メールマガジン「オルタ」 72号(2009.12.20)            

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◎普天間基地はグアム空軍基地移転で解決を!
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□目次

安保基地の島・沖縄                    吉田 健正
沖縄密約37年目の真実〜吉野文六証言をめぐって 北岡 和義
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八つ場ダムは何故中止しなければならないか?  大河原 雅子
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≪連載≫

■海外論潮・短評(30)
 1989年以後の世界 ― ベルリンの壁崩壊から20年
                                初岡 昌一郎
■臆子妄論
 歳末偶感:「自殺はダメ」か?「耐えられない苦しみはない」か?
                                    西村 徹
■農業は死の床か。再生の時か。
 民主党の有機農業支援潰しを許さない!       濱田 幸生
■宗教・民族から見た同時代世界
 オルタナティヴな開発をめざすタイの仏教僧     荒木 重雄
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■【運動資料】
  《米軍計画》:普天間基地はグアムの空軍基地へ  吉田 健正
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■【研究論叢】
  戦時期社会政策と社会民主主義政党政治家
  日本育英会と三宅正一(下)                飯田 洋
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■【北から南から】
 深センから                      佐藤 美和子
  『写真にまつわる話 その五(番外編)』 
 大阪から                         除 正 寓
  高齢者だって喧嘩もすれば恋もする
   八尾オンドルパンのハルモニと私の奮戦記(その4) 
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■【オルタのこだま】
  関西オルタの会に参加して              木村 寛仁
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俳句                             富田 昌宏
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川柳                             横 風 人
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【編集後記】 

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安保基地の島・沖縄                  吉田 健
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  前回の「普天間基地移設」問題に続いて、今回は来年で改定50周年を向かえる
日米安全保障条約を取り上げる。とりわけ「住民の声を無視した押し付け」「あ
まりに過重負担」「不条理」「差別的」などと沖縄側から批判され続けてきた在
沖米軍基地と日米安保の関係について考えたい。併せて、米国でさえ多国間協調
を訴えだしたこの時代に、日本は日米同盟至上主義を見直す時期に来ているので
はないかということも提言したい。「日米同盟を外交の基軸に」というのではな
く、日本外交の基軸は近隣諸国や米国を含む諸外国との友好関係にすべきではな
いのか。

 11月20日に公表された米軍の「グアム環境影響評価書素案」によると、米国は
普天間基地の受け入れについて、オーストラリア、ニュージョーランド、タイ、
シンガポール、フィリピン、韓国といったアジア太平洋地域における米国の「同
盟国」に打診したが、いずれも難色を示したため、米国領のグアムに目を向けた。
一方の日本政府は、日米安保の堅持・強化と引き換えに、日本の資金支援によ
る普天間基地の沖縄県内移設と海兵隊8,600人のグアム移転を含む在日米軍再編
ロードマップに合意したという。海兵隊のグアム移転に関する環境評価報告書が
伝えるのは、米国が地域の安全保障にこだわっている中で、同盟諸国の米国離れ
が進み、日本だけが米国の安保の傘に頼っているという、奇妙な姿である(本稿
の末尾を参照)。鳩山政権は、その点からも、日米安保と再編合意の今日的妥当
性を根底的に再検証すべきであろう。

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■日米同盟至上主義の中央紙
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  安保と沖縄の問題に立ち入る前に、海兵隊普天間基地移設問題に関する前回の
拙稿の冒頭に書いたことを再確認しておきたい。まず、オバマ大統領は、来日直
前のNHKインタビューで鳩山新政権が在日米軍再編合意をレビュー(検証)する
のは"perfectly appropriate"と語った("completely appropriate"と書いたの
は、私の間違いだったが、「至極当然」という意味に変わりはない)。「ニュー
ヨーク・タイムズ」(11月13日付)は、大統領が東京での共同記者会見で普天間
基地存続という難題に関する日米閣僚級作業グループの設置を決めたのは、ゲー
ツ国防長官が普天間基地移設に関する合意の再交渉に対して閉じたかに見えた門
戸を、鳩山首相への「政治的贈り物(ギフト)」として再び開こうと考えたから
だ、と報じた。合意の見直しに同意したというのである。「琉球新報」(11月14
日)は、首脳会談で大統領が「政権が代わって(再編合意を)見直しすることは
率直に支持する」と述べたと伝えた。これらの報道から、オバマ大統領が合意見
直しに同調していたことが察しられよう。
 
ところが、日本を代表する新聞の論調は、日米同盟を守るために、現行合意を
いじるべきではない、という。米国の機嫌を損ねてはならないという、米国の顔
色をうかがうだけの卑屈きわまりない態度だ。例えば、「朝日新聞」は11月12日
の社説(「普天間移設―鳩山首相の牽引力を問う」)で、「オバマ氏はNHKの
インタビューで、鳩山政権が辺野古移設をめぐる日米合意を検証していることに
理解を示し」たことを認めた上で、大統領が「最終的にはそのまま受け入れるよ
う期待を表明した」ことに力点をおき、「政権交代の時代の同盟管理のあり方が
問われている」と述べ、同紙が「米軍再編という大きな構図のひとこま」と呼ぶ日
米合意を「白紙にすること」には反対する立場をとった。21日の社説では「日本
の安全保障の柱である同盟を支える基本的な信頼関係が損なわれては困る。
 
その点で、……日米合意では、在日米軍基地の整理・統合やグアムへの海兵隊
の移転、その移転経費の日本側負担などがパッケージになっている。大事なのは
、首相がこの枠組みそのものを変えるつもりはないと明確に語ることではないか
。そのうえで、もし辺野古以外の移設先を探るのであれば、米国側にはっきりと
提起しなければならない。全体の方向性をあいまいにしたまま作業部会の検討を
長引かせるのは、米国に対して不誠実であるばかりか、国民の期待をもてあそぶ
ことになりかねない」と論じた。
 
「読売新聞」の社説(「日米首脳会談、同盟深化へ『普天間』の決着急げ」
11月14日)は、もっと端的に「政府は、いたずらに(普天間基地移設)問題を
先送りせず、今年中に現行計画の推進を決断し、決着させるべきだ」と論じ
る。なぜなら、「安保条約の根幹は、米国が日本防衛の義務を負う代わりに、
日本が米軍の国内駐留を認めるという相互依存の関係にある」からだ。だが
「現在の日米関係にきしみが生じている。……その最大の要因は、鳩山首相が
普天間飛行場の移設問題を先送りし続けていることにある」。
 
いずれの社説も、日米同盟の信頼関係を最優先すべき、米国政府の意向に従う
べき、という主張である。普天間基地の国外移設どころか、そろそろ安保を沖縄
県民に過重負担させるのはやめて国民全体で負担しようという提言もない。かつ
ての自民党政権と同じだ。
 
「日本は米ソ対立の時代、西側の一員として行動し、冷戦終結後は日米同盟を
活用しつつ、世界とアジアの平和に貢献することを目指した。この間の日本の経
済発展は同盟関係による幅広い日米協力にあずかるところが大きい」と論じる
「読売」の社説は、日本の経済発展を日米同盟に求め続けようという、まるで冷戦
時のレトリックだ。
 
両社説とも、現行合意を支持する理由として「地元負担の軽減」を揚げてい
る。
しかし、1996年12月のSACO最終合意がすべて実施されたとしても、県内米軍専
用施設の21%に相当する5,002ヘクタール(最終合意では5,075ヘクタールだった
が、那覇港湾施設35ヘクタールと北部訓練場38ヘクタールが米軍に新規提供され
ることになった)縮小されるものの、日本全国に占める在沖米軍専用施設の割合
は約70%に減るだけ。しかも、2006年の再編合意に普天間県内移設→海兵隊員の
グアム移転→嘉手納以南の基地返還という形で新たに組み込まれたり追加された
りした返還予定地は895ヘクタールだけだから、たとえ現行合意通りにことが進
んだとしても、本土他府県と比べた沖縄の米軍基地負担がまだまだきわめて過重
であることに変わりはない。
 
「見直しには時間がかかり、それだけ普天間基地の危険が続く」という、現行
合意支持のもうひとつの論拠も、いかにも基地周辺住民の安全性を案じたそぶり
だが、それなら沖縄内で海兵隊航空基地をたらい回しするのではなく、基地その
ものの沖縄からの撤去を求めないのか。政治的決断さえあれば、撤去にあまり時
間は要しない。
 
普天間基地には南西から北東方向に伸びたフライトライン(発着場)と滑走路
のほか、格納庫、通信施設、補修施設、部品倉庫、消防施設、給油施設、理髪店、
ジム、祈祷所、郵便局、クリニック、プール、ボウリング場、図書室、将校ク
ラブ、スナック・バー、売店などがあるが、ここを離発着訓練に利用するヘリや
給油機、そして海兵隊員は、ちょうどイラクに動員されたように、即座に空母で
別の場所に移転できる。

現在の地位協定では米国は撤退後の汚染処理の責任を免除されているが、発着
場、滑走路、格納庫、給油施設、補修施設などの撤去は日米で協議して進めた
らよい。米国内およびプエルトリコ、フィリピン、イタリアなどでは、米国の
演習場、海軍基地、原潜補修基地が政治的決断によって1年もかけないで閉鎖
・撤去されてきた。普天間でも出来ないはずはない。撤去後は地元・宜野湾市
が商業地、住宅地、公園、教育施設、スポーツ施設として再開発したらよい。
 
県内移設以外の選択肢はないのかについては、一言もない。沖縄県民としては
、戦闘機が飛び交って普天間基地より騒音がひどく、危険度も大きい米空軍嘉手
納飛行場も早急に撤去して欲しいが、日米同盟は重要だが米軍基地の日本本土移
駐にはノーという、当事者意識を完全に欠き、沖縄県民の訴えは眼中にない本土
マスコミに、支持を期待することはできない。
 
「毎日新聞」の社説「日米首脳会談 連携の舞台が広がった 安保50年へ信
頼深めよ」(11月14日)も、「同盟関係を発展させるには日米安保体制の信頼性
を高めることが不可欠である。普天間問題について首相が「最後は私が決める」
と言うだけでは国民の不安や米側の疑心をぬぐうことはできない」と、米側を「
ご主人様」扱いする点では上記2紙と変わらない。
 
「東京新聞」の社説(「オバマ氏来日 新しい同盟の出発点に」11月14日)だ
けは「鳩山首相が合意履行を明言しないことをとらえ、国内外に『同盟の危機』」
との指摘があるが、政権交代に伴って前政権からの政策の総点検をするのは当
然だ。米側も理解しており、危機を煽(あお)るのは、両国の国益を棄損する」
と、日米合意を検証するという鳩山首相の姿勢に理解を見せた。4紙の中で冷静
に論じたのはこの新聞だけだ。
 
一方、テレビは、珍しくも、普天間基地とその周辺上空を米軍ヘリが爆音を立
てて低空飛行する映像を繰り返し見せた。それなりに、普天間基地の危険性が視
聴者に伝わったであろう。しかし、残念ながら、一部を除いて、その場限りの報
道に終わった。
 
所詮、本土メディアにとって、沖縄の基地問題はこの程度の関心事でしかな
い。
普天間基地移設問題によって、米軍基地に関する本土と沖縄の「温度差」は少
しは縮まったであろうが、日本を守るための安保基地を沖縄に集中させて事足れ
りとする本土の政治家やメディアや国民の心底は、あまり変わっていないのでは
ないか。

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■軍事植民地と化した戦後沖縄
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  ここで、「読売」「朝日」「毎日」などが日米同盟の根幹としてこれほど重視
する安保条約に話を戻そう。
  オバマ大統領は、東京で、「(当時の)アイゼンハワー大統領は、……米国と
日本は『対等で相互関係』に基づく『不滅の協力関係』をつくりあげていくと語
った。だからこそ、歴史のこの重要な時に、私は首相と同盟関係を確認しただけ
でなく、同盟関係を深めることで合意した」と述べた。
 
冷戦時代の米国占領下で日本に押し付けられた日米安全保障条約。強烈な反安
保闘争の中で改定され、しかも核密約まで交わされた(押し付けられた)日米安
保を「対等」「不滅の協力関係」という言葉でくくるオバマ大統領の表現には、多
くの日本人が違和感を覚えたであろう。米国と「対等」であるはずの日本で、自
民党政権が「米国の言いなり」と批判されるほど隷属的な対米姿勢をとり、主要
紙があたかも「洗脳」されたかのように、地位協定で占領時代のごとく特権を与え
られた米軍(基地と軍隊)を維持し続ける米国政府の肩をもって自国政府批判を
展開するのは、異常としか言いようがない。
 
さらに異常なのは、沖縄を政府・マスコミ・大半の国民が、沖縄を日米安保の
砦にしている事実を容認または黙認していることである。太平洋戦争で沖縄を確
保した米国は、当初は対日本本土戦に備えた発進基地として、その後は単なる「
血であがなった戦果」として保持し続けた。46年には平和主義、国民主権、基本
的自由の保障をうたった日本国憲法が制定されたが、それが米国統治下の沖縄に
適用されることはなかった。
 
それどころか、ときの昭和天皇は47年、米国による琉球諸島の軍事占領の継続
を希望すると米国に伝えた。それが「米国に有益」で、「日本を(共産主義から)
守ることになる」、というのがその理由であった。中華人民国が成立した1949年
にはアイゼンハワー大統領が沖縄の「無期限保持」を言明した。日本にとっての
沖縄のもつ意味を象徴するメッセージであった。翌50年に朝鮮戦争が勃発すると、
米国は基地の建物や設備を仮設のものから恒久的建造物へと変えていく。しか
し、日本が終戦、憲法制定、戦需景気で復興への道をひた走っていたとき、沖縄
は経済的にも政治的にも米国の軍事植民地と化していた。
 
そして日米安全保障条約と連合国の対日平和条約が締結され、前者によってア
メリカ以外の占領軍が撤退してアメリカ軍が在日米軍となり、後者によって日本
が独立を復活させるとともに、沖縄を含む琉球諸島は正式に米軍統治下におかれ
ることになった。米国占領下で用意されたこれら2つの条約が、いずれも1951年9
月8日に署名され、翌52年4月28日に発効したのは、偶然ではない。日本は正式な
戦争終結とともに、日米安全保障条約というある種の米国支配の下に置かれ、日
本は対米一辺倒主義を余儀なくなされたのである。両国が対等でなかったのは、
今更言うまでもない。
 
現在沖縄の原点は平和条約第3条にある。同条曰く。「日本国は、……南西諸
島……を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治の下におく(という米国の提
案に)同意する」「(提案が国連で可決されるまで)合衆国は、領水を含むこれ
らの諸島の領域及び住民に対して、あらゆる行政、立法及び司法上の権力を行使
する権利を有する」。これによって、米国はいかなる国の干渉も受けることなく、
沖縄を軍事植民地として自由に利用できるようになったのである。
 
それ以降、米軍は那覇市安謝・銘刈地区(現在の新都心地域を含む)、宜野湾
市伊佐浜、伊江島の真謝・西崎地区などで住民の抵抗を「銃剣(武装兵)とブル
ドーザー」で排除しながら新たに居住地や田畑を含む土地を強制的に接収し、沖
縄を"Keystone of the Pacific"(「太平洋の要石」)に変えていった。本土復帰
(1972年)以前には、当時の琉球列島(現沖縄県)の14・8%、沖縄本島の実に
27・2%が、米軍基地として占拠され、「基地が沖縄にあるのではなく、沖縄が基
地にある」と言われた。
 
在沖米軍の多くは、「日本本土や韓国から移転してきた」部隊であった(屋良
朝博『砂上の同盟――米軍再編が明かすウソ』)。当時の沖縄では、強制的な土
地接収に対する「島ぐるみ闘争」が起きていたが、屋良は、長野県浅間山の演習
場反対闘争、群馬県妙義山接収反対運動、「砂川事件」で知られる東京都立川飛
行場の拡張阻止運動、海兵隊が駐留していた岐阜県各務(キャンプ岐阜)や山梨
県北富士演習場などでの反対闘争が高まったため、多くの兵力が日本本土から撤
退して米国統治下の沖縄に移転したのだろう、と言う。アイゼンハワー米大統領
と岸信介首相が57年6月に発表した自衛隊増強と在日米軍削減に関する共同コミ
ュニケのあと、20万超だった在日米軍は60−70年代に「大幅に削減される一方で、
掃き溜めのように沖縄へ米軍が流れてきた」(同上)。
 
核兵器、ミサイル、毒ガス兵器、あのベトナムに撒かれた枯葉剤、原子力潜水
艦、陸軍特殊部隊……と、何でもありの基地であった。Bulletin of the Atomic
Scientists (November/December、1999)によれば、沖縄に核兵器が配備され
たのは台湾海峡で緊張が高まった1954年12月。その後、海外では最多の約1200発
に増やされた。沖縄の本土復帰により撤去されたと言われているが、真相は不明
だ。知花弾薬庫地区に保管されていたマスタドーガスやサリンを含む毒ガス1万3
千トンは、71年1月、米領ジョンストン島へ移送された。69年7月に「ワシントン
・ポスト」がVX神経ガスの漏出事故を報道しなければ、復帰後も残った可能性が
ある。

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■米軍基地を保持したままの本土復帰
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  時計の針を昭和44(1969)年に戻していただきたい。その年の11月、佐藤栄作
首相とニクソン大統領は共同声明でこう述べた。「総理大臣は、日米友好関係の
基礎に立って沖繩の施政権を日本に返還し、沖繩を正常な姿に復するようにとの
日本本土および沖繩の日本国民の強い願望にこたえるべき時期が到来したとの見
解を説いた。大統領は、総理大臣の見解に対する理解を示した。総理大臣と大統
領は、また、現在のような極東情勢の下において、沖繩にある米軍が重要な役割
を果たしていることを認めた。

 討議の結果、両者は、日米両国共通の安全保障上の利益は、沖繩の施政権を日
本に返還するための取決めにおいて満たしうることに意見が一致した。よつて、
両者は、日本を含む極東の安全をそこなうことなく沖繩の日本への早期復帰を達
成するための具体的な取決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意し
た。(中略)総理大臣と大統領は、米国が、沖繩において両国共通の安全保障上
必要な軍事上の施設および区域を日米安保条約に基づいて保持することにつき意
見が一致した」。

 1972年に沖縄を「正常な姿に復する」はずだった沖縄の「祖国復帰」は、「日
米両国共通の安全保障」を前提にしたものであり、「(そのために必要な)軍事
上の施設および区域は日米安保条約に基づいて(沖縄に)保持する」というので
ある。これに対し、本土復帰運動を推進してきた復帰協議会や沖縄教職員組合な
どが中心になって、71年10月15日、 沖縄返還協定の批准に反対し、「完全復帰
」を要求する県民総決起大会を開き、屋良朝苗琉球政府主席は「私たちは,これ
まで沖縄の祖国復帰の正しい姿は,民主平和,平等の日本国憲法のもとに,差別
のない権利を回復することだと考え,そのためには即時無条件全面返還以外には
あり得ないと信じ,それを強く叫び主張してきました。 しかし,今回の共同声
明にうたわれた沖縄返還の内容は,私たちの主張を全面的に取り入れたものとは
いえません」と不満の意を表し、東京での沖縄返還協定調印式への出席も断った。

 実際、沖縄返還協定により、那覇軍港(返還が決まったが、40年近くたった現
在も返還は実現していない)、牧港補給地区、キャンプ瑞慶覧、普天間飛行場、
嘉手納弾薬庫地区、嘉手納空軍基地、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ
、北部訓練場などを含む在沖米軍基地は大部分が残留し、有事の際の沖縄への核
持ち込みと通過を認める極秘文書も見つかった。沖縄は在日米軍基地が集中する
日米安保の支柱となった。嘉手納空軍基地のフェンス沿いにある「安保が見える
丘」に立つと、そこから広大な基地に並ぶ格納庫や、滑走路で駐機あるいは離着
陸する偵察機や戦闘機の様子がうかがえる。

 復帰後、日米両政府は何度か在沖米軍基地の整理統合縮小を協議したが、「日
米安保条約の目的との調和を図る」という前提が立ちはだかり、基地縮小は県民
の期待通りには進まなかった。復帰前に全県土の14・8%、沖縄本島の27・2%を占
めていた米軍基地は、那覇空軍施設(現在の那覇空港)など面積にして18%相当
が返還(同じ時期に日本本土では59%)されたものの、現在でもそれぞれ10.2
%、18.4%に及ぶ。

 その結果、面積で日本全国の在日米軍専用施設の74・2%(229,245平方キロ)
を沖縄が占めることになったのである。「専用施設」は地方自治体や警察など日
本政府が自由に立ち入り出来ないという意味で、米国占領地域あるいは治外法権
地域と呼んでもよいだろう。第2位の青森県23,751平方キロ(7・7%)、第3位の
神奈川県18,239平方キロ(5・9%)、第4位の東京都13,221平方キロ(4.28%)な
どと並べてみると、全国土の0.6%しかない沖縄県がいかに桁違いに在日米軍基
地負担を背負わされているか、明白だ。北朝鮮の脅威から日本を守るのも、日本
本土から遠い沖縄だ、と軍事専門家は論じる。

 日米安保の重要性を訴える政治家も、日本を防衛するための日本本土への米軍
基地誘致にはきわめて消極的だ。理由は、沖縄に見るように米軍の駐留がさまざ
まな問題をはらむため、たとえ巨額の補助金をつけても引き受ける自治体がない
からだ。日本海を挟んで朝鮮半島に面する、山口県にある米軍占有基地は6,629
平方キロ(全国の2・15%)、長崎県は4,561平方キロ(1.48%)と沖縄の50分の1
にも満たない。冷戦時代の仮想敵国・ソ連(現ロシア)や現在も緊張した関係に
ある北朝鮮に近い広大な北海道さえ、4,274平方キロと全体の1.38%を占めるに
過ぎない(ただし、米軍専用でない米軍基地の面積は全体の33・7%と、沖縄の22
・8%より大きい)。大阪府の橋下知事が、普天間基地の移設先として関西国際空
港や神戸空港を挙げて話題を呼んだが、現在、大阪を含めて関西地方に米軍専用
施設は一つもない。
 
本土で最も大きな米軍専用施設は青森県の三沢飛行場(15,780平方キロ)、次
いで三沢対地射爆撃場(7,655平方キロ)や東京都福生市の横田飛行場(7,136平
方キロ)だが、小さな沖縄本島にある北部訓練場(75,425平方キロ)、キャンプ
・ハンセン演習場(50,592平方キロ)、嘉手納弾薬庫地区(26,579平方キロ)、
キャンプ・シュワブ演習場(20,626平方キロ)、嘉手納飛行場(19,855平方キロ)
はこれらを大きく凌駕する。

 本土にある演習場は、静岡県の沼津海兵隊訓練場(面積はわずか28平方キロ)
だけだが、沖縄には上記の北部訓練場、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワ
ブのほか、パラシュート降下訓練で知られる伊江島補助飛行場、ヘリコプター離
着陸訓練や海岸上陸訓練に使用されてきたギンバル訓練場(SACO最終報告により、
平成9年度末まで返還されることになっていたが、返還条件だったヘリコプタ
ー着陸帯などの近接訓練場への移設が実現しないため、現在も使用継続)も広が
っている。

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■県内に点在する射爆撃場と沿岸・海空訓練地域
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  沖縄県にあるのは嘉手納空軍基地や普天間海兵隊航空基地、北部訓練場のよう
な陸上基地だけではない。沖縄県の陸地面積は国土のわずか0・6%に過ぎないが
、東西約1千キロ(東端は北大東島、西端与那国島)、南北約4百キロ(北端は
伊平屋島、南端は波照間島)の海に囲まれている(沖縄県基地対策課「沖縄の米
軍及び自衛隊基地(統計資料集)」(平成21年3月)の「沖縄周辺の米軍訓練空
域・水域」を参照)。
 
