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◎新政権は沖縄県民の要求に応え粘り強く交渉して欲しい。
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■ 見直すべし沖縄パッケージ合意 吉田 健正
(A Voice from Okinawa (4))
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政権交代で誕生した新政権が日米合意などを検証(レビュー)するのは
"completely appropriate(「至極当然」)"-米国のオバマ大統領は、来日前のNH
Kとのインタービューで、日米同盟堅持の重要性を強調しながらも、日本の政権
交代による普天間海兵隊基地移設を含む在日米軍再編ロードマップ(行程表)合
意の見直しに理解を示した。ブッシュ政権を引き継いだ彼自身が、多くの政策転
換(「チェンジ」)を余儀なくされたからだ。11月13日の鳩山・オバマ会談のあ
との共同記者会見でも、鳩山が「前政権の日米合意は重く受け止めている。ただ、
総選挙の時に『県外・国外』と言ってきた。沖縄県民の期待も高まっている」
と合意見直しの意向を示したのに対し、大統領は「政権が代わって見直しするこ
とは率直に支持する。(見直しに伴い、米軍再編合意の)ロードマップ(行程表)
の修正が必要になることもあり得る」と現行案の変更に柔軟な姿勢を見せた。
これで、新政権発足後の2か月間、合意見直し→県内・県外・国外をめぐって
北沢防衛大臣や前原沖縄担当大臣の相次ぐ沖縄訪問、仲井真県知事の「県外がベ
ストだが、県内もやむなし」発言、ゲーツ国防長官の来日と「普天間移設なくし
て在沖海兵隊員のグアム移転なし、グアム移転なくして(嘉手納以南の)基地の
整理縮小(土地返還)なし」発言、岡田外相の「県外は、選択肢として考えられ
ない」発言に続く嘉手納空軍基地との統合案提示、県内移設後の輸送機の岩国基
地移転や在沖米海兵隊員とその家族のグアム移転を定めた現行ロードマップ合意
は民主党公約に反せずという北沢防衛相の発言、嘉手納統合案や現行合意踏襲案
に抗議し普天間基地の県内移設に反対する県民大会……と狂騒劇の観を呈してい
た普天間基地移設問題は、ようやく外交的解決へ向けて動き出した。
両首脳が「対等なパートナー」としての日米関係の重要性を強調し、日米同盟
の建設的・未来志向的「深化」や来年で50周年を迎える日米安全保障条約の再検討
を約束する中で、普天間基地移設問題を閣僚級作業グループの協議を通じて両政
府が決着をつけると合意したことは、大きな前進と見るべきであろう。結論が、
鳩山首相の言う「沖縄の民意」を踏まえたものになるか、オバマ大統領が望まし
いという「日米合意に基づく(キャンプ・シュワブ沿岸部への)移設計画の履行
」になるのか、今後の交渉を見守る必要があるが。
鳩山民主党政権は、日本の「戦後」に区切りをつけ、「主体的外交」「対等な
日米同盟関係」を進めるためにも、「民意尊重」に基いて「沖縄の負担軽減」
を実現する意欲を失ってはならない。それこそ、政権交代の大きな意義だ。
本稿では、米海兵隊が普天間基地や沖縄に駐留する必然性がほんとうにあるの
か、なぜ普天間基地は県内・辺野古に移設されることに決まったのかを中心に検
証する。鳩山新政権は、小泉・ブッシュ政権の日米合意が沖縄に押し付けようと
した日本政府の資金支援による「沖縄パッケージ」(普天間基地の県内移設→在
沖海兵隊員と家族の大幅グアム移転→嘉手納以南の基地の整理縮小)を打ち壊し
て、県内移設を伴わない、つまり前提条件なしの普天間基地の早期撤退・海兵隊
部隊のグアム移転・嘉手納以南の基地整理縮小を求めるべきだ、というのが本稿
の趣旨である。それは米国が進めてきた軍事トランスフォメーション(世界的な
軍事変革・再編)計画にも沿っており、包括的な日米関係を傷つけ、地域の平和
と安定を損なう可能性も少ない。
■【普天間基地と県内移設候補地】
今回争点になっている普天間海兵隊航空基地は、沖縄本島中部・宜野湾市のほ
ぼ中央の市街地にフェンスを隔てて隣接する。沖縄本島上陸直後の1945年4月、
米軍が日本本土攻撃のためのB29、B32重爆機発進基地として建設したもので、朝
鮮戦争やベトナム戦争でも活躍した。現在は第1海兵航空師団第36海兵航空群と
佐世保を母港とするヘリコプター空母・エセックスの艦載機部隊が配置されてい
て、長さ2,800メートル、幅46メートルの滑走路を、ヘリコプター、空中輸送兼
給油機などが連日、密集した住宅地上空で爆音を立てながら低空離着陸訓練を続
けている。
通常の飛行場と違って、「内」と「外」との間にクリアゾーン(安全地帯)が
なく、しかも海に向かうはずの滑走路が旧軍道1号線(現国道58号線)と住宅街
の間をそれらに並行していること、すなわち普天間基地を離陸した米軍機の訓練
飛行地帯が必然的に住宅街上空になっていることが、危険を高める。2004年に訓
練中の大型輸送ヘリが、住宅側フェンスに隣接する沖縄国際大学構内に墜落・炎
上したが、いつ再び近辺の学校、病院、ガソリンスタンド、アパートなどに墜落
しても不思議はない状況だ。中東などの戦場へは、普天間基地の輸送機や東岸の
ホワイトビーチに停泊する航空母艦で出撃する。
日米合意では、普天間基地の移設は、沖縄本島北東部の辺野古岬とこれに隣接
する大浦湾と辺野古湾の水域を結ぶ形で設置し、それぞれ1600メートルの2本の
滑走路がV字型に配置されることになった。辺野古沖には、キャンプ・シュワブ
の水陸両用訓練場が広がる。潜水艦が寄航・停泊するのに便利な深い大浦湾もあ
る。
周辺には広大な北部(ジャングル)訓練場、辺野古弾薬庫、都市型射撃(対テ
ロ)訓練施設、兵舎や病院・銀行などを備えた実弾射撃演習場キャンプ・ハンセ
ン、沿岸上陸作戦訓練場などいくつかの海兵隊基地、さらには海域・空域演習場
もあり、海兵隊にとってはほぼ理想的な場所だが、かつて地域住民の重要な漁場
だった一帯は、絶滅が危惧されているジュゴンの棲息地としても知られる。移設
予定地の近くには、沿岸に沿って辺野古をはじめ豊原、久志、二見、大浦、瀬嵩
などの古い集落も点在する。
■【岡田「沖縄に海兵隊がいなくても抑止力は失われない」】
岡田外相は、11月4日の衆院予算委員会で、「海兵隊が沖縄になくても抑止力
が完全に失われることはない。(中略)日本以外で海兵隊の大部隊が米国本土以
外で展開している地域があるのか。基本的には米国本土に置いてある」と述べた。
国防総省の資料(08年3月)で海兵隊の国内外配置状況を見ると一目瞭然だ。
米国・米国領141,526人(本土103,978人、ハワイ6,150、一時滞在31,348人)、
ヨーロッパ804人(ドイツ258人、スペイン147人、英国72人)、東アジア・太平
洋15,006人(日本14,062人、韓国537人、フィリピン122人)、北アフリカ・近東
・南アジア4,742(洋上4,345人、バーレーン137人)、サブサハラ・アフリカ958
人、米国を除く西半球338人(キューバのグアンタナモ134人)、末配置25,873人。
岡田の指摘通り、ほとんどが米国に駐留しており、海外では日本が突出してい
る。しかも、在日海兵隊の大半12,402人は沖縄に駐留している。ハワイ駐留の6,
150人のほぼ2倍だ。米国領グアムに駐留している海兵隊はわずか9人に過ぎない
(空軍は1,615人、海軍は1,105人)。米領サモアは2人。沖縄・うるま市のキャ
ンプ・コーテニーには3つの米国海兵遠征軍のひとつ、第3海兵遠征軍が司令部
をおき(3つのうち海外に司令部があるのは第3海兵遠征隊のみ)、沖縄を中心
とするほぼすべての在日米海兵部隊を指揮下において、イラク戦争で「主要な」
役割を担っている。
2004年以来現在まで、沖縄を基地とする第3海兵師団、第3海兵兵站群、第1海
兵航空団から「何千人もの」海兵隊員がイラクとアフガニスタンに展開した
(米軍の準機関紙「星条旗」、11月9日付)。在沖海兵隊員のほぼ7割は2年間
の単身赴任か3年間の同伴赴任で、残り3割は米本土やハワイの本拠地(ホーム
ベース)から6か月間、訓練のため部隊単位で移動してきた歩兵や航空兵だと
いう。
「海兵隊が沖縄になくても抑止力が完全に失われることはない」のなら、日本
政府は普天間航空基地を含む在沖海兵隊の「すべて」の撤去を求めても不思議は
ない。海兵隊は空・海から緊急展開が可能な部隊だから、後方(米国本土かハワ
イ)、あるいはグアムやミッドウェイ環礁島に移転しても、米国の戦略には支障
を来たさないだろう。そもそも、グアム移転は、後述する「トランスフォメーシ
ョン」で予定されていたと考えるべきだ。米軍の沖縄県内移設もグアム移転も、
日本政府が巨額の経費を負担するのだから、米国としては「在日米軍再編ロード
マップ」に沿って県内移設(による施設の近代化)もグアム移転もやりたい、と
いうことだろう。合意文書そのものが英語で書かれ、日本文は仮訳に過ぎない。
日米関係の不平等性を象徴的に示している。
鳩山政権としては、自民党長期政権の下でマスコミや多くの国民が共有してき
た対米依存症とでも言うべき精神構造を背景に交わされた現行日米合意を、切り
崩し、日本を変えたい。しかし、「県内」「県外」「国外」という方向性のはっ
きりしないレッテルによって、国民や沖縄県民だけでなく、米国政府まで混迷さ
せたようだ。
これら三つの選択肢のうち、「県内」移設には、60年間も巨大な米軍基地を抱
えてきた沖縄住民の強い反対があり、連立3党合意の「沖縄県民の負担軽減」に
も反する。「県外」すなわち沖縄以外の日本というのは、米ブッシュ政権と「ロ
ードマップ」合意を交わした小泉首相が「総論(安保維持)賛成、各論(基地負
担)反対」という言葉で説明したように、本土他府県が移設受け入れに反対して
きた。北朝鮮脅威論や中国脅威論を唱える人々からも、普天間基地を北朝鮮や中
国に近い日本海沿岸、あるいは日本の人口・政治・経済・交通・文化・学術の中
心地である関東地方に移設すべしという声はない。
残った選択肢は「国外」移設、すなわち、米国に普天間基地を日本国以外に撤
去してもらうことである。日米安保条約第6条によれば、米国に基地を提供する
のは日本であって、米国に決定権はない。決めるのは日本政府だ。しかも、日本
は、今や世界軍事費10大国に入っており、在日米軍がなければ「専守防衛」さえ
できないほどの無防備国ではない。しかも、「好戦の共和国」(油井大三郎)と
称される米国のレンズさえ外せば、一部の「脅威論」を除いて日本周辺も安定し
ている状況にある。米国が普天間基地を日本国外のどこに移設するのか不明だが、
トランスフォメーション計画に従えば、また岡田の「(海兵隊は)基本的には
米国本土に置いてある」という事実からすれば、米本土かハワイへの移設が考え
られる。
「主体的な外交戦略」や「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直し
の方向」というマニフェスト、さらに選挙前に「(移設は)国外。最低でも県外」
と公言した鳩山代表の言葉でスタートした鳩山政権。その言葉通り、小泉政権
の下で「同盟関係にとって死活的な在日米軍のプレゼンスを確保」するためとい
う名目で、しかし明らかに米国の意向に沿って作成された在日米軍(及び関連自
衛隊)再編ロードップは、果たして正当かつ必要なものだったのか。政府は、米
国のトランスフォメーション計画や上記の米国防総省の海兵隊配置数字などを念
頭に、日米合意、特にその「沖縄パッケージ」を根本的に洗いなおすべきであろ
う。
普天間基地移設と「パッケージ」にされた海兵隊員とその家族のグアム移転
や、移転後の嘉手納以南の施設の整理縮小と土地返還も「トランスフォメー
ション」の一環としてそのまま実施してもらえばよい。基地整理縮小と海外配
置部隊の本国・米領引き揚げは米国として予定内のことであり、困ることはな
いはずだ。
日米同盟は「強化」ではなく、「正常化」への道を探るべきだろう。日米関係
は、安全保障条約だけで成り立っているわけではない。経済・貿易関係、歴史的
関係、文化・スポーツ・技術・学術などの交流、観光、そして国連などの国際機
関や多国間協議を通じた関係……ときわめて多様で多角的だ。安保だけで日米関
係を見るのはきわめて視野狭窄的になり、軍事超大国・米国への「隷属意識」を
醸成してしまう。この際、冷戦時代の締結から来年で50年を迎える日米安全保障
条約も、米軍を治外法権的に優遇する日米地位協定にもメスを入れるべきだ。
■【優先すべきは日米ロードマップ合意か沖縄の負担軽減か】
これまでの2か月間、岡田外相と北沢防衛相を混乱させた最大の「功労者」は、
皮肉なことに、地元の仲井真知事であっただろう。衆議院選挙で沖縄の4候補
とも「県外移設」を掲げて選出され、世論調査でも約70%の県民が県外を支持し、
県議会やいくつもの市町村議会が県外移設を要請する決議をしていた。すなわ
ち「県外」(=沖縄からの撤去)は明白な「民意」であったに。にもかかわらず、
3年前の県知事選挙で当選直後に浮上した日米ロードマップ合意による辺野古
沖合移設案を受け入れていた仲井真は、今回訪沖した各大臣に「県外がベスト」
だが、これは難しいから早期移設を実現するための「現実的対応」として県内移
設を容認するという発言を繰り返した。
「チェンジ」を掲げる新政権からの負担軽減の提言を退け、日米交渉への意気
込みに水をかけ、「合意」順守を望んだ米側にエールを送ったのである。仲井
真は多くの県民の批判を受けて、「県外がベスト」を強調するようになった
が、ときすでに遅し。しばらくは鳩山首相までも知事の見解を沖縄県民の「総
意」と誤解し、米側は米側で、知事の発言および沖合50メートル移動容認論を
味方に、鳩山政権にロードマップ合意の順守を迫った。
大手マスコミは米国の知日家やメディアなどから「懸念」や「困惑」といった
言葉を引き出して、盛んに日米関係の「危機」をあおったが、冒頭に掲げた
ゲーツ国防長官の発言は、沖縄では「恫喝」と評された。
もし岡田外相や北沢防衛相の妥協案が通れば、普天間海兵隊航空基地は本島北
東沿岸の辺野古とキャンプ・シュワブ地区に移設されるか、ほぼ1日中戦闘機、
爆撃機、輸送機、偵察機、空中給油機などがすさまじい轟音を立てて離着陸する
嘉手納空軍基地に統合され、本島中部から北部にかけては海兵隊と空軍(沖縄に
は、在日米空軍所属の12,540人中、半数近い5,909人が駐留している)を中心と
する駐留・訓練・発進基地となる。海兵隊員と家族が転出し、嘉手納以南の基地
・施設も閉鎖・返還されるとしても、今後とも沖縄が「日米同盟」の中心的役割
を負い続けることに変わりはない。
しかし鳩山自身は、普天間移設について「最後は私が決める」と述べ、10月26
日の所信表明演説では「沖縄の方々が背負ってこられた負担、苦しみや悲しみに
十分に思いをいたし、地元の皆様の思いをしっかりと受け止めながら、真剣に取
り組む」と宣言した。首相には、「日米同盟のあり方について包括的なレビュー
を行いたい」「苦渋の選択を県民に押しつけるつもりは毛頭ない」などの発言も
あり、期待を抱かせた。ロードマップ合意より沖縄の負担軽減を優先させる考え
方である。議会での答弁や11月13日の共同首脳記者会見での発言は、自民党政権
の下で続いてきた従属的な対米関係や沖縄の過重な基地負担を主体的に根底から
見直したいという鳩山のぶれない姿勢を印象づけた。
■【沖縄にとって「マニフェスト」が意味するもの】
ここで、改めて、民主党の「沖縄ビジョン」と「マニフェスト」から関連項目
を抜き出してみよう。
■「沖縄ビジョン」(2005年8月改訂版):
SACO合意が期待通りに進まない間に地域・国際環境は大きく変化し、米軍の軍
事技術も目覚しい進展をみた。このような状況を踏まえて、SACO合意の適切な実
施に向けて努力をし、また、沖縄県民の意思を最大限尊重した更なる基地の整理
縮小を検討する「SACO2」の設置を目指す。
航空管制権及び、基地管理権の日本への全面的返還を視野に入れつつ、大幅
な地位協定の改訂(改定の意か)を早急に実現する。
トランスフォメーションを契機として、普天間基地の移転についても、海兵隊
の機能分散などにより、ひとまず県外移転の道を模索すべきである。言うまでも
なく、戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す。
■「マニフェスト」(2009年7月27日):
日本外交の基盤として緊密で対等な日米同盟関係をつくるため、主体的な外交
戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本の責任を積極的に果たす。
日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見
直しの方向で臨む。
(連立3党合意では、「沖縄県民の負担軽減の観点から」という前置きをつけ
て、日米地位の改定を提起し……)となった。)
「マニフェスト」は、民主党が野党時代にまとめた「SACO合意の実施」「航空
管制権及び基地管理権の日本への全面的返還を視野に入れ(た)大幅な地位協定
の改定」「普天間基地の国外移設」を盛り込んだ「沖縄ビジョン」と比べて、か
なり後退した印象を拭えないが、「緊密で対等な日米同盟関係」「主体的な外交
戦略」「米国と役割を分担」「日米地位協定の改定」「米軍再編や在日米軍基地
のあり方についても見直し」といった文言は目を引く。マニフェストは、「国民
の生活が第一」「国連を重視した世界平和の構築」、「『国民主権』『基本的人
権の尊重』『平和主義』」という現行憲法の原理(の尊重)もうたっていた。「
マニフェスト」の根底には「沖縄ビジョン」があるものと解したい。
これらの言葉がそのまま沖縄で実行されれば、60年に及ぶ小さな島における巨
大な米軍の駐留、実弾演習、基地周辺の日常的な爆音と危険、核兵器の存在が疑
われる弾薬庫の存在、はるか中東地域まで含む戦闘参加、米軍基地と軍人・軍属
・その家族を優遇する日米地位協定は、国家としての主権放棄、県民意思の無視、
国民平等性への違反、平和主義との背馳、基本的人権の侵害は消えることにな
る。新政権に対する期待が高まったのは、この「マニフェスト」と「沖縄ビジョ
ン」のおかげだろう。
普天間基地の「県内」移設には大半(新聞社の世論調査では約70%)の沖縄県
民が反対。「県外」移設は、上述のように、本土自治体(国民)の「総論賛成・
各論反対」によって実現の可能性は少ない。鳩山政権も、本土有権者の反発を恐
れて、沖縄から本土への普天間基地移設は強行できないだろう。
ロードマップ・パッケージ合意の再交渉が立ちはだかっていようとも、最も妥
当な解決策は普天間基地の閉鎖→海兵隊と家族のグアム移転→嘉手納以南の基地
撤去ということになる。再交渉には時間がかかるため、それだけ普天間基地の危
険が継続するという声もあるが、基地の閉鎖・撤去は短期間にできることを下記
の例は示している。閉鎖・撤去の要求は、必ずしも米国にたてつくことでもない
。日米同盟を傷つけるなどというのは、従来型(旧思考)の日米関係を当然視す
る現状維持派の杞憂に過ぎない。日本政府は沖縄県民(日本国民)の安全と負担
軽減を最優先すべきなのだ。
■【再編で閉鎖・撤去が相次ぐ米軍基地】
岡田外相は「海兵隊が沖縄になくても抑止力は失われることはない」、「日本
以外で海兵隊の大部隊が米国本土以外で展開している地域があるのか」と述べた
。国防総省の数字も岡田発言の正しさを証明した。海兵隊は、米国から輸送機や
航空母艦で世界のどこへでも緊急展開できるし、中東のような不安定な地域であ
れば近くの洋上基地で待機すればよい。
実際、近年、米国が世界的に軍事変革(トランスフォメーション)を進めてい
るほか、世界各地で「代替不可能」とされた場所を含む米軍基地の閉鎖・撤去が
相次いでいる。
1980年代末以来、冷戦時代に次々建設した軍事施設を整理縮小して、運営・維
持費を節約し、その分を装備や戦略の近代化に回そうという基地統合・閉鎖(bas
e realignment and closure=BRAC)計画を進めてきた米国防総省は、89年から95
年までに実施された4回のBRACで、米国内で350以上の軍事施設を閉鎖した。最新
のBRAC計画はブッシュ政権下の2005年に承認され、2011年9月15日までに25施設
を閉鎖し、他の24施設を整理統合することになっている。
(閉鎖が決まった施設は、工業、商業、娯楽、教育、住宅などの用地として安
全に再使用できるよう、基地にありがちな有毒性汚染物質が連邦環境保護庁の基
準に基き州の環境保護局の監視のもと浄化されたのち、返還される。国防総省は
、調査や浄化、州の監督に要する費用をすべて負担するほか、返還後に汚染が見
つかった場合も原状回復に責任を負う。普天間基地や嘉手納以南の基地の閉鎖・
撤去についても、米国は当然、汚染物質の除去→環境の原状回復にも責任を持つ
べきだが、日米地位協定にとって米国はその責任を免除されている。)
フィリピンでは、ピナツボ山の大噴火(91年6月)により灰燼に埋もれたクラ
ーク空軍基地が閉鎖されたあと、破壊的被害を逃れたスビック湾海軍基地につい
ては、1947年に締結された基地協定の期限切れ後も米軍駐留の延期を認めるはず
だった友好・平和・協力協定の交渉がこじれ、フィリピン政府は米国に1年以内
すなわち1992年末までに撤退するよう求めた。これを受けて、米国は設備や機材
を沖縄などの海軍基地に移送し、92年11月24日には正式に基地を閉鎖・返還した。
米国自治領プエルトリコの大西洋艦隊射爆撃(武器テスト)演習場では、1996
年のビエケス島での誤爆致死事故が引き起こした基地反対運動を受けて、ブッシ
ュ大統領が米海軍の強い反対にもかかわらず2001年にビエケス島からの撤退を発
表、2003年には同島東岸の射爆撃訓練場そして西側の弾薬庫地区から撤退を完了
した。まもなくプエルトリコ本島東側に位置する演習場の本拠地、巨大なルーズ
ベルト・ロード海軍基地も閉鎖された。演習場は米本土に移転された。
1990年代から米軍が段階的に削減されていた韓国では、2004年の在韓米軍再編
計画に基き、06年までに南北非武装地帯に近い小規模施設を含む32もの米軍基地
が閉鎖され、返還作業が進められた。04年8月にイラクに展開した第二歩兵師団
第二歩兵旅団の3,900人は、韓国に戻ることなく、コロラド州フォート・カーソ
ンに移転した。予定では、在韓米軍は昨年末までに12,500人減って、25,000人
規模に落ち着いたはずである。2006年6月7日付「星条旗」紙によれば、米国はす
でに閉鎖した25基地(総面積11,000エーカー)を無償で返還しようとしたが、環
境浄化に不満を抱いた韓国政府が返還を認めたのは7施設だけだという。
ヨーロッパでは、冷戦終結により大きな戦争の可能性が減ったとして、欧州駐
留米軍の約85%に相当する約7万の兵士が、主としてドイツからテキサス州フォ
ート・ブリスとカンサス州フォート・ライリーに移動中で、在欧米軍基地の大半
は、最終的に非恒久的で軽装備・低費用の施設に置き換えられるという。
2006年には、米国は地中海有数の観光地として知られるイタリア・サルデーニ
ャ島沖合のマッダレーナ島にあった原潜補給基地を、近海での原潜事故と観光へ
の影響の懸念から撤退運動が高まったサルデーニャ市の要求を受けた米イ合意に
基き、わずか1年で閉鎖・返還した。米国は冷戦後のトランスフォメーションの
一環、と説明した。
また、冷戦終焉を機に90年代には米国の海外基地が大幅に減り、強襲揚陸艦、
補助艦、接続艦などで構成する洋上基地(シーベイシング)構想が浮上した。SA
COが打ち出した普天間の海上基地移転案も、この構想に沿ったものであったと思
われる。
こうした例からすると、日本国内における住民の安全、地域発展、観光(経済
)振興といった観点から撤去を主張すれば、米国は普天間基地を1年や2年以内に
閉鎖・撤去できるはずである。原潜が「補給」を理由にたびたび寄航する沖縄の
ホワイトビーチも、日本は閉鎖を要求すべきではないか。
■【再編ロードマップ合意と普天間航空基地】
そもそも、普天間基地移設問題の発端は、3人の米兵による少女強姦事件が引
き起こした沖縄県民の基地反対運動を受けて、日米両政府が「沖縄県民の負担を
軽減し、それにより日米同盟関係を強化するために1995年に開始した「沖縄に関
する特別行動委員会(SACO)」プロセスにあった。
SACOが翌96年12月に発表した最終報告は、そのまま実施されれば、「沖縄県に
おける米軍の施設及び区域の総面積(共同使用の施設及び区域を除く)の約21パ
ーセント(約5,002ヘクタール)が返還される」という、かつてない大規模な基
地整理縮小を描いていた。(ただし、SACO合意がすべて実施されても、沖縄県に
は在日米軍専用施設の約70%が存在することになり、沖縄が過重負担しているこ
とに変わりはない。)
SACOで、米国が同意したのは、普天間基地、北部訓練場の半分以上(約4千ヘ
クタール)、安波訓練場、ギンバル訓練場、楚辺通信所、読谷補助飛行場、キャ
ンプ桑江、牧港補給地区、那覇港湾施設などの返還、キャンプ桑江とキャンプ瑞
慶覧の米軍住宅地区の統合と一部返還であった。そのほとんどがパッケージ化さ
れた(条件つきの)返還であった。
最終合意に至る経緯について、「SACO合意を究明する県民会議」(代表・真喜
志好一)は、米国の情報公開法を使って得た情報を分析、同合意が「老朽化した
施設の更新、那覇軍港の移転促進、(従来のヘリコプターに代わる新鋭機)オス
プレイ配備にそなえた関連基地の新設という……基地のハイテク化・強化計画」
の一環であり、「オスプレイの配備計画が、普天間返還と大いに関わっている」
と結論づけた(「なぜか消えた海外移設計画」『週刊金曜日』2000年4月7日)。
真喜志によれば、「海兵隊はオスプレイ配備にともない、普天間常駐の第36海兵
航空群をハワイのカネオヘ湾に移す計画をもっていた。
一方で、シュワブ区域からの弾薬空輸を実現するために、その海上に新しいヘ
リパッド(注・発着帯)を建設する必要もあった。(中略)そこで、もともとハ
ワイに移設する予定であった普天間を「県民の要求だから」(という名目で)返
す代わりに、海上ヘリ基地を建設するという口実をつくったのではないか」とい
う。こうして、96年4月の記者会見で当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日米
国大使が「普天間基地を全面返還する」と発表したことが、SACO最終合意では「
県内移設」という条件付き返還に変わったというのである。(米海兵隊は、2009
年10月に公表した「2010米会計年度海兵航空計画」で、普天間基地に代わる名護
市辺野古新基地に、従来の輸送ヘリコプターより、航続距離5倍、速度2倍、積載
量3倍をもち、騒音が激しく危険性も高いといわれる垂直離着陸機オスプレイの
配備を明記した。当初のシナリオ通りである。)
「重要な軍事的機能」を県内に移設する、という条件を満たすため、日米は、
(1)嘉手納飛行場、(2)キャンプ・シュワブ、(3)海上に建設される施設の3案を検討
した結果、「海上施設(海上ヘリポート)」案を採択した。SACOが、「他の2案
に比べて、米軍の運用能力を維持するとともに、沖縄県民の安全及び生活の質に
も配慮するとの観点から、最善の選択と判断」したためである。「海上施設は、
軍事施設として使用する間は固定施設として機能し得る一方、その必要性が失わ
れたときには撤去可能なものである」との文言も付け加えられた。輸送機(KC-13
0)12機を岩国に移駐し、嘉手納飛行場を追加整備することも合意された。
SACO合意の中でも普天間基地の県内移設は沖縄でさまざまな議論を呼び起こし
た。名護市辺野古地区沖合の海岸(環礁地帯)を埋めて代替基地を建設するとい
う当初の日本政府案に、名護市長も名護市議会も反発し、市民投票の結果も「ノ
ー」であったが、名護の過疎化解消を目指す市長は受け入れに転じた直後に辞任
。
それを受けた選挙では、(1)基地被害を極力抑える安全・環境対策を確立し、
(2)飛行場(当時の稲嶺知事は15年後の軍民共用化を条件に承認していた)は
3キロ以上沖合に建設する、(3)辺野古区を中心とした拡充北部振興策の実施
を閣議で決定するなどの条件付きで建設を容認した候補者が当選したものの、
移設先の辺野古では現在も反対運動が続いている。98年10月には、大田沖縄県
知事も海上へリポート受け入れ拒否を表明した。最大の理由は、米軍基地に反
対してきた沖縄が自主的に新基地建設を認めるわけにはいかない、というもの
だった。
SACO合意は、まもなく「在日米軍再編ロードマップ」に変わる。きっかけは、
米国のブッシュ大統領が2004年8月16日、退役軍人クラブ大会で発表した新軍事
展開計画であった。新軍事計画というのは、冷戦終結によりソ連の脅威が消えた
あと、新たな脅威が生じつつあるとして、米国が2003年9月の同時多発テロ以来
練ってきたもので、米国が1980年代から進めてきた「トランスフォメーション」
に沿っていた。大統領は次のように説明した。
1.今後10年間に、米国はより機動的でより柔軟な軍隊を展開する。その結果
、より多くの部隊が米国に駐留し、米国から展開することになる。また、想定外
の脅威に緊急対応するため、一部の部隊を新しい場所に移動する。21世紀の軍事
技術を活用して高い戦闘能力をもつ軍隊を迅速に展開できるようにする。
2.この計画は、わが国が21世紀のこうした戦争に勝利することを助けるだろ
う。これは、世界中でわが国の同盟が強化し、平和維持のため新たなパートナー
シップを築くことにもなる。米国軍人とその家族のストレスも緩和する。米国は
海外に引き続き大規模な部隊を駐留させるものの、今後10年間に6万人から7万人
の将兵、そしておよそ10万の軍属と家族が帰還することになろう。海外で不要に
なった基地と施設を整理・閉鎖することにより、米国の納税者の負担も軽減され
る。
世界中に展開した米軍の海外基地は整理縮小し、部隊の多くを後方(米本国)
に移す。そうすれば、国土防衛の強化につながるだけでなく、軍人とその家族の
精神的負担や国家の経費削減にもつながる。海外へは新しい軍事技術を使って効
率的に部隊を緊急派遣すればよい――というのである。国防総省の言葉を借りれ
ば、「冷戦時代の戦略から21世紀型戦略への転換によって、ほとんどの部隊は米
本土におき、海外で有事が発生すると訓練や参戦のため急派できるようにする」
という。先に見た海兵隊配置の数字とも整合している。
2005年9月の郵政民営化選挙で圧勝して誕生した第3次小泉内閣では、この米
国の新軍事展開計画を受けて、早速、麻生外相と額賀防衛相がブッシュ政権のラ
イス国務長官およびラムズフェルド国防長官と協議して、米国が進めていた「同
盟関係にとって死活的に重要な在日米軍のプレゼンスを確保」するための「(在
日米軍・自衛隊)再編実施ロードマップ(行程表)」に合意する。
トランスフォメーション計画に従えば、沖縄などの在日米軍基地も整理縮小→
米本国移転の対象になるはずである。ところが、日本は戦後60年以上経ち、冷戦
終結から20年が過ぎても、米軍基地を受け入れるだけでなく、NATO全体より2倍
も多い米軍駐留支援(「ホストネーション支援」)によって直接(地代、労務費
、訓練移転費、宿舎を含む施設建設費、水道光熱費、基地周辺対策費などの、い
わゆる「思いやり予算)、間接(空港・港湾・道路使用料などの免除)に米軍駐
留を資金援助し、おまけに地位協定によって基地と軍人・軍属・その家族を特別
扱いしている。沖縄を除いて、目立った反米軍基地運動も少ない。米国にとって
、日本はきわめて「ありがたい」存在だ。
日米合意により、普天間基地は、日本の財政支援で、本島北部太平洋沿岸の辺
野古沿岸を埋め立てて移設されることになった。必ずしも沖縄にこだわらなかっ
たという米国も、日本国内では沖縄県内以外に選択肢はないとの日本政府の説明
を受け入れて、辺野古への移設で決着した。これにより、地域住民が嫌がる古い
普天間基地から撤去して、周辺に海兵隊基地が点在する沖縄本島の北部沿岸へ移
設できるのだから、米軍には「猫にかつお節」のような解決法であっただろう。
移設は古くなった施設の更新・近代化を意味するから、尚更である。
在沖海兵機動展開部隊所属の約8,000人とその家族約9,000人のグアム移転は移
転に必要な日本政府の資金支援と普天間基地移設の進展、嘉手納以南の基地の整
理統合は海兵隊員と家族の移転完了が前提とされた。つまり、普天間基地の移設
が進まないことには、2014年期限とされたグアム移転もなければ、キャンプ桑江
の全面返還もキャンプ瑞慶覧の部分返還も、普天間飛行場や牧港補給地区や那覇
港湾施設の全面返還もないという「パッケージ」に組み込まれた。海兵隊員と家
族のグアム移転及びSACO合意に沿った嘉手納以南の米軍基地の整理統合は、日本
が米国のトランスフォメーション計画を資金的に支援する形で実現したのである。
日米は、在沖米軍基地の再編のほか、(1)キャンプ座間にある米陸軍司令部の改
編→陸上自衛隊中央即応集団司令部のキャンプ座間移転→相模補給廠における米
戦闘指揮訓練センターなどの建設、(2)東京都府中市にある航空自衛隊航空総隊司
令部と関連部隊の横田飛行場への移転や横田空域の一部日本返還、厚木飛行場か
ら岩国飛行場への空母艦載機の移駐、ミサイル防衛、日米共同訓練についても合
意した。
「ロードマップ」の「施設整備に要する建設費その他の費用」は日本政府が負
担することも決められた。米国が負担するのは、「(ロードマップ案の)実施に
より生ずる運用上の費用」だけである。トランスフォメーションが米国の計画で
あるにも拘わらず、日本が施設建設費を負担するというのも、おかしな話である
。オバマ大統領が共同記者会見で述べた「日米は対等なパートナー」の精神にも
反する。
■【沖縄差別の「総論賛成、各論反対」】
前回の拙稿に書いたように、危険な普天間基地を沖縄本島内に移設することに
したのは小泉首相のいう国内の「総論賛成、各論反対」(日米安保体制には賛成
だが、自分たちの自治体への基地移設には反対)による。2006年に沖縄タイムス
が行った世論調査では県民の69%が普天間基地の県内移設に反対した。同年11月
の県知事選挙では、県内移設を容認していた仲井真候補が勝利したが、2008年6
月の沖縄県議会議員選挙では、辺野古移設案に反対する議員が議会の過半数を占
め、その後の県議会で、建設反対を決議した。
しかし、小泉政権は他府県の反対は尊重しながら、沖縄の声は無視した。あか
らさまな差別である。在沖基地の整理縮小を「(条件つき)パッケージ」に入れ
たSACO合意と同じように、日米合意の中で普天間基地と嘉手納以南の基地だけが
「パッケージ」化されたのも、差別的としか言いようがない。
在日米軍再編日米合意、中でも普天間基地の県内移設を前提とする沖縄パッケ
ージは、沖縄県民の長年の願いにそむくだけでなく、軍隊は国土防衛強化・経費
削減・軍人と家族のストレス緩和のためにできるだけ自国内に駐留させる、海外
への緊急出動は21世紀の軍事技術が可能にするという米国のトランスフォメーシ
ョン計画にも合致しない。鳩山政権は、「緊密で対等な日米同盟関係」や「沖縄
県民の負担軽減」という路線を貫いて、一日も早い普天間海兵隊航空基地――で
きればすべての在沖海兵隊基地――の閉鎖・撤退を強く米国に要求すべきであろ
う。政権交代の見せどころである。
(筆者は沖縄在住・元桜美林大学教授)
目次へ
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■ 鳩山首相への公開書簡 平山基生(もとお)
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■鳩山首相への公開書簡1
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敬愛する 鳩山由紀夫首相 殿
「友愛」精神で県民要求にそって、普天間・辺野古新基地問題解決を
平山基生(もとお)
拝啓
【「友愛社会」のために、「友愛政治」を外交でも実行を】
私は、東大大学院博士課程で経済学を、東大文学部で東洋史学を学び、ソ連崩
壊時にモスクワのソ連科学アカデミー世界経済国際関係研究所で3年間軍事同盟
であるワルシャワ条約機構批判のために国際政治を学んだ、1938年生まれの一研
究者ですが、貴方の所信表明演説での『政治には弱い立場の人々、少数の人々の
視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として
ここに宣言させていただく』や「友愛社会」建設と言う言葉に共感しています。
なぜなら、私の両親は亡くなりましたが、牧師であり、「愛」の重要性をいつも
説いていたからです。
貴方の新政権は、旧自公政権では考えられない「希望」を国民に与えています
。ムダな公共事業であるダム建設の中止も、生活保護費への母子加算を冷酷にも
切り捨てた前政権と異なり、師走12月には復活支給するという決定も、貴方の「
友愛」社会の実現を目指す精神の表れであり歓迎するものです。また、温室効果
ガス1990年比25%削減という当然の施策も大いに歓迎し評価するものです。それ
は日本の国際的な評価を高めました。
【超多忙な首相である貴方は、【 】内だけで結構ですからご一読頂ければ幸い
です】
【「憲政の常道」と3党連立合意で外交も行うことが基本です】
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貴方の新政権は、日本歴史上初めて国民主権の政治を開始した政権であるとい
う趣旨を副総理が述べたと記憶しています。憲政を行うことは、法治国家の基本
であり、民主主義国家の基礎です。「日米同盟が日本外交の基軸」という貴方の
外交方針を仮に認めたとしても、日米で憲法が異なっており、各国がその国の憲
法に従って政治を行うことは「憲政の常道」です。憲法第10章最高法規99条は、
「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義
務を負う」と明記しています。民主的憲法を軽んずる国は滅びます。
また、3党合意第10項憲法は、「10.憲法 唯一の被爆国として、日本国憲
法の「平和主義」をはじめ「国民主権」「基本的人権の尊重」の三原則の遵守を
確認するとともに、憲法の保障する諸権利の実現を第一とし、国民の生活再建に
全力を挙げる。」と述べています。
貴新政権は、これらの原則に従って外交も行うことが基本であることは言うま
でもありません。
【オバマ米大統領は「対等な関係」を理解できる可能性を持ちます】
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ところが、こと外交問題になると、貴方は、冒頭で述べた「友愛」外交の基本
から離れてしまうのではないかと危惧するものです。それは「日米同盟」という
「日米軍事同盟」が外交の基軸だという根本問題があるからですと率直に申し上
げなければなりません。
オバマ米大統領は、自らの経験から新政権が新しい政策を決定するまでには、
時間がかかることを、理解すると言っています。彼の弁護士という職業柄からも
、相手方を理解しなければ、ことが進まないことを理解できる人です。「原爆投
下国の道義的責任」という言葉もそういう背景があるからです。この言葉は、米
国内にあっては、とても勇気ある発言です。オバマ氏のそのスタンスに反してい
るのが、前ブッシュ政権の国防長官でもあったゲーツ氏の今回の訪日中の言動で
した。それは、主権国家に対して失礼な恫喝的な言動でした。
鳩山首相 貴方は、ゲーツ氏など米国内での特異な立場の人びとの動きにうか
うかと乗ると大きな誤りを犯す危険性があると思います。世界の歴史から見て、
本来独立国に外国軍が駐留していること自体がおかしいわけです。オバマ米大統
領は、そういう巨視的な見方をできる政治家です。ゲーツ氏とは違います。日米
関係でも、ポツダム宣言には、独立後(「日本国民の自由に表明せる意思に従い
平和的傾向を有し且つ責任ある政府樹立」の後)「占領軍は直ちに撤退」と書い
てあったわけです。米軍駐留を当たり前ということこそは旧自公政権とブッシュ
米前政権の「常識」です。国民が期待し「責任ある政府」である新政権の常識は、
そうであってはなりません。
新政権は「平和的傾向」を64年後の今初めて持つべきであり、日本政府が指揮
権も管理権もない64年前から続いている日本政府が責任を持てないと言う意味で
「日本政府が無責任である」他国の軍隊・米軍の駐留を再検討する、「国民と諸
外国に対して責任ある政府」であるべきです。オバマ米大統領は、2国関係に関
してもそういうことを理解できる可能性と能力を持つ人物です。米国の12万の大
軍が駐留しているイラクから、米軍は2011年までに撤退するのです。イラクです
ら、と言うと人類史上古い高い文明を持つイラク国民に失礼であり、イラクだか
らこそと言うべきかもしれませんが、地位協定で2011年撤退を明記しています。
中南米諸国も自主性を取り戻しつつあります。日本は主権国家ではないのですか?
日本はアメリカより古い歴史を持つ誇り高い民族ではないのですか。イラクを
見習うことはできないのですか。東アジア共同体をつくっていく上でも、「対等
な日米関係」は不可欠です。
【日本国民の安全すら保障できない「安全保障の観点」とは何ですか】
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米軍占領から64年。沖縄県を始め米軍基地周辺地域では、貴方が想像も出来な
いほどの基地被害に苦しめられてきました。1995年の小学生少女暴行事件は、ま
さに、今新米軍基地建設問題とされている地域で起こったと言われています。普
天間では、2004年にあわや大惨事になろうというイラク戦争に使用されていた、
米軍ヘリコプター墜落が、沖縄国際大学で起こりました。外相が候補としている
嘉手納基地では、5千人が「夜静かに眠らせてくれ」と爆音訴訟を起こしていま
す。
「幼い少女の人間としての尊厳を守れなかった責任」を詫びた大田昌秀沖縄県
元知事の言葉こそ、貴方の「友愛政治」の精神とつながるのではないでしょうか?
うち続くレイプや殺人と事故、さらに、日本政府が管理権と指揮権をもたない
日本政府公認の「戦力」である米軍が、米国の「安全保障の観点」から諸外国に
戦争を行ってきました。ベトナム戦争もイラク戦争もその悪い例です。アフガン
戦争も又しかりです。
自国国民の安全すら守れない「安全保障の観点」、また、貴方を首班とする日
本政府が責任を持てない他国軍隊によって、日本の領土を、無法な戦争のために
使われている「安全保障の観点」、それはまったく空しいものではないでしょう
か。(続)
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■鳩山首相への公開書簡2
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【軍事でなく外交で解決する友愛政治を対外政策でも貫いてください】
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鳩山由紀夫首相 貴方は、本気で中国や北朝鮮やロシアが日本に侵攻してくる
と考えているのでしょうか?それに対抗するために米日両軍が備える軍事同盟が
必要であるという「安全保障の観点」をお持ちなのでしょうか?それこそわが国
が2000万人のアジア人、320万人の日本人を犠牲にして得た日本国憲法が堅く禁
じる「戦争」と「戦力」(憲法第9条)そのものではないでしょうか?真の安全
保障は、貴方の言われる友愛政治を外交の面にまで適用することであり、軍事で
なく外交で「友愛」で、貴方の言われる「不安定」な北東アジア状況を解決する
ことです。
【異常な普天間基地や沖縄県への基地の集中に心を痛めておられると思います】
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【オバマ米大統領は沖縄基地の異常さを理解できます】
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「対等な日米関係」と米軍基地を「見直す」とマニフェストに書いている貴党
は、米国の軍事基地をそのままにしていて、「対等」だと言うことができると思
いますか。人口密集地帯にある普天間基地は米国の基準から見ても、余りに異常
であることをオバマ氏は理解する能力を持っています。また、沖縄県に、余りに
基地が密集していること〔本島面積の18.4%、米軍専用基地面積では日本全国の
基地面積の約75%、基地数でも約40%〕の異常さ、従って、県内の辺野古に移動
することに無理があることを理解する能力を持っているはずです。かつて沖縄駐
留の海兵隊員であったアメリカ人研究者チャーマーズジョンソン氏(日本政策研
究所長)は、著書の中で沖縄県を「アジア最後の植民地」と言っています。日本
の一県が「植民地」であるということは、ある意味では日本が「植民地」である
と言うことを意味しませんか?英国軍から独立を勝ち取った米国史を学んでいる
オバマ氏が、常識ある政治家なら基地の異常さを理解できます。
貴方は、日本を代表する常識ある政治家として、アメリカを代表する政治家オ
バマ氏と理解しあえると思います。それこそが「緊密な」関係と言うことができ
ます。
【世界でも米軍基地は日本に異常に集中しています】
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世界で、海外米軍基地は700とも1000とも言われていますが、日本には、実に1
34施設あるいは、149施設存在しています。少なく見積もっても優に1割を超え、
それは、世界でも異常に高い割合です。
【「日米同盟」基軸は「軍事同盟」基軸です】
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日米同盟基軸というものは、日米軍事同盟関係基軸を指すのでしょうか。あな
たの「友愛外交」からするならば、それでは「友愛政治」と矛盾すると思います
。米国留学された経験もある貴方は、アメリカ国民が平和を望んで戦争を望んで
はいないことを知っていると思います。あなたは、アメリカ財政も日本財政も非
常な困難な中にあり、米国がこれほどの軍事費の重荷に耐え、支出し続けるゆと
りはないことも、ご存じであると思います。日本も同様です。
日本はアメリカの真の友人として、緊密な関係を作り、このような膨大な軍事
支出の重荷から抜け出すためにも、日本の米軍基地を縮小し最終的には撤去する
ために、「日米軍事同盟関係」でない「日米友好関係基軸」を提案することこそ
、「日米関係基軸」を「緊密で対等な関係」と諸国民との「友愛外交」の中で実
現する政策ではないでしょうか。日米軍事同盟である日米安保条約ではなく日米
友好条約締結という「友愛外交」政策こそが貴方の政策であるべきではないでし
ょうか。
【3党合意とマニフェストを踏みにじる外相発言や防衛相発言は放任しないでく
ださい】
先日(10月23日)の貴政権外相の発言「(沖縄)県外移設はない」、防衛相の
「辺野古新基地はマニフェストと矛盾しない」発言は、国民との公約であるマニ
フェストにも3党合意にも反しています。普天間基地は廃止すればいいのです。
八ッ(ん)場ダムでできることがどうして辺野古でできないのですか。これほど
の無駄と無理、異常な基地計画はありません。日本は主権国家であり、日本国民が
決めることができるのです。辺野古に基地を作ることは、強力で死にものぐるい
の沖縄県民の反対と抵抗にあって、まず不可能です。13年経ってもできなかった
「計画」を繰り返すことは、「無理」を行うことであり、政治家として先見の明
がないと言うことになります。嘉手納基地への「移設」は、耐え難い騒音で夜も
眠れない基地被害を受けている嘉手納町などの猛反対でこれも又、まず不可能です。
【祖父鳩山一郎首相の砂川経験から学んでください】
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1955年貴方の祖父鳩山一郎首相は、東京・砂川町の農民の土地を立川米軍基地
拡張のために強制測量する決定に署名なさいました。しかし、ご存じであろうと
思いますが、農民は命にかかわると、死にものぐるいで反対しました。「流血の
記録.砂川」と言われる強力な反対運動に発展し、2千人の警官隊を動員し、無
抵抗の農民、労働組合員、学生を暴力で排除して測量を強行しましたが、「人生
観が変わった」との遺書を残して自殺した若い警官に示された状況もあり、結局
貴方のお祖父さんは測量中止を決定せざるを得ませんでした。そして、立川基地
は返還され、今は昭和公園その他の国民生活の施設になり地元と国民に役立って
います。
【政府間合意の変更は、正当な主権の行使です】
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日本は主権国家です。ゲーツ国防長官の発言は、まさに、主権国家への恫喝で
あり、到底正常な発言ではありません。これを「対等」というのなら、米国防長
官にとっては「対等」という言葉は、「支配」という意味だと理解すべきです。
日米安保条約にすら、この条約を終了することを通告する規定が10条に盛り込
まれています。終了通告自体が政府間合意、しかももっとも強い条約という形で
の政府間合意なのです。政府間合意は、政府間合意に基づき一方の意志によって
も変更できるのです。政権交代は、主権国家である政府の意志の変更を意味して
います。主権者である国民の意志によって、少なくとも新基地に反対し、普天間
閉鎖を求めている沖縄県民の総意を体しているはずの新政権ができた以上、旧政
権の行った政府間合意は当然再検討して変更することを提起できます。これこそ
常識です。米軍部.政府の言うことは「不可侵」だという旧自
公政権の常識は、世界の主権国家にあっては、常識ではなく、「非常識」です。
【米軍駐留を違憲とした伊達判決破棄への米政府の干渉をご存じですか】
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昨年、在日米軍は 「憲法上その存在を許すべからざるものである」という東
京地裁伊達判決(1959年3月30日)に対して、当時のマッカーサー米大使が、翌
日3月31日閣議の1時間前の朝8時に、当時の藤山外相と秘密に会い、露骨な内政
干渉で、跳躍上告を勧めていたこと、また、4月22日には、係属中の砂川事件担
当の田中最高裁長官と極秘に面会し、裁判スケジュールについて話し合っていた
ことを示す、米政府文書が解禁され日本の研究者によって発見されました。これ
らの文書は、伊達判決を破棄した最高裁判決が如何に恥ずべき売国判決であった
かを白日の下に明らかにしました。そういう秘密の圧力ではなく、今回のゲーツ
氏の発言は公然とした圧力です。
【外相の仕事は他国の意見を実行することではなく自国の主権を守ることです】
-------------------------------------------------------------------
外相の仕事は、日本の主権を守ることを第1になすべきです。他国の前政権か
ら続いている1国防長官の言うがままに行動するのなら、外相はいりません。貴
政権の外相は、日本の外相として日本の国益のために行動すべきです。日本の国
益とは、沖縄県民や国民の正当な要求を実現することです。防衛省官僚や、軍需
産業の「死の商人」の暴利のために行動することではありません。(続続)
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■鳩山首相への公開書簡3
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【防衛省も「官僚主導」でなく、3兆円のムダをなくしましょう】
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貴政権の防衛相は、貴党マニフェストに反する、まさに防衛省「官僚主導」の
方針のままに動いています。骨を削るような予算の無駄を省く「事業仕分け」の
中に、「防衛費」をしっかりと位置づけるべきです。米軍再編に3兆円も支払う
事業も仕分けていくべきです。今、米軍へ条約上の根拠もないグアムの米軍基地
を建てる費用など国際政治史上前代未聞の行為のために、3兆円を日本が負担す
る財政的余裕は全くないわけです。
【拙速きわまる「年内決着」で政策を誤らないようにお願いします】
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鳩山首相、貴方は、沖縄県民の声を聞くと言っていたにも拘わらず、年内決着
へ舵を切る可能性を示唆したこともあります。ブッシュ政権をそのまま引き継い
だゲーツ国防長官の意向に従う二人の閣僚の意見に動かされることなく、県民の
声を聞き、首相 貴方が正しく沖縄県民と国民の要求にそって決定すべきです。
それでこそ、「友愛社会」を実現する道です。
【真の米国の友は率直に忠告する力も持っています】
--------------------------------------------
真の米国の友は、盲従することでなく忠告する力を持ってこそ、であると思う
のですがいかがでしょうか。
【軍事同盟である「日独伊防共協定」が日本を破滅の道に追いやりました】
日本国憲法前文が「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやう
にすることを決意」と規定したのは、1945年無条件降伏した戦前の「政府」が日
本国民とアジア及び世界諸国民にもたらした前述の恐るべき「戦争の惨禍」を念
頭に於いていたからです。その「政府の行為」の最たるものが軍事同盟「日独伊
防共協定」だったのです。憲法はそう言う軍事同盟を禁止しています。
【国連憲章の安全保障の理念は、「紛争の平和的解決」です】
----------------------------------------------------
国連憲章前文は「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与
えた戦争の惨害から将来の世代を救い」そのために「国際の平和及び安全を維持
するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないこ
とを原則の受諾と方法の設定によつて確保し」と規定しています。つまり、恒常
的な軍事同盟は想定していません。「集団的自衛権」を認めたという第51条は「
安保理事会が(略)必要な措置を執るまでの間」だけで日本が形式的に独立した
1952年4月28日以降50年以上の恒久的な軍事同盟はまったく想定されていません。
【日米軍事同盟主軸でなく国連主軸こそ日本がとるべき安全保障の観点です】
------------------------------------------------------------------
軍事同盟である「集団的自衛権」でなく、「国連憲章の集団的安全保障主軸」
こそが日本がとるべき、そして「友愛政治」を原点とする鳩山首相がとるべき安
全保障政策であると思いますが如何でしょうか。
【「日米同盟主軸」は、国連主軸と両立する「日米友好関係主軸」へチェンジす
----------------------------------------------------------------------
るべきです】
---------
「日米同盟主軸」とは、自公旧政権の時のように、米政府の言うことはすべて
「ご無理ごもっとも」という軍事同盟外交になることは必然です。もし、小泉首
相のように「ブッシュのポチ」と言われるような外交を行うなら、そのような「
日米同盟主軸」は、「友愛外交」とは似ても似つかぬものとなるでしょう。それ
は旧自公政権の薄汚い従属外交であり、好戦的な軍事同盟外交であり、「日本国
民の自由に表明した意思に従い平和的傾向を持つ責任ある政府」(ポツダム宣言
)が行う「緊密で対等な日米関係」(マニフェスト)主軸の「友愛外交」ではあ
りません。
【他人のいやがることをしないことが「友愛」精神です】
------------------------------------------------
最後に、「友愛」とは、他人のいやがることをしないこと、そのことが前提と
なります。また、他人のいやがることを押しつけようとする人へ、そういうこと
をしないように率直に忠告することも「友愛」の実践です。沖縄県民は、最近今
年10月31日、11月1日実施の世論調査(「琉球新報」と「毎日」が実施)でも、
県内移設反対67%、賛成20%に示されるように、圧倒的多数が反対しています。
県民の心を理解することなくしては、「友愛」の政治はあり得ません。県民がい
やがることを押しつけようという米国国防長官とこれに追随している2閣僚をた
しなめ、オバマ大統領には、沖縄県と本土米軍基地の現実・事実を伝えることが
友愛の実践です。
【鳩山首相、貴方の「友愛」が試されています】
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是非、動揺することなく、マニフェストの通り県内移設を「見直し」、異常な
海兵隊普天間基地を閉鎖して、本国へ持ち帰ること(国外移設)を率直にオバマ
大統領にお伝えになることをお勧めします。そのことこそ、貴方の「友愛」の表
れであり、「政権交代」であると思うものです。
今、日本の首相として、貴方が成功されるかどうかその勇気が試されています。
貴方がその勇気を示されるとき、多数の日本国民は貴方を支持し支えることは
間違いありません。貴方の誤りのないご判断を日本国民と、日本国と、貴方の政
府と、貴方ご自身のために切に期待するものです。
最後に貴方のご健康を祈ります。 敬具
-------
■追伸
-------
【「アジア太平洋地域の不安定な要因」とは何ですか】
----------------------------------------------
それは北朝鮮の核ですか?北朝鮮の核とテポドンミサイルと在沖日米軍基地と
の関係は、原因と結果が逆に宣伝されていて、在沖日米軍基地がなければ核とテ
ポドンミサイルはいらないし、米軍基地こそがテポドンの原因であるということ
も国民の皆さんに知って頂かなければならないのです。原因をなくさなければ結
果をなくすことは出来ないと言うことは、あまりにも当たり前のことです。自公
前政権はこともあろうに「北朝鮮日本攻撃」論のデマを流布し、「核の傘」と基
地必要論へ国民を導こうとしました。基地を無くして「北」の恐怖を取り除く必
要があります。
また、6カ国協議に参加している中国、韓国、ロシアも武力侵攻する確率は、
万分の1もない、と言うことが専門家の見解です。もう一カ国米国は、1面では日
本帝国の侵略への反撃として、すでに日本に64年前に「武力侵攻」し、日本に入
り込み独立心さえ失わせ、今も半ば占領し続けているわけで、今日本攻撃する必
要はないわけです。しかし、ベトナム、イラクなど他国を侵略したし、侵略する
危険性があります。
【「沖縄を含む在日米軍の抑止力」とは何ですか】
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実際に北東アジアからの戦争を米軍は抑止するどころかベトナム、中国内部問
題の台湾海峡、イラクへ「戦争実行力」として機能したことが歴史的事実です。
また、米軍基地こそ、余りに多い米兵特に海兵隊員のレイプや事故、犯罪などで、
日本国民の安全を保障又は抑止するどころか逆に脅かしています。「沖縄を含
む在日米軍」は、日本の真の独立・自立、国民の安全を阻んでいるのです。「沖
縄を含む在日米軍」こそが、「アジア太平洋地域で最大の不安定要因」です。
以上
(筆者は財団法人政治経済研究所沖縄・基地問題研究室長)
沖縄・日本から米軍基地をなくす草の根運動
運営委員長 平山基生(ひらやまもとお)
hirayama_moto@yahoo.co.jp
http://www.kusanone.org
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■ 八つ場ダム代替案について 関 良基
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『週刊朝日』(10月16日号)で、八ッ場ダム建設予定地の長野原町長の高山欣
也氏は「建設に賛成の人はいない。でも中止に代替案がない」として、以下のよ
うに語っている。
「(前略)最初はみんな反対でした。それが、国の政策で軟化していく人も出
てきて、最終的には疲れ果ててしまった。(中略)私どもにも闘ってきたメンツ
があります。前原大臣が言うのは、ダム本体がなくなって、コレという具体的な
代替案もない。そこで「何らかの措置をとる」と言われても、信用できますか(
後略)」
1960年代初頭から半世紀にわたってダム問題に揺さぶられ続けてきた地元の人
々の苦悩を代表する発言である。60年代と70年代、ダムに水没する川原湯温泉街
など地元の人々はダム反対を掲げて勇敢に闘ってきた。当時、都市住民の多くは
冷淡であった。
地元の人々はそれでも二世代に渡って闘い続けた。しかし建設省側は地元住民
に対し巧妙な分断工作を仕掛け、ダムを受け入れなければ公共事業をしないとい
う形で兵糧攻めにされ、精神的にも傷つけられ、刀折れ矢は尽き果て、遂には建
設を受け入れざるを得なくなった。地元が移転に同意するという苦渋の決断をし
た後になってから、「水は余っている」とか「税金の無駄」といった都市住民側
の理屈でダムを中止されたら、地元に人々が怒るのは当たり前であろう。
こうした地元の反発を受けて前原誠司国土交通大臣も、八ッ場ダムに代わる代
替案を検討すると述べている。そこで治水と観光に関してダムへの代替案を何点
か提案してみたい。
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■利水に関して
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利水に関してはゼロ代替案でよいだろう。減少を続ける首都圏の水需要が、今
後反転して増加に転じるとは思えないからである。しかも八ッ場の水は致命的に
飲用には適さない。草津白根山から流れ出る吾妻川の水は強酸性で、上流で一日
53トンもの石灰を投入して中和している。また吾妻川の上流の浅間山麓には高原
野菜の産地として有名な嬬恋村がある。そのキャベツ畑に投じられた肥料も農薬
も、5000頭以上もいる牧場の牛たちの糞尿も八ッ場ダムに必然的に流れ込む。ダ
ムサイトの上流には人口の数十万の都市があるのに匹敵するというくらい大量の
栄養塩類がダム湖に流れこむのである。その豊富な栄養塩類によりダムが完成し
たらダム湖は藻類の大繁殖で青々と濁る。ただでさえ水が余っているのに、この
ような水を飲めというのは正気の沙汰とは思えない。
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■治水代替案
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国交省が建設の根拠にする1947年のカスリーン台風の大水害は、戦後直後に発
生したものである。戦時中は木材エネルギーへの依存度が高く、大都市に近い利
根川上流域はとくに乱伐が進み、森林の荒廃が著しかった。山林の治水機能が落
ちていた戦後直後に大型台風が襲ったので大水害に至った。戦後に植林が進み、
森林保水力は強化された。今日にカスリーン台風並みの大雨が降ってもあのよう
な水害には至らないことは明らかである。
しかしながら、治水に関する関心の高まりを契機にコンクリート・ダムではな
く、森林や水田の保水機能を高める「緑のダム」方式の治水を代替案として提示
すれば、治水のみならず日本経済の回復と社会の安定のために大いに有用であろ
う。雇用対策になり、さらに間伐材や米粉、飼料米、バイオエタノールなどの供
給力を高める。それらを用いたベンチャービジネスの勃興という供給サイドの「
創造的破壊(シュンペーター)」につながり、景気回復に寄与する。
国交省は、森林の保水機能は計量的に計算できないと主張して、森林を代替案
から退けようとする。実際には森林の保水機能も計量可能であるが、これに関し
ては論議を呼びそうなので、本稿では割愛する。森林による洪水ピーク流量の低
減を科学的に定量化する方法としては、今後の研究の進展に期待したい。もちろ
ん利根川流域の適正間伐と間伐材の有効活用という、「緑のダム整備+温暖化対
策」事業はどんどん進めていかねばならない。
森林以外に、確実に治水容量を計算できる「緑のダム」としては水田がある。
ここでは水田で八ッ場ダムを代替する方法を考えてみよう。耕作放棄された棚田
や減反した水田を必要量だけ復田すればよいのである。
畦の高さを30cmとすれば、豪雨の際に雨水を目いっぱい貯留すると1haで3000
立米の貯水容量が発生する。洪水対策の遊水池を兼ねる棚田ということであれば
、もう少し畦の高さを高くしてもよいだろう。
八ッ場ダムの洪水調整容量は6500万立米である。水田でこれを代替しようとす
ると、6500万/3000=21700(ha)となる。ざっと減反された水田や放棄された
棚田を2万1700haほど復田すれば八ッ場ダムを代替できる。利根川水系の流域面
積は168万haもあるので耕作放棄された棚田や減反地を集めれば2万haはすぐに集
まろう。
この洪水調整用水田(=遊水池)を、地方の建設業者に造成・管理してもらう
のはどうであろうか。畦を高くしながら復田し、それを洪水時の遊水池機能を果
たせるように維持管理する作業も立派な公共事業である。そこで生産されたコメ
は米粉、飼料米、エネルギー米などの用途で用いればよいだろう。地域資源を活
用した地場産業が育成され、食料自給率も向上し、治水のみならず、雇用対策、
景気対策、温暖化対策として大いに役に立つのである。
民主党政権はすべての農地に所得補償制度を導入するので、米粉や飼料米の市
場価格と生産コストの差額分は政府から補填されることになる。しかし条件不利
地である山間の棚田に関しては、洪水調整用の機能を鑑みて、個別の所得補償の
支払いに加え、国土保全費用として別枠の予算を追加で支払うべきであろう。治
水用のダムの維持管理費を支払うのと同じ理屈であるから、その支払いには何の
問題もない。そうすればダムという一過性の公共事業ではなく、建設業界により
永続的な公益的な業務を提供できよう。
もともと地方の建設業界は、兼業農家の働き先として発展してきたので、農業
・林業で再び食べられるようになれば「元のサヤに収まる」ことになる。そのた
めに建設業界が農・林業に参入できるような政策的後押しが必要であろう。
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■ダム観光への代替案
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さて水田治水の代替プロジェクトは、全利根川流域で実施されることになるの
で、八ッ場ダムの建設予定地に対する補償にはならない。長野原町や東吾妻町の
地元ではどのような事業が必要であろうか。
地元が、吾妻渓谷と温泉街の水没を伴ってでもダム建設を受け入れたのは、建
設省の提示した「ダム観光」の地域振興プランに、かすかな期待をかけたからで
あった。しかし「ダム観光の成功例はない」と言われているとおり、現実的には
期待薄であろう。しかもダム建設によって国指定名勝である吾妻渓谷の自然美の
半分を水没させて台無しにしてしまう。残った渓谷も、ダムの巨大な壁面の下に
細々と残るのみで、惨めな醜態をさらすことになってしまう。ダム湖は嬬恋村か
らの大量の栄養塩類の流入によって植物プランクトンが繁茂し、深緑色に濁る。
建設後の八ッ場ダムを訪れる人々にとって、この地は人間の愚かさを示す記念碑
としての意味を持つことになるであろう。
やはりダムを造らず、吾妻渓谷の自然美と、「美人の湯」としても名高い川原
湯温泉を残した観光策を立案するのが最善の策であろう。そしてプラスαの観光
資源を加えるとしたら、近年の歴史ブームによってますます人気が高まる真田幸
隆・昌幸・幸村の「真田三代」の歴史遺産を活用した「真田観光」であろう。こ
れで十二分に「ダム観光」の代替になるのではないだろうか。
あまり知られていないが、ダム建設予定地の長野原町や東吾妻町の一帯は、戦
国最強軍団として知られる真田一族が拠点とした地であった。ダム建設予定地の
すぐ下流の脇には岩櫃城跡がある。岩櫃城は、歴史ファンなら「知る人ぞ知る」
という天下の名城である。岩櫃城は、武田信玄の命を受けた真田幸隆が攻略し、
息子の真田昌幸に引き継がれた真田の居城であった。かの真田幸村(信繁)も、
この八ツ場ダム予定地周辺の岩櫃城下で青春時代をすごしたのだ。真田家が上田
城を築城して近世大名として自立する以前、戦国真田領の中核的な城が八ッ場ダ
ム予定地周辺の岩櫃城であった。
1582年の武田家滅亡の折には、城主真田昌幸が武田勝頼を岩櫃城に迎え入れ、
織田信長の大軍を相手に籠城戦を試みようとした。しかし勝頼は、真田の岩櫃城
ではなく小山田の岩殿城に向かい、最後には滅亡に至ったのである。池波正太郎
の小説『真田太平記』は、この岩櫃籠城の段から書き始められる。池波は、岩櫃
の城を実地で見聞し、ここに武田勝頼と真田昌幸が籠城すれば、さすがの織田軍
もこれを攻め落とすことはできなかっただろう、したがって武田家は存続したで
あろう、とまで言い切っている。実際、岩櫃城を訪れた人々は池波正太郎の説に
納得するであろう。岩櫃山の大絶壁に守られたその城の威容は圧巻であり、まさ
に難攻不落と呼ぶにふさわしい。
ダム建設サイトには、岩櫃城の支城である丸岩城が存在する。この城は北条、
上杉、武田の三大勢力の狭間で、数奇な歴史に翻弄され、最後は真田の城となっ
た。丸岩城も断崖上に築かれた天然の要害で、岩櫃城に勝るとも劣らぬ威容を誇
る。しかも美しい。いかにも真田の城という威風堂々とした姿で、渓谷からそび
え立っている。この城と渓谷の周辺で真田の忍びは修行したのかと思うと、「そ
りゃ強いわけだ」と納得できる。この丸岩城の山麓はダム湖に沈み、丸岩城はダ
ム湖から突き出たような景観となろう。渓谷からそびえ立った威風堂々とした城
郭の景観と、真田忍者の歴史ロマンはその姿を消すのである。
長野原町には、この丸岩城の他にも、長野原城、羽根尾城といったいずれも真
田関係の史跡がある。そして隣の東吾妻町には天下無双の名城である岩櫃城の大
城郭が存在する。
これらの城郭に可能な範囲で櫓や塀などを復元し、山城の近くには戦国時代の
村の様子を再現した民家群もつくり、時代劇の合戦シーンのロケ地としても使え
る「戦国村」として整備することを提案したい。もちろん旧来の山城の遺構を傷
つけないように細心の注意を払っての上で。八ッ場ダムなどよりもよほど人を呼
べる観光資源になるであろう。
時代劇のロケが可能な山城というのは全国にほとんどない。中世の山城の建物
は現存していないからである。多くのテレビドラマや映画では、戦国時代の合戦
シーンを近世の城郭で撮影しているが、あれは時代考証的には誤りである。戦国
時代の山岳城郭には漆喰の白壁の高層櫓など存在しないからである。
戦国屈指の名城として知られる難攻不落の岩櫃城の地において、中世風の塀と
櫓や兵舎を再健し、戦国村として整備すれば、首都圏から近いという地理的メリ
ットもあり、多くの映画やテレビドラマのロケ地となることであろう。
今後、真田幸隆・昌幸・幸村の真田三代のいずれかを主人公とするドラマや映
画が作られることもあるであろう。その時、幸隆・昌幸が実際に活躍した岩櫃や
吾妻渓谷の地で、450年の時を超えて当時の城郭を再現した上でロケを行うので
ある。臨場感あふれ、感涙もののドラマに仕上がることは確実である。そうなれ
ば、その映像を観て感動した人々が自然と観光客として訪れることになる。
もちろん吾妻の地に「戦国村」が整備されれば、「真田モノ」以外にも、あら
ゆる戦国モノのロケ地として使えます。東京から近いという地理的メリットもあ
り、映画のロケ地として、観光地として、長野原町や東吾妻町は大いに潤うこと
であろう。
上田から鳥居峠を越え、嬬恋村から吾妻街道を通って、沼田へ抜ける道は戦国
・真田領を横断する「真田街道」といえる。菅平高原、四阿山、浅間山、草津白
根山、榛名山、尾瀬ヶ原・・・・戦国真田領は、利根川と信濃川という日本で一
位と二位の大河川の上流域に位置し、数々の名峰と温泉に囲まれている。真田領
を横断する街道は歴史と自然と情緒にあふれ、ドイツのロマンティック街道に匹
敵する美しい自然景観を持っているということで、現在「日本ロマンチック街道
」と命名されて整備されている。そのロマンチック街道の中核に位置するのが吾
妻の地である。この風光明媚な地に、治水上も利水上も無用な醜悪なダムを建設
してはならない。
ロマンチック街道を利用した真田史跡ツアーを組めば、川原湯温泉で一泊とい
うことになるであろう。その意味でも、この地に「戦国村」を整備する効果は大
きいであろう。
(筆者は拓殖大学政経学部助教)
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≪連載≫
■海外論潮短評(29) 初岡 昌一郎
■臆子妄論 西村 徹
■農業は死の床か。再生の時か。 濱田 幸生
■宗教・民族から見た同時代世界 荒木 重雄
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≪連載≫
■海外論潮短評(29) 初岡 昌一郎
-生まれ変わったロシア ― モスクワの外交政策を再点検する
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アメリカの代表的国際問題専門誌『フォーリン・アフェアーズ』11/12月
号に、表記のタイトルの論文が掲載されている。ソ連体制崩壊後はロシアの前途
について華々しく論じられた時期があったが、プーチン政権の安定以後、ロシア
は国際論壇から忘れ去られた感がある。この論文は、ロシアの国際的な位置とそ
の国際的な政策を全般的に取り上げた、近年数少ない本格的論文として評者の関
心を惹いたので、その骨子を先ず要約して紹介する。論文の筆者は、カーネギー
財団モスクワ・センター所長ディミトリ・トレーニンである。名前から推測する
と、ロシア系アメリカ人である。日本の保守系学者と政治家が作っている安保研
による日露シンポジュウムに、ロシア側の一員として参加した経験を持っている
。
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■ソ連崩壊後のロシアの新しい国際的位置
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アフガニスタンからの撤兵とベルリンの壁撤去、それに続くソ連崩壊から約2
0年がたった。その間にロシアは共産主義を放棄し、帝国を失った。その代わり
、ヨーロッパとアジアの周辺部に心地よく座しており、ムスレム世界とほどほど
の距離で付き合っている。
1990年代には、モスクワは西欧との統合を目指していた。西欧はロシアを
身内として受け入れる気持ちがなく、ロシアのエリートは国内外で翼賛的な保守
主義を政策路線として選択したので、こうした努力は失敗に帰した。二期目のプ
ーチン大統領は入欧という目標を放棄し、独立した大国として振舞うという、必
ずしも本意ではないオプションに回帰した。再設定された目標は、近隣諸国をソ
フトに支配し、アメリカ・EU・中国の世界的パワーセンターと肩を並べ、グロ
ーバルな多極的秩序の一端を担うことである。
しかしその後、この政策路線は失敗と欠陥を露呈している。その大きな原因は
、エネルギー依存の経済を改革する意思と能力を政府が持っていないこと、ロシ
アの政治が競争を排除する性格を持っていること、ナショナリズムと孤立主義の
傾向が強いことにある。外交政策から診ると、ロシアの指導者は失われえたソ連
帝国の清算を怠っている。あたかも、21世紀のグローバル化した市場につなが
るドアと、19世紀のパワーゲームに入るドアという、まったく異なった門戸を
同時に通って、20世紀から抜け出そうとしているようだ。
ロシアの現在の指導者が選んだモデルは、発展抜きの成長、民主主義抜きの資
本主義、国際的魅力無しの大国主義政策であり、長続きしないものである。ロシ
アはその外交政策の主要な目的を達成できないだけではなく、即時のコミュニケ
ーションと国境の開放をますます特徴とする世界に更に立ち遅れることになる。
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■冬眠の終わり ― 国際活動の再活発化
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ロシアが入欧を断念したとき、始めたのがCIS強化である。これは、バルト
三国を除き、旧ソ連邦諸国を結集したパワーセンターを作ることである。これは
ソ連の復活ではなく、これらの新生諸国の政治的忠誠心を確保し、ロシアのビジ
ネス権益とロシア文化を拡大する意図によるものである。メドベージェフ大統領
は、この地域をロシア連邦の特殊権益圏と呼んでいる。
昨年の対グルジア戦争の勝利がこの主張を強めた。対照的に、アメリカは立場
を失った。先ずブッシュ政権は、南オセチアにたいするグルジアの無謀な行動を
抑えるのを怠り、ロシアにワシントンの意図に疑念を抱かせる挑発をおこなった
。そして、戦争が始まるとグルジアを助けることを怠り、ロシアと国境を接する
諸国にアメリカに対する安全保障上の信頼性を失わせた。
ロシアが圧倒的な武力でグルジアから南オセチアとアブハジアを分離独立させ
たものの、CISの集団安全保障条約機構(CSTO)加盟6カ国以外に、1年
後の今日に至るも承認している国は他にない。分離派の独立を容認することはい
ずれの国にとっても微妙な問題であり、ロシアの同盟国でさえその衛星国と視ら
れことを嫌がる。
中央アジアの弱小国でさえ、モスクワに楯突く勇気を出すことがある。ロシア
はこれまでキルギスタンにアメリカ空軍基地の閉鎖を再三公然と要望してきたが
、2009年初頭にキルギス政府はそれに応えた。同国はロシアに多額の包括的
援助を求めていたので、アメリカの軍事基地追放でモスクワを喜ばそうとした。
しかし、キャッシュのもっと欲しいキルギス政府は数ヵ月後に二股膏薬の行動を
とった。ロシアから20億ドル相当の援助を引き出すと、今度はアメリカにたい
し、借用料引き上げという条件よって軍事基地使用延長を認めた。モスクワはこ
の豹変に驚愕したが、キルギスタンにロシアの基地も置くことで妥協せざるを得
なかった。
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■モスクワの夢
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2008年のグローバル経済危機以前は、ロシアが経済的地政学的大国として
興隆することにクレムリンは自信を持っていた。2008年6月には、メドベー
ジェフはルーブルがユーラシア地域の将来的準備通貨となると公言していた。そ
の後ロシアの外貨準備が減り、ルーブルの価値と国際通貨としての潜在的魅力が
急落した。今年1月、ロシアが合意されていた5億ドルの借款をベラルーシにル
ーブルで提供すると、同国民は騙され、侮辱されたと感じた。
世界金融経済危機は、他の主要国以上にロシアに打撃を与えた。1998年の
金融危機以降、ロシア経済は石油とガスに依存を深めた。グローバルな商品価格
が下落するに連れて、ロシアのGDPが落ち込んだ。ロシアのGDPは2008
年中頃から2009年動機までに10パーセント以上低下した。他のCIS諸国はより
深刻な影響を受け、ウクライナは約20%下がった。ロシアは危機をチャンスと捉
えて、近隣諸国に援助の手を差し伸べ、政治的影響力を高めようと期待している
。
同時に、ロシアはWTOに加盟しようとする16年間に亘る努力を中断した。長
期に亘る交渉に不満を抱いたこともあるが、これは何よりも外交政策上の優先順
位を組み替える野心を示している。ロシアとベラルーシの連合国家は1990年代か
ら存在しているが、それにカザフスタンを加えた新関税同盟を唱導している。
アメリカがイラクを侵略した2003年以後、ロシア政府はユーコス石油会社を接
収し、エネルギー大国として新たな立場を唱えている。冷戦中に核兵器保有がソ
連に超大国の地位を与えたように、今日のロシアは石油とガスの力を用いようと
している。しかし、国営巨大企業「ガスプロム」による2006年と2009年のウクラ
イナにたいする拙劣な供給中断策が、エネルギーを武器として利用する戦術の失
敗を立証した。過去数年間、ガスプロムは他のCIS諸国の産出したガスを買い
集め、その輸出ルートをコントロールしようとしてきた。2003年、同社はトゥル
クメニスタンのガス生産全量を向こう25年間取得する権利を入手した。2007
年にロシアは、カスピ海経由で新パイプラインを建設する合意をカザクスタン、
トゥルクメニスタン、ウズベキスタンから獲得した。
しかし、物事はロシアの意図通りには進んでいない。ウクライナのガス危機以
降、ロシアの安定的供給者としての信頼度が下がり、ヨーロッパ諸国は代替的な
供給源を探し始め、独自のパイプラインを計画している。ロシアは近隣諸国にい
くつかの権益拠点を確保しているが、勢力圏といえるほどのものではない。その
外交は領土的指向に囚われており、いくつかの帝国主義的中軸国が他の弱小国に
影響を行使するというその世界観は、現代のグローバル政治の新しい性格を無視
している。
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■欧米諸国との関係
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2007年のミュンヘン安全保障会議では、ソ連崩壊後のロシアが弱体であった当
時に策定されたルールをもはや受け入れないとプーチンが明言した。クレムリン
はヨーロッパとアメリカからの戦略的独立を実証したが、両者との全面的対等を
誇示してはいない。中東や他の地域向けのアメリカや西欧の政策をロシアが支持
する代わりに、アメリカがモスクワの旧ソ連諸国支配を容認するとの見方は、ま
ったく非現実的である。
21世紀では魅力が強制力に勝る。世界が勢力圏の拡大を目指す覇権国の争いで
動いているという、ロシア指導部内の多数派の見解はこれと異なっている。ツア
ー時代とソ連時代におけるロシアの弱さと後進性は、マンパワー上の優位、政治
的中央集権、軍事偏重の産業によってカバーされていた。だが今日では、今世紀
半ばまでに人口が15%減るという危機に脅かされている。軍事力も低下している
。軍事産業も通常兵器システム全てを生産する能力をもはや持たず、イスラエル
やフランスなどから兵器の一部を調達している。ロシアの核兵器部門でさえ多く
の欠陥を露呈している。
ヨーロッパにおけるロシアの軍事的優位性は今や失われている。ロシアはEU
の最大かつ最重要な隣国であるが、力関係の強調はロシアの得意技ではなくなっ
た。
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■新興勢力結集の壁
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今夏中の同時期に、ロシア政府はCSTO,上海協力会議、BRICの3つの
国際会議のホストをエカテリンブルグで務めた。ブラジル、ロシア、インド、中
国からなるBRICサミットは史上最初のものであったが、格好の写真撮映チャ
ンス以上のものではなかった。BRICを発言権強化の舞台としようとするロシ
アの意図は上手くゆかないだろう。中国とインドはわが道を行っているし、ロシ
アを見下している。
上海協力機構内でのロシアと中国の協力は拡大しているが、両国間関係を引っ
張っているのは、ロシアよりも経済的に勝っている中国である。最近、中国は中
央アジア諸国に100億ドルの借款を提供し、ベラルーシに通貨スワップを供与し
た。遠方のモルドバにも100億ドルの援助を与えたが、これはモスクワが約束し
ている額の倍に当たる。中国はまた、アブハジアと南オセチアの独立承認を拒否
しており、これが中央アジアのCIS諸国に模範を示している。
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■迫られるモスクワの態度修正
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モスクワの第一の優先順位は、自国の経済的知的社会的潜在力を高めることで
ある。ロシアの人口危機は、政府が国民の信頼を回復し、領土の拡大よりも市民
の統合に注力すべき必要を示している。
ソフトパワーがロシアの外交政策の中核となるべきだ。貴重なこの種未利用資
源を旧ソ連圏において有している。ロシア語は、リガからアルマータまでの広域
で使用されているし、プーシュキンからポップ音楽にいたるロシア文化は依然と
して広く支持されている。ロシアがインフラを再建すれば、その高等教育機関に
近隣諸国が魅力を感じるであろう。ロシアがその政治体制と経済運営に抜本的な
改革を断行すれば、効果はドラマティックなものなろう。ロシアのビジネスマン
はクレムリンのエージェントと見られなくなり、ロシアのテレビはロシア語圏の
アルジャジーラとなるだろう。ロシア正教会も国外での影響力を増すだろう。
ロシアもハードパワーを必要とするが、過去ではなく現在の挑戦に対応するも
のでなければならない。ロアシアは単独で行動するのではなく、CSTO諸国、
NATO諸国、中国・インド・日本などのアジアの隣国と安全保障上の協力メカ
ニズムを探る必要がある。
--------------------------------------
■ロシア現代化の課題
--------------------------------------
ロシアの目標はEUに参加することではなく、それとの共通の経済的スペース
を創出することである。したがって、欧州・太平洋安全保障秩序を目指す信頼感
を醸成し、ヴァンクーバーからウラディオストックに至る非武装地帯の実現を目
指すべきである。
中国はロシアの主要貿易相手の一つとして急速に重要性をたかめており、ロシ
アに対する重要な投資国となりつつある。加えて、中央および北東アジアから中
東全域にわたるロシア近隣圏で安全保障と安定のための基幹的パートナーである。
ロシア領土は太平洋に至るまで広がっており、ユーラシアというよりも、ユー
ロ・パシフィック・パワーである。アメリカはベーリング海を隔てた隣国である。
モスクワとワシントンは、大西洋やカスピ海と違い、太平洋における対立点が
ほとんど無い。21世紀におけるロシアのフロンティアは東にあり、太平洋側の直
接的隣国である中国、日本、韓国に追いつく必要とチャンスがある。
もしもピョトール大帝が今日生きていれば、首都をモスクワからバルト海沿岸
にではなく、日本海沿岸に移していたであろう。ロシアがウラディオストックを
21世紀の首都と想定しても不思議ではない。ウラディオは港湾都市であり、開放
感が息吹いている。その位置は、北京、香港、ソウル、上海、東京という、東ア
ジアの主要都市にアクセスが至便であり、ロシアは世界で最もダイナミックな諸
国民と密接な接触が図れる。
太平洋沿岸部に新たな力点を置くことは、ロシア極東部だけではなく、セント
ペテルスブルグに至る全域を発展させるのに役立つ。このような路線は、特にシ
ベリア全域の開発を促す。それはまた、資源豊富で、潜在的生産可能地域として
登場している北極圏における経済的戦略的な機会をロシアが追求する追い風とな
る。北極海はその厳しさゆえに、ヨーロッパ、ロシアおよび北米の協力を必要と
している。
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■ノスタルジアではなく、ニーズによって
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力の均衡や閉鎖的勢力圏に意を用いるのではなく、世界的に最も関係が深い有
力なアクターとの絆を強めることによって、ロシアはその利益をよりよく図れる
。国連安全保障理事会での拒否権を振りかざすよりも、コーカサスやモルドバな
どの自国周辺での紛争解決に集中すべきである。アジアや中東では、宗派的偏狭
を減らし、政治的安定をもたらすことに努力すべきである。ロシアの回教人口は
1989年以降40%増加しているので、キリスト教徒と回教との対話に向けてロシア
が果たすべき役割がある。 ロシアは、EUと共に新国際環境基準を策定するこ
とにより、また自国の非常に非効率的なエネルギー利用を改善し、シベリアのき
れいな水と森林資源を保護することにより、世界の環境保護に重要な貢献が出来
る。
帝国としての500年、イデオロギー戦士としての70年、そして冷戦中の軍事超
大国としての40年の後、新しい役割を受容するのは容易でない。ソ連以後のロシ
アのカムバックは、ロシアが取るに足らない国になるという予測を覆した。ロシ
アが現在の経済危機を生き残るのも確実である。しかし、ノスタルジアではなく、
ニーズにしたがって外交政策を追求する能力を持つ現代国家となるには、まだ
時間がかかるだろう。ロシアが、旧衛星国や東方の隣国のように、正式に西側に
参加することは無い。しかし、国内的変革の結果、より現代的な国家となり、そ
れにしたがって外交政策を進めるにつれて、真面目で、望ましい、そして不可欠
なパートナーに、また重要なグローバル・アクターになるであろう。
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◇◆コメント◇◆
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社会主義青年同盟結成準備期間中に、当時25歳だった評者が初めて行った外国
がロシア(当時のソ連)であった。1960年から64年までの5年間、ロシアは私に
とって最も身近な外国であった。毎年連続的に青年学生関連の諸会議のために出
国していたが、外国旅行は今のように自由なものではなく、交通手段も限られ、
旅費も乏しかったのでソ連やユーゴの貨物船を利用していた。一旦出国するとそ
の機会を利用して西欧にも行くことがあったが、往復の途上にはモスクワに立ち
寄り、シベリア経由で帰国することが常であった。
そのころのソ連はフルシチョフ政権下にあり、スターリン主義と決別、西側と
の平和共存路線を推進していたので、その開放政策が内外で大きな期待を集めて
いた。 しかし、1964年10月、ユーゴスラビアとイタリアで一年あまりになった
滞在を切り上げ、モスクワを経て東京オリンピックで沸く東京に向けナホトカか
らソ連貨物船に乗り込んだその瞬間、フルシチョフ失脚のニュースが飛び込んで
きた。たったその数日前に、世界の青年学生代表がクレムリンでフルシチョフに
会ったばかりで、私もその中にいた。当時私が親しくしていたロシアの友人たち
との交流と音信は、その政変以後途絶えてしまった。
ゴルバチョフによるペレストロイカが始まり、そして20年前にソ連解が解体し
た以後、再び関心を持ってロシアの動向をフォローするようになった。ところが、
近年はロシアについての断片的な報道や論評は時々見かけても、冷戦期以後の
ロシアに関する本格的な研究は激減した。その一つの大きな理由は、ロシア研究
に対する政治的ニーズが減ってしまったことにある。もはやロシアは軍事上の脅
威とみなされなくなり、アメリカなどで重点的研究助成の対象から外されている。
国際関係ための公的研究助成が軍事外交政策の焦点と密接な関係があることは
歴史的にみて明らかであり、これまでの国際関係・地域研究が軍事的安全保障に
極度に偏向していることは歴然としている。
本題に立ち返ると、ここに取り上げた論文は、国際的なロシアの立位置と将来
展望を論じたものとして注目すべき数少ないものの一つである。この所論はどち
らかというと対露協調を図ろうとする欧米の人々の考え方を代表したもので、ク
レムリンの現在の政策路線とはかなり距離がある。しかし、筆者の指摘するロシ
アの東アジアとの将来の関係や、ソフトパワーとしての可能性などは、日本にお
ける対露関係論議でほとんど考慮に入れられていない側面であり、重要な指摘と
して注意を喚起したい。
日本における対露関係論議では領土問題がほとんど唯一の焦点として取り上げ
られてきた。対露交渉と議論の入り口は"島"によって塞がれており、それによっ
て身動きが出来ないものになっている。同様なアプローチは北朝鮮問題にも取ら
れている。
より多角的重層的な思考と懐の深い議論が国際関係の難問解決には必要である。
入り口を塞いでいる障害を出口で取り除くアプローチを指向するうえで、本論
は貴重な示唆を与えている。東アジア共同体など、今後の東アジアの国際関係を
考える上で、ロシアの存在を今のように無視してよいはずはない。
(筆者はソーシアルアジア研究会代表)
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≪連載≫
■臆子妄論
- 病気、病院、電車のはなし(4)-
西村 徹
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■チンチン電車(阪堺電気軌道)
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退院したのが五月一日、連休明けからの放射線治療は電車で通った。空模様の
悪いときはKさんのクルマで運んでもらったが、基本的には電車で通った。土日
以外の毎日だから、いちいち切符も面倒になって途中から定期券を買った。乗車
回数からはトクにならなかったが記念品になって残った。その電車は今どきめっ
きり少なくなった路面電車だ。路面といっても市電のように全線が路面、すなわ
ち併用路線ばかりというのでない。柵の中を電車だけが走る専用路線のところも
ある。
専用線で一箇所だけ駅と駅の間が1.3キロの直線コースがある。このときだけ
はしゃにむに走る。そして左右に激しく揺れる。酔っ払いが踊るかのように走る
。ところどころ電車のお通りのたびに遮断機が下りる。人を通せんぼしてカンカ
ンカンと警報が鳴る中を電車そのものもカシャシャンカシャシャンと音を立てて
走る。たぶんこのとき運転手は月給の厚薄には替えられないほどの開放感に胸ふ
くらませているのではないかと思う。私が運転手を羨むのはこのときである。時
速50キロも出ている。それ以外は表定時速20.1キロ、いちばんがんばっても30キ
ロ、ときどき自転車に追い越されたりする。
他に私が運転手を羨むところが二箇所ある。ひとつは南のターミナルである浜
寺公園駅前を出発して次の船尾駅までの、途中に立体交差するところである。出
発する時は南海本線浜寺公園駅の約100メートル西からほとんど並行に北進す
るが、間もなくS字状カーブを登坂し、盛り土高架上をチンチン電車が南海本線
を跨ぐことになる。ここは下から眺めても中に乗っていてもはなはだ愉快なとこ
ろだ。下を走る電車が普通列車だと、もう直ぐ停まる速度だから、まるで音のな
い動画を見ている感じだが、特急や急行が轟音とともに疾走するのに出くわすと
愉快度は倍増する。本線の上り下りがすれちがったりすると倍増ではおさまらな
い。そのうれしさをたとえれば政権交代とおなじではないが少し似ている。天に
昇った、は大袈裟でも大屋根に上がったぐらいの気にはなる。休日になるとカメ
ラを構えてその瞬間を待つ人の姿をよく見る。昔は土手の上に海道畑という駅が
あったそうだが今はない。
もうひとつ、上町線の住吉から、その次の神ノ木までが同じくS字の上り坂だ
。両駅間の距離600メートルすべて上り勾配を完全登山電車だ。電車はけなげ
にがんばっていることが、その音からわかる。カシャシャンカシャシャンではな
くてヒーンと一本調子になる。運転手もきっとふんばっているにちがいない。ひ
ょっとして後ろに滑り落ちないだろうかと心配しているだろう。下りはイマイチ
拍子抜けでくだらない、などというと駄洒落になるが、上りは運転手でなくても
力が入る。神ノ木駅も盛り土高架で下を南海高野線が走っている。上りきって土
手のてっぺんに停まったときの心持ちは、ひとまずある種の達成感がある。なぜ
神ノ木か。昔は浜が見えて神木が立っていたとか住吉大社の老松が見えたとかで
あるらしい。ついでに言うと、この神ノ木は映画にもなり63年以降八回にわた
ってテレビドラマになった山崎豊子原作「女系家族」の、老舗の呉服店「矢島屋
」の社長の妾宅があると設定される土地である。神ノ木駅から400メートル北
の帝塚山四丁目で降りて東へ10分歩いたところが私の通院する病院である。
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■のんびり電車―阪堺線と上町線
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路線は二つあって、ひとつは阪堺線、もうひとつは上町線という。阪堺線は浜
寺公園駅前から恵美須町まで、ほとんど一直線に北上して日本橋デンデンタウン
の南端、歓楽商店街「新世界」北端に達する。全長14.1キロ。上町線とは、
阪堺線途中の住吉で東に分れて(厳密にいうと上町線の始発駅は住吉ではなく、
その200メートル先の住吉公園であるが)天王寺駅前まで北上する4.6キロをい
う。南の端の浜寺公園駅前から北の端まで、恵美須町へも天王寺駅前にも、どち
らにせよ14キロを走るのに42分かかる。春風駘蕩のんびり電車である。住吉
公園駅から出てくるのを住吉で待っていると電車は粛々と音もなく人家の蔭から
現れる。それは、あたかも能役者が揚幕の下から橋掛かりに出てくるようにあら
たまって見える。
歴史地理的に言うと阪堺線は「音に聞く高師浜」を発して紀州街道に沿い,北
畠顕家が戦死した石津川を渡り、御陵前(仁徳陵)から旧堺市中に入り、与謝野
晶子生家跡、利休茶室跡、堺事件の妙国寺などの傍らを過ぎ、大和川を渡って住
吉大社に達し、阪堺線はそのまま紀州街道を直進して今宮戎に達する。上町線は
住吉から枝分かれして少し東に振れた後、帝塚山から上町台地上を北に進み、安
倍晴明神社のあたりで現在の阿倍野筋、昔の熊野街道に入ることになる。
現代史的には阪堺線終点の恵美須町は新世界という商店街ならびに歓楽街であ
る。庶民的という以上に庶民的な、雑駁というよりむしろ猥雑な歓楽街である。
浅草ほども垢抜けてはいるまいし、浅草ほどの賑わいも今はないだろう。山谷に
該当する釜が崎というドヤ街の地続きでもある。たとえばかつては温泉劇場とい
うストリップ小屋があって「ペニスの鼻歌」などという看板がかかっていたりし
た。今は見なくなったが恵美須町のプラットホームには茣蓙を敷いてカマの労働
者が真っ昼間一升瓶を抱えて独酌で酒盛りをしていたりした。駅の手洗いは彼ら
の洗面所であった。
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■新世界とサルトル、そして澤野工房
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サルトルが来たことがある。新潮世界文学47の月報13に朝吹登水子という
人が書いている。
「1966年9月、サルトルとボーヴォワールが慶応義塾の招きで日本に来た
時・・・その日は大阪のNHKでテレビに出、そのあと庶民的な新世界をぶらぶ
ら歩いた。狭い一杯飲み屋ご飯をかきこんでいる職人、夢中でパチンコをやって
いる若者、バラックの店先いっぱい並べた小間物屋の商品をひっくり返している
お内儀さん。夕方で相当の人が出ていた。むこうから千鳥足でやって来た労務者
風の男が、すれ違いざま『やあー』と陽気な声をかけて、サルトルの肩をぽんと
叩いた。サルトルはちょっとびっくりしたが、すぐにこっと笑って手を振った。
もちろん男はサルトルが誰であるか知らなかったようだ。」
いかにもカマの労働者らしさがよく出ている。もっとも大阪人は、とくに南大
阪では、老若男女を問わず、行きずりの人に平気で話しかけるから必ずしもカマ
の労働者の持ち前とは言えないかもしれない。とりわけこの界隈はそんな気分が
横溢している。ここに来る人はある種の緊張と解放を同時に感じる。ある種のア
ナーキーな雰囲気が全体を覆っている。欲望の解放区でもあり肉の苦界でもある
が、また弱者が傷を舐め合う「どん底」の連帯感情の生まれるところでもある。
しかしさすがに「肩をぽん」は新世界の「労務者風の男」ならではのことかもし
れない。
誰の入れ智慧によったものかは知らないが、新世界は十分サルトルの興味を呼
ぶに値するところだと思う。新世界とサルトルという組み合わせの意外性にも負
けない組み合わせが他にある。通天閣のちょっと手前に澤野商店という大正三年
創業の履物店がある。履物屋は、和装が主流の時代、いまのブチックのように華
やいだ色彩の氾濫するお店だった。そこは同時に澤野工房というジャズレコード
の会社でもある。下駄屋の老舗四代目の大将が同時にレコード会社の社長である
。そういう不思議な深みと味わいを、この新世界の濃密な空気が、たぶんに享楽
的で刹那的でもある空気が包み持っている。あるいは澤野由明氏とジャズは純粋
に個人的であって新世界は偶然であるのかもしれないが、偶然だろうがなんだろ
うが澤野工房の所在地が新世界であることは紛れもない事実なのである。
新世界は釜が崎に連なり、釜が崎は日本最大級の飛田遊郭に連なり、そこから
東へ天王寺公園の南側JRの掘割を隔てて通称天王寺村と呼ばれる芸人長屋の町
があった。今や芸人はタレントと呼ばれる富裕層に変貌して天王寺村は跡形もな
いが、天王寺村消滅後も相当期間、男娼はこの界隈に住んで、たそがれる頃合を
待って街頭に進出していた。ときに阿倍野のビルの曲がり角で艶麗で、かつ量感
のある大女(?)が通行客に秋波を送っているのにぶつかって度肝を抜かれたこ
とがある。花柳とかなんとか新派の舞台の女形を見るような壮観であった。いず
れにせよ半世紀ぐらい前のはなしであって現在の消息を私は知らない。しかし、
その、天王寺村の東端こそが上町線のターミナル天王寺駅前になるのである。
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■上町線
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この天王寺駅前駅は、ターミナルはターミナルでも路上にあって、今は地下道
を通って上に出るようになっているが、以前は信号に従い路上を半分横断してプ
ラットホームに達するしかけになっていた。ポチの小屋を大きくしたような木箱
の出改札口だったと思う。ここから阿倍野筋すなわち熊野街道を1キロ余り下っ
た松虫という駅の辺で首を少し西に振っておいてから再び直進して北畠、姫松、
帝塚山三丁目などという高級住宅地を住吉公園目指して南下する。高級住宅地で
あるとともに学園地帯でもある。下町を走る阪堺線と対照的な、まさしく上町線
である。しかし上町台地は同時に上町断層でもあって、いずれ大地震が直撃する
だろうといわれている。瀟洒な数寄屋のお屋敷は相続税の重圧に圧されて持ち主
がかわり、新たな勝ち組が跡地に建てる家はむくつけき鉄筋コンクリートが多く
なって往年の景観は急速に失われつつある。
じつは私が最初に就職したのが大阪女子大学という一学年140人、学生総数
640人の超ミニ大学で、所在地が上町線の帝塚山三丁目であった。旧制のころ
は大阪府女子専門学校といった。北畠には旧制の大阪高等学校があった。相隔て
ること800メートル。いずれも上町線の東側であった。大阪高等学校の向かい
、すなわち線路の西側には旧制住吉中学校、現在の住吉高等学校が今もある。帝
塚山学院という富裕層向きの私立学校は帝塚山三丁目の西側にある。東側にあっ
た学校は二つながら消滅したが、西はいずれも健在である。電車はおのずからこ
れらの学生生徒で溢れる。私も天王寺駅前から通った。しけた話だが、姫松で降
りると5円安い。学生は学割定期だから帝塚山三丁目まで行って降りる。我々生
活者は姫松で降りて400メートルを歩くことによって5円を節約することがあ
った。この節約術を奨めてくれたのは化学の教授で船場道修町の名立たる薬種問
屋の跡継ぎであった。
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■八十歳の車両
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なぜこんな、電車の話を書く気になったかというと、病院通いで久しぶりに乗
った電車がたまたま昭和参年、川崎車輌製造の160型モ162であったことに
よる。車両そのものがきわめて古格で、外側鋼板だが内部は木製。冷房装置を屋
根に搭載する荷重に耐えないので夏の間は車庫で静かに冬眠でなくて夏眠する。
いま日本中の電車のうち最高齢と聞く。外は蓬、青竹、抹茶、ビリヤードグリー
ン、ターコイズグリーンと、いろいろ想像を呼ぶが結局深緑。医者、クスリ屋の
明るいグリーンではない。これは親会社南海電車のシンボルカラーだからである
。他の車両は広告塗装しているが、これだけは伝統の色を保存塗装している。扉
は芥子色。いや柿か金茶かマリゴールドか。内部は萌黄か若菜かというところ。
窓は木枠一枚ガラスで開けるときは下枠の引き手に手をかけて全開する。開ける
か閉めるか、中途半端はできない。運転席背中の衝立と天井とのあいだにはアー
ルデコ調唐草模様の飾りアームが付いている。
私は、もうこれだけで痺れてしまうが、なによりも昭和参年に参ってしまった
。それは1928年、私の満2歳の年。一気にこの年を起点として昭和史が脳裏を駆
け巡る。なによりも昭和参年は竹内好が、また保田輿重郎が大阪高等学校に入学
した年である。彼らは真新しいモ162にどれほど頻繁に乗ったことであろうか
。なんということであろうか。車両内の空気は俄かに一変する。たったいまこの
中に彼らがいないと誰がいえるか。そう思うだけで私の心は震える。彼らの霊よ
出現せよと震える。霊といえばせっかちに過ぎようか。ひとつの記号を契機にひ
とつの記憶がよみがえり、記憶が感覚として身体性を帯びるにいたった心境は、
霊あるいは出現(apparition)というほかにあろうか。石川淳が書いていたと思
う。東京の市電のなかで前に座っているのが誰あろう森鴎外その人と気付いて身
も心も震えたと。そういうことを私はこの「昭和参年車」に乗ると、仮想のなか
で追体験してしまうのである。
今回はこれが書きたいだけで書いたようなもの。
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■こぼればなし
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折角だから、少々こぼればなしのようなことも加えておく。駅あるいは停留所
に「チカンはアカン」というポスターが貼ってある。駅と駅との間隔は1〜2分
である。時間帯にもよるだろうが、座席が一杯でも立っている客を見ることはま
れである。これでチカンができる、そんな器用なチカンはいるだろうか。私の貧
しい想像力では不可能としか思えない。どこかから、たぶん国交省の天下り先の
独立法人かなにかから、すべての駅に貼るようにと税金を使って作ったポスター
を送ってくるので、枯れ木も山の賑わいというので壁の空間を塞いでいるのであ
ろうと思う。ありえないことをあり得るかのように言うのは、これはちょっとし
たブラックユーモアかもしれない。
もうひとつ、堺市内の大道の北端、綾の町で線路はS字に曲がるが、曲がる直
前の突き当たりに洋風居酒屋らしき店。これがGreedという。運転席のうしろに
座っていると、いやでも真正面に見える。店主は何のつもりでこんな名前をつけ
たのか。簡単には理解できなくて唸ってしまう。「強欲」という意味を知らない
で付けるとも思われない。うんとgreedyに飲み食いしてくれという意味だろうか
。鬼婆なんていう居酒屋もあるから、人目を引くためにどぎつい名前をつけるの
は珍しくないことかもしれない。やはり、これは「チカンはアカン」に負けない
くらいのブラックユーモアかもしれない。
もうひとつ、天然記念物的昭和参年車のほかにいくつかの車種がある。60年前
後の帝国車輌製モ501も、モ601も乗車口が40センチぐらいの段差があって、と
くに和装の年配女性は昇るのにたいへんである。慣れた人は降車口つまり前から
乗って、語らずして運転手の助けを得ている。正規の乗車口つまり後ろから自力
で這って上がる人もいるが、大抵だれかが気軽に手伝うのが普通になってはいる
。そこがこの阪堺線のアットホームなところではある。さすがにその後はモ701
から2段ステップになった。しかしこれがはなはだ少ない。
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■有形文化財として保存を
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両方あわせて20.7キロのうち大阪市内の11キロは3月決算で年間800万円の黒字
、堺市内の8キロ足らずは2.億2100万円の赤字であった。赤字分のいくらかを堺
市が補填している。堺市はLRT東西線の新設と共に阪堺との相互乗り入れを考
えていたが市長が替わり新市長はこれを廃案とした。赤字に苦しむ阪堺電気軌道
は廃線を言い始めている。
人間でも古くなると「国宝」といって、なんとか保存しようと大切にする。遊
郭の建物でも飛田新地の元妓楼「百番」は2000年に国の登録有形文化財にな
っている。この百年電車、鉄道馬車時代に遡れば百二十年の路面軌道を、なんと
か残せないものであろうか。これを残すか残さないかで、それを決める立場にあ
る市長が俗物であるかないかが決まるといえる。新しい市長を強く推した知事が
ほんものの俗物であるかないかが決まるといえる。
銚子電鉄は銚子から犬吠を過ぎて外川に至る営業距離6キロほどの単線である
。車両の法定検査費用に窮し、土地の醤油を使って濡れ煎餅を製造発売して支援
を呼び掛け、これに応じる支援者によって銚子電鉄は救われた。もし知事も市長
も真っ赤な俗物であることが明らかになった場合、なにか銚子電鉄のようなアイ
ディアはないものかと私は思う。
(筆者は堺市在住)
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≪連載≫
■農業は死の床か。再生の時か。 濱田 幸生
-NAFTAの近過去、日本の近未来-
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□アメリカはメキシコの輸入制限枠を無視した
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メキシコのトウモコシに戻ります。NAFTAとメキシコのトウモロコシを語
る上で、問題点はふたつあります。
ひとつはNAFTAによりメキシコのいわば命の食とでもいうべきメキシコ国
産トウモロコシの輸入量がどのように変化したのか。そしてもう一点は、質の問
題として、遺伝子組み替え・GMトウモロコシの侵入がどのていどなされてたの
かです。この二点を中心に考えていきます。
なぜこの2点を大事だと私が思うかといえば、たぶん日本が日米FTAを結ぶ
ことになれば、メキシコのトウモロコシに当たる日本のコメがこの運命を辿ると
想像できるからです。
では、まずNAFTAによる米国産トウモロコシの輸入量をみてみましょう。
アメリカからの輸入トウモロコシは、1991年締結時が131万トンであったものが
、2005年には580万トンと4..4倍に膨れ上がりました。
なんだそんなていどかと、ふっと読み過ごしてしまうかも知れませんが、トウ
モロコシは実はメキシコ政府が国民の食の基本だとして重要品目(「センシティ
ブ農産物」と呼びます)に特別に指定して保護してあるものなのです。
ですからNAFTAにおいても1991年から2008年1月1日まで最長スパンで保護
関税が認められていたのです。
本来、FTAにあっては「例外なしの関税撤廃」が原則です。ですから、当該政
府がこれだけは待ってくれ、という品目(センシティブ農産物)を巡っては熾烈な
交渉となります。日本ではさしずめコメを中心にして、麦、牛肉、豚肉、乳製品
あたりとなるでしょう。
メキシコ政府はとうぜん国民の主食の地位にあるトウモロコシに対して、高関
税をかけてブロックしようとしました。ただし、さきほども言いましたが、条約
で認められた最長幅である15年間に限ってですが。
ちなみに私は日米FTAが締結されてしまった場合、15年間ていどしか国産のコ
メを防衛できないと考えています。それはNAFTAの前例が有効だからです。
それはさておき、メキシコの現実はどうであったでしょうか。上の表(・農民
連「メキシコ農業の実情」より引用)にその内実が無残に現れています。表の中
心を斜め右上に伸びているのが、輸入制限枠です。毎年少しずつ輸入枠が増加す
る取り決めでした。ところが、現実は、斜め斜線で塗られた部分が輸入超過分で
す。
米国はまったく輸入枠制限を遵守しませんでした。平然と、輸入制限枠を超え
て輸入を増加し続けたのです。 本来、これにかけられるはずのメキシコ政府の
関税損失分だけで12年間累積で33.6億ドルにも登っていると試算されるそうです。
このようにしてメキシコは、本来の移行期間においてすら主食のトウモロコシ
を防衛できませんでした。そのために今や米国のトウモロコシ輸出国の第1位日
本に継ぐ、第2位の国となってしまったのです。1991年のNAFTA締結前には1
00%の自給率を誇っていたメキシコ国産トウモロコシは、2005年には既に67%に
まで落ち込んでしまっていたのです。
自分の国の主食も守れんし、米国から関税も取れないなんて、メキシコ政府、
まるでアホやんけ〜、と思うのは私だけか。
---------------------------------------------
□アメリカとのFTA締結が、メキシコの穀物生産を破壊した
---------------------------------------------
では、NAFTAによって引き起こされたメキシコ農業の近過去をみるとしま
しょう。
特徴的なことは、確かにアメリカ市場向けのトマトなどには伸びが見られまし
たが、すべての穀物生産が大きく減少してしまったことです。メキシコ人にとっ
てトウモロコシに次いで重要な穀物だった小麦は、トウモロコシより一足先の1
0年め2003年1月から関税が撤廃されました。(下図参照・農民連「メキシ
コ農業の実情」より参考のために引用)
特に小麦は非常にメキシコ農業が強い穀物で、最盛時には440万tを収穫し
て、自給率は130%にも達していました。それが関税が撤廃されたわずか翌年
の2004年には、なんと240万tに半減し、自給率は4割を切ってしまいま
した。
その原因は簡単です。米国からの輸入量が激増したからです。NAFTA締結
前の1985年にはわずか8万トンだったアメリカ産輸入小麦は、2004年には372万
トンと実に41倍もの増加をしています。
つまり、メキシコにおいてのピーク時の小麦生産にほぼ匹敵する量が、米国か
ら洪水のように流入てしまったことになります。これで、メキシコの穀物自給が
出来たら、そちらのほうが奇跡です。
このようにFTA、特に米国とのそれは、米国が異常に大きな輸出補助金をかけ
てまで食糧を国際戦略の道具としてしているために、相手国の農業に致命的な打
撃を与えることがおわかりになりましたでしょうか。
---------------------------------------------
□GM種子企業は、メキシコ農民から原種を奪った
---------------------------------------------
では、NAFTAで種子がどうなったのかを調べてみました。結論から言えば
、すさまじいばかりのGM化の進行がありました。遺伝子組み換えトウモロコシ
が洪水のように米国から押し寄せてきたのです。
このGMトウモロコシによる被害はいくつかの側面に分けて見ることができま
す。
まずひとつは、GM種子が大量に米国から輸入されてしまったために、今まで
メキシコ農民が大切にしてきた多くの原種が失われていったことでした。
舟山さんもふれている、米国の巨大GM種子企業であるモンサントなどによる、
原種のハンティングが盛んに行われたのです。その中には、密林のインディオ
たちが、先祖伝来大事に保存してきた原種トウモロコシや豆類も入っていました。
これらが奪われていったのです。
そしてあろうことか、その一部はGM種子企業が商品化してしまい、それに特
許権を設定して独占するという強盗まがいの非道なことすら行われました。WT
O体制下ではTRIPS協定(知的所有権の貿易に関する協定)が有効とされ、
いったん裁判所により特許権を認められると、この。GM種子企業がその販売が
できる唯一の法人となってしまうのです。
このような方法でマジョコバ種の黒豆がメキシコの貧しい農民から奪われてい
きました。もはや、たとえば先祖伝来のマジョコバ黒豆を栽培するには、GM会
社に特許料を支払うか、その種子を買うしかなくなってしまったのです。
(筆者は茨城県在住・農業者)
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───────────────────────────────────
≪連載≫
■宗教・民族から見た同時代世界 荒木 重雄
〜カースト差別の軛を解こうと苦闘するインド仏教徒〜
───────────────────────────────────
インドで仏教徒の数は、2001年の国勢調査によると、795万5千人で、総人口の
0.8%を占める。インドの公的統計はあてにならず実数は2千5百万人を超えると
いう説もあるが、詮索は措いておこう。いうまでもなく仏教の故郷はインドだが、
その地で仏教は13世紀には滅亡したとされている。原因としてイスラムの侵入
による僧院の破壊がよくいわれるが、すでにそれ以前に、独自の儀礼を発達させ
ず難解・煩瑣な教理に傾いたがゆえに民衆との接点を失って衰退していたことが
指摘される。いずれにせよ20世紀初頭に存在した仏教徒は東北部に僅かに数百人
とされた。その仏教徒が、11億余の人口に占める割合はまだあまりに少ないとは
いえ、ここまで増えた。この仏教復興のきっかけをつくったのは「被差別カース
ト解放の父」といわれるアンベードカル博士であった。
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◇◇50万人の大改宗式
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インドにカースト制度があることはご存知だろう。バラモン、クシャトリア、
ヴァイシャ、シュードラのいわゆる四種姓だが、じつはその下に、「不可触民」
ともよばれる虐げられた民がいる。人口の15%以上を占めると推定される彼らは
、不当にも穢れた存在とされて、ヒンドゥー教徒でありながらヒンドゥーの寺院
に入ることを拒まれ、他の人たちが使う井戸や溜池から水を汲むことも禁じられ
、清掃や動物の死骸の処理などの雑役を担わされて、上位カースト者による暴力
や性的暴力にも曝されつづけてきた。現在、憲法でカースト差別は禁止され、被
差別カーストへの優遇措置もとられているが、状況の抜本的改善はいまだ認めが
たい。
さて、この被差別カーストの一集団であるマハール・カーストに生まれたB.
R.アンベードカルは、苦難のなかで、天与の才ときわめて稀な僥倖によって米、
英留学をはたし、経済学博士号と弁護士資格を得て「不可触民」解放の闘いの
先頭に立つことになった。インド独立とともに初代法務大臣に就き、憲法起草委
員長として新生インドの憲法にカースト差別撤廃を宣言するのだが、現実の差別
の壁は厚く、差別の根源であるヒンドゥー教の内にあるかぎり「不可触民」の解
放はないとして、1956年10月、ナーグプール市において、約50万人のマハール・
カーストの人びとを率いて仏教への大改宗式を行ったのである。これが現在のイ
ンド仏教徒のはじまりであり、したがって、現代インド仏教徒のほとんどはアン
ベードカル博士が説く仏教と仏教者の道を歩む人びとの集団といって過言ではな
い。
しかしアンベードカル博士は改宗式から僅か2ヵ月後に急逝し、新たな仏教徒
たちは指導者を失う。にもかかわらず差別からの脱却を願う被差別カーストの人
びとの仏教への改宗はつづいた。こうしたなかから仏教徒たちによる幾つかの社
会運動もうまれてきた。
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◇◇改宗しても「不可触民」
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そのひとつは1970年代にマハーラーシュトラ州を中心に活動した知識青年層の
運動体、ダリット・パンサーである。ダリットとは「抑圧された者」の意で、パ
ンサーは豹。当時、アメリカで最も尖鋭な黒人解放運動を行っていたマルコムX
らのブラック・パンサーに因むものである。その名に恥じぬ、差別に対する果敢
な抗議行動とヒンドゥー文化への激しい批判を展開して勇名をはせたが、差別の
現実を訴え差別の根源を問う数多くの文学作品を発表して「ダリット文学」とい
う一ジャンルをつくった。
また、カンシ・ラムという活動家がともに創設にかかわるBAMCEF(後進
・少数コミュニティ従業員連盟)という被差別階層出身の公務員を主とする啓蒙
運動組織、被差別・抑圧階層を基盤とするウッタル・プラデーシュ州の有力政党
BSP(大衆社会党)などでも仏教徒が活動の主力を担っている。
もうひとつ注目すべきは、インドの市民権をもつ日本人僧佐々井秀嶺師の活動
であろう。彼は渡印以来40年あまりで100万を超える人びとを仏教に改宗させる
かたわら、ブッダガヤの大菩提寺の管理権を仏教徒に奪還する運動を組織・指導
するなど仏教徒の権利拡張に努め、中央政府マイノリティ・コミッション(少数
社会委員会)委員も務めた。
ここで付言しなければならないのは、インドで被差別・抑圧状況に置かれてい
るのはいわゆる「不可触民」だけでなくシュードラの大部分、さらにイスラム教
徒やキリスト教徒の大多数ということである。じつは、仏教徒のほとんどが「不
可触」カーストからの改宗者であるように、キリスト教徒、イスラム教徒の大半
もそこから差別を逃れて改宗した者たちである。では改宗によって差別を免れた
かといえば、インド社会ではそのもともとの出自から、依然、「不可触民」とし
て扱われつづけている。
経典や儀礼に必ずしも詳らかでなく、仏教を平等と友愛による人間解放の思想
と解し、アンベードカルを菩薩と崇敬して「ジャイ・ビーム(アンベードカル万
歳)」と挨拶しあう彼らを、仏教徒といえるかと訝る声もある。しかし、人間の
尊厳を踏みにじる不公正・不正義の現実の只中にある彼らが、魂の救済にもまし
て社会的救済を求めたとして、それを否定することはできないだろう。ともあれ
インド仏教徒は、イスラム教徒やキリスト教徒をも励ましながら、インド社会の
変革に向けて一石を投じる存在である。
(筆者は社会環境フオーラム21代表)
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■【北から南から】
深センから 佐藤 美和子
-『写真にまつわる話 その四』-
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インターネットや携帯電話がない92年当時の中国個人旅行は、ガイドブックま
たは旅行者同士の口コミが貴重な情報源でした。貧乏バックパッカーだった私は
雲南省でドミトリー(3人以上の相部屋)スタイルの安宿を渡り歩くうち、瑞麗
という、外国人の立ち入りが解放(許可)されて間もない町のことを耳にしまし
た。ミャンマーと国境を接していて異国情緒あふれる街であること、また外国人
観光客が少ない今は観光地ズレしていない状態が見られる最後のチャンスという
言葉に引かれ、急遽、麗江行きを取りやめて瑞麗市へ方向転換したのです。
大理から瑞麗へ行くにはまず大理の隣町の下関へ移動し、そこから長距離バス
で約半日の碗町で一泊。翌日碗町から再びバスで数時間、大きな橋の手前でシク
ロのような輪タクに乗り換えて、やっと瑞麗に到着です。外国人が訪問できるよ
うになって日が浅いため、私の持つガイドブックには何の情報も載っていません。
自力で外国人が宿泊できるホテルを探し周り、やっとこの町で一番大きなホテ
ルのドミトリー部屋に入ることが出来ました。
ここで、私は思いも寄らないトラブルに巻き込まれそうになりました。瑞麗入
りの翌朝、移動につぐ移動で疲れていた私はノンビリ朝寝を楽しんでいました。
そこへ、突然荒々しいノックの音が響いたのです。ドアを叩きながら、ものすご
く権高な調子で何か言っています。相部屋の人たちはみなとっくに外出している
ので、仕方なく私が対応しに起き出しました。そして驚いたことに、ドアの外に
立つ地元政府役人と公安だというその男たちは、今日この町に中央政府のおエラ
イお役人様が来る、そのお役人様の大勢の部下たちや報道関係者も同行するので、
このホテルのこのフロアはその人たちが貸し切ることになった。更にこの上下
階はすべて空室にするため、お前たちはどこなりと他の宿へ移るが良い、とのた
まうのです。
訳が分かりません!私は昨日チェックインの際に、3泊すると言って部屋代も
先払いしています。今日からこのホテルが貸切になるというのなら、なぜホテル
は昨日の段階で断らなかったのだ。第一、相部屋の人たちは出かけているから勝
手に荷物は動かせないし、私は彼らとはたまたま相部屋になっただけだから彼ら
がどこへ行ったのかも知らない。ホテル代だって先払いしているのだし、私のほ
うが当然優先だ、譲るつもりはないと断りました。すると、その男たちが荷物を
出すのを手伝うといって、部屋に押し入ろうとするのです。そこで、私は非常に
まずい状態であることに気づきました。
同じ部屋に泊まっていたのは、偶然、私と同じ貧乏バックパッカーの日本人二
人連れだったのですが、なんとこの人たち、ハシシと呼ばれるドラッグをやって
いたのです。雲南省ではそこらに自生しているほどポピュラーな草だそうで、そ
れを摘んできて乾燥させ、タバコを揉んで葉を取り出したところに乾燥させたハ
シシを詰めて吸うのです。
彼らは無責任なことに、このハシシという草を乾燥させるために部屋の窓辺に
並べたまま出かけているのです!
ここで公安の人間が部屋に入ってくれば、当然それを目にします。その状態で、
いくら私のものではないと言ったって、通用するはずがありません。血の気が
引く思いで慌てて彼らを押し返し、もしこのフロアのほかの宿泊客もみんな立ち
退いたなら、私も考えても良い、だから先に他の部屋に行け!とドアを閉めまし
た。なんとか彼らを追い出した後、窓越しの陽に照らされて萎びたその草をビニ
ール袋に集め、彼らの置きっぱなしのバックパック奥深くに突っ込みました。本
当ならば、中央政府役人の取り巻き連中になぞ部屋を譲る気はなかったのですