた指摘を受けてきた。商社や石油会社などで男
女賃金差別問題を裁判闘争などを通じ闘ってきた女性を中心とする労働組合が共
同して結成した「ペイ・イクイティ・ユニオン」が、ILO憲章24条に基づく申立
を行っている。この申立は、加盟国政府に批准した条約の適用遵守を求めILO理
事会に対してなされるものである。申立は次期3月理事会で受理され審査に入る
ことが確実となっている。日本の男女賃金格差は平均で30%以上あるとされOECD
加盟国の中で格差が最も大きい国の一つである。ジェンダー平等、男女共同参画
の視点からも早急な解決が求められる。

(4) 181号条約違反の問題
 
181号条約は、派遣労働者の利益を守ることを目的に謳い、1997年に採択され
日本が99年に批准した条約である。連合加盟の全国ユニオンが、伊予銀行で13年
間派遣労働者として働いてきた女性が「契約期間が終了した」と突然「雇い止め
」されたことを典型的なケースとして、日本で横行している「派遣切り」が181
号条約違反であり、その是正を求める申立を行った。ILO理事会は、昨年11月、
この申立を受理し、3理事(政労使各1名)で構成する審査委員会を設置した。日
本政府からの申立に関する見解をまって審査が開始される段階にある。日本にお
ける派遣労働者の雇用の不安定さ、劣悪な労働条件、社会保護の非適用は、労働
市場の柔軟化を主張しているOECDですら批判している。労働者派遣法の改正の動
向とも関連するが、特に「登録型」派遣、短期間派遣、製造業への派遣など問題
を多く抱える現行制度の抜本改善の意思を明確に示す態度を表明して審査に対応
し、そのことによる早期解決を図るべきである。

(5) 日系多国籍業の違反事例
 
ILOの監視機構(条約勧告適用専門家委員会、総会・基準適用委員会、結社の
自由委員会など)は、条約違反を犯した企業を直接問題にはしない。条約違反を
可能にしている加盟国の法制度・労働行政を問題とし、「被告的立場」に置かれ
るのは、違反事例が生じた加盟国の政府である。日系多国籍企業が条約違反を犯
した場合、日本政府ではなく、違反がおこされた国の政府が条約適用違反を問わ
れる。であるから日本案件としては浮上しない。

 こうした案件が相当数あり、典型的なものにフィリピン・トヨタやインドネシ
ア・ブリジストンがある。これらの問題解決は実質的には日本にある本社の意向
にかかっており、これに対する日本政府の対応が問われる。これらの案件の多く
は、OECD多国籍企業ガイドライン違反として日本政府のNCP(ナショナル・コン
タクト・ポイント、問題解決のための窓口機関)に解決を求める要請が出されて
おり、この面からも政府の積極的努力が求められるが、旧政権下では、何の前進
も図られなかった。

3)ILO条約の批准促進(特に中核的労働基準)


 
ILO条約・勧告で示される国際労働基準のうち最も基本的で重要なものを中核
的労働基準(4分野の8条約)と呼び、全ての加盟国は尊重遵守することが義務づ
けられている。中核的労働基準の加盟国(183)による批准状況は、下記に示す
とおりである。8条約全てを批准している加盟国は129国(アジア太平洋では5国
)に及んでおり、OECD加盟30国では米・日・韓が例外的存在で、他の殆どの国が
8条約を批准している。日本には、その例外的状況を克服してアジア太平洋地域
全体の水準引き上げを牽引する役割を果たすことが期待されている。

   分野    条約  批准国数・率  未批准国数および主な未批准国
・団結権・団交権保障 87号  150・82.0%  33(米、中、印、韓、シン、タイ) 
          98号  160・87.4%  23(米、加、NZ、中、印、韓、タイ)
・強制労働禁止   29号  174・95.1%  9(米、中、韓) 
          105号  171・93.4%  11(日、中、韓、シン)
・児童労働廃絶   138号  154・84.2%  29(米、印、豪)
         182号  171・93.4%  12(印)
・平等・反差別  100号  167・91.3%  16(米)
         111号  169・92.3%  14(日、米、新)
 
  ストライキ行動への制約・禁止や政治的自由に対する制約に違反した者に対す
る制裁としての刑罰は「強制労働」に他ならないとする105号条約の規定は、優
れて民主主義的なもので圧倒的多数の加盟組合によって支持され受け入れられて
いる(批准率93.4%)。しかし日本には主に公務員に対する制約・禁止および違
反者への刑事罰制裁の法規定があり、受け入れられていない。

また111号条約は雇用・職業生活上の差別を禁止するもので、この条約も圧倒
的多数の加盟国(92.3%)に遵守すべき当たり前の原則として受け入れられて
いる。しかし日本には人権擁護に関する独立した救済機関がないことやジェン
ダー差別など様々な差別が横行している実態があることから、これも受け入れ
られていない。まず、この侵すべからざる普遍的価値の尊重・実施を規定する
2条約の批准を達成することが新政権に期待されることである。

 中核的労働基準以外にも早期に批准すべき重要条約があるが、深刻な非正規労
働者問題克服の観点から、パート労働に関する175号条約の批准実現の重要性を
訴えておきたい。同一価値労働・同一賃金を基礎に、賃金など可分事項に関して
は時間比例、権利行使など不可分な事項に関しては同等保障を、フルタイム労働
者との基本的関係とすべきとする175号条約を批准し、関係国内法を改正・整備
し実施することは、パート労働者が非正規労働者の圧倒的部分を占め、しかも女
性が大多数であることからも、深刻な実態克服に向けて非常に大きな意義を持っ
ている。

4)雇用危機への対応などILO活動への協力拡大


 
先に見たように、ILOへの義務的分担金については他の国連機関と同様でアメ
リカに次ぎ第2位だが、任意拠出は17位でアイルランドやベルギーより下位で全
体の1.2%を占めているに過ぎないのが実態である。これは、これまでの日本政
府のILO軽視を裏付けるものともなっている。この拡大がまずは必要とされる。
財政困難な状況下にあって、支援拡大など不可能とする議論も当然あるが、一つ
は義務的負担の大幅減による減額分の活用、第二に例えばアフガニスタン支援の
5年間5億ドルという巨額な支援の内容をILO活動に関連づけることによって、
実質拡大は確保されうる。特に第二の対応は、これまでの支援のあり方の問題点
を克服する道にも繋がり、今後の日本の支援活動にも大きな教訓を与えるものと
なりうる。

 従来の職業訓練支援活動は個人対象で職業能力向上のための教育訓練を受ける
授業料の支給など直接現金給付を含めたもので、職業訓練以外の目的で使途され
る例も少なくない。地域によっては、支給金がテロリストの活動資金とされた等
という話も聞かれる。また訓練と雇用が結びつかない場合も非常に多かった実態
もある。ILOが関与する職業訓練は、労働市場調査や職業紹介事業さらには地域
での起業を含めた雇用機会創出事業などと連携した複合的なもので、それらの活
動に携わる行政官などの人々の能力向上も含む持続可能な内容を持つ。こうした
長期的展望をもつ支援活動に財政支援し、専門国際機関たるILOと連携して活動
する意義は大きい。こうした観点を含めた検討を進めるべきである。


◇◇むすびにかえて


 ILOにおける日本のプレゼンスの向上は、国際労働基準の適用遵守の模範とな
る国を目指すこと、ILOへの貢献を改革・拡大することなどを着実に実施・前進
していくことによらざるをえない。新政権がそのための具体的施策の実施を進め
ることを期待したい。

 当面の対応として、首相のILO総会への出席について再度と提起しておきたい。
  新政権が世界の労働問題に積極的にコミットしている姿勢を示すには、首相の
総会における演説が最も効果的といえる。嘗てクリントン米大統領、シラク仏大
統領が行い、昨年はサルコジ仏大統領、ルーラ伯大統領などが行って、大きなイ
ンパクトを与えた。ソマビア事務局長が強く期待している状況もあり、今年実施
することの意義は大きい。日本からは、労働大臣すら30年以上出席しておらず、
ILOへの理解が低い国と認識される根拠ともなっている。

 首相の総会出席は、民主的3者構成主義の追求の姿勢表明にも役立つ。ILOが
存立の基礎とする政労使による対話を通じた3者構成主義は、3者とも党の強力
なコントロールの下にある中国などでは実現し得ないことである。日本は民主的
な実態をつくりあげつつ強くアピールすべき課題である。日本経団連が名目はと
もかく実質的に3者構成主義をないがしろにする態度を強めていることもあり、
3者構成主義に政府が積極的姿勢を示すことは、国際的プレゼンスを高めるため
だけでなく国内的な効果も期待しうる。

 新政権に期待する多くの事項があるが、その一つひとつを着実に実施し期待に
応えていくことが新政権の責務であり、国際社会に貢献する道を拓くことである。

                 (筆者はILO理事・労働者側)

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