そこには、沖大東射爆撃場、浮原島射爆撃場、出砂射爆撃場、鳥島射爆撃場、
黄尾礁射爆撃場といった実弾演習場、そして沖縄本島周辺のホワイトビーチ地区、
キャンプ・シュワブ沿岸、津堅桟橋、インディア・インディア、ホテル・ホテ
ル、マイク・マイク、ゴルフ・ゴルフなどと名づけられた広大な沿岸・海空訓練
地域が存在する(これらの射爆撃場や訓練水域、陸上基地の上空も米軍の管理下
にある)。

 たとえば本島北東岸のキャンプ・シュワブから20キロほど東方に位置するホテ
ル・ホテル訓練区域や、本島東南東のゴルフ・ゴルフ訓練区域、インディア・イン
ディア訓練区域では連日午前6時から晩8時まで「艦船及び航空機の普通火器を
使用する海対空、海対海、空対空の射撃及び空対海の射爆撃訓練」が行われてい
るという。実戦さながらの実弾を使った訓練である。久米島から近い鳥島射爆場
では、95年12月から翌年1月にかけて、米海兵隊岩国基地所属の垂直離着陸機ハ
リアーが、劣化ウラン弾1,520個を発射したことが分かっている。

 ホワイトビーチには「補給のため」と称して現在も原子力潜水艦がたびたび寄
航する。ところが、何を「補給」するのか、詳しい検証はなされていない。沖縄
本島北部や沿岸では、実弾を使った射爆撃訓練が行われているが、これも日本政
府はほとんど野放しにしたままだ。

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■武力行使は慎むという日米安保
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  「締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することの
ある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしな
いように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力
の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連
合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。
 
  「締約国は、他の平和愛好国と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際
連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する」
  1960年に締結された現行日米安全保障条約の第1条である。なんと、日米両国
は、「国連憲章」の定めに従って、国際紛争を「平和的手段」によって解決し、
「武力による威嚇または武力の行使」を「慎む」と「約束」しているのである。
加えて、「国際の平和と安全を維持する国際連合の強化に努力」するというので
ある。

 この条文や、「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配」「緊密な経済的
協力」「経済的安定及び福祉の条件を助長」「平和のうちに生きようとする願望」
といった言葉が並ぶ前文を読む限り、条約は国連中心の非武力行使による平和
維持宣言だ。第3条は「憲法上の規定」にも従うと書いてあるから、日本国憲法
の前文や第9条も尊重するということだろう。ありがたや、日米アンポ。
 
  だが待てよ。これはジョージ・オーウェルが『1984』に書いた、「真理省」の
スローガンの一つ「戦争は平和だ」そのものではないか。
  沖縄に米軍が戦闘機、空母、ヘリコプター、迷彩色の輸送車、そして弾薬庫と
ともに駐留して飛行訓練や射爆撃訓練を繰り返しているのは、「戦争」ではなく
「平和」のためだったのか。沖縄からイラクに出撃して戦闘機から爆弾を投下し
たり装甲車やジープから射撃したりしているのは、「平和的手段」によって紛争
を解決しようとしていたのか。イラクや米軍の犠牲者は、「戦死者」や「戦傷者」
ではなく、平和的行為が生んだ単なる「統計数字」なのか。

 しかし、オーウェルのいう「ニュースピーチ(新語法)」におさらばして、安
保条約を素直に読めば、条約が国連憲章や日本国憲法に合致しないこと、「対等
」な主権国家の間で締結されたものではないこと、冷戦終結後の21世紀の世界に
おいて建設的な役割を果たせそうもないことが明らかだ。占領期を引き継いだ冷
戦時代に結ばれた現在の安保条約は、来年で50年目を迎える。
 
民主党はマニフェストで「日本外交の基盤として緊密で対等な日米同盟関係を
つくるため、主体的な外交戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本
の責任を積極的に果たす」「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍
基地のあり方についても見直しの方向で臨む」とうたった。また鳩山首相とオバ
マ大統領は、11月13日の首脳会談で、来年の日米安全保障条約改定50周年へ向け、
「日米同盟」を発展させていくことを確認した。
 
日本やアジア・太平洋地域の安全保障を狙いにしてきた同条約を、環境問題、
エネルギー問題、防災、医療、核非拡散、自然災害時の人道支援など、21世紀の
世界が直面する地球規模の課題に対処すべく強化(鳩山首相によれば「深化」)
しよう、というのである。民主党のマニフェストは、「『国民主権』『基本的人
権の尊重』『平和主義』という現行憲法の原理……を大切にしながら、真に立憲
主義を確立」とも述べており、これらの公約をぜひ守って欲しいものである。

 「対等な日米同盟関係」というのは、日本がこれまでの従属的な日米同盟至上
主義を離れて他の国々とも独自の、多極的な外交関係を展開する、と意味だろう。
  1959年に駐留米軍は憲法9条が禁じる戦力に当たらないという判断を下した最
高裁判所も、そろそろ日米安保条約の合憲性を再考すべきだろう。占領時代なら
ともかく、在日米軍が日本国憲法の適用を受けないとしたら、日本を主権国家と
は呼べない。

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■増強される在沖自衛隊
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  沖縄に駐留するのは米軍だけではない。復帰に先立つ1971年10月、防衛庁は、
第1次沖縄防衛計画を発表、翌年2月には自衛隊6,300人の沖縄配備を決定。復帰
直後の6月には那覇防衛局を開設。その後、「沖縄基地の強化につながる」と抗
議した屋良知事など多くの県民の反対を無視して、矢継ぎ早やに、陸上自衛隊混
軍、航空自衛隊、海上自衛隊軍が配備された。沖縄は米軍と自衛隊が共存する重
要な安保基地となったのである。2008年1月1日現在、およそ6,300人(陸上自衛
官1,900人、海上自衛官1,300人、航空自衛官3,100)が県内35施設に駐屯してい
る。

 最も大きいのは那覇空港に隣接し、航空自衛隊の13部隊、陸上自衛隊第10飛行
隊、海上自衛隊第5航空群が混在する那覇基地(2,118平方キロ)。沖縄市の陸上
自衛隊沖縄訓練場(576平方キロ)、陸上自衛隊那覇駐屯地(346平方キロ)、本
島北部の海上自衛隊国頭受信所および本部送信所、那覇駐屯地浮原島、航空自
衛隊那覇基地知念高射砲教育訓練場などが、それに次ぐ。自衛隊が「南西防衛
区の砦」と位置づける航空自衛隊那覇基地の飛行場は国土交通省が管理する官
民共用空港(那覇空港)で、長さ3,000メートル、幅45メートルの滑走路を、
民間機とともにF-15J戦闘機のほか、救難ヘリコプターや輸送ヘリコプターが
飛び交う。

 今年5月には、海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が普天間基地の移設が予定さ
れている沖縄本島北東沿岸に姿を見せ、移設に反対する人々が抗議する中、現況
調査を行った。7月には、麻生政権の浜田靖一防衛相が、台湾が望見できる日本
最先端の島・与那国を訪れ、同島に陸上自衛隊部隊の配備を検討していると発言
している。

 戦闘経験を積んだ在沖米軍との共同演習も多い。今年4月には自衛隊南西航空
混成団のF4戦闘機が嘉手納基地に暫定配備されていたステルス戦闘機と摸擬空
中戦を展開した。11月中旬には、米国海軍と海上自衛隊の艦船と航空機が、9日
間にわたって、「恒例の海上演習――8,500人の米国海兵が参加する両国最大の
年次演習ANNUALEX――のため、沖縄沿岸の海と空を覆いつくした」(準米軍機関
紙『スターズ・アンド・ストライプス』09年11月16日)。
 
米側から参加したのは、空母航空団の戦闘攻撃機を艦載した原子力空母「ジョ
ージ・ワシントン」、空母「エセックス」、掃海艇「ディフェンダー」、ミサイ
ル巡洋艦「カウペンス」、ドック型揚陸艦「トートゥガ」、原子力潜水艦「シテ
ィ・オブ・コーパスクリスティ」、原子力潜水艦「キーウェスト」、ミサイル・
フリゲート「クロメリン」、ミサイル駆逐艦「カーティス・ウィルバー」などの
艦船、そして第7艦隊所属の第70任務部隊や第15駆逐隊、第31海兵隊遠征隊に属
する水兵約8,500人。海上自衛隊のイージス艦や護衛艦など両国併せて艦船50隻、
航空機100機以上、兵員およそ2万人が参加する、まさに実戦さながらの大規模
演習であった。
 
  日本側が「日本防衛のための共同演習」と呼ぶこれらの演習は、米軍が英語で
主導しながら行うもので、自衛隊が米軍に編入されたという印象を与える。

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■在日米軍は必要か
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  ところで、日本が「日米同盟」について米国に対して注文がつけられないのは、
日本に北朝鮮などの脅威に対する防衛力がない、あるいは不十分だから、とい
う説明をよく聞く。日本の防衛力はほんとうに脆弱だろうか。
 
2009年6月にスウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が
発表した「2009年版年鑑」の「2008年世界の軍事費トップ10」によると、日本の
軍事費は世界第7位にランクされている(第1位 米国6070億ドル、第2位
  中国849億ドル、第3位 フランス657億ドル、第4位 英国653億ド
ル、第5位 ロシア586億ドル、第6位 ドイツ468億ドル、第7位 日本
463億ドル、第8位 イタリア406億ドル、第9位 サウジアラビア382
億ドル、第10位 インド300億ドル)。F4EJやF15Jなどの戦闘機、輸送機・
空中給油機、早期警戒機、対空ミサイル、対戦車ミサイル、対艦ミサイル、高性
能防空・交戦システム(イージスシステム)を搭載するイージス艦、地対空誘導
弾パトリオットミサイル(PAC3)などを備えた日本は、軍事大国とは言えな
いまでも、在日米軍の力を借りなくても国是の「専守防衛」に事欠く軍事小国で
はない。

 現在、日本に駐留している米国の軍隊(2008年3月、海兵隊、空軍、海軍を中
心とする3万3千人)とF-22をはじめとする戦闘機、空中給油機、迎撃ミサイル、
キティホークなどの空母、巡洋艦や駆逐艦、核兵器を含むと見られる弾薬などを
加えると、日本の軍事力は世界第4位か5位くらいにはなるだろう。ドイツと韓
国を除いて、他の諸国には見られない実態である。ちなみに、米国(米本土、ハ
ワイ、アラスカ、米国自治領グアムなど)以外に駐留する米軍は、日本と同じ敗
戦国のドイツ56,200人、朝鮮戦争の後遺症を引きずる韓国28,339人を除くと、英
国9,698人、イタリア9,693人、スペイン1,251人、フランス56人、オーストラリ
ア133人、ニュージーランド9人、フィリピン150人、イスラエル43人、カナダ145
人に過ぎない。

 在日米軍の64%にのぼる2万1千人は沖縄に集中している。最前線部隊といわれ
る海兵隊は実に86%(12,400人)が沖縄駐留だ。しかも、うるま市のキャンプ・
コートニーに司令部をおく第3海兵遠征軍は、米国の3つの海兵遠征軍のうち唯
一国外に司令部をもつ海兵遠征軍で、米国のイラク戦争に大きく貢献している。
在日米国空軍の主要基地も沖縄だ。

 日本の駐留国負担金も世界で群を抜いている。駐留国負担金(接受国支援金)
は、労務費や土地代など予算(いわゆる「思いやり予算」)に計上されている直接
支援と道路・港湾費などの免除分(間接支援)からなる。米国防総省の2002年の
数字によると、日本の負担金44億1千万ドル(直接32億2,800万ドル、間接11億
万ドル)は、NATO全体の24億8千万ドルの2倍近くにのぼった。

 「思いやり予算」は、「密約」により、沖縄返還に伴い日本が米国に肩代わり
して支払った軍用地復元補償費などを嚆矢とすべきだろうが、一般的には、1978
年に日本人基地従業員の福利費負担で始まったとされる。「思いやり予算」は、
その後、従業員の基本給、提供施設の建設費、光熱水費、訓練移転費へと次々拡
大されてきた。日本の直接支援は過去10年間少しずつ減り続けたものの、平成21
年度予算では駐留経費負担額は1,978億円。施設の借料・周辺対策・漁業補償な
ど1,739億円を含めると3,667億円にのぼる。
 
本来なら米国が負担すべき在日米軍の必要経費は、ほとんど日本政府が面倒を
みてあげているのである。ほかに、SACO最終報告の内容を実施するための経費11
2億円、米軍再編事業のうち地元負担軽減に要する602億円が計上されている。こ
れらの数字には、防衛省以外が支出する基地交付金などは含まれない。このうち、
11月末の事業仕分けで取り上げられたのは、日本人基地従業員2万3千人(沖縄
約9千人)の給与だけだ。
 
米国にとって、言われるままに米軍部隊の駐留と戦地出撃を含む軍事活動を容
認し、道路や港湾の使用料を免除するほか、多額の「思いやり予算」をつけて土
地代、日本人従業員の給与、将兵と家族の住宅や学校、病院などの建設費、電気、
ガス、水道、下水道、冷暖房・調理・給湯用の燃料、基地施設の建て替え費、
訓練移動費、事故補償費まで負担し、基地移転後の汚染物質を処理してくれる、
米国にとってこんなありがたい国はない。

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■世界の変化を視野に入れよう
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  日米安保条約を検証する際、私たちは時代の趨勢をよく把握しておく必要があ
る。米国が第二次世界大戦を連合側の勝利に導いて軍事的・経済的な世界大国に
のし上がり、国際連合やブレトンウッズ体制の創設に中心的な役割を果たし、東
西冷戦における西側陣営のリーダーとなり、日本の占領を先導してからおよそ60
年、共産主義国家・中国の成立や朝鮮戦争からほぼ半世紀、ベトナム戦争から40
年、東西冷戦の終焉から20年、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」からさえ10年
が経過した。
 
東アジア地域ではオーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、韓
国といった米国の「同盟国」が、地域の安全保障に対する強いこだわりを見せ、
「軍事的プレゼンス」を維持したいという米国の意図とは裏腹に、急速に米国離
れが進んでいる。ヨーロッパや中南米だけでなく、東アジアでも「パクス・アメ
リカーナ」の時代は終焉し、中国、インド、東南アジア経済連合(SEATO)など
を中心とする、米国の覇権から脱した新たな多国間協調体制が生れつつある。米
国が「極東」と呼んで警戒した東アジアでは、ミャンマーと北朝鮮を除いて、中
国も台湾も、植民地の歴史を引きずって混乱していたインドネシヤやフィリピン
を含む東南アジアも安定した。国際社会が直面する重要課題も、軍事的対立から
、金融、エネルギー、地球環境、核軍縮・廃絶、貧困、人間の安全保障といった
多国間協調を要する分野に軸足を移しつつある。
 
日本だけが、旧態依然として米国との軍事的同盟関係を「外交の基軸」に据え
たままでは、国際的潮流から取り残されてしまう。これまで国連でも米国の意向
に逆らわなかった日本は、諸外国から「米国のポチ」視されてきた。安保条約を
「基軸」とする日米同盟至上主義に終止符を打ち、米国を含むアジア太平洋版国
際連合のようなものを立ち上げて近隣諸国をはじめ米国やその他の国々との協調
外交を展開すれば、日本は平和憲法をもつ国としての国際的な役割が果たせるだ
ろう。かつて琉球王国時代に日本・中国・朝鮮などアジア諸国の「万国の津梁(
架け橋)」を自任した沖縄も、その地理的条件を戦争ではなく地域交流のために
貢献できる。

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■予定されていた普天間基地のグアム移転
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   普天間基地のある宜野湾市の伊波市長は、日米特別行動委員会(SACO)最
  終合意から13年経った今年12月はじめ、そもそもグアム移転計画には司令部
  だけでなく、普天間基地の第1海兵航空団航空戦闘部隊(航空ヘリ部隊)も
  含まれていたとして、県内移転の根拠は消えたと述べた。そこで、米海軍省
  グアム統合計画室が住民のコメントを求めて11月20日に公表した「環境影響
  評価書(EIS)素案」を調べてみた(統合計画室は米国防総省が環境保護政策
  法に従って基地建設予定地の環境影響評価を行うため海軍に設置させた機関)。
  
  すると、驚くなかれ。そこには、沖縄からは第三海兵遠征隊の司令部だけ
  でなく、普天間基地の第一海兵航空団や航空団に所属するさまざま部隊が移
  駐する予定だと記され、グアム北端のアンダーセン空軍基地で普天間基地と
  同じように離着陸訓練や兵士と貨物の積み下ろし訓練を行う、海兵隊が沖縄
  本島北部で行っているジャングル戦闘訓練、射撃演習、都市型戦闘訓練、強
  襲揚陸訓練と同種の訓練を行う施設を建設するといった計画も、入っていた。
 
  米軍のグアム軍事計画に基づく素案によれば米国は、日本を除くアジア・
  太平洋地域の同盟諸国から普天間基地移設を断られたため、東アジアに近く、
  米軍が自由に行動できる米領グアムに目を移したのだという。結果的に、
  普天間航空基地を含む在沖海兵隊すべてをグアムに移す計画に変えたのであ
  ろう。辺野古基地に移設する必要性は全くなかったのだ。しかし、日本が沖
  縄県内移設の費用を負担し、その後の海兵隊のグアム移転費も分担するとな
  れば、話は別だ。

           (筆者は沖縄在住・元桜美林大学教授)

                                                     目次へ 
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<沖縄密約37年目の真実〜吉野文六証言をめぐって>
                                 北岡 和義
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  2010年がヒタヒタと"近代の足跡"を引きずって近づいてくる。
来年は日韓併合から100周年、60年改定安保から50周年である。NHKが司馬遼
太郎の『坂の上の雲』を3年間の大河ドラマとして放送を開始した。
日清、日露の戦争を舞台にした歴史ドラマは、日本が太平洋戦争へ突っ込んで行
った近代史の原点である。

 この秋、本メルマガの主宰者、加藤宣幸の誘いで、深津真澄著『近代日本の分
岐点〜日露戦争から満州事変前夜まで』(ロゴス刊)の石橋湛山賞受賞の祝賀昼
食会に出席した。22名の小宴だったが、河上民雄(元衆議院議員、東海大学名誉
教授)細島泉(元毎日新聞編集局長)、羽原清雅(元朝日新聞政治部長、平成
帝京大学教授)、竹中一雄(元国民経済研究協会会長)、船橋成幸(元日本社
会党本部中央執行委員)、初岡昌一郎(姫路独協大学名誉教授)ら懐かしい先
輩たちに会えた。若い研究者も少しいた。

 この書は、小村寿太郎、加藤高明、原敬、石橋湛山、田中義一という日本の近
代を生成した人物を縦糸に、ポーツマス条約や対華21か条要求など歴史の事象を
横糸に編みなした読物で、文字通り日本の「近代の分岐点」を大正デモクラシー
と重なり合う25年間と捉え、描いている。
  この会合でぼくは久しぶりに会えた大先輩の河上民雄に挨拶したのだが、しば
らくして1冊の書が送られてきた。河上が2007年に上梓した『勝者と敗者の近現
代史』(かまくら春秋社)だった。

 この2冊の書を読んで、まさに目から鱗が落ちる思いだった。
  若きジャーナリスト、石橋湛山の「小日本主議論」は、韓国併合、中国大陸武
力侵攻という日本の帝国主義的大陸進出を厳しく批判、糾弾している。
  石橋は「青島は断じて領有すべからず」と題した論文で「ドイツを支那大陸の
一角より駆逐して日本が代わってその一角に盤踞すれば、何故に東洋の平和を増
進することとなり得るや」と論じ、「朝鮮、台湾、満州、樺太を棄てよ、中国、
シベリアへの干渉をやめよ、アジアの民衆はやがて立ち上がり、われわれの手か
ら独立を奪うであろう、それならば、むしろ彼等に独立を進んで与え、尊敬と信
頼を得た方が得だ、という趣旨を展開した」(前述『勝者と敗者の近現代史』)

 石橋湛山が書いた「大日本主義の幻想」は、まさに日本近代史を見直す格好の
論文であり、ぼくは2010年という歴史の折り目に相応しい好著に出会えた喜びを
噛み締めている。
  滞米27年という途方も無い、長い、長い海外生活から帰国して3年になるが、
こうした会合に出られたこと、そして二冊の書を手にしたことの幸甚を痛切に思
う。
  「坂の上の雲」を見上げながら近代と言う急峻を駆け上がった日本国と日本人
の歴史と向き合う絶好のチャンスではないか。

 日本がアジアで唯一、帝国列強と肩を並べることの誇りが、いつしか驕りと
なって韓国併合を正当化した。大正デモクラシーが軍権力に封殺され、抵抗力を
失ったのは何故か。日清・日露を戦った軍人たちは本当に偉大だったのか。
  その軍事力は国民を妙に昂ぶらせ、軍人礼賛の時代の空気を醸成した。権力は
自由人を弾圧し、社会主義者を虐殺した。
  張作霖を謀殺し盧溝橋を爆破し、中国大陸に侵攻、米国の警告を無視し、イン
ドシナに兵を進め、ついに対米戦争に突入していった軍人は立派だったのか。ド
ラマの主人公、秋山好古、真之兄弟と正岡子規たちの溌剌たる青春についてぼく
はじっくり考えてみたい。

 2009年はぼくにとって人生最大と言ってもいい"歴史"を体感した年となった。
それは戦後史の曲がり角、60年安保闘争と深く関わる。1960年、A級戦犯・岸信
介首相が渡米し調印した改定日米安全保障条約と1971年、岸の実弟・佐藤栄作首
相の沖縄返還協定が、現在の思いやり予算や普天間海兵隊基地の移転問題の原点
だった。
  その意味でぼくらが踏み切った沖縄密約文書開示請求訴訟は在日米軍基地の存
否を問う歴史的意味を有していると思う。

 2009年12月1日、東京地裁103号法廷は満席だった。傍聴席数の3〜4倍の人
が入ることができなかった。
  開廷時間ギリギリに駆け込み、たった一つ空いていた原告席に座った途端、裁
判長の許可を得た報道陣のビデオ・カメラが回り始めた。2分間の撮影が終わる
とぼくの席のすぐ後の扉が開いた。
  小柄な老人が目の前をそろそろと通り過ぎた。高齢ながらしっかりした足取り
で証言席に向かう。証言台で「真実を述べる」と宣誓した。
  証人は元外務省アメリカ局長・吉野文六、91歳である。

 ぼくにとっては実に37年ぶりの吉野との再会だった。満席の廷内だが、事件
当時の吉野本人を知る者は、恐らくぼくと同じ原告席の西山太吉(毎日新聞記者)
くらいだろう。
  原告、被告の代理人である弁護士も裁判長も37年前と言えば幼児か少年少女だ
った。沖縄返還協定により、米軍施政下の沖縄が本土復帰したのは1972年5月15
日。ぼくは国会議事堂裏の衆議院第二議員会館で青年代議士、横路孝弘(北海道
知事を経て現衆議院議長)の事務所にいた。1970年3月に読売新聞記者を辞め、
乞われて横路の秘書となった。
  青い書生っぽい、正義感に溢れた代議士と秘書だった。
  沖縄返還協定を議論するため日本社会党に「沖縄返還協定プロジェクト・チー
ム」が結成され、党の重鎮・安井吉典代議士をチーフに楢崎弥之助、大出俊、田
英夫、横路孝弘、中谷鉄也ら論客がチームを構成した。

 毎日新聞記者、西山太吉が「返還協定には密約がある」との解説記事を書いた。
横路からその記事を見せられたことを覚えている。真面目な勉強家だった横路
は、この密約疑惑を調べ始めた。
  1971年12月、衆議院沖縄返還協定特別委員会で横路は密約を質した。
  時の総理大臣・佐藤栄作、外務大臣・福田赳夫、外務省アメリカ局長・吉野文
六ら政府首脳は横路指摘の密約を全面否定した。その吉野が今、目前にいる。

 吉野は耳が遠いようだ。マイクの音が聞こえるように廷吏が吉野の両耳にイヤ
ホーンを取り付けた。
  日隅一雄弁護士が尋問に立ち、提出済の証拠書類を示しながら吉野の証言を誘
う。
  吉野は聞きづらいのか何度も聞き返し、質問の趣旨を理解すると迷わず証言し
た。
  弁護人が示す文書は吉野と駐日公使、スナイダーとの間で交わしたものであり、
「BY」のサインが吉野本人のものであることを認めた。
  「密約は一切無い」と否定し続けてきた沖縄協定で、この瞬間、政府のウソが
崩れた。しかも政権はことし8月30日の総選挙で、民主党に移っている。岡田克
也外務大臣は沖縄密約を調査する、と選挙で公言していた。大臣命令で調査委員
会が発足し、秘密のベールに包まれていた沖縄密約にメスが入る。

 1972年3月27日、機密電文のコピーが密かに横路に渡った。衆議院予算委員会
の最終質問という際どい瞬間、横路はそれを手に再質問した。
  密約を記した極秘電報を振りかざす横路に政府は答えるすべがない。福田赳夫
外務大臣も吉野文六アメリカ局長も答弁できない。全否定した機密外交文書を横
路が国会の場で暴露したのである。委員会は暫時休憩となった。
  横路が指摘したのは返還協定にある「アメリカが自発的に支払う軍用地の復元
補償費400万ドル」は、実は日本がアメリカに支払う3億2000万ドルに含まれている、
という密約だった。

 廊下に出て報道陣にもみくちゃにされたところへ吉野が近づいてきた。緊張の
表情である。
  「横路先生、その文書を見せてください」
  横路のすぐ脇にいたぼくは怒鳴った。
  「外務省にあるだろう。外務省に戻って文書を探したらどうだ」
  吉野はじろっとぼくを睨んだ。

 その吉野文六が37年経った今、密約の事実を法廷の場で認めた。吉野証人を見
つめるぼくの胸に深い感慨と熱いものがこみ上げた。法廷は静まり返り、日隅弁
護士と吉野のやりとりを、固唾を呑んで見守っている。
  日隅代理人「(日本がアメリカに支払う)3億2000万ドルに(アメリカが日本に
支払う、と協定にある基地の復元補償費)400万ドルが含まれているのですね」
  吉野「そうであります」
  「このスナイダー公使と吉野証人との間で交わされた文書にある『BY』とい
うのは吉野さんがサインしたイニシアルですね」
  吉野「そうです。私のサインです」
  日隅「どこでサインしたのか記憶がありますか」
  吉野「私の部屋にスナイダー(公使)がやって来て、その部屋でサインしたと
思います」
  日隅「その文書はどうしましたか」
  吉野「事務官がコピーして保管したと思います。私の手元にはありません」

 法廷で証言した後、吉野は東京地裁2階の狭い司法記者クラブでたった一人、
記者らの質問に答えて45分間、語った。
  「アメリカで文書が公開された限り、これ以上隠すことはできないと思い・・・
歴史の歪曲は国民にとってマイナスです」
  ぼくが記者席から「西山さんをどう思っていますか」と訊いた。
  「西山さんはよく存じております。とてもしっかりした記者でした。一緒に食
事をしたこともあります」

 吉野証言の後、琉球大学教授・我部政明の証人尋問があり、公判は3時間に及
んだ。我部は米国公文書館で公開された機密文書から沖縄密約を発見した研究者
で、その事実を朝日新聞が特報した。
  37年前、横路の爆弾質問の後、西山記者と外務省女性事務官が機密漏えい罪で
逮捕された。起訴状に「情を通じ」という文言で男女のスキャンダルを検察官が
暴露、メディアが飛びつき、国家権力による「密約事件」は男と女の隠微な「機
密漏えい事件」に摩り替えられた。
  女性事務官は一審有罪、(西山は無罪、二審で逆転有罪、最高裁で有罪が確定)
となった時点で、西山は毎日新聞社を辞め故郷に帰って一切のメディアとの接
触を絶った。自ら密約事件に封印してしまったのである。

 ところが沖縄返還から33年を経て思わぬ展開となった。
  2005年4.月25日、西山太吉が「悪いのは政府の方だ」と国家賠償と謝罪を求め
東京地裁に提訴した。提訴に至るには静岡在住の弁護士・藤森克美の西山説得が
あった。
  その時、ぼくはロサンゼルスにいた。知り合いの外交官からeメールが入った。
  「あなたが以前、話していた沖縄密約が訴訟になっているわ」
  その新聞記事は朝日新聞だった。西山提訴の朝、JR西日本の福知山線で列車
の脱線事故があり、各紙の紙面はこの記事で埋め尽くされ、西山提訴を書いたの
は朝日だけだった。

 長い沈黙を破った西山提訴にぼくは心底、驚いた。事件の当事者ではないが、
当事者のすぐ脇にいた人間として西山を支援する義務と道義的責任がある、と考
えた。
  急遽、帰国した。
  帰国して取材を始めるといろんな展開があったことが分かった。
  琉球朝日放送の土江真樹子というディレクターが沖縄返還30周年に西山本人を
引っ張り出し、ドキュメンタリーを制作したことを知った。すぐビデオを取り寄
せた。

 「告発」と「メディアの敗北」と2編あり、西山本人が登場していた。
  土江に会いたいと思っていたところへ本人から電話が入った。ぼくの帰国を知
ってかけてきたのである。ぼくの不在の時間に沖縄密約問題がどう経過したのか
次第に分かってきた。西山提訴の意義を認め、応援のジャーナリストや研究者た
ちがいた。彼らは公判が終わると弁護士のブリーフィングを聞き、勉強会という
名目で都内の大学に集まり議論した。
  西山に会おう。会って話してみよう。ぼくは新幹線で九州へ向かった。
  小倉駅に出迎えてくれた。西山に会うのは初めてである。駅に隣接しているホ
テルのラウンジで西山と語り合った。老齢ながら精悍で鋭い気迫の残影を十分、
宿していた。西山は73歳になっていた。

 2007年3月27日、西山の国賠訴訟は除斥期間が過ぎていることを理由に門前払
いの判決となった。
  ところがこの訴訟が歴史を紐解く重要な役割を果たした。引退していた吉野が
この訴訟を自宅でじっと見つめていたのである。言うまでも無く吉野は記者時代
の西山を知っている。恐らく忸怩たる思いを拭いきれなかったのであろう。
 
北海道新聞記者、征住嘉文が戦後企画の取材で吉野を訪ね、インタビューし
た。往住の食い下がりに初めて吉野は沖縄返還協定の日米密約を認めた。
このインタビューで往住は歴史的スクープを放った。提訴の翌2006年2月8日
だった。
  共同通信、朝日、毎日が追いかけた。琉球新報や沖縄タイムスは記者を上京さ
せ、吉野証言を大々的に書き、報道した。読売、産経、NHKは無視した。
 
テレビ朝日の鳥越俊太郎は毎日記者出身のキャスターだ。鳥越は特集で密約と
吉野証言を取り上げた。テレビ朝日「報道ステーション」の古舘伊知郎が吉野イ
ンタビューを放送した。肝心のNHKは沈黙である。何が報道のNHKだ。ぼく
の怒りが静かに燃えた。
  だから沖縄密約は一部の新聞やテレビが報道した一方で、まったくニュースと
して取り上げないテレビや新聞もある、という変則的な報道となった。

 気骨の老ジャーナリスト・原寿雄(元共同通信株式会社社長)や知る権利で著
名な奥平康弘(東大名誉教授)、情報公開法や個人情報保護法で論陣を張ってい
る田島泰彦(上智大学教授)らジャーナリストとメディア学の研究者たちは2008
年9月2日、外務省に沖縄密約にまつわる外交文書の公開を請求した。外務省は「
文書は無い」と不存在の回答。
  小町谷育子、日隅一雄、飯田正剛、岡島実ら若手弁護士らが代理人となって密
約文書の開示請求訴訟に踏み切った。原告団に我部政明、桂敬一、作家の沢地久
枝、柴田鉄治、松田浩らジャーナリストとジャーナリズムの研究者が原告団を構
成した。ぼくも原告団の一人に加わった。

 沖縄密約は単に基地の復元補償費をごまかしただけではない。もっと重大で深
刻な核兵器持ち込み疑惑もある。1978年11月、ペンタゴン・ペーパーで著名なダ
ニエル・エルズバーグ博士が来日したとき、ぼくは岩波書店でエルズバーグ博士
にインタビュー、在日米軍基地に核兵器が持ち込まれているという証言を雑誌『
世界』(1979年2月号)に書いた。
  佐藤栄作首相の密使だった国際政治学者・若泉敬が『他策ナカリシヲ信ゼムト
欲ス』(文藝春秋社刊)で核兵器持ち込み容認密約を暴露している。若泉は英文
の翻訳が出版された直後、友人知人の目前で毒を飲んで自裁した。自責の念に耐
えられなかったのか、真相は藪の中である。

 ノーベル平和賞を受賞した総理・佐藤栄作の非核三原則は最初からまやかしだ
ったのだ。外交交渉の当事者が法廷で真実を語ったことの歴史的意味は計り知れ
ない。
  『毎日』が14日、吉野が証言した文書が無い、という外務省の調査結果を特報
した。無いという事は、外務省が破棄処分にしたに違いない。情報公開法が施
行となる直前の2000年に霞ヶ関の官庁街では大量の破棄文書の処分が密かに実
施されたと言う。
  外務省がもっとも多かったそうだ。しかも破棄した文書を処分するため受け取
った業者がその断裁した紙を再生しトイレットペーパーとして外務省に納入した
と言うウソのような笑えぬ事実も『週刊朝日』が書いた。
  まさに終戦前後、霞ヶ関で大量の機密文書が焼却処分にされたという話がある。

 来年2月に最終弁論があり、3月には判決となるようだ。しかし判決の結果が
どうであれ、沖縄密約は吉野証言でほぼ歴史的検証ができたとぼくは考えている。
  今年8月30日の総選挙で、民主党が圧勝、長く続いた自民党の政治が終わっ
た。
  政権与党である民主党は沖縄協定の真相を明らかにする義務と責任がある。
  鳩山政権が揺れている普天間海兵隊基地移転問題や思いやり予算の原点が沖縄
協定にあったのだから。

           (筆者は日本大学国際関係学部・特任教授)

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八つ場ダムは何故中止しなければならないか?     大河原 雅子
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  歴史的な政権交代が現実のものとなり、メディアは連日、鵜の目鷹の目で民主
党マニフェストの実行性を報道している。とりわけ公共事業の見直しは中心的な
政策だが、その象徴たるダム建設の中止がセンセーショナルに、また、少々感情
的に取り上げられているのは残念だ。地元住民と自治体の反発の声と共に、"あ
と一歩で完成だ"と言わんばかりにメディアが決まって映し出すのが、十字架の
葬列のような八ッ場ダム関連事業の一つである県道の橋脚写真だ。

住民の反対運動の激しさから「西の川辺、東の八ッ場」と並び称されてきた両
事業は、今や、走り出したら止まらない無駄な巨大公共事業の代名詞となって
いる。地元住民は苦渋の末に建設を容認し、関連工事に巨額の税金がつぎ込ま
れてきた今、なぜ止めなければならないのか。誰もが"八ッ場"を「や・ん・
ば」と読めるようになった今だからこそ、国民的な議論と合意で公共事業のあ
り方を変えるターニングポイントにしたいと思う。

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●そもそも八ッ場ダム計画とは?
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  八ッ場ダムは、国土交通省が利根川の支流吾妻川の中流部・群前県長野原町に
建設中の総貯水量1億750万立方メートルの多目的ダムで、利根川の洪水調節と首
都圏の水道用水・工業用水の開発を目的としている。建設構想が生れたのは、戦
後間もない1947年に襲来したカスリーン台風が、利根川流域で死者約1100名、行
方不明者約850名、浸水家屋約38万戸という甚大な被害をもたらしたことに起因
する。カスリーン台風級の台風の再来に備えるために、利根川上流に洪水調節ダ
ム群の建設が計画され、その一つとして1952年に八ッ場ダム構想が生れた。しか
し、吾妻川の水質は5寸釘が10日で針金状になるほどの強酸性であることからコ
ンクリートのダムがもたないとされて計画は一度立ち消えとなるが、1964年上流
に中和工場が建設され、1965年ダム計画は復活した。

 470戸が水没する計画に当然ながら強い反対運動が起こり、一時はダム反対期
成同盟委員長が町長になるほどに反対運動は激化。しかしやがて、国や県の切り
崩し工作と運動の長期化で住民は疲弊し、世代交代も手伝ってか1985年に住民は
ダム反対の旗を降ろすに至る。住民は村が離散することなく、ダムの湖畔に造成
される代替地へ集落ごと移転する"現地再建ずり上がり方式"によって"地元に住
み続けられる"こと、ダムと温泉を活用した新たな観光振興に夢を託して、計画
受け入れの苦渋の決断を行った。

 構想が浮上して約40年、1986年に八ッ場ダム基本計画が策定されたが、補償基
準の調印までにはさらに15年を要し、2001年以降やっと個別の補償交渉が始まっ
た。代替地の造成工事の大幅な遅れや代替地の分譲価格が高額だったため、2009
年3月末時点でも、移転対象470戸のうち357戸が地区外へ転出、代替地への移転
は16戸にとどまっている。住民に大きな犠牲を強いるのみで、"地域社会を壊さ
ない"という国や県の約束は、有名無実と化している。

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●すでに建設目的(治水と利水)は破綻している
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  57年かかっても未だ完成を見ないダム計画。1都5県が求めてきた治水・利水の
必要性も緊急性もすでに破綻していることは明らかだ。たとえば治水、洪水対策
の目標になった「200年に一度の雨量」とは、利根川中流の群馬県伊勢原市八斗島(
やったじま)地点で毎秒2万2千トンの水が流れることを前提にしている。だが、
この流量は八ッ場ダムが完成しても、さらに上流に10基以上のダムを造らないと
クリアできない数値であり、基本高水流量の設定値自体が過大なのだ。さらに驚
くのは、八ッ場ダムがカスリーン台風の再来に対して治水効果がないことが、国
土交通省自身の計算からも明らかになっていることだ。利根川の治水対策として
今必要なことは、治水の王道たる河川整備であり、脆弱な堤防の強化対策とダム
予算優先から河川改修予算重視に切り替えることだ。

 また、利水面では、トイレや洗濯機など節水型家電が普及し始め、水道管の漏
水対策も進み、首都圏は水余り状態になっている。保有水源量と給水実績の乖離
は大きく、6都県ともすでに需要に見合う水は確保されているといえる。人口減
少とさらなる節水機器の普及で水需要はさらに減少が見込まれる。関係都県の知
事は渇水時に厳しい取水制限がかけられてしまうとしてダム推進の理由としてい
るが、これまでの渇水時でも利根川からの取水に制限を受けても、家庭への給水
制限は水圧を多少下げる程度で断水には至らず、影響はほとんど無かったといえ
る。地盤沈下を起こさない合理的な地下水利用やさらなる節水技術の普及・向上
で渇水対策は可能であると考えられる。      

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●中止のほうが安上がり! 今なら間に合う国民益!
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  基本計画では2000年に完成するはずだったが2010年へ、また2015年へと2度に
わたって工期が延長され、事業費は当初の2100億円から4600億円へと倍増した。
計画変更の度ごとに、都県がダムへの参加を見直す機会はあったが、独自調査に
は至らず、現地も見ない御用学者を集めておざなりの再評価が行われ、八ッ場ダ
ムは"小さく生んで大きく育てる"公共事業の典型となり、事業費は史上最高額と
なっている。

 さらにダムの建設事業費とは別に、水源地域対策特別措置法による水源地域整
備事業(道路、下水道、簡易水道、学校などの施設整備)として997億円、利根
川荒川水源地域対策基金の事業(ソフト・ハード面の地域振興対策)として当初
案では249億円がついており、合計では5846億円となる。事業費は長期の起債で
行われるから利子を含めた実際の国民の総負担額は9000億円近くになるのだ。

 しかし、それもあくまで予算内に収まった場合の話である。工事は7割がた終
わっているとも言われているが、"建設事業費の7割がすでに使われただけ"で、
工事の進捗率ではないため4600億円で事業費が収まる保障はなく、むしろ事業費
増大の要因は数々ある。ダムの本体工事は県道やJR吾妻線の付け替えを終えて
から取り掛かるため、新駅舎の用地取得も完了していない現状からは工期の再延
長や事業費の再増額は必至だ。代替地は完成しておらず、さらに吾妻川の大半を
取水して発電してきた東京電力に対して発電減少分の補償を行う"減電補償費"や
地すべり対策費などを考慮すれば、ダムを今中止した方が公金支出は確実に減ら
すことができる。

 もちろん一日も早い生活再建を願う地元住民の声は重く受け止めなければなら
ないが、"ここまで事業が進んだのだからダムを完成させなければ無駄になる"と
いう考え方とはすっぱりと決別しなければならない。将来的な長い目でみて、ま
た、国民益という広い視野からも、建設中止は新政権ならではの英断である。
       
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●政・官・業の利権構造を断つために!
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  莫大な事業費がかかるダム事業には、夥しい関連事業とそれを請け負う測量会
社、設計会社、コンサルタント会社、地元の中小の建設会社、県内や大手のゼネ
コンなどが群がり、談合が繰り返される。町議会から県議会まで、ダム関連事業
を受注する土建会社のオーナーや役員が族議員として暗躍する姿も透けて見え、
国土交通省や県の職員が天下りしている会社も多く、公共事業をめぐる利権構造
がすっかり出来上っているのだ。例えば、八ッ場ダム工事事務所の歴代所長は本
省のキャリア組で、所長の後はダム関係法人、そこからダム関係業者へと天下る。
国土交通省から入手した資料からも八ッ場ダム関連事業受注体のうち公益法人
にも、随意契約を行った民間企業にも国土交通省からの天下りが多く存在してい
ることが確認できた。

 そもそも、総理大臣を4人も輩出した群馬県で、なぜ57年間もダムができなか
ったのだろうか。本当に必要なダムならこんなにも時間をかけずにできたはずで
ある。ダム利権は、政・官・業の癒着構造そのものであり、公共事業を地場産業
化してしまった自民党政治の行動原理そのものである。政権交代で利権の輪を断
ち切り、情報公開と公正入札を確保しない限り、無駄なダムや道路はなくならな
い。

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●"コンクリートから人へ" 税金の使い道を変える!  
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  政権奪取を目指してきた民主党にとって、公共事業の見直しは1丁目1番地の政
策である。社会資本整備関連計画を一本化し、国会承認事項とするとともに、再
評価・事後評価の仕組みを盛り込んだ「公共事業コントロール法」の制定や無駄
を省き効率的で地域の実情に合った、本当に必要とされる公共事業のみ推進する
ようにしたい。2000年に鳩山代表は「公共事業を国民の手に取り戻す委員会」を
13人の学識経験者を集めて発足させ、新しい河川政策としての"緑のダム構想"は、
近代河川工法による治水論や利水論の崩壊を指摘。当時の社会資本整備担当だ
った前原NC大臣(現・国土交通大臣)は各PTを立ち上げて、吉野川第10堰、
川辺川ダム、徳山ダム、長良川河口堰、八ッ場ダムについての民主党方針を取
りまとめてきた。

 2005年の総選挙マニフェストには八ッ場ダム中止が明記され、課題とされた中
止後の生活再建・地域再生支援法案の制定については、2008年1月から筆者も参
加した公共事業検討小委員会で、「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関
する特別措置法(仮称)」として第一次案をまとめた。同案では、ダム事業を廃止
した場合の特定地域について公共施設の整備や住民生活の利便性の向上、産業の
振興に寄与する事業など、地域が主体となって必要な再建策を検討し、国がそれ
を支援するスキームをつくることや多くの関係者が参加し議論できる枠組み(地
域協議会)の整備と一括交付金を想定して、地域住民が主役となる再生を目指す
ものとした。前原国土交通大臣は、就任と共に八ッ場ダムと川辺川ダムの建設中
止を宣言、現地入りして地元自治体や地元住民の方々にお詫びするとともに、一
日も早くダムに拠らない生活再建と地域振興のために政府として全力で取り組む
ことを約束している。

 筆者は93年に都議会議員となり、利根川下流域の受益者の立場から、また東京
の地下水を守る立場からも、八ツ場ダムの建設中止を求めてきた。例えば、東京
都は多摩地区で中型ダム一基分の地下水(=約38万トン)を毎日水道用に使いな
がらも、正式な水源とは認めず、過大な水需要予測はそのままにして水余りの現
状に目をつぶっている。

 少子化と超高齢化のなかで、財政を健全化し、貴重な自然環境を将来世代に引
き継いでいくために公共事業の抜本改革は必要不可欠であり、"コンクリートか
ら人へ"を合言葉に、前原大臣は現在事業中の143ダムの見直しを宣言した。さら
に、河川行政における分権を実現することやダム建設の誘導に使われてきた暫定
水利権などの水利権行政の見直しは必須であり、農業用水の転用や水系全体の水
総合管理の考え方にシフトする必要がある。

 下流域の都市住民のために故郷を奪われ、人生進路の変更を余儀なくされた水
没予定地の人々の辛苦を再び繰り返すことのないよう、公共のために犠牲になれ
というより、犠牲をださない公共事業を目指して、新たな公共事業の考え方を打
ち立てるべきだ。八ッ場ダム事業の見直しはその試金石である。だからこそ、八
ッ場ダムは"いらない"そして"作ってはいけない"ダムなのだ、と確信している。

(筆者は民主党参議院議員・党公共事業検討小委員会事務局次長) 

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≪連載≫
■海外論潮短評(30)              初岡 昌一郎 
■臆子妄論                     西村 徹
■農業は死の床か。再生の時か。       濱田 幸生
■宗教・民族から見た同時代世界       荒木 重雄 
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≪連載≫
   ■海外論潮短評(30)         初岡 昌一郎 
     -1989年以後の世界 ― ベルリンの壁崩壊から20年-
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 1989年11月にベルリンの壁が壊されてから20年。共産主義世界の事実
上の消滅がもたらした革命的な変化の影響は、ソ連・東欧圏に留まらず、全世界
に及んだ。これを境に冷戦が消滅し、グローバリゼーションが全面的に展開した。

 ロンドンの『エコノミスト』2009年11月7日号が特集を組んでいるので、
その記事を掻い摘んで紹介する。論文ではないので系統的な掘り下げは不足し
ており、かなりジャーナリスティックな論調に流れているが、興味ある指摘が含
まれている。この特集は、論説と6本の独立した記事から構成されている。署名
入りではないので筆者は特定できないが、それぞれが異なる記者によるものであ
ろう。

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■多くを得て、多くを失う(論説)
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  1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は驚くほど偶発的なものであった。
ハンガリーがその国境を開放するという決定を受け、20万人の東ドイツ国民が
西に既に逃げていた。冷戦の原因であったドイツの東西分割と東欧国民の移動制
限がドラマティックに解体したことは、ほとんどの人にとって一生に一度の大事
件であった。

 その後の20年間、経済的自由が政治的自由よりも先行した。平和的新世界秩
序が期待された、20年前のこうした議論は姿を消した。ナショナリズム、宗教
、"隣人恐怖"から新しい対立が生まれた。民主主義を発展させ、不動のものとす
るよりも、旧ワルシャワ条約諸国の大半、ほとんどのアラブ諸国および中国を含
む、多くの国が抑圧的な恥ずべき専制的政権を継続している。

 対照的に、モノ、カネ、ヒト、思想の自由な移動を意味する、グローバリゼー
ションという奇妙な言葉が、通商においては支配的な原則になっている。それさ
えも普遍的に受け入れられているのではないことは、ドーハ包括貿易交渉の行き
詰まりが物語っている。

 政治的自由が足踏みしたまま、経済的自由だけがかけ離れて先行することはあ
りえまい。そのギャップは、政治が経済の自由を拘束することによって解消され
る可能性も否定できない。また、腐った共産主義に対する西側資本主義の勝利は
有権者を長期にひきつける担保とはならなかった。

 19世紀にグローバリゼーションが大きく進展した時期、比較優位のマジック
は損なわれやすく、残酷なものだとカール・マルクスが指摘した。敗者は集団的
に取り残されるが、勝者はばらばらとなる。そして、豊かなものはより豊かにな
る。グローバル化した市場でのジャックポット(大当たり)は、国内市場におけ
るよりもはるかにに大きい。

 政治は経済の統合にマッチせず、あらゆる政治は徹底的に国内中心だ。現在の
システムのグローバルな保証人はアメリカであるが、その相対的なパワーは継続
的に失われている。

 人間の判断において、傷ついたプライドと排外主義が経済的理性を凌ぐことが
よくある。なぜロシアがそのガスの顧客を脅迫するのか、なぜイギリス人はEU
を悪魔視するのか。理性的に見れば、中国は反日感情を煽らないし、サウジアラ
ビアは海外のイスラム過激派を支援しないだろう。

 グローバリゼーションの政治的欠陥を認識して、是正する方策を講じなければ
ならない。そのためには、何事をも当たり前として受容しないことだ。

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■心の中の壁 ― 過去と未来の葛藤(特集記事)
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 1989年以後、ほとんどの中欧旧共産主義国は比較的上手くやってきたが、
貧しく、問題を起こす国というイメージをまだ拭いきっていない。西欧はその革
命を歓迎したが、東からの無知な大衆が押し寄せるのを恐れている。国外の中東
欧人は屈辱的な処遇を味わっている。彼らの貯蓄は水泡に帰した。西欧人はコー
ヒー代を料金も見ずに払うが、東欧人は倹約のためサンドウィッチを作って出か
ける。

 過去の幽霊はいたるところに見られる。なかには歓迎すべきものもある。長ら
く禁止されていた古い歌がまた放送されているし、公式プロパガンダで悪者扱い
されていた英雄が祝福されている。

 だが、他のゴーストはもっと邪悪なものだ。共産主義以前の中東欧はパラダイ
スではなかった。過去が解凍されると何がこの地域からでてくるだろうか。ハン
ガリーは現在の国境で満足するだろうか。戦後シュレジアとズーデテンから強制
送還されたドイツ人が復権を要求したらどうなるか。この地域はユダヤ人にとっ
て安全となるか、あるいはより危険なところとなるだろうか。

 1989年の窓から中東欧を覗いてみれば、現在は輝く夢物語のようだろう。
自由で法による支配に基づく社会で新しい世代が育っている。経済的破滅と政治
的混乱という心配は根拠がなかった。10ヶ国が険しい断崖をよじ登り、EUに
加盟した。そのほかに、クロアチアとアルバニアがNATOに入った。

 大きな例外がユーゴスラビアである。1989年には、多人種主義と多元性の
一模範と見られており、中央主権的計画化社会主義と厳しい競争の資本主義世界
の中間に位置していた。この10年間、人種主義的民族主義的な武装民兵が古い
恨みを血の報復に転化させ、悪逆非道の限りを尽くしたのを外部世界は阻止でき
なかった。専制的な政治家たちが邪魔とみなした者たちを非人間的に粛清し、ボ
スニア、クロアチアおよびコソボで14万人が死んだ。ナチ時代の悪夢はそれを
上回っていたが、戦前の中東欧で見られたいかなる紛争よりもはるかに酷いもの
であった。

 経済的成果は驚嘆すべきものである。1989年末、この地域が向こう数十年
は貧困に沈んだままだと予測するのは容易であった。市場経済を知っていたのは
60歳以上の人だけであった。何十年にもわたる公式プロパガンダは資本主義を
人間共食いのようなものと攻撃してきた。産業は国営で、党の配置した人によっ
て握られていた。経営とはコストや顧客、競争を無視して、資源を漁り、それを
隠匿することであった。ポーランドの自由選挙で選ばれた初代大統領、レフ・ワ
レサが述べたように、水槽の魚でスープを作るのは容易だが、その逆はうまく行
かないと見られた。

 自由な価格、自由な交換レート、自由な貿易、自由な労働市場、民営化が大成
功を収めた。貧弱な電話網、ガタガタな道路、気難しい役人に当初は妨げられて
いた外国投資家が次第に拍車をかけて、経営上技術上の移転を大掛かりに行なっ
た。EU加盟が改革を条件としたので、改革と近代化のために巨額なユーロが注
ぎ込まれた。かつては地雷によって封鎖されていた国境は地図の上の線に過ぎな
くなり、いまはバルト海から地中海までパスポートを見せることなく自動車を運
転できる。1989年よりも水と空気はきれいになり、運輸交通は迅速かつ安全
になった。

 最大の失望は、旧体制エリートが権力と富を引き続き握っていることだ。自分
が説いてきた社会主義よりも、嘲ってきた資本主義をより上手く運営する能力を
彼らは立証した。党幹部と秘密警察の取り巻きはドサクサに紛れて簒奪した資金
を海外に持ち出すのに成功し、1990年代の混乱期に資産を安価に購入するの
に利用した。

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■ゴルバチョフと壁の崩壊 ― 自分の目を信じた男
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 ベルリンの壁撤去はロシアでは大ニュースでも、サプライズでもなかった。ミ
ハイル・ゴルバチョフが1985年に権力を掌握した時に始まったプロセスの論
理的帰結であった。1989年には、ペレストロイカが絶頂期にあった。禁止さ
れていた映画や書物が知的空間に溢れ、物理的空間も開放されて、ロシア人が西
欧に旅行し始めた。

 東欧のビロード革命を阻止するために戦車を派遣することは想定外であった。
1985年に早くもゴルバチョフは、内政に干渉しないと東欧の指導者に告げて
いた。ソ連の兵隊と援助がなくなると彼らの運命も尽きることを知っていたので、
東欧の幹部たちはこれを国民には知らせなかった。

 南部ロシアの農村におけるゴルバチョフの戦前の子ども時代が彼の感受性を培
った。彼の祖父は二人ともスターリンの粛清の犠牲者であった。一人は集団化を
拒否して、1934年にシベリアに送られた。もう一人は新農業政策を受け入れ
たが、1937年に"人民の敵"として逮捕された。彼は釈放されたが、拷問の記
憶とロシアの最も肥沃な地帯で集団化によって惹起された飢饉についての家族の
物語は、ゴルバチョフの一生を左右した。

 彼の祖父の家では、スターリン・レーニンの著作や肖像とロシア正教のイコン
が平和的に共存していた。独裁者が死ぬまで、彼はスターリンの役割に疑問を抱
かなかった。ゴルバチョフの政治的キャリアは、1956年のニキータ・フルシ
チョフによるスターリン個人崇拝批判と非スターリン化と共に始まった。

 多くの面で彼のペレストロイカは、1968年の未完に終わった"プラハの春"
の遅まきの達成であった。彼の功績は偉大な知的貢献というよりも、モスクワの
庶民の台所で語られてきたことを公然と発声したことである。つまり、西側の人
たちはソ連よりもよい生活をしていること、ソ連の経済は行き詰まり、このまま
では持たないことを認めた。これは常識であったが、公然と述べることは現状打
破に他ならなかった。

 ゴルバチョフは異端分子でも、革命家でもなかった。ソ連の解体は彼の意図し
たところではなかった。彼は民主主義と社会主義は相互補完的だと考えており、
その改革は革新による体制擁護を図ろうとするものであった。東欧を解放したの
は、彼の社会主義、人間的の本性および体制の正当性についての信念であった。

 このことは彼にとって価値観の問題であり、今日のロシアの指導者が考ええて
いるような地政学的政治からくる判断ではなかった。彼は国外からの脅威という
脅迫観念に取り付かれておらず、ベルリンの壁の背後に隠れる必要がなかった。
しかし、現在ロシアの学校で教えられているのは今日の指導者の見方で、ゴルバ
チョフはなんらの見かえりなしにロシアの「安全保障地帯」を放棄した。彼らは
"同じ誤り"を繰り返さない決意だ。

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■ソ連崩壊後 ― 塗り替えられた世界秩序
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 プーチン首相(過去の、そしておそらく将来の大統領)にとって、ベルリン
の壁崩壊2年後にくるソ連の解体は、20世紀"最大の地政学的破滅"であっ
た。ポストソ連初期の壊滅的インフレと通貨変動によってロシア人は酷い犠牲
を払った。しかし、ロシア国外では20世紀最後の帝国消滅を嘆いたものはほ
とんどいなかった。

 ロシア人はそれよりも過酷な時代を生きてきた。第一次世界大戦がボルシェビ
キに権力を獲得させたが、その後のスターリン時代には何百万人もが餓死した。
それに比較すると、冷戦の終結はそれほど破滅的なものではなかった。

 1945年以降のソ連と西側の核の手詰まりは危険な安定をもたらしたが、朝
鮮とベトナムからアンゴラ、中米、アフガニスタンにいたる代理戦争を生み出し
た。体制に依存していたものを除き、ソ連崩壊を悼む声はほとんどなかった。そ
れにしても、なぜあのように崩壊が急激に進行したのだろうか。

 その功績をレーガンの"スター・ウオー"という夢の計画に求め、ソ連が経済的
に疲弊して軍拡競争に敗れたからとみるものもいる。だが、ソ連はロケットを増
産するだけでそれに対抗できたし、何よりもそのような防衛システムは建設され
なかった。多くの面からみて、アメリカが冷戦に勝ったというよりも、ソ連が自
分で躓き負けたのだ。

 軍事力をさておくと、他のあらゆる面でソ連の力量は空洞化していた。中央集
権的計画化は、鉄鋼やセメント、あるいはタンクやロケットの生産量で測る限り
うまくいっていた。しかし、インセンティブが作用しないので、誰もがほしいと
思わない商品を消費者向けに製造していた。無駄な製品に資源を浪費することを
永続できなかった。他方で,品不足が犯罪的な闇市場を繁栄させ、それは実態経
済の30%以上にも上ると推定されていた。

 冷戦後、唯一の超大国として残ったアメリカは、単独の覇権国として生き残っ
たのだろうか。1990年代以後の歴代米政権による、ソマリア、ルワンダ、北
朝鮮、イラク、アルカイダなどにたいする政策の右往左往振りを見ると、新世界
秩序ではなく、混乱と無秩序が目立つ。後知恵だが、混乱の多極化は当時から既
に始まっていたのだ。

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■共産主義崩壊にたいする中国の対応 
― ケ小平はいかに最悪の事態を乗り切ったか
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 1989年10月当時、人民日報は「東ドイツ人民は党の指導下に今や団結を
固めている」と伝えていた。その後一ヶ月足らずでベルリンの壁が崩れた。その
年の6月に、中国は天安門広場で青年学生の民主化要求を武力で封じたばかりだ
った。その後のソ連圏崩壊にはほとんど積極的に発言せず、中国の公式メディア
はこのテーマをほとんど取り上げなかった。

 しかし、中国共産党は東欧とソ連における共産主義崩壊の原因を究明するのに
精力を注いだ。当初のショックが過ぎると、党は東欧の新生民主主義諸国と迅速
に絆を回復しただけでなく、前者の轍を踏まない戦略を追及した。中国の指導者
達に嵐を乗り切る舵をとらせたのは、冷静な判断を訴えた85歳のケ小平であっ
た。1989年9月、彼は「冷静に、冷静に、また冷静に」と述べ、経済改革に
専念することを命じた。中国がイデオロギー論争に巻き込まれず、経済建設に邁
進したことが党を救った。

 共産主義崩壊の原因として、教条的なドグマを持ち化石化した政党国家、随所
に根を張ったエリートの権益、眠り込んだ党組織、停滞した経済が崩壊のシナリ
オを用意した、と中国は総括したようだ。

 今日の中国では、万里の長城に代わる"ファイア・ウオール"によって情報がブ
ロックされているといわれる。しかし、中国のメディア統制はベルリンの壁時代
のように厳しいものではない。今年10月30日付け『南方週末』は、ベルリン
の壁を記念する19ページの特集を組み、「自由を愛するものは、相互交流を妨
げ、制限する壁を壊さずにはいられない」と書いている。他の論文では、ドイツ
が今日直面している困難が如何に大きくとも「ベルリンの壁崩壊以前の時代に帰
ることを希望するものはほとんどいない」とのべている。

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■コメント
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 回想すると、20年前の1989年は、事件に満ち満ちた年であった。日本で
は年明けに昭和天皇がなくなり、平成に年号が変わった。

 評者はその年の4月から大学で授業を始めたのだが、その前からのILOにお
ける仕事をまだ続けており、6月にはILO総会に出ていた。その月初めには天
安門事件が起き、ジュネーブでの総会に出席中の中国代表団に動揺が走り、欧米
の代表団が激しく反応する渦中にいた。旬日を置かずして、ポーランドでは連帯
が総選挙で勝利し、政権に就くことが確実になった。ILO総会に出席していた
各国代表団、特に労働グループの興奮は記憶にはっきりと残っている。

 長年、ILOで激しい論争の的となっていたソ連東欧圏における結社の自由問
題が事実上の決着を見た年であった。いつもは、結社の自由をブルジョア的な価
値として批判し、労働者の団結を壊すために西側がおしつけようとする道具であ
ると攻撃してきたソ連政府代表が、「国際法を国内法の上に置く」と国際批判を
間接的に受容した発言をしたことが記憶に鮮明に残っている。

 国際労動運動の面から見ると、それ以前に既に共産系の世界労連から中国は除
籍されていたし、イタリア労働総同盟は自ら脱退していた。イタリアの先鞭に続
き、西欧の共産系労働組合は続々と欧州労連に入り、国際的には過去において敵
対していた国際自由労連に接近した。世界労連が20世紀末までには事実上消滅
していたので、国際労動組合の大同団結によって国際労連(IFTU)が3年前
に結成された。ロシア革命以後組織的に分裂してきた国際労動運動が、ソ連の消
滅によってイデオロギー的な対立を解消し、統一の道が開けた。新国際労動組合
組織には、ヨーロッパの組合はもとより、アメリカAFL・CIOや連合も入っ
ているが、ずば抜けて最大の加盟組合がロシア労組評議会であるのを見ると隔世
の感を抱かざるを得ない。この枠組みの外にある唯一の大組織は、中華全国総工
会である。

 国際労働運動の形式的組織的統一にもかかわらず、あらゆる国の政府と同じよ
うに、労働組合がいまだに国内中心の組織であることに基本的な変化は無い。未
来の姿が、未来を先導する組織(企業を含め)のなかに現れるとすれば、それを
よりよく体現するのは、政労使のいずれか、あるいは市民社会なのであろうか。
グローバルなガバナンスの無いグローバリゼーションがまだまだ続く世界の展望
に慄然とせざるを得ない。

 最後に付け加えておくと、12月10日の朝日新聞と日経新聞朝刊の報道によ
れば、批判的論調で知られる『南方週末』紙編集長が11月19日付けで解任さ
れていた。香港の『朗報』は、オバマ大統領との単独インタビューをその解任理
由として推測しているが、むしろここに紹介された記事が同紙に載った直後なの
で、べルリンの壁特集号の所為かも知れず、複合的な理由によるものかもしれな
い。中国で新聞雑誌の編集者が、このように解任されるのは稀なことではない。
しかし、それが逮捕や拘留にまで至ることは昨今稀で、彼らが他の言論報道機関
によって活動を再開することがしばしばあり、モグラたたき的な様相を呈してい
る。

              (筆者はソシアルアジア研究会代表)

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≪連載≫
   ■臆子妄論        西村 徹
   -歳末偶感:「自殺はダメ」か?「耐えられない苦しみはない」か? -
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  ふとテレビを見ると、作家・僧侶 瀬戸内寂聴という人が徳島の母校で三日間
の課外授業を行って生徒と話しているところを映していた。伝統のある名門校ら
しく、茶髪とかピアスとかは一人もいない清潔な感じの生徒ばかりのようだった。
「自分だけでなくみんなが幸せになるように」というようなお話だった。人間
は三日も続けて話せば話の中のあっちとこっちが矛盾するようなことは珍しくな
い。その矛盾がなんであったかを私は忘れたが、一人の女子生徒が寂聴講話の中
にそうしたところがあるのを指摘した。よくよく聡明な生徒たちの学校らしい。
さらにその生徒は「自殺は何故いけない?」と訊いた。即座に寂聴さんは言った。
「自殺はダメ。いのちは頂いたものだから」と。

 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。宗教者ならそう言わざるをえ
ないだろう。そう思う人、そう思いたい人にはそれでよかろう。とかく死に急ぎ
しやすい傾向の若者に対してはとりあえずそんなところでよいだろう。さりとて、
そう思わない人のいることまで打ち消してしまうことはできないだろう。そう
思わない人は決して少なくない。むしろだんだん増えているらしい。こういう答
えはそう思う人に通用するだけで、そう思わない人には通用しないだろう。実朝
の歌にもある。「神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは」。だか
らいかようにも言うだけは言える。

 続けて「耐えられない苦しみはない。どんな苦しみも耐えられるように神様は
作ってくだすっている」とも言った。ほんとうにそうだろうか。どうもそのまま
信用はできない。「頂いた」というのと平仄は合うが、これは「頂いた」説以上
に信用できない。ちょっと聞くとちょっと気が利いていて俗耳に入りやすいが「
頂いた」説ほど陳腐でない分、いっそう眉唾に思う。嘘も方便ともいう。嘘は嘘
でも善意から出た白い嘘だろうことは疑いない。こういうときは訊かれた側も苦
しいときの神頼みになってもやむををえまい。

 それにしても年間3万人以上の自殺者があるという現実を見ると,やはり「耐
えられない苦しみはない」とは到底思えない。耐えられるのに辛抱が足りなくて
3万人が死んだのだろうか。なかにはなるほど、もう少しなんとかすればと思え
るような場合もある。とくに若い人のなかにはせっかちに死に急いでしまう場合
もある。カッコいいからといって死んでしまう場合さえある。しかし成人の場合
それは少ない。ほとんどない。

 人は長ずるにつれて、大抵次第に臆病になる。死んだ人をうらやんだり、だか
ら死にたいと思ったり、少なくとも自分をやめたいと思ったりすることはある。
それでも、とても実際に死ぬ勇気はなくて、存在の憂鬱というか人生の徒労感を
拭えぬままに、ただおめおめと生きている。功成り名を遂げた人でも結局は変わ
るまい。達成感の大きいぶん落差は大きくて、最期に老残の弧愁は深いというこ
とさえありうる。さて自殺するにはそれ相当の苦痛を覚悟しなければならぬ。覚
悟だけではだめで、さらに相当のエネルギーが要る。よほど勤勉でないとその負
担には耐えられない。あえて面倒をいとわず、それでも死ぬのだから、自殺とい
うのは「堪へ難キヲ堪へ」た挙句のことにちがいない。

 3万人のうち相当数は経済苦自殺だという。借金などを背負いきれずに追い詰
められて首を吊ったり鉄道線路に飛び込んだりするほかなくなった人たちである。
そういう負け組は辛抱が足りなかったのだろうか。男の自殺は女の2倍以上だ。
男は女より辛抱が足りないわけでもなくて男が所帯主というばあいが多いから
だろう。肉体上の苦痛に耐えられなくなって自殺した知人が二人いる。一人は男
で一人は女だ。舅の介護を十一年続けて、ようやく見送った挙句に、介護の重荷
から解放された途端に自殺してしまった人がいた。十一年間張り詰めていた心の
糸が急にぷっつり切れたのだった。

 心の痛みがもとで身を投げたが失敗した人もいる。その人は、たとえ今は身障
者になっていても、失敗してくれてよかったと、知人として、ほとんど身勝手に
そう思うが、本人はどう思っているかはわからない。これについても「耐えられ
ない苦しみはない」などとはとても思えない。マタニティーブルーで自殺した人
も何人か知っている。路上の男に斬りつけられて、いまは毎日4度モルヒネを飲
んで下半身の痛みに耐えている人のことが11月23日の朝日新聞に出ていた。

 米軍兵士の自殺率は最悪の状態だという。11月5日、軍医が銃乱射事件を起
こした。その軍医は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など精神的な疾患を
抱える米兵のカウンセリングを担当していたという。ミイラとりがミイラになっ
たわけだ。耐え難い痛みがあるからこそ医学は痛みとの戦いで奮闘している。だ
からこそ釈迦は、この世は苦だといった。

 朝日新聞(大阪版)11月20日夕刊に「記者の視点・うつ病対策」(岡崎明
子記者)という一文が出ていた。それによると、一生のうち15人に1人がうつ
病にかかるという。東アジア人は約80パーセントがうつ病になりやすい遺伝子
を持っているが、欧米では遺伝子保持率が40パーセントにすぎないという。「
いのちは頂いたもの」というのなら、「自殺もまた頂いたもの」、「神様は一定
の率で自殺者が出るように作ってくだすっている」ということになるのではない
か。「人の心のほか」なる神様が、あるとしたらそういうことになる。

 昔やはりテレビかなにかで「なぜ人を殺してはいけないのか」と少年が訊いて、
まわりの大人はほとんど答えられなかったという話を聞いた。なぜ答えられな
かったのか不思議だった。いのちだろうがなんだろうが、他人のものを奪うのは
いけないにきまっている。いのちを奪うのは持ち物だけでなくて持ち主そのもの
まで根こそぎ奪うのだからなによりいけないにきまっている。素朴に考えてそう
なる。なぜ評論家先生たちがたじろいだのか不思議だった。素朴に考えたらすぐ
さまわかることなのに、生命の尊厳とか空念仏だけ唱えているから単純なことを
見失うのだろう。

 あるいは、この少年の問いには、前提として、他の生物の生命を奪うことによ
ってしか生物は自分の生命を維持できないという、不条理とも理不尽とも、いっ
そ業と言ってしまったほうが手っ取り早いような、やりきれない現実認識が意識
の底に潜んでいるのかもしれない。他の類の生物なら殺してもよくて、なぜ人類
だけを生物一般から除外するのか。単純に論理の整合性だけを追及すれば、そう
いう問いは成り立つ。しかし通常、人を食料にするために殺すことはありえない。
そのようなリアリティーのないことを考えるのは空理空論であり、無意味であ
るとういことで片付く。

 自殺となると、そう簡単に、いけないと言えない。いけないと言うとどうして
もしらじらしいお節介になる。他人のものを奪うわけではない。自殺は自己決定
権の行使だから干渉しにくい。酒やタバコのように法的に年齢制限があるわけで
はない。「いのちは頂いたもの」だと本気で思っている人ならば、「もともと自
分のものではないから勝手に処分できない」といえばいいだろう。しかし、いの
ちなど頂きたいと、わざわざ頼んだわけではないのだと思っていて、神様が自分
のいのちの持ち主だとは思わない人には、「いけない」とは簡単に言えないだろ
う。

 「いけないかどうか分らないけれど、あとで死ななきゃよかったと思っても取
り返しがつかないから、まあ止めておいたら」ぐらいしか言いようがない。死刑
に反対する理由と似ている。まちがったと分った場合、自殺にせよ死刑にせよ後
からでは取り返しがつかないからだ。死刑には、殺人はいけないといいながら、
いけない殺人を国家がおかすという矛盾もあるが自殺にはそれすらない。

 自然は美しい。こんなに美しいのだから、神様というようなものが自然を創っ
たのだと考えたくなるのも当然だ。見たいものだけ見ているのならそれですむ。
しかし自然は美しいと同時に残酷だ。自然の中の生物世界を見ているとじつに残
酷だ。私はテレビで風景を見ることを好むが、野生動物などを映したものは言う
に及ばず「さわやか自然百景」などでさえ小鳥がしばしば天敵の犠牲になる場面
が映される。海ならばDeep Blueという番組ではシャチがアシカや鯨を襲う血も
凍るような場面がある。「ワイルドライフ」などで映されるのは、稀に気休めほ
どの共生の場面もなくはないが、圧倒的に多くは弱肉強食のエゲツナイ場面であ
る。それを見たときの戸惑いは、わいせつなものを見たときの戸惑いに似ている。

 しかし、動物の交尾には、わいせつ感はない。むしろ鳥の求愛ダンスなど睦ま
じさのほうが際立つ。ただ、動物の交尾にも、わいせつはないが残酷はある。昆
虫ではセアカゴケグモのように交尾のあとでオスがメスに共食される場合も少な
くない。なんといっても人間がずば抜けて残酷で、そのうえにわいせつである。
わいせつは人間に固有なのかもしれない。わいせつは人工的なものだ。演出によ
って異常に刺激を増幅したりするのは人間だけである。自然は美と残酷の、紛ら
わしく綯い交ぜの織物である。人間は美しくて醜くて残酷でわいせつだ。「頂い
たもの」という以上は、そういうカラクリのすべてを含めてそのようにいうべき
である。

[付記] 今回で連載を終わらせていただきます。また折にふれて投稿させていた
だくこともあるかと思いますが、「臆志妄論」というタイトルはやめます。Oxym
oronを漢字にしただけのつもりが、なんだか人まねのように思われたりするらし
いからです。また、たしかに漢字はいかにも響きが大袈裟です。駄文をお読みく
ださった方々にお礼申し上げます。長いあいだありがとうございました。

            (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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≪連載≫
農業は死の床か。再生の時か。 濱田 幸生
   民主党の有機農業支援潰しを許さない!
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 民主党は自民党より悪い、これが私の住む行方地域の有機農業者の判断です。
先日の行政刷新会議と称する民主党政権によって、私たちが進めてきた有機農業
支援事業は一瞬にして葬り去られました。

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■一瞬にして、なんの議論もなく、なんの資格を持つかわからない人々によって
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 「事業仕分けは、今まで密室でされていた予算編成を、国民に見える場所にひ
きずり出した。無駄を省いたのは大きく評価できる。しかし、有機農業まで削る
となると、ミスもあるのだろうと驚いた」。おおよその国民の意見の最大公約数
もこんなところでしょうか。 私は違和感を覚えています。それは単に今回たま
たま、「仕分けされる側」になってしまったからではないようです。

 この事業仕分けは、不況にくさくさしている国民にとって痛快な同時進行の政
治ショーでなかったのかと思います。裁判官と検事を兼ねた女性議員が弁護人ぬ
きで、ペンを突きつけながら早口で悪である官僚をやっつける。口ごもると、す
かさず、次の質問。答えようとすると容赦なく、言葉を被せる、話の腰を折る。
  そしてなんと「あなたがしゃべる場ではないのです」という言葉すら襲いかか
る。まさにサディスティックな場でした。
  このような空気の中で、私たち有機農業者が、30年の歴史の中で初めて国家
から得た支援法は、「無駄」としてゴミ畠に投げ捨てられたのです。そしてあっ
けないほどの短時間で終了し、「はい、要りませんね。廃止!」

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■醜悪な政治ショー
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  このような政治ショーは、今まで私の記憶にもありません。私には日本がまっ
たく別の国になってしまった悪夢のような気さえします。まるで古代ローマの五
賢帝時代が終わり、暗愚の皇帝コモドウスがしたという「パンとサーカス」の政
治のようです。コロッセオに甘いパンを籠にたくさん盛った美しい乙女が現れま
す。そして大観衆にパンを撒きながら、そして始まるのです、血なまぐさいショ
ーが。この「パンとサーカス」によって、古代ローマの愚民化政治はただならぬ
ところまで進みました。市民は、かつてのような共和制を思い出すことなく、政
治的に頽廃し、古代ローマは衰退への坂を転がり落ちていくのでした。

 「パン」を子供手当て、農家個別所得補償、高速道路無料化に読み替えてみれ
ば、「サーカス」とは何なのか、申し上げなくても、わかって頂けると思います。
私には、ここで仕分けられた事業のひとつひとつについて、知る立場にはあり
ません。ですから、私が今ここで問いたいのは、個々の事業の仕分け結果ではな
く、その「やり方」なのです。「切る」・「廃止する」という場面のみが国民に
強調されて、「なぜ」、「なにを」、「今後どうしていくのか」、あるいは「な
にが大事なのか」という議論がまったく不在のまま、鳩山首相は公開された国民
監視のもとの政治が行われた、これこそが民主主義なのだ、と言いきってしまい
ました。

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■目隠しをされた国民
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  国民はその場を共有しているようですが、実は大事なことは何も知らされてい
ません。有機農業支援事業が廃止となったことなど、100人の国民のうち1人
でも知らされていますか?モデルタウン事業が一律に廃止になりましたが、その
中で環境関係が多く含まれていることを知っている人が何人いますか?いや、事
業仕分けの中に入っていたことすら知っていましたか?

 ましてそしてその廃止理由が、単なる「効率的ではない」ということだと、何
人の国民が知りえたでしょうか。「効率」という経営的な裁断で、有機農業支援
という未来への投資が打ち切られたことを、誰が知っているのでしょうか。私た
ち国民は、ほんとうは、目隠しをされたままま観客席に連なる「客」にすぎない
のです。手には何の資料もなく、闘技場をテレビやネットで観覧することのみし
か許されない「客」にすぎないのです。私たちは、・・・この有機農業者である
私も含めて、事業仕分人の大袈裟なショーに、歓声を上げることしか許されない
ただの見物人なのです。
 
国民は、その手続きも、選ばれた理由すらあきらかでない仕分請け負い人をた
だ「見る」ことだけで、民主主義がなされたと思い込まされてしまったのです。
公開というトリックにだまされたのです。もしそんなに「公開」が素晴らしいの
なら、公開処刑も「密室で今までされていた死刑が、公開されて素晴らしいです
ね」と言うのでしょうか。

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■大事なことは農業の未来を語り合う場をつくることではないのか
--------------------------------------------------------

 ほんとうに重要なことは、たとえば私たちの有機農業支援事業ならば、目先の
効率ではなく、将来の日本の農業や環境を日本がどうしていくのか、国としてど
う考えていくのか、どのような政策を持つべきなのか、そここそを明らかにせね
ばならなかったはずです。少なくとも国が主催する事業ならば、それが大前提な
はずでした。
そのような議論が一切ないところで、効率とコストのみで仕分けすることを、国
民が「監視している」という理由で、それを「民主主義」と呼ぶならば、どこか
大きなところで踏み外していると私には思えてなりません

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■■■仙谷行政刷新大臣への13の公開質問状■■■
-------------------------------------------------------------
  以下は私が仙谷行政刷新大臣に提出した公開質問状です。今に至るも返答はあ
りません。

■公開質問状■
拝啓 仙谷大臣殿

終了した事業仕分けについていくつかご質問いたします。私は、今回の事業仕分
けにおいて「廃止」を宣告された有機農業モデルタウン事業を受託した有機農業
団体の者です。

■さて、第1の質問ですが、この仕分け事業は、仙谷行政刷新大臣の指揮下にあ
る、「行政刷新会議」の、「事業仕分け」という名称の作業と理解しております。
この事業仕分けは民間事業ではありえない以上、これは政府事業ということに
なりますでしょうか?

■第2の質問ですが、この事業種分け主体である「行政刷新会議」についてお聞
きします。この組織は、いかなる国の最高議決機関たる国会の手続き、承認を経
て作られたものなのでしょうか?

■第3の質問です。国家予算を「廃止」、「縮減」に仕分けるということは、国
と国民、企業、あるいは地方自治体との予算に基づいた契約を一方的に国の側か
ら破棄、あるいは、変更することを意味すると思われますが、いかがでしょうか?

■第4の質問です。その、国の側からの一方的な契約の破棄、ないしは変更とは、
国権の発動そのもののだと思われますが、いかがお考えでしょうか。

■第5の質問です。この国権の発動たる国と国民、あるいは企業、地方自治体と
の契約を一方的に廃棄する権限を、国会の承認に拠らない「行政刷新会議」と称
する任意団体に付与したと解釈してよろしいのでしょうか。

■第6の質問です。このような国権の発動たる権限の付与を、誰が、いつ、どの
ような権限において発令したのでしょうか。その根拠をお教えください。またそ
れに関する文書名、その根拠たる法律、法令名、責任者名を開示ください。

■第7の質問です。このような「行政刷新会議」を法的に根拠づける法律、法令
がないならば、この「事業刷新会議」は、仙谷大臣の私的諮問機関であると解釈
することになりますが、その解釈でよろしいのでしょうか。

■第8の質問です。「行政刷新会議」が大臣の私的諮問機関であるならば、この
ような私的諮問機関が出した結論は、いかなる法的拘束力を持つのかお教えくだ
さい。

■第9の質問です。この「行政政刷新会議」は、「事業仕分けワーキング・グル
ープ」と称する一群の集団が完全に支配しておりますが、この仕分人はいかなる
基準をもって選抜したのでしょうか?それがいかなる理由に基づいた人選である
のかの基準、及びそれを選抜した責任者名を開示ください。

■第10の質問です。この人選についてお伺いします。今回の有機農業モデル事
業仕分けに際して、有機農業について知見をもった農業専門家が存在しません。
有機農業推進法に基づいて、既に「有機農業推進会議」という枠組みが作られて
おります。この生産と流通、消費まで網羅した枠組みをなぜ利用されず、まった
く別の人選をなさったのでしょうか。その理由をお聞かせください。

■第11の質問です。今回の有機農業モデルタウン事業は、既に受託して2年に
なろうとしております。この段階で廃止を受けると、地域との関係などで多大な
被害を被ります。このような関係諸方面ぬきでの拙速な作業は、一方的かつ不当
なものだと思います。なぜ受託者代表を仕分けの場に招致しなかったのでしょう
か。

■第12の質問です。最大の疑問は、「廃止」の理由づけです。「新規性に乏し
い事業を含んでいるので、波及効果の高いものに絞って、画期的なモデルのみを
支援すべきである」とのことですが、あまりにも短いので私には理解しかねます
。有機農業モデルタウン事業も40数カ所に及びますが、そのどこが「新規性に
欠ける」のかお教えください。

■第13の質問です。前項を受けての最後の質問です。ならば「波及効果のある」
有機農業モデルタウン事業とはいかなるものなのか、「廃止」を宣告した責任
者としてご教示ください。以上、よろしくご返答いただきたく思います。
                                 敬具 

               茨城県行方市在住 農業者 濱田幸生 

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■■■赤松農林水産大臣への要望書■■■
--------------------------------------
                        平成21年12月2日
農林水産大臣 赤松 広隆 殿
                              

      有機農業推進政策支援の継続を強く要望します
  11月24日の行政刷新会議の「事業仕分け」において、有機農業モデルタウン事
業に「廃止」の判断が下されたことに、たいへん驚いております。
  ご承知のように、この事業は2006年に制定された有機農業推進法にもとづき20
08年度から開始された「有機農業総合支援対策」の中核的事業であり、全国約50
ヶ所でおおよそ5年間の活動計画のもとに活発な取り組みが進んでおります。
 
  有機農業推進法は、国内有機農業の推進を目的に貴連盟が中心となり超党派の
議員立法で、衆参両院にて全会一致で成立した法律であり、同法の施行には、広
く国民の支持と期待が寄せられています。
  したがいまして、同法の趣旨をもっともよく体現し、かつ、有効な施策である
有機農業モデルタウン事業が廃止されることは、有機農業推進政策の趣旨に反す
るものと言わざるを得ない事態です。
 
「事業仕分け」を受け、これから具体的な予算編成が開始されますが、私たちは、
上述のような有機農業推進政策に逆行する予算編成は到底承服できるものでは
ありません。もしこれを許せば、モデルタウン事業をすすめる地域では、おおよ
そ5年の時間をかけた有機農業の普及・定着化の展望を切断されることになり、
全国的な有機農業推進政策にとって大きなダメージを受けること必至であると断
言できます。
  貴職におかれましては、有機農業のさらなる推進をめざし、モデルタウン事業
の継続・展開が可能となるよう、ぜひ、予算編成にかかる政府関係者、関係当局
へ積極的にご提案いただきますよう、ご尽力たまわりますよう、強く要望申し上
げます。
                   以上、よろしくお願い申し上げます。
    なめがた有機農業推進協議会

--------------------------------------------------------
■■有機農業支援存続のためにお力をお貸しください!■■
--------------------------------------------------------
  以上の文書を、民主党幹事長室、農水大臣、有機農業推進議員連盟等の関係諸
方面に送付いたしました。ご協力を賜りました皆様に心から感謝いたします。
  状況は予断を許しません。鳩山首相は、この事業仕分けを受けての予算復活は
基本的にない、復活するとすれば国民に説明責任があると言っています。むしろ、
ご自分の巨額の不正な政治資金疑惑に対して説明責任をとられたほうがよろしい
のではないでしょうか。
  各方面で不条理な廃止に対して怒りの行動が起きておりますが、国民の8割ま
でもが喝采を上げている状況下での苦戦は免れません。

 おそらく、国民は内容的にはまったく無理解なまま事業仕分けの「悪代官懲ら
しめショー」に拍手しているのではないかと思われます。したがって、国民の支
持なくしては、有機農業支援は断ち切られてしまうことでしょう。私たちは微力
ではありますが、この圧倒的な有機農業に対する逆風に抗して戦う所存です。
しばし、お力をお貸しください!

           (筆者は茨城県在住・農業者)

                                                     目次へ
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≪連載≫
   ■宗教・民族から見た同時代世界    荒木 重雄
   〜オルタナティヴな開発をめざすタイの仏教僧〜
───────────────────────────────────
 タイはミャンマー、スリランカなどとともに上座部仏教圏である。小乗仏教と
もよばれる上座部仏教は、大乗仏教が一切衆生の救済をめざす菩薩行を旨とする
のに対して、出家者が自らの悟りを求めて戒律を守り修行に勤しむ自己救済的な
宗教と理解されがちである。ところが、1980年代から、タイ東北部農村を中心に、
仏法に基づいて地域の開発や農民の生活向上に取り組む僧たちが現れてきた。
これを「開発僧」という。

------------------------
◇◇農村の荒廃に心の開発
------------------------ 
  彼ら開発僧が活躍している東北部とは、もともと地味の悪い乾燥地帯であるう
え、森林伐採がすすんで、いっそう耕作条件が悪化した地域である。劣悪な土地
でそれでも生産をつづけるためには、化学肥料を大量に投入するしかなく、農民
たちは借金をして高価な肥料を買い求める。ところが、この地方の気候は不安定
で、しばしば旱魃に見舞われ、作物は実らず、借金だけが残ったりする。農民は
借金の返済と生活費を賄うために都市に出稼ぎにでて、建設労働や日雇い労働に
つく。子どもを児童労働に出したり、娘を少女売春に売る農家も少なくない。こ
のような借金地獄と家族の崩壊から、村人の精神的荒廃がすすみ、酒や賭博に逃
避する者たちが増えてきた。こうした村人の状況をみるにみかねて、日頃から村
人の尊敬と信頼を集めている仏教僧の一部が、農村開発に取り組みはじめたので
ある。

 タイの仏教では、僧は、生活の糧を人々の布施で得ながら、もっぱら修行に勤
しむものとされている。俗界の人たちは、僧に布施をすることで徳を積むことが
でき、そのことによって来世の安楽が保証されると信じている。村人たちは自分
たちの食べ物がなくても、借金をしてまで、僧の托鉢に応え、寺への寄進を欠か
さない。そうした村人たちの真心に、僧たちは、来世のことだけでなく現世のこ
とでも報いたいと考えたのである。

 開発僧たちは、村人の状況から、物質面の開発より精神面の開発が先であると
考えた。村人が、欲望や悪習に囚われている自分たちの姿や、自分たちが直面し
ている問題について、正しく理解し、精神面で向上することができるならば、村
人自身で問題の解決が図れるはずだとの考えからである。
そこで僧たちはまず、村人に「瞑想止観」の修行法を教えることからはじめ
た。
瞑想止観の「止」とは煩悩・欲望を消し去ることを意味し、「観」とは「止」
によって得た正しい智慧で対象を観ることをさす。15日間にわたる座禅・瞑想を
つづけ、厳しい戒律を守り、心を清らかにして自分の心の奥底を見詰め、そこか
ら、すすむべき道、なすべきことを見出す。これが村人に課した瞑想止観であっ
た。

 こうした心の開発・精神の開発と併せて、僧侶たちがとりかかったことは、肥
料組合や米銀行の設立であった。肥料組合というのは、地味の悪いこの地域では
農業に肥料は不可欠で、村人は前借りで肥料を購入する。商人の方は弱みにつけ
こんで高い値段で、しかも法外な前借り利子を加えて売りつける。僧たちは、こ
の問題を解決するために、寺に寄進されたカネを元手に肥料組合をつくり、卸商
から直接購入させて、市価より安く村人が肥料を手に入れられるようにした。
 
また、米銀行というのは、旱魃と洪水に繰り返し悩まされるこの地域では米の
自給もままならないため、村人は農民でありながら、米を買ったり借りたりしな
ければならない。その前借り利子も肥料同様きわめて高い。そこで僧たちは、寺
に寄進された米と村人たちが持ち寄った米をもとに、米が不足した者に安い利子
で貸し出すシステムをつくった。

 こうした取り組みによって村人たちは、いくらかでも借金地獄から解放される
ようになっていった。僧たちはさらに、生協をつくって日用品が安く手に入るよ
うにしたり、若者たちの浪費癖をみて、貯蓄組合をつくり、貯金をする喜びを若
者たちに教えると同時に、村人が低利で必要なカネを借りられるようにした。
 
また一方、村人たちが互いの農作業を手伝う習慣を復活させたり、共同で植林
したりすることをすすめ、村人たちが少しでも自立した自給自足の生活に近づけ
るよう、工夫を重ねていった。
  瞑想止観の修行によって「助け合う慈悲の精神」を学んだ村人たちが積極的に
事業に参加し、協力していったことはいうまでもない。

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◇◇仏教的農業で共生社会
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  仏教を活かして村人を貧困と心の荒廃から解放しようとするこの試みは、やが
て、貨幣経済にまるごと頼るのではない生活スタイルづくり、コミュニティーづ
くりに、方向を見出していった。経済的に力のない農民が市場経済に巻き込まれ
れば、丸裸にされて村から放り出されるのがおちである、だから、これまでのよ
うな「売るための農業」から「食べるための農業」に変えよう、そして余ったも
のだけを売ろう、という、価値観・生活様式・営農法の根底からの転換であった。

 そのための農法として、ここでは、リサイクルを軸とした複合農法が採用され
た。これはまず、田畑の所々に池を掘ることからはじまる。池は灌漑用に使われ
るが、それだけでなく、そこに魚を飼い、回りの土手には野菜や果樹を植え、牛
や豚や鶏を飼う。ここでは徹底したリサイクルが図られて、牛の糞は豚の餌にな
り、豚の糞は鶏の餌になり、鶏の糞は魚の餌になり、魚の排泄物を含む池の水は
田や畑に灌漑されて肥料になる。
 
カネのかかることは最小限にする。池を掘るのも費用がかかる機械力は用いな
い。肥料も飼料もカネで買い求めることは極力避けて、自然の循環をむだなく活
用する。そして農村がもつ潜在力を引き出す。農村の潜在力とは、土地であり、
水であり、労働力であり、そして、人と人との相互扶助的な協力関係である。

 こうして食べることがひとまず保障されれば、そのうえで、養蚕や畜産を協同
組合方式で行って収入の向上をはかり、さらに、村人の共同作業で、村の環境の
整備、トイレ・水道の設置や、診療所や小学校の建設を、手造りで行って、村の
生活全体の質的向上をはかる。このようなシナリオで、農民の自立と貧困からの
脱出、生活改善の取り組みがすすめられているのである。

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◇◇開発で心の平安を増やす
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  こうした開発運動でのキーワードは、「慈悲」、「共生」、そして「足るを知
る」である。開発の目的とは「最小限の物質的消費によって最大限の心の満足を
得る」ことであり、開発僧たちは、「開発とは物の生産を増やし所得を増やすこ
とではなく、心の平安を増やすことである」と言い切っている。

 このような開発が、タイでもすべての人に受け容れられているわけではもちろ
んない。むしろきわめて少数派である。しかし、物の開発中心の経済発展が同時
に格差や貧困、環境破壊、資源の浪費、人びとの心の荒廃、家族や共同体の崩壊
など多くの問題をうみだしていることを考えると、心の開発を重視して、物欲を
自制しつつ、自立的・内発的な、調和のとれた発展をめざそうとするこの営みは、
タイの村という枠組みを超えて、地球社会全体のあるべき発展にむけての大き
な示唆を与えているように思えるのである。

 こうした開発僧の取り組みは、曹洞宗国際ボランティア会などによっても紹介
されたナーン和尚やパーイ村長の活動が広く知られるが、有名・無名を問わず多
くの僧がその実践に当たっていて、活動領域も農村開発のみならず、環境、スラ
ム、エイズなどに及んでいる。最近のタイにおける市場経済の飛躍的発展のなか
でその存在はとかく見失われがちであるが、そのたゆまぬ活動は、経済成長の陰
に押しやられた人びとに寄り添い、力づけつづけているのである。

         (筆者は元桜美林大学教授・社会環境フオーラム21代表)

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■ 【運動資料】
    《米軍計画》:普天間基地はグアムの空軍基地へ     吉田 健正
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 「そこ(アンダーセン空軍基地)は、沖縄からの移転が提案されている航空機を
受け入れるのに十分のスペースをもつ、国防総省の現存空港である」
  「空港機能に対する海兵隊の要件は、アンダーセン空軍基地の現存飛行場で対
応できる」

 米海軍が11月20日に公表した沖縄からグアムへの海兵隊移転やグアムでの原子
力空母接岸埠頭建設などに備えて作成した環境影響報告書案からの引用である。
建設・整備が提案されているそれぞれの米軍施設の用途、内容、配置、配備部隊
などについては、基本的に、米太平洋軍司令部が2006年に発表した「グアム統合
軍事計画案」や2008年に発表したその改訂版「グアム合同軍事マスタープラン(
基本基地配置計画)素案」に基いており、海兵隊移転などに対する米軍の詳しい
計画を知ることができる貴重な資料である。
 
海軍グアム統合計画室が基地建設に関する環境アセスメントをまとめてウェブ
サイトで公表した報告書案は、住民が閲覧できるようにグアム各地の図書館にも
配布され、公聴会も開かれて、来年2月中旬までに意見を聴取し、それを取り入
れて最終版にまとめる。環境影響に関する最終版は、軍事マスタープラン最終版
に反映させる。これが予定通り進めば、いよいよ2012年に海兵隊のグアム移転や
原子力空母埠頭建設がスタートすることになる。
 
在日米軍再編ロードマップが調印されたのは2006年5月1日。「グアム統合軍事
計画案」は、そのわずか4か月後に公表された。ロードマップ合意に基づく在沖
海兵隊のグアム移転を含むグアム軍事要塞化計画とその環境への影響をまとめ
たこの計画案には、すでに、沖縄からの移駐が予定されている海兵隊の受け入れ
先として、アンダーセン空軍基地内の北東部に位置する2本の滑走路と周辺施設、
および北西部飛行場が、候補に挙がっている。

 その後、米国は普天間基地を含む在沖海兵隊のグアム移転計画を着々と進めて
きた。普天間基地の国内(沖縄)移設が実現しなければ、海兵隊のグアム移転も
、その後の嘉手納以南の基地返還もない、という主張とは相容れない。海兵隊の
グアム移転計画には、沖縄住民のストレス軽減の狙いがあったという環境影響
報告書の文言とも矛盾する。

報道によれば、米連邦議会(下院12月8日、上院13日)は、2010会計年度の
国防予算で、オバマ政権の要求通り、在沖海兵隊のグアム移転費約3億ドル
(約264億円)を計上することに合意した。予算案は、オバマ大統領が署名
すると成立する。これでも、普天間の辺野古移設がなければ米国は在沖海兵隊
のグアム移転を取り止める、と辺野古移設主張派は言い続けるのだろうか。

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■グアム軍事機能復活計画
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  ちなみに、日本人の観光地として知られる亜熱帯の島・グアムは、太平洋戦争
、朝鮮戦争、ベトナム戦争で出撃基地として重要な役割を担った、アジアに最も
近い米国最西端の軍事拠点でもある。主な軍事施設は、日本に対する爆撃基地と
して1944年に建設され、近年はB52爆撃が訓練のため頻繁に飛来するアンダーセ
ン空軍基地のほか、原子力潜水艦の母港があり、原子力空母も寄港するアプラ港
海軍基地、海軍基地の西に位置する広大な弾薬庫地区、島中央部の東側に位置す
るアンダーセン訓練場、北東部に飛行場を構えるバリガダ空軍・海軍訓練場など。

 しかし、1980年代以降、連邦政府の基地再編閉鎖(BRAC)政策により、艦船補修
場など多くの海軍施設が閉鎖され、グアムにおける国防総省のプレゼンスが大幅
に縮小された結果、軍人人口も93年の11,500人から90年代から2000年代にかけて
急減した。2008年3月末現在の軍人人口は、わずか2.970人(空軍1,815人、海軍1
,105人、陸軍41人、海兵隊9人)。在沖米軍(08年9月末)の空軍5,900人、海軍
1,300人、陸軍1,700人、海兵隊12,000人(計21,000人)の7分の1に過ぎない。
 
沖縄本島のおよそ半分550平方キロを占める土地(3分の1は米軍所有地)に、
沖縄本島の人口のおよそ13%に相当する約16万人が住む米国領グアムは、軍事的
価値を失ったのであろうか。沖縄とグアムに駐留する海兵隊の規模は、比較にさ
えならない。
 
米太平洋軍司令部のグアム統合軍事計画は、まさしく、広大な軍事施設をもち
、冷戦時に前線軍事展開基地として重宝されてきたグアムの軍事機能復活計画で
ある。上掲の米軍資料によれば、グアムの軍事的魅力は、(1)紛争が予想される地
域に近く、戦闘訓練→出撃→敵地攻撃に緊急に対応できる、(2)米国が東アジア・
太平洋地域の安全保障を確保するのに好都合な場所に位置している、(3)米国領で
あるため、米軍は外国のような法的制約を受けることなく、自由に行動できるこ
とにある。しかも、海兵隊は、船や飛行機で世界どこへでも緊急展開できる「殴
り込み部隊」だから、アンダーセン空軍基地、アプラ湾、海・空・陸・沿岸の演
習場、弾薬庫地区を擁する海兵隊には、理想的な場所と言える。

 北端の海を臨む台地の上に位置するアンダーセン空軍基地は、広大(総面積63
.5平方キロ、普天間基地のほぼ13倍)な敷地にあり、アンダーセン空軍基地と呼
ばれる北東側には現在は戦略爆撃機の飛来地として米空軍が利用している全長3,
400メートルと3,200メートルの舗装滑走路が、岸壁から海に向かうようにして並
ぶ。

基地の北西部のアンダーセン空軍基地北西飛行場(NWF)にも滑走路が伸びて
いるが、今は主に爆発物処理場として使われているようだ。基地のほぼ中央には
弾薬庫がある。基地の北・西・東の岸壁の下にはビーチが広がり、南西には基地
関連の施設、南にはゴルフ場やリゾートホテルのほか、いくつかの学校や教会が
あるが、グアム住民は大半がタモン湾やハガニア湾に面する島中央部の東岸に集
中しており、この地区の人口はあまり多くない。なお、アンダーセン空軍基地を
含むこの一帯(ジーゴ)は太平洋戦争における激戦地であった。

 一方、沖縄本島中部の東沿岸から1キロほどの内陸部、国道58号線に沿うよう
な形で、4.8平方キロの敷地内に位置する普天間基地には、海に向かうのではな
く、国道に並行するように全長2,800メートルの滑走路が一本、その東南に駐機
場や誘導路として使われるフライトラインが走っている。終戦直後、米軍が農地
に日本本土爆撃のために建設したこの基地は、沖縄の人口増加や宜野湾市の発展
にともない、現在では病院や学校を含む住宅街に囲まれている。

しかも住宅地との間に安全地帯もないままに、ヘリや固定翼機が空港と市街地
の真上を低空旋回飛行するため、世界でも最も危険な航空基地とされている。
2004年に、同航空基地の大型輸送機が隣接する沖縄国際大学の建物に墜落・炎
上したのは、記憶に新しい。低空飛行する軍用機の轟音もすさまじい。米国が
普天間基地をアンダーセン空軍基地に移設する計画を立てたとしても、不思議
はない。

 環境影響評価書(2冊目の2-76ページ)が、「そこ(アンダーセン空軍基地)は
、沖縄からの移転が提案されている航空機を受け入れるのに十分のスペースをも
つ、国防総省の現存空港である」「空港機能に対する海兵隊の要件は、アンダー
セン空軍基地の現存飛行場で対応できる」と述べるように、アンダーセン空軍基
地は普天間航空基地とその機能を十分受け入れられるスペースと条件を備えてい
るのだ。

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■海兵隊グアム移転計画の概要
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  ここで、改めて、環境影響評価書で、米太平洋軍司令部の海兵隊グアム移転計
画を見ることにしよう。
  移転により、グアムに駐留する海兵隊員は8,552人。家族は9,000人、一時駐留
隊員は2,000人、合計およそ1万人になる(海軍は一時駐留兵7,200人、陸軍は駐
留隊員と家族を合わせて約1,600人、空軍は不明)。

 移駐海兵隊の構成は、次の通り。
  (1)第三海兵遠征隊(IIIMEF)の司令部、3,046人。第三海兵遠征隊は、前線展
開の空陸機動軍、司令部は指令本部と支援組織からなる。
  (2)第三海兵師団の地上戦闘部隊(GCE)、1,100人。歩兵隊、装甲車両、迫撃砲、
対戦車兵器、偵察装備、その他の戦闘兵器を備え、火力、作戦、接近戦で敵を破
壊する任務をもつ。司令部を除く戦闘部隊と戦闘支援部隊は、近くに射撃場など
の訓練場、兵舎などの基地支援施設が必要。

(1)第一航空団の航空戦闘部隊と付属部隊、1,856人。海兵隊地上・航空機動部隊
(MAGTF)
の遠征作戦を支援する部隊で、空港および上部司令部の近くに駐留させる。
垂直離着陸機MV-22オスプレイ12機、UH-1多目的ヘリコプター3機、AH-1攻撃
ヘリコプター6機、CH-53E重輸送ヘリコプター 4機と、一時的に飛来するKC-130空
中給油輸送機,F/A-18戦闘攻撃機などの固定翼機による空港管制、計器飛行、離着
陸、編隊飛行、艦載機着陸訓練、空中射撃、防御などの訓練を、週7日、昼夜行う
計画だという。

(2)第3海兵兵站団の兵站戦闘部隊(LCE)、2,550人。通信、工兵支援。車両による輸
送、空中輸送、医療、補修、着陸支援などを担当する。
(3)その他、歩兵大隊(800人)、砲兵隊(150人)、航空部隊(250人)、その他
(800人)などの一時駐留部隊。
一時駐留部隊2,000人を含めて合計1万人強のうち、司令部要員は3,046人に過
ぎない。移駐する海兵隊は主として司令部という、政府の説明とは矛盾する。

環境影響評価書によれば、移駐してくる海兵隊には、以下のような施設が必要と
なる。

(1)司令部 司令部建物、独身要員用住宅、家族住宅、補給物資、倉庫、売店
・学校・娯楽施設、医療施設、保育園、公民館やパレードなどのための広場、
光熱水道インフラなど。
  (2)射撃演習場 実弾と摸擬弾を使った演習場で、安全地帯や武器弾薬によって
特別使用空域を設ける。
  (3)非火力演習場 車列(コンボイ)移動訓練、歩兵訓練、都市型(対テロ)戦
闘訓練を行う。
(4)飛行訓練場 舗装滑走路や非舗装滑走路を使って、隊員の乗降や離着陸訓練、
燃料・弾薬・荷物の積み下ろし訓練を行う。
(5)飛行場 アンダーセン航空基地の東部に位置する空軍飛行場と共存できる搭
乗・離発着場をもつ飛行場。
(6)水辺(ウォーターフロント)訓練場 移駐海兵隊と、グアムおよび(サイパンや
テニアンのある)北マリアナ諸島で訓練している一時駐留部隊が艦船や強襲揚陸艇
を使って上陸訓練を行う。

(7)の他の訓練場:グアムには(沖縄の北部訓練場のような)中隊規模でジャングル
訓練ができる広大な場所は得られないが、懸垂下降訓練、障害物乗り越え訓練、
ロープを使ったヘリコプター昇降訓練はアンダーセン・サウスや海軍弾薬庫
地区などに設置できる。

なお、実弾演習によりたびたび山火事が起こり、民間住宅地域に流れ弾が飛ん
できたりする沖縄のキャンプ・ハンセンと違い、グアムの演習では、危険防止
や環境保護のため、基本的に実弾ではなく、摸擬弾、空砲、着弾煙を使うとい
う。空軍基地の南側に位置するアンダーセン・サウスは、かつてアンダーセン
空軍基地が住宅地区として使用していた地域であるが、海兵隊は2001年9月、
そこを戦闘訓練場とすべく、土地の移譲を申し入れ、翌年2月になって米国議
会が1,500エーカーの移譲を承認した。

これらのうち、司令部と要員居住地区にはアンダーセン空軍基地の南西に位置す
るフィネガヤン、海兵隊航空基地としてはアンダーセン基地(北西部滑走路の北
側は航空戦闘訓練場、南側は隊員搭乗・武器弾薬を含む貨物積み出し訓練、北東
側の飛行場は離着陸訓練に使う。中央の弾薬庫は空軍と海兵隊が共用)、強襲揚
陸訓練はアンダーセン・サウスの沿岸、銃撃訓練、都市型戦闘訓練、車列移動訓
練、歩兵訓練などはその内陸部が、第一候補に挙げられている。北飛行場や西飛
行場など軍用施設でほぼ埋め尽くされているテニアンの空・海や沿岸もグアム駐
留海兵隊の訓練場になる予定だ。

これらは、海兵隊司令部のある沖縄のキャンプ・コーテニー、普天間航空基地(
及び伊江島補助飛行場)、射撃演習場や都市型戦闘訓練場のあるキャンプ・ハン
セン、弾薬庫をもつ演習場キャンプ・シュワブ、ジャングル戦闘訓練のための北
部訓練場、強襲揚陸訓練が行われるキャンプ・シュワブ沿岸や金武レッド・ビー
チなどと、見事に重なる。2008年9月末現在の在沖海兵隊員は12,400人、家族は
7,600人だから、ロードマップ通りに海兵隊員約8,600人、家族9,000人がグアムに
移転するということになれば、これらの司令部・演習基地機能の移設に伴い、キ
ャンプ・コートニーの兵舎だけでなく、キャンプ瑞慶覧、キャンプ・マクトリア
ス、キャンプ・シールズの兵舎も移転し、沖縄からほとんどすべての海兵隊が消
えることになるだろう。

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■日本だけが米国のアジア安保戦略を支持
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  ところで、グアムにおける米軍の軍事機能強化の背景には、オーストラリア、
タイ、フィリピン、韓国といった「同盟国」がこれ以上の米軍基地受け入れに難
色を示したという事情があった。加えて、これらの国々は、集団安全保障条約や
二国間安全保障条約で米軍の地位、移動、出撃などにさまざまな規制を課してい
る。
 
ところが、日本だけは、対米テロ攻撃事件の翌年の2002年に始まった日米協議
で、日米同盟の維持・強化の名目の下、米国の世界戦略の一環をなす太平洋・東
アジア安全保障強化計画に賛同し、小泉政権下の日本政府が2014年までの普天間
基地の国内(辺野古)移設、移設後の海兵隊のグアム移転、その後の嘉手納以南
の基地の閉鎖・返還という連鎖的前提条件付き「パッケージ」に同意したのであ
る。

「(再編)実施における施設整備に要する建設費その他の費用は、明示され
ない限り日本国政府が負担するものである。米国政府は、これらの案の実施によ
り生ずる運用上の費用を負担する」、「第3海兵機動展開部隊のグアムへの移転
のための施設及びインフラの整備費算定額102.7億ドルのうち、日本は……グア
ムにおける施設及びインフラ整備のため、 28億ドルの直接的な財政支援を含め、
60.9億ドル(2008米会計年度の価格)を提供する。米国は、グアムへの移転の
ための施設及びインフラ整備費の残りを負担する」という、財政的支援までして。

 しかも、ロードマップによれば、沖縄には、「司令部、陸上、航空、戦闘支援
及び基地支援能力といった海兵空地任務部隊」で構成する海兵隊が残留し、キャ
ンプ・ハンセンは、陸上自衛隊が訓練に使用するという。航空自衛隊は、嘉手納
飛行場を使って米軍との共同訓練を行う。沖縄は、海兵隊のグアム移転後も「日
米同盟」のツケを背負い続け、沖縄の「基地問題」は据え置かれるという合意
である。
 
なお、在沖海兵隊の移転と並行して、グアム南部のアプラ湾に原子力空母接岸
埠頭が建設され、アンダーセン空軍基地の南西部(海兵隊司令部の予定地)には
陸軍ミサイル機動隊(AMDTF)が駐留するという。アプラ湾の西端には、すでに、
原子力潜水艦が母港とするキロ港がある。湾内のポラリス岬の北岸(海軍弾薬
庫に近い)に深喫水の原子力空母が一時的に寄航する埠頭ができると、海兵隊が
戦闘や演習のため艦載機で移動しやすくなる。原子力空母や原子力潜水艦は、た
びたび沖縄本島東岸のホワイトビーチに寄航し、海軍と海上自衛隊が沖縄近海で
展開する共同実戦演習にも参加する。ホワイトビーチの原子力艦船寄航機能もア
プラ港に移設されるのか、グアム統合軍事計画案や環境影響評価書は言及してい
ない。

アンダーセン空軍基地は、極東最大の空軍基地といわれる嘉手納空軍基地の 
およそ4倍の面積をもつが、最新戦闘機、爆撃機、輸送機、偵察機などが演習
や出撃のため常時飛び交う嘉手納基地と違って、ベトナム戦争後はそれほど利
用されていない。

しかも滑走路は海に向かっているものの周辺を住宅地域に囲 まれている嘉手
納空軍基地と異なり、上記のように、東西と北が海に面しており、南側に住む
住民の騒音被害や危険は相対的にきわめて少ない。この際、嘉 手納空軍基地
のグアム移設も検討したらどうだろうか。

      (筆者は沖縄在住・元桜美林大学教授)

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■ 【研究論叢】 
戦時期社会政策と社会民主主義政党政治家
日本育英会と三宅正一(下)             飯田 洋
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■政府案の作成と連盟の修正案
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  文部省も衆議院の決議を受けて育英奨学制度創設のための政府原案に着手し、
専門教育局長永井浩、学芸課長剣木亮広がその中心となった。

 文部省での原案作成上、まず問題になったのは
  (1)育英(英才補助)と社会政策的な教育の機会均等とどちらに重点をおくか。
  (2)貸費制か給付制か。
  ということであった。

 (1)に関しては文部当局は、連盟の三宅案は、英才補助ではなく機会均等を主と
した社会主義的なものであると難色を示した。剣木は、後に「当時三宅さんが発
表した案は、のちの育英会法の趣旨とは行き方を全く別にしたもので、英才の教
育補助ではなく教育の機会均等を主とした社会主義的なのだった」と語っている
ように文部省は教育の機会均等という考え方にはあまり乗り気ではなかった。

この点に関しては連盟の間でも主張の相違があった。三宅が、「育英制度の目
的は不出世の英才に十分教育の機会を与えざるは国家的損失なりとする英才教
育を主眼とする国家的要請が重点か、あるいは、才能あるにもかかわらず経済
的理由により高等教育を受けられぬ者に相当の教育を受けさせる機会均等の社
会主義的趣旨が重点か、二つの要素が絡み合っている。森田氏らは前者を重
視、私らは、後者を重視した。」と述べているように必ずしも意見の一致をみ
てはいなかった。

 (2)に関しては、連盟案は、子供の教育は親の責任においてなされるべきであり、
教育の国家管理はなすべきでないという基本方針のもとに、当時の財政状態でも
し給付制をとれば、きわめて小規模のものにならざるを得ないので、貸費制をと
ることになった。三宅は、この点に関して「太平洋戦争が始まろうとしている当
時の状況ではとてもたくさん国費を要求しても取れない。然し僅かな金では、優
秀な青年学徒の要望を満たすことは出来ない。そこで生命保険の原理を適用して
貸費制にすることにした」と述べている。一方、文部省側は、国家が必要とする
人材の確保には給付が当然であることや、事務の簡便性から給付制の主張が大勢
を占めたが、最終的には貸費制でまとまった。

 しかしながら、議員連盟、文部省のせっかくの努力にも関らず、文部省案は具
体案を伴っていないとの理由で否決され、昭和十八年度の予算案では、実施のた
めの予備調査をするとして調査費予算一万円が認められただけで、育英制度予算
は計上されないことに決定してしまった。
  教育振興連盟側は更に検討を続けた結果、これを一層実際に即した完備したも
のとし、一日も早く実現を期することとなり、独自の研究を進め、対象の中学校
生徒二十万人を三万人に改めた。
 
  特に具体性を欠くと指摘された資金の運用方法の作成は、三宅が担当すること
になった。彼はかねてからの協力者であった渡辺定(当時安田生命の幹部)を介
して生命保険中央会の中心的人物で大蔵省の嘱託を兼ねていた川井三郎に援助を
依頼した。当時三宅は日本医療団の理事となり調査部を担当していたことから、
医療団のスタッフも領域を超えて積極的に協力した。川井は、三宅らと協力して
作成した案のほか、密かに大筋の似た別の案を文部省と協力して作成し、文部省
の顔も立つようにした。

これに対し文部省側も剣木学術課長らを中心とするいわゆる新官僚とよばれる
グループが対応し、両者の間ですりあわせをしながら呼吸を合わせ修正案の作
成にあたった。出来上がった修正案は、非常に精密なもので、後に永井浩は
「通常議員から提出される案はおおまかでずさんなものが多いが、三宅さんが
書いたあの案だけは我々役人でも直しようのない位精密で完璧なものだった」
と述懐している。

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■国民教育振興連盟の督促と政府の方針
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  昭和十八年、文部省と議員連盟とのこのような動きの中で第八十一回帝国議会
は再開した。育英奨学制度制定の成否はこの議会での衆議院における議会活動に
かかっているとして議員連盟による政府督促はまことに激しいものがあった。
二月八日の衆議院予算委員会で金光康夫委員長が自ら行った質問演説は当時の育
英会法をめぐる状況をよく表しているので長文であるが引用する。

「衆議院は、さる第七十九議会において、満場一致の院議をもって大東亜教育体
制確立を建議し、その重要なる一項目として、興亜育英金庫創設を要望し、橋田
文相は、政府を代表してその実現に努力する旨を約されたが、本年度予算にいま
だその具体案が提出されていないのは遺憾の至りである。大規模な育英金庫制度
を創設し、資質優秀な国民子弟で学費足らざるがために進学の機を失い、あたら
良能をして空しく埋没される者無からしむるは、大東亜建設の経綸を完遂する上
に、緊切なる要務であり、また実に士気高揚の大方途であると確信する。

 しかして聖戦完遂の途上、靖国の英雄となられた軍人遺孤児の教育のため、或
は、職業再編途上、祖先伝来の業を転換せる子弟で、現に学業中途で退学のやむ
なきを迫られるものの就学を継続させる為にも、また、下級棒給生活者及び一般
勤労大衆中、教育資金を出し能わざるもののためにも、本案の実施は、焦眉の急
に迫られているのである。

この時局の緊切なる要望に沿うがため
  一、十八年度から即時実施すべきこと
  二、規模は議員側骨子にのっとり、国家の要請するに足る規模雄大なるものた
  ることを、絶対に必要なりと思う。以上につき政府の確固たる決意を承りたい。」
  これに対し橋田文相は「十八年度において実施できるよう万全の努力をしてい
るところである」と答弁した。
 
  なお金光質問にある"規模雄大"という用語は三宅が好んで使ったもので、育英
奨学制度の創設準備の期間中に三宅がしばしば使用したことから育英奨学制度に
関係する一つの通り言葉となったといわれている。
  三宅の最初の原案に示された対称学生二十万人という数字は、一年後連盟自体
の手により三万人に減らされはしたが、構想は相当大きく、育英会二十周年に当
たる昭和三十八年においては七十万人の貸費生を世に送る基礎となった。
 
  こうした議会での追求活動と平行して、連盟による内閣、大蔵省、軍部、企画
院など関係方面に対する直接交渉もきわめて活発に展開された。主に政府との交
渉に当たったのは、三宅のほかに、小山亮、山本粂吉、今井新造、小柳牧衛、西
村茂生、などで、先ず東條首相兼陸相を説得し、次いで米内海相の賛意を得、予
算支出の大元である大蔵省の説得にあたった。

大蔵省は将来に及ぶ巨額の経費の計上を必要とする立場上、難色を示した。三
宅によれば「直接賀屋興宣大蔵大臣のところは二十日間通い詰めて折衝した
が、彼は青年時代私的な育英制度の恩恵を受けていたこともあり、また当時新
官僚の一員とされ国民健康保険制定時からの理解者であったことから交渉がし
易かった」。また主計官として実際の事務的折衝にあたったのは後の首相大平
正芳で、積極的に大臣に賛意を勧めた。なお三宅はこれを契機に大平とは戦後
も親交を結んだ。

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■大日本育英会の創立
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  これにより文部省は、議員連盟と連絡を密にしながら鋭意具体案の作成に入り、
「財団法人大日本育英会」(仮称)として成案を得るに至った。その後、議員
連盟代表や関係各省担当者による「育英制度創設準備協議会」を設置して協議、
十月一日閣議決定を見た。全ての準備が整った十月十八日「財団法人大日本育英
会」として発足、ここに待望の国家的育英奨学制度が実現した。
 
この頃、世界大戦は既に終盤戦に入り,戦局は日々に激しさを加えていた。昭
和十八年に入っては、同盟国の一つイタリアが連合軍に無条件降伏をし、いわゆ
る枢軸国の一角は崩れ去って、秋からは、連合国の総反攻は太平洋の各地で開始
され、我が国の劣勢は覆いがたいものがあった。既にこの年六月には「学徒戦時
動員体制確立要綱」が閣議決定となり、九月には学徒動員を送り、更に十月、学
徒徴兵猶予が停止となって、まさに学徒出陣を迎えていた時期であった。こうし
た未曾有の国難の時期でありながら、一方では教育の機会均等の理念をも有した
育英奨学制度の誕生を見たことは、我が国教育史上劇的な出来事であった。
 
  政府は特別法の検討を急ぎ「大日本育英会法」を策定、第八十四帝国議会に上
程して可決した。昭和十九年総理級の人物をあてるという方針のもとすでに拓務、
逓信、鉄道等各大臣を歴任した永井柳太郎を会長に任命「特殊法人大日本育英
会」が創立され「財団法人大日本育英会」は解散した。
 
日本育英会は国民の意思を代表とする議員の手によって発議、推進され、政府
はその趣旨に沿って実現に努力し,終始民主的な手続きを踏んで実現したもので
あった。戦時下、しかも戦局はますます我が国にとって不利になる状況の下、官
民挙げての民主的手続きによって実現したのは驚嘆すべきことであった。
  
  このように「大日本育英会法」は、三宅が専門家の協力を得てまとめあげた「
興亜育英金庫創設案」がもとになった。その狙いは、出来るだけ多くの青少年に
就学の機会を与えるとともに国家の負担を少なくするために保険計算の方式を取
り入れるのが骨子となっている。
  実現した制度は、修正が加えられてその規模において、事業を行う組織・機構
において、奨学金の貸与・返金方法において、案とはかなり異なったものとなっ
ているが、三宅の提唱した保険方式は、事業の発展を支える原理として現在も生
かされている。

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■大日本育英会創立時の基本構想と実際
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  大日本育英会の創立当初における基本構想は、優秀な才能を持ちながら経済的
に恵まれないために国民学校卒業だけで上級学校への進学困難な児童に対して、
国民学校在学中に上級学校進学後の奨学金貸与を予約して進学を経済的に保障し、
その優秀性を維持する限り、専門学校(高等師範学校を含む)あるいは高等学
校、大学へ進学しても奨学生として貸与を継続するという予約採用制の仕組みで
あった。
 
  制度の基盤をなすものは、教育の機会均等の精神であったが、国家的育英奨学
事業の本質上、英才教育、人材養成という意図も同時に本会制度運営上の重要な
指標として掲げられた.ことに,当時は戦時下のことでもあり、終局的には国家
有為の人材の育成という国家目的への貢献が大きく謳われ英才教育と人材養成が
機会均等に優先することになった。
 
  日本の育英奨学制度を育英と奨学(機会均等)の観点から分析した研究には、
前述した服部憲司の「日本育英会奨学生推薦基準の変遷」がある。これに拠れば、
大日本育英会設立から終戦までの期間においては、学力等の優秀者を財政援助
の対象者とする選抜原理である「育英原理」が経済的に恵まれない者を対象者と
する選抜原理である「奨学原理」に比べ優先していたとする。

服部は、「日本の高等教育では経済力のみを基準とする制度の導入が、歴史的
に見ても容易でないことが示唆される」とし「奨学」原理に基く財政援助制度
が導入されなかった理由、導入の可能性、その是非等については検討する必要
があろう」と指摘するにとどめているが、その大きな理由の一つが当時の国家
的要請に基く国家有為の人材育成という要請にあったことは間違いない事実で
あろう。

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■終わりに
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  戦前、戦中に策定、実施された社会政策の殆どは、戦後その存在意義を失った。
その結果、戦前、戦中に社会的意義なり明確な存在理由を有していた事業は敗
戦とともに消滅した。特に戦時社会政策や社会思想と密接に関連する教育関係の
領域においては、戦中に誕生した事業で戦後にも存続し、進展を示している事業
はほとんど稀である。この点において、戦中に発足した大日本育英会が、名称こ
そ変われ今日一層の発展を示していることは、単に類例の稀な事実であるばかり
でなく、時代や社会を超越してこの事業が重要な存在意義と価値を持っているこ
とを物語っているといえる。
 
  三宅が戦時中に実現を主導したあるいは深く関与した社会政策は、国民健康保
険制度と国家的育英奨学制度であった。三宅の両政策への取り組みの原点には、
衆議院議員に当選する前からの小作争議指導を中心とする農民運動にある。当時
の貧農階級の病気になっても医者にかかれない、勉強したくても学校へ行けない
という悲惨な状況を改善するための闘争の体験がその根底にあった。
 
その後前述したように、昭和十七年に初めて衆議院議員選挙に立候補した頃か
ら、政治的軸足を小作農民一辺倒から広く国民一般に広げて行った三宅にとって
全国民層を対象とする国民保険制度と育英奨学制度が彼が取り組む政治的課題と
なったのである。
 
  三宅が育英奨学事業の問題に取り組んだ昭和十五年は、新体制運動という名称
のもと近衛第二次内閣の成立とともに社民党を先頭に、政友会、民政党、国民同
盟などの保守政党も一斉に解党し、幾多の曲折を経ながら大政翼賛会に結集し、
国家総動員体制が確立していった時期である。
 
政党が消滅した中で政策の実現を図るためには、三宅が議会活動を通じて得た
党外の多くの知己による人脈が役立った。閣僚の中では、広田内閣の文相平生 
三郎、林内閣の内相河原田稼吉、近衛内閣の逓相永井柳太郎、第二次近衛内閣の
厚相小泉親彦、東条内閣の蔵相賀屋興宣などといずれも議会の論戦を通じて親交
を得た。三宅の演説の鋭い論鋒は、数々の法案審議の過程で議会の論戦の中に十
二分に発揮され、政府や保守陣営首脳にも多くの共鳴者を生み出した。
 
  また産業組合の活動や国民健康保険法案、電力国家管理法案等の審議を通じて、
農林、厚生、逓信などのいわゆる新官僚と親交を結び、その関係で文部省にも
大きな人脈が形成された。日本育英会ももし官僚の協力がなかったならば実現は
不可能であったに違いなかった。
 
議員の間では、産業組合を背景として超党派の議員が作った農村議員連盟の関
係で、助川啓四郎、赤城宗徳、吉植庄亮、黒澤酉蔵他の多くの議員と親交を結び
その中から特に農村子弟の教育問題に熱心であった小山亮、森田重次郎などと教
育振興連盟を作って育英奨学制度制定運動に共闘することになった。

 こうした多角的な人間関係は、議会人としての三宅を無産政党政治家としては
珍しい幅広い政治家に育て上げた。芳賀綏によれば三宅は「政界きっての接触面
の広い政治家」で「広く異質の人と接触してひとたび意気に感じその人物に心服
すれば、持ち前の牢騒心と相まって、手をたずさえて事に当たろうとする意欲に
動かされずにはいられなかった。」
 
このように、三宅は日本育英会創設の運動をかつての社大党を中心とする同志
とではなく、政友会、民政党を基盤とした保守系議員と連携して進めた。運動の
中心となった「国民教育振興連盟」に参加した議員の数も、最盛期には二百十六
名に達し衆議院の議席の三分の二を占めるまでになり、当然旧社大党の議員も多
数参加したが、連盟創設以来中心となって活躍したのは主に保守系の議員であっ
た。
 
  旧社大党の議員の中には、三宅のほかにも農民運動の指導者は存在し、貧困の
故に農村の子弟が就学出来ない悲惨な状況を熟知していた者は多かったが、小作
農民子弟の教育機会援助の必要性についての関心は必ずしも高くなかった。彼ら
の間には、教育事業に国家が関与することによって時の国家の要請する方向へ教
育の中味が偏向することへの警戒心があったと考えられる。また小作制度の廃止
による小作農民の解放が農村の窮乏化を救う唯一の解決手段であるとして、小作
争議に専念すべきだという思想が強かった。
 
  国家的育英奨学制度に反対する声は保守側にもあった。彼らは教育への国家関
与は社会主義的思想である、また親が子を教育する責務を国みずからが侵すもの
で、子に親の恩を忘れさせ、ひいては我が国古来の家族制度の美風を破壊し、さ
らには忠君の念を薄くして国体観念をも危うくするというような懸念があった。
 
  これに対して、三宅は農村の貧困な子弟の教育の必要性を強く感じていた。前
述したようにそれは彼の少年時代の経験以来一貫して彼の思想を貫いてきたもの
である。彼は、小作農民が無知の故に現状を肯定し貧困にあまんじることから脱
却してより主体的に闘いに立ち上がるためには、何よりも現状の正しい分析によ
って現状の矛盾を認識し是正の方向と方法を思考する能力を身につけるための教
育が必要であると考えていた。それを可能にする貧困子弟に対する国家の財政的
援助は、彼にとって是非とも実現させなくてはならない政策課題であった。
 
  三宅の政治家としての特性はその現実性にある。芳賀綏が三宅の特性について
「戦前の三宅の活動について特に強調すべきは、空虚な観念として社会主義を呼
号するのではなくて、実際にある成果を必ず生み出すという具体性、現実性にあ
る。」と述べているように、彼は政策の実現のためには時として大胆な妥協も辞
さなかった。「政策を実現するのが、本当の革新だ」を口癖にした三宅は、既成
政党の枠にこだわることをしなかった。

こうした三宅の幅の広さは時として味方の革新陣営からも批判を買うことが
あったが、一向に気にかけなかった。苦渋の決断を迫られる場合も多かった
が、現実を改革するための政策の実現を第一義とした。それは三宅自身の「権
力の締め付けが厳しければ厳しいほど、それに対応する戦術は柔軟でなければ
ならない」という言葉どうり、時の権力の政策を逆に利用して自己の政策を実
現させるといった柔軟な現実主義といえるものであった。
 
  前述したように三宅らが育英会創立運動を活発化した昭和十八年には、日本の
敗色は濃厚になり、戦線の至る所での戦闘の結果多くの犠牲者を出し、その補充
としての徴兵の必要に迫られていた。元来、日本の軍隊の貯水池となったのは、
地主制下にあった貧しい農村であり、粗衣粗食に耐えて命令に忠実な農村の青年
が軍隊の卵とされた。同時に軍隊は飢えに苦しむ農民の口減らしとしての就職先
でもあった。戦争の激化に伴って、青年にとどまらず一家の働き手である壮年者
までが徴兵されるようになった結果、多くの戦死者を出した農村の家族は、働き
手を失い生活はより一層困窮化した。

国は、農村の不満を解消し厭戦気分の高まりを和らげるために遺家族や留守家
族に対する何らかの援助の必要性に迫られていた。同時に、国にとっては拡大
する戦線に対応するために、優秀な頭脳を有する「国家有為の人材」としての
青年の育成は緊急の課題であった。その意味では日本育英会も当時の過酷な戦
況下にあった国家の状況がもたらしたいわば「戦時下の産物」の一面を持った
制度であったともいえる。
 
  このように三宅が最初に衆議院選挙に出馬した際の選挙公約「農村に医療を、
農村に教育を」は戦時中に現実化し、現在も国民健康保険制度、独立行政法人日
本学生支援機構による育英奨学制度として存続している。国民健康保険制度は、
彼の社大党衆議院議員、産業組合代表としての職能性を発揮した活動の結果とし
ての制度であるのに対し、国家的育英奨学制度は、彼の独創的発想から生まれた
超党派の活動の結果成立したものであり、成立経過を異にする。しかしいずれに
せよ、戦時中に成立した社会政策は、その殆どが終戦を境にその存続意義を失い
消滅したのに対し、両制度が人間の健康と教育にかかわる時代や体制を超越した
ものであることから今日も存立していることは、三宅の政治活動を評価する上で
重要である。
 
  三宅を含め社会民主主義政党の政治家達が戦時中に提起した社会政策は、最初
から国策協力を意識したものではなかった。しかしながら、国家総動員体制の中
で社会政策の国策化が進むにつれて、戦時社会政策なかんずく社会保障的政策は、
労働者、農民の保護よりも戦時非常時における生産力の拡充という立場から戦
争遂行のための人的資源の「保全」と「培養」またはその「確保」と「配置」の
政策にその重点を移行し、軍部の影響下に置かれることになった。

三宅が全力を傾注した「国民健康保険法案」は、徴兵年齢にある青年を疾病か
ら守り、多くの兵力の供給源でありながら貧困と医師不足のため病気治療が不
可能な農民の体力を強化するという国家建設における農民動員の補完装置とい
う国策の一環として取り上げられて初めて実現したのである。育英奨学制度も
これまで述べてきたように、大東亜戦争において東亜全域に送り出す国家有為
の人材の育成という建前のもとに成立した。
 
  このように社会政策、社会事業を通じての国策協力は、戦中期における社会民
主主義政党政治家に多く見られた。社会民主主義政党に属する代議士の多くは各
種の委員会、政府系団体に関与した。彼らの意見や行動はそれがたとえ階級的な
立場からなされたものであっても、国策遂行へプラスなものとして「読み替え」
可能なものはむしろ積極的に政策に取り入れられた。

三宅は、すぐれた政治リアリズム,戦略・戦術的な政治感覚を以って、戦時国
策機関への進出を「行政権の確保の場」として捉え、戦時社会政策におけるブ
レーンとしての立場を国策協力という立場に立ちながらの労働者、農民保護を
同時に可能にする場として活用した。このことは結果的に、国家総力戦の遂行
母体であり挙国一致体制の担い手であった戦時内閣への支持と協力を意味し、
後に一部から戦時国策推進を通しての戦争遂行協力責任を問われることになっ
た。
 
  戦時中に活動した社会民主主義政党の政治家の多くは、彼らの活動が結果とし
て戦争遂行に協力する立場に至ったことの責任については余り口を開かない。三
宅もこの点に関しては多くを語らないが日本育英会制度については次のように述
べている。「私は、戦前、国会に議席を持った者として、多くの責任を感じなけ
ればならないことがあったと思うが、ただ育英奨学制度を作ったことは、国民に
対する大きな貢献だったと思い、敗戦の責任についてもいささか慰めるところが
ある。」
 
大戦中に衆議院議員を務めたことに対する忸怩たる思いとともに、日本育英会
の創立の意義を語る三宅の感慨は、教育の機会均等という日本育英会創設の戦い
の理念が第二次世界大戦末期という困難な時代に成立し、戦後の教育理念として
よみがえったことに対しての達成感を感じさせるものであった。

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◇参考文献及び引用文献
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三宅正一『幾山河を越えて 体で書いた社会運動史』(恒文社、1966年)
三宅正一追悼刊行会編『三宅正一の生涯』(三宅正一追悼刊行会、1983年)
日本経済新聞社編『私の履歴書 三宅正一』(日本経済新聞社、1971年)
飯田洋『農民運動家としての三宅正一 その思想と行動』(新風舎、 2006年)
三宅正一『激動期の日本社会運動史 賀川豊彦・麻生久・浅沼稲次郎の軌跡』(現
代評論社、1971年)
『日本育英会十五年史』(日本育英会、1960年)
『日本育英会二十年記念誌』(日本育英会、1965年)
『日本育英会三十年史』(日本育英会、1975年)

『日本育英会史 育英奨学事業60年の軌跡』(独立行政法人日本学生支援機構、2
006年)
辻功・木下繁弥『教育学講座20 教育機会の拡充』(学習研究社、1979年)
西田美昭『近代日本農民運動史研究』(東京大学出版会、 1997年)
横関至『近代農民運動と政党政治』(三笠書房、 1999年)
芳賀綏『現代政治の潮流』(人間の科学社、 1974年)
服部憲児「日本における学生財政援助制度の展開 育英と奨学の観点から」(『
教育制度学研究 第5号 』1998年)
服部憲児「日本育英会奨学生推薦基準の変遷」(『広島大学 大学教育センター
大学論集』1996年)
山室建徳「1930年代における政党地盤の変貌 新潟三区の場合」(『日本政治学
年報1984年』1984年)                        
                                以上

             (筆者は法政大学大学院博士課程在学)
         
                                                     目次へ 
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■【北から南から】
  深センから 『写真にまつわる話 その五(番外編)』 佐藤 美和子
  大阪から  高齢者だって喧嘩もすれば恋もする   除 正 寓
    ―八尾オンドルパンのハルモニと私の奮戦記―(その4)
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■【北から南から】
  深センから  
    『写真にまつわる話 その五(番外編)』  佐藤 美和子
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  前回までのお話はどれも92年1月頃のことでしたが、今回はそれからさらに5年
近い年月を経た、96年夏の出来事です。

 二度目の北京留学中だった私は、夏休みがくると早速、以前のように大きなバ
ックパックを背負って長い旅行に出かけました。今度は、日本人女性の留学仲間
との二人旅です。青海省やチベットを回った後、その頃すでに建設中の三峡ダム
のために将来は景色が変わってしまうであろうと言われていた長江三峡下りをす
るために、出発地点の四川省重慶市を訪れました。ここで船に乗り込み、途中あ
ちこちの観光名所で下船観光しつつ、武漢市に着くまでの2泊3日のクルーズです。

 クルーズといえば聞こえはいいのですが、これがまたトンデモナイ船旅でした。
貧乏学生が、大奮発してクーラー・テレビ・シャワー室完備の一等船室のチケット
を買ったと言うのに、昼間はクーラーの電源が自動的に切れてしまいます。
 
苦情に行けば、窓を開けて自然の風を楽しめと言われ、テレビは一日2時間
ジャッキー・チェンの映画が一本放映されるだけであとの22時間は砂嵐。シャ
ワーはこれって船の下の長江の水を汲み上げてるんでしょ?と言いたい位、黄
色く濁った金臭い水がチョロチョロ。一等船室のベッドは子供用かと見まごう
程にこじんまりとしたサイズで、チクチクする寝ゴザが一枚、あとは籐編みの
硬い枕と古ぼけたタオルケット一枚のみ。夕方からはどこからともなくゴキブ
リが現れ、まるで蚊のように部屋を飛び交っては壁に激突しています。夜が更
ければお次はネズミの大運動会。部屋の中を何匹もが縦横無尽に駆けっこする
ので、開会式後は恐ろしくてベッドからは足を下ろせない有様でした。

 とにかくネズミは困ると思い、船員に何とかしてくれと頼みに行くと、
  「ウチの船は衛生に気を使っているから、ネズミなんぞ居るわけが無い」
と言い張ります。じゃあ、あんた今から私の部屋に来て自分の目で見てみなさい
よ、あんたが部屋に来て5分以内に出てこなかったら私も何も言わないからと言
って引っ張っていこうとすると、
  「船にネズミは付き物だ。ネズミが居ない船なんぞ、世界中のどこをさがした
ってない!」
さっき、ウチの船には居るわけないって断言してたのは何だったのさ・・・・・。

 そんな酷い部屋だったので、甲板で汗だくになっているほうがナンボかましだ
と日中はほとんど外で過ごしていると、30代〜60代と思しき十人ほどのおじさん
グループに声をかけられました。ねぇ、君らがさっきから喋っているのは何語だ
い?外国人なの?日本人?おぉ、我々の市は日本に姉妹都市があるんだよ、日本
人観光客もものすごく多いところなんだ。

 このおじさんたちは、とある地方観光都市の市長さんとその部下諸々の御一行
様で、彼らの市と同じく川下りが大きな観光収入源である四川省へ、視察へやっ
てきていたのでした。

 96年当時は、まだまだ中国人にとって旅行はそれほどポピュラーな娯楽ではあ
りませんでした。視察旅行がよほど嬉しいのでしょう、みんなとてもはしゃいで
いて、何故か全員が順番に私たちと一緒に写真を撮りたがり、これまた何故だか
我々にサインを求めて来る人までいました。えっ、その船のパンフレットにサイ
ンしろって?なんで?私たちただの貧乏留学生だから、そんな芸能人みたいなこ
とできませんよと何度も断ったのですが、いやいや、船旅で日本人とお友達にな
った記念に残しておきたいんだといって、とうとうサインさせられちゃったので
した(笑)。

 そんな賑やかな一行と交流しているうちに、いつもみんなの中央にいる市長さ
んが、私たちのカメラに注目し始めました。市長さんはカメラが趣味だとかで、
大きくて立派なカメラを胸にぶら下げています。反して私たちが持っていたのは
、ごくごく普通のコンパクトカメラです。しかし私たちが日本から持参した日本
製カメラが珍しいようで、試し撮りさせてほしいと頼まれ、長江をバックに何枚
か、私自身のカメラで友人との写真を市長さんに撮ってもらいました。

 カメラの話はまだ続きます。しばらくして一旦部屋に戻った私たちを、市長さ
んの部下の一人が訪ねてきました。この市長さん、実はさっき試し撮りをした私
の数年型落ちミノルタカメラより、留学直前に新しく購入したばかりという友人
のオリンパス新型カメラのほうを気に入っていたようなのです。しかし友人の中
国語力はまだ初級レベルで無口な人なのであまり会話ができなかったのと、また
市長も本人を目の前にして直接お願いを言い出しにくかったため、私がこうして
代理でお願いに来た。このクルーズの間じゅう、彼女のカメラを市長に貸して頂
きたい、こう言うのです。

 ビックリしました。えっ、でも彼女は一台しか持ってないのだから、その間写
真が撮れなくて困るんですけど?というと、あなたたち二人は友人なのでしょう、
あなたのカメラで二人分撮ればいいのでは?二人一緒に撮りたいときは、我々
がカメラマンを買って出ますし。いやでも、さっき入れ替えたばかりのフィルム、
当分使い終わらないですよ。じゃあ、残りは巻き取ってしまうか適当に写真撮
っちゃうかして出してください、こちらで新しいフィルムを買って弁償します。
えー、でも私たちが使っているフィルムはアーサー400という特殊なフィルムで、
中国には売ってないんですよ。それって日本でいくらしたんですか?その特殊
フィルムの代金、払いますよ。

 その依頼はちょっと難しい、といろいろに理由を並べて遠まわしにお断りして
も、ならばと代案が出されるばかりです。友人は貸す気はまったく無いらしく、
いつの間にか食い下がる部下のおじさんとの間の通訳係りになってしまっている
私、板ばさみになってホトホト困り果てました。婉曲でだめならストレートに言
うしかないと、彼女はまったく貸す気ないみたいですよ、残念ですがお手伝いで
きませんというと、今度は泣き落としでこられちゃいました。

 「実は私だって、こんなお願いは不躾だとわかってます。でも、市長は本当に
ただカメラが好きなだけなんですよ、絶対壊したりなんかしませんから。私が手
ぶらで帰れば能無しの部下だということになってしまう、お願いだから私の苦し
い立場を理解してください」
・・・・・こうしてさっきから、延々通訳させられている私のしんどい立場も理
解していただきたい・・・・・。

 その後も数度、派遣されてきては中国式宮仕えのツラさを切々と訴えられまし
たが、持ち主が首を縦に振らないのではどうしようもありません。結局最後まで
お断り通しました。いま思い出してもどっと疲労感が押し寄せてくるような、ひ
どく疲れる交渉ごとでした。中国の縦社会とか、派閥関係でうまく上層部に取り
入らねば云々といったお話も、滅多に聞けるものではないので勉強にはなりまし
たけどね〜。

 しかしこの交渉人氏、宮仕えの苦労を嘆きつつも、けっこうチャッカリもして
いましたよ。市長の代理で交渉に来ておきながら、彼自身のお願い事も、ついで
に頼みこまれちゃいましたから。自分は推理小説が好きで、中でも松本清張を愛
読している。もちろん自分が読んでいるのは中国語の翻訳本なのだが、原書を一
度、見てみたい。あなたが留学を終えて帰国してからで構わないので、私にどれ
でもいいから日本語の彼の小説を2冊ほど送ってきてくれないか。本当に彼の小
説は素晴らしくて大ファンなんだ、ぜひぜひお願いする。と、これも何度も何度
も頼まれました。カメラの件でずっと断り続けていたため、これ以上断りきれず、
こちらはついつい安易にOKしてしまいました。

 北京に戻ってから、オリンパスの最新型ほどお気に召さなかったようではあり
ますが、市長さんも私のカメラで試し撮りをした写真の写り具合を見たかろうと、
彼ら一行が写っているものも含めて焼き増しして送ってあげたのですが、受領
の返事も彼らのカメラで一緒に撮ったはずの写真も、何一つ反応は返ってきませ
んでした。よく考えたら本代だって寄越してこなかったんだし、送った写真のお
礼の一言も返してこないんだから、もういいや。と、本は結局送っていません。

やっぱりカメラを借りられなかったことでご不興を買ったからかな?それとも市
長などとお偉い立場になると、人から何かをもらうのは当たり前になっちゃって
いるのかな。でもこちらばかりが出し続ける理由は無いよね、ギブ&テイクにな
ってないもの。・・・・・とは思うものの、小心者の私、あれから10年以上経っ
た今でもこの反故にした約束が気にかかり、時々思い出しては悶悶としているの
です、実は(笑)。
         (筆者は在中国・深セン日本語教師)

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■【北から南から】
大阪から  高齢者だって喧嘩もすれば恋もする    除 正 寓 
   ―八尾オンドルパンのハルモニと私の奮戦記―(その4)
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1.ここまでやるか!?オンドルパンの生活相談
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  私はオンドルパンでは代表とともに生活相談員という仕事をしています。生活
相談員とはデイサービス(通所介護事業所)や特養(特別養護老人ホーム)で。
利用者の介護計画を作成したり、ケアマネ(ケアマネージャー・介護支援専門員
)と連絡を取り合って情報交換を行うことにより、より適切な介護を実現する仕
事です。とはいっても、現実には利用者の送迎や介護の補助に入るなど、なんで
もありの仕事です。

 私の場合もやはり、なんでもありの仕事をしています。オンドルパンに通うハ
ルモニたちは以前も紹介したように、設立当初から毎日のようにデイサービスに
来ているため、家族のような関係にあることから、さまざまな相談が寄せられま
す。たくさんの相談が寄せられるということは、それだけ信頼関係が深いという
ことなので、私としてもやりがいがあります。ただ、相談の内容はほかの施設と
はかなり異なる側面があります。

一言で表現すれば、在日コリアン特有の生活の問題です。以下具体例を紹介し
ますが、これらの多くは介護保険制度に定められた生活相談の域を超えたもの
ばかりです。しかし、これらの相談に取り組まなければ、ハルモニたちの介護
にも支障をきたすので、文字通り、なんでもありの生活相談を日々行っていま
す。ケアマネさんからは「ここまでやるんですか?」と驚かれることもしばし
ばですが、そのことで信頼を寄せてくれる場合もあります。
いわば生活丸抱えの介護というわけです。

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2.年金と生活保護
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  オンドルパンのハルモニたちにとって、生活上最も深刻な問題は年金です。こ
れには少し説明が必要です。日本の年金制度は大きく二つあります。ひとつは被
用者年金。これは読んで字のごとく、被雇用者、つまり事業所に雇われている人
たちが加入する年金のことです。一般的には厚生年金と呼ばれています。この厚
生年金には、そもそも国籍条項(国籍による排除)がなく、在日コリアンも加入
は可能でした。しかし、オンドルパンのハルモニたちが元気に働いていたころの
時代は、厚生年金が完備された事業所に雇用されること自体が困難でした。いわ
ゆる就職差別の厳しかった時代です。

 1959年、政府は国民皆年金を実施するため、事業所に雇用されていない自
営業者、個人商店経営者、農家等を対象に国民年金法を成立させました。在日コ
リアンはここで救われなければならなかったはずなのですが、この肝心な国民年
金には加入に際して日本国民であることを条件とする国籍条項が付されました。

ここから在日コリアンの無年金問題が始まります。日本人でも無年金の人はいま
すが、年金に加入する資格があったのに、保険料を払わなかったために無年金に
なった場合が大半で、加入そのものが閉ざされていた在日コリアンとは場合が異
なります。このように制度から排除された在日コリアンの場合は一般的に「制度
上の無年金者」として日本人の場合とは区別されます。

 話を元に戻します。高齢で働けなくなった人たちは通常年金で生活をたてます
が、無年金の場合は生活保護しかありません。ここで問題が起きます。生活保護
は世帯全体の収入を合算し、その額が世帯全員の最低生活費(法律で定められた)
を下回った場合に対象とされます。すると子ども世帯と同居していた場合、収
入のない高齢者だけを対象に審査できないので、ほとんどの場合は生活保護の対
象になりません。収入のない高齢の親の生活を支えるのは相当な負担になります。

特に医療や介護にかかる費用はかなりの高額になるため、子どもに相当な収入
がない限り、共倒れの可能性もあります。そこまでいかないとしても、子ども世
帯との間に微妙な溝ができギクシャクした関係になることも少なくありません。
そのため、多くの場合、生活保護を受給するためにあえて子ども世帯と別居しま
す。世帯が分離されれば、子ども世帯の収入は関係がなくなりますので、高齢者
自身が無収入であれば容易に生活保護が認められることになるからです。

 今まで数多くの生活保護の相談にかかわりました。相談というよりも事実上の
代行です。なぜなら、ハルモニたちは読み書きができないため、生活保護の申請
方法をまったくといってよいほど知りません。そのため、相談を受けて市役所の
生活福祉課につなぐだけではなく、その間の書類の収集、事前の調整に取り組み
ます。

今では、市役所の担当者も私に信頼を置いてくれているようで、大体の手続き
関係は私が事実上の代行を行うことを認めてくれています。とはいっても、
担当者にすれば日本語が不自由で、読み書きのできないハルモニたちとの面接は
大変苦労するので、私のような中間アクセスの存在を重宝がっているようです。
私にしては、本来市役所の担当者がなすべき仕事を無報酬で担う必要などないの
ですが、申請に際して微妙な問題が生じたとき、ある程度は私の裁量に任せてく
れるので、ギブアンドテイクみたいなものです。そんなこんなで、今ではオンド
ルパンのハルモニたちの過半数は生活保護を受給するようになりました。

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3.闇金、悪徳リフォーム業者、SF商法(宣伝)との対峙
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  高齢者につきまとう悪徳商法はご他聞にもれずオンドルパンのハルモニたちに
も被害を与えています。4年前のことですが、いつも通っているハルモニが食事
代を払えないといいだしたので、なぜかとたずねると毎月の支払いがきついので、
手元にお金が残らないとのこと。このハルモニも生活保護を受給しています。

よく聞くと、借りた金を返しているとのことなので、良かったら借用証を見せて
ほしいと言ったところ、なんと借用書がないとのです。借りた金額とこれまで返
した金額を比較すると、とうの昔に返済は終了しているはずです。それでもなぜ
払うのかと聞くと、期限に遅れると電話で怒られるから仕方がないと言うのです。

そこで私は業者の電話番号を聞いて連絡し、今後は私が代理人として責任を持
つので、直接当事者には連絡しないよう要請するとともに、家の玄関前に私が代
理人である旨の書類を貼り付けておきました。一度だけ業者から私に電話があり、
凄んだ声で脅しをかけてきたので、私も負けずにそれ以上に凄んだところ、相
手は電話を切り、その後一切連絡をしてこなくなりました。悪徳リフォーム業者
の場合も同様でした。私たちの年代なら、なぜこんなことでお金を払うのかと理
解に苦しむようなケースでも、高齢者は必要以上に不安を感じてお金を払ってし
まうようです。

 SF商法、いわゆる催眠商法の類です。ハルモニたちの間では、通称「宣伝」
とよばれています。高齢者を会場に一定時間隔離し、最初は無料でさまざまな商
品をプレゼントし、催眠状況に陥らせた後に、高額な商品を買わせるという商法
です。オンドルパンのハルモニの中にも、15万円の健康食品を購入させられた
人がいました。このハルモニの場合は、この健康食品を食べてから下痢が止まら
なくなったことから、私に相談がありました。当初はなかなか言い出せず、罰が
悪そうにしていました。というのは私たちが常々宣伝には行かないようにと注意
していたからです。これは本人からの申し出で比較的容易に返品できました。

 中には、子どもが高齢者のお金を狙って実の親を虐待するといったケースもあ
りました。これは日本人の男性利用者のケースです。父親に年金があることを承
知した上で、ある日突然に父親のアパートに押しかけて無理やりに同居し、年金
が振り込まれる通帳を取り上げ、父親には満足な食事さえ与えなかったケースで
す。典型的な虐待事例です。困るのは、ケアマネや周辺の福祉関係者が、この息
子を怖がって有効な手をうてないことです。やむなく、オンドルパンのスタッフ
(といっても私の息子たち)が直接息子に会って談判し、ときには強い姿勢で迫
って、息子を追い出しました。

 これは日本人、在日コリアンに関係なく共通の問題ですが、親族内の虐待につ
いては、これといった直接効果のある手法がとれず、結局のところ人間と人間の
ぶつかり合いでしか解決できないケースが大半のような気がします。逆にぶつか
り合いができない高齢者はいつまでたっても救われないというのが現実です。私
たちが行っているぶつかり合いは、それなりに効果がありますが、それをすべて
の介護施設で行えるかというと、はなはだ疑問です。制度や法律ではやはり限界
があるということです。さりとて、役所や警察に強力な権限を持たせることには
賛成できません。大事なことは、地域で制度や法律の趣旨を具現化しうるような
自主的な中間組織(アクセス)が活動することではないでしょうか。

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4.本当の生活相談とは
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  生活相談という仕事をしていて常々疑問に思うことは、役所にある生活相談窓
口はいったい何をしているのだろうか、ということです。最近は人権相談という
案内がしきりに市政だよりに掲載されています。オンドルパンのある八尾市では
八尾市人権協会という市の外郭団体が市から委託を受けて相談事業を行っていま
す。オンドルパンはここの相談窓口を利用したことはありません。なぜなら、ハ
ルモニたちの相談というのは、往々にしてその背景に行政の無策、怠慢、とき
には差別が横たわっているからです。そんな相談を市の外郭団体にもちこんだ
ところで、逆に押さえ込まれるのは火を見るよりも明らかです。先に紹介した
生活保護にしても、根源は行政が在日コリアン高齢者を無年金状態に陥れた結
果です。本質的解決は生活保護ではなく、年金の支給のはずです。しかし、こ
んなことを市役所の相談窓口に持ち込んだところでどうにもなりません。
  オンドルパンの生活相談とは権力との闘いなのだと思うのです。

(筆者は八尾オンドルパン(通所介護・訪問介護事業所)代表・生活相談員)

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■【オルタのこだま】
  関西オルタの会に参加して 〜朝の榊原温泉で〜     木村 寛
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我々の世代(1940年代生まれ)は何をしているのか?          
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  いつものように朝五時前に目が覚めたので外へ出てみた。まだ真っ暗で、一度
覚えると忘れられないオリオン座が大犬座、子犬座と冬の大三角形を作って南の
空に輝いていた。雲があったので北斗七星も月も見えなかった。
 
  突如静寂を破って太鼓の音が響き始めた。宿舎神湯館の隣の式内社射山神社か
らのものである。三拍子といえばいいのだろうか。二つの大きな連続音の間に小
さな音が一つ挟まった独特の調子で、まるで朝の到来を告げ知らすように鳴り響
いていた。数分間の太鼓の音が鳴り止んでも依然空はまだ暗かった。
 
  温泉地域を抜けて少し東の方に歩いていくと開けたところに出た。明けの明星
が東の空にひときわ明るく輝いている。数年ぶりに見る朝の金星だった。太陽の
進退と常に行動を共にする、この地球の隣の内惑星の挙動は古代から天文学者の
たちの注意をひいた。
 しばらくすると地平一面に夜明けの曙光が輝き始めた。ほどなく太陽が顔を
出すかと思ったのだがなかなか現れず、夜明けには曙光から太陽の出現までなぜ
か待ち時間のあることがわかった。
 
  太陽が昇りはじめて東の空が格段に明るく輝きだしたころ、反対側の山側の空
を見ると大きな虹がかかっていた。前日の雨で発生した水蒸気が虹を発生させた
のだろう。低い山の頂から大空まで、半円以上に大きな3/4くらいの円弧の虹で
ある。夜明けにできる虹を見るのは初めての体験だった。
 
  虹に関して言えば、私は旧約聖書の創世記、ノアの物語の中の虹(9-13)ー虹は
神と人間との契約のしるしであるーを思い起こす。私の知る限り、虹をここまで
宗教論理的にとらえた神話はない気がする。それはつかの間に消えうせるが故に
しるしでしかない。
 
  もし夜明けが明けの明星、曙光、太陽の出現、虹の発生で始まるとすれば、そ
れらを見る人々にとってはその日がどんなに厳粛なものに感じられることだろう
か。温泉街の雰囲気さえ微塵も無い榊原温泉の素晴らしい夜明けは忘れていたも
のを久しぶりに思いおこさせる朝であった。
 
  今回出席の人たちは1925年前後の世代と1930年代前半の世代だけで、私の世
代は私を除いて一人もいなかった。1969年には労働組合運動は既に退潮期に入っ
ていた(会社の組合電機労連では社外活動で逮捕された反戦派労働者のパージ(前
原事件)が起きたし、其の後沖電機では指名解雇も起きた)ので、あまり楽しい記
憶もない。しかし1940-1949年生まれの世代が60歳以上となった今、我々の世代
は私的埋没状況から脱出して先輩の世代に負けない活動をすべきではなかろうか。
そこには継承という問題ー誰から何を継承するのかー
( 北岡和義 編「政治家の人間力」もその応えの一つである)が存在するし、また
内村鑑三の言う「後世への最大遺物」問題が我々に突きつけられている気がした
榊原温泉での集まりであった。
 
  日高六郎編「戦後日本を考える」筑摩書房、1986の帯封には「事実の発展が
認識の進展を上回った時代をどう捉えるか」とあって、共著者は1930年前後生ま
れの人たちなので、この本は我々にとっては一つの里程標である。我々世代自身
の里程標を立てることなしに我々が消えていっていいものだろうか。それは歴史
と自分への裏切りである気がする。
              (筆者は堺市在住・麦の会共同作業所顧問)

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俳句                 富田 昌宏
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  賜はりし古書の重みや文化の日

 投函の封書の音や今朝の冬

 田も山も無言の構へ冬に入る

 ◎(亡妻の思い出)
  笹鳴や赤子まさぐる乳房(ちち)の張り

 研ぎ上げし古刀まぶしや笹子鳴く

 笹鳴や息止めて撮るレントゲン

 ◎(烏山市和紙会館)
  冬ざれや和紙漉く職人(ひと)の水さばき

 丹の千本に遊ぶ雀や神の留守

 里山に狸顔出す小春かな

 ◎(烏山市島崎酒造)
  洞窟に貯蔵酒眠る去年今年

                (俳句結社「渋柿」同人代表)

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  川柳                      横 風 人
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  顔かくし 個人情報 たれ流す

 「革命」に ついて回るか 「反動」の芽

 仕分けても 現場見せない 隠れミノ

 携たいの 機能を追って 途に迷う

 苦しくも 社会の偽善に 我れ向う

 便利さの 中に寝ている CO2

 オリンピック 懲り願望 根はどこに

 政治では 科学と技術 なぜ一緒

 戦力が 平和構築 夢の夢

 金持てど 逝く途険し 医・福壁


                                                     目次へ
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【編集後記】 
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◎ アメリカ大統領とマスコミとの間には就任後100日のハネムーン期間がある
といわれる。日本の鳩山新政権も発足してその3か月が過ぎた。新政権の出足は
快調で70%台と歴代2位の高支持率を得た。しかし首相個人の資金問題、郵政人
事、地球温暖化、事業仕分け、八つ場ダム、普天間、予算編成など次々とマスコ
ミに叩かれ、最近は60%を割った。しかし沖縄の普天間については「日米関係の
危機」を煽り、「日米合意」の履行を強く迫るというマスコミの声高な論調にも
かかわらず国民世論は意外に冷静で、時間をかけても県外・国外移転を支持する
という意見が50%を超え根強い。これを受けたかのように政府は先送り方針を決
め、地元の宜野湾市長は米軍の「グアム環境影響調査報告書」をもとにして与野
党の国会議員にグアム移転の可能性を説き始めている。
   
長い間、自民党政権の対米追従姿勢に慣れきってしまった日本のマスコミは来日
したゲーツ国防長官の恫喝や非礼を指弾しない。それどころかアーミテージ元国
務副長官、グリーン元ブツシュ政権安全保障会議日本部長など「日米安保マフイヤ
」と呼ばれる「知日派グループ」と組んで、「安保評論家」の常連を使い、彼
等が唱える「アメリカの意向」に沿って日本政府批判を続けている。情けない
話である。
   
近来しきりに産経・毎日にとどまらず大新聞の経営危機説が伝わる。国民目線か
らすれば、速報性ではデジタルメデイアに適わず、世界の現状認識では米国一極
時代の「日米関係」枠内に思考が停止し、発想が冷戦時代から抜け出せない大新
聞(東京新聞など地方紙は除いて)・TVの貧困な構想力を見るとその危機は当
然のように思える。
 
◎ 大事な局面にさしかかった普天間基地問題については先号(オルタ71号)
の吉田健正氏による『見直すべし沖縄パッケージ合意』論文に引き続き、今号で
も同氏による『安保基地の島・沖縄』を載せ、沖縄米軍基地の実態と移設の問題
点を詳らかにした。さらに【運動資料】としてアメリカ海軍が作った「合同グア
ム・プログラム・オフイス」で公表された『沖縄からグアムおよび北マリアナ・
テニアンへの海兵隊移転の環境影響評価・海外環境影響評価書草案』(約8100ペ
ージ)を吉田氏に緊急要約を要請し、米軍が普天間基地のグアム移転を予定して
いたことを明らかにして頂いた。この資料が普天間基地の県外・国外とくにグア
ム移転に役立っことを願いたい。
 
なお、この【運動資料】には載せられなかったが吉田氏からは「環境影響報告
書」には『基地建設にはグアム住民だけでは対応できないので外部からかなりの
工事労働者を入れる計画が書かれ、また他のサイトには基地工事に関する入札案
内もでており、米国の防衛産業もかなり加わっていると思われる。そして米上院
もグアム基地工事予算を承認したというのであれば、米国が簡単に計画を取り下
げるとは思えない。とのご意見が緊急に寄せられている。』

◎ アメリカの公文書で日米沖縄密約の存在が明らかになり、新政権の岡田外
相が検証を命じ、密約訴訟も進行するにつれ外務省元高官達が証言を始めた。こ
の問題は歴代自民政権の国民に対する嘘を白日の下に晒すだけでなく、次の段階
では非核三原則堅持の原則を確認するという重大な政治課題なのである。これに
ついてはオルタ67号の「沖縄密約事件の現在〜情報公開請求訴訟をめぐって」に
引き続き、同じく北岡和義日大特任教授に「沖縄密約37年目の真実―普天間問題
の原点」としてご寄稿頂いた。   
   
◎ 今や無駄な公共事業の典型として、その政・官・業癒着の構図が国民の前
に明かされつつある八つ場ダムについては、オルタの先号で拓殖大学の関良基氏
にその代替案を論じて頂いた。今号でも民主党大河原雅子参議院議員に党公共事
業検討小委員会事務局次長として予算編成など超多忙の中を「八つ場ダムはな
ぜ中止しなくてはならないか?」との論考を頂戴した。大河原議員は生活者
ネットの東京都議会議員時代から八つ場ダム問題に取り組み、07年に参議院議
員になってからは党の実務担当者として活躍されている。

◎ 密室で行われてきた予算編成を「可視化」したとして多数の国民から支持
を受けた新政権の「事業仕分け」も個々に見ると問題が多い。勿論、捉える角度
でそれぞれに議論の余地はあるにしても「有機農業支援」についてはどうであろ
うか。
茨城県で有機農業に取り組みながら「農業は死の床か再生の時か」を「オルタ」
で毎月論じていただいている濱田幸生氏から「事業仕分け」の問題点を厳しく指
摘し、政策修正を強く要請する提言があった。安心・安全な食を求める消費者の
視点からだけでなく、環境先進国を目指す日本の農業戦略にとって、「有機農業」
の位置付けはどうなのか。今、政権の構想力・実践力が厳しく問われている。

◎ 11月20日東京・銀座の楼明館でロゴス社主催の『深津真澄さんの石橋湛山
賞を祝う会』があり出席した。オルタ執筆者深津氏の「近代日本の分岐点」(ロ
ゴス社刊)が第30回石橋湛山賞を受賞した祝賀会で司会者は朝日新聞主幹若宮啓
文氏、乾杯は松山幸雄氏などTVやコラムニストとして活躍している朝日新聞の
現役・OBなどが中心で30数人が集まり心から深津氏の受賞を祝った。

◎ 12月8日東京・田町の東京工業大学キャンパスの第4回公共哲学カフエ・「
鳩山内閣と日米同盟の行方」というシンポジュウムに参加した。メーンスピーカ
ーは小泉政権のイラク出兵に反対し、レバノン大使を辞職した元外務官僚天木直
人氏でゲストスピーカーは「週刊金曜日」で健筆を振るう成沢宗男氏、コメント
は千葉大宮崎文彦氏、コーデイネーターは赤羽高樹氏などであった。

◎ 12月11日東京九段で初岡昌一郎氏が主宰する「ソーシアルアジア研究会」
がありILO理事中嶋滋氏の「国際労働運動とILO」という報告があった。会
には国際労働問題の専門家が多数参加し活発な討議が行われた。なお、この報
告の要旨は「オルタ」1月号に掲載の予定である。 

◎ 12月12日東京・明治大学で、「伊達判決を生かす会」と「現代史研究会」
が共催する「日米密約の全面公開を要求する集会」に参加した。砂川基地拡張反
対闘争・伊達判決・米国公文書発見・情報公開などについての報告と各団体から
の意見表明があり、琉球大学教授我部政明氏(伊達判決に関する米国政府公文書
発見者)による「日米密約をめぐってその意味を問う〜砂川・安保条約・沖縄〜
」という基調講演があって最後に集会アッピールを採択し盛会裡に終了した。

◎ 久保孝雄氏のオルタ69号の論文『「地殻変動」はなぜ起きたか。−「政権
交代の意味を考える−」が中国の幹部向け雑誌「領導者」(第30期)に訳載され
た。これで2回目だが前回(オルタ61号「日本沈没を防ぐ年」)の論文が高く評
価されたからだというから嬉しい。オルタ71号吉田健正氏の「見直すべし沖縄パ
ッケージ合意」もロゴス社発行の雑誌「Plan B・25号」に転載される。また関良
基先生のブログにオルタはリンクされた。関先生のブログは建設的な提言が満載
されているのでオルタの読者からも大いにアクセスして欲しい。
(http://blog.goo.ne.jp/reforestation/m/200912)

◎ 今月で西村徹先生の「臆子妄論」・荒木重雄先生の「宗教民族から見た同
時代世界」はしばらく休載となり「臆子妄論」はタイトルを変え随時掲載となり
ます。長い間のご執筆を読者とともに心から感謝いたします。

◎ 今年も毎月無事に定日発信をすることが出来ました。執筆者・HPを更新
してくださる西風陽子・増野潔氏、そして励まして頂いた読者各位に深く感謝
致します。来年も一層の充実に努めますので宜しくお願いします。
皆様よいお年をお迎え下さい。

               (加藤宣幸記)
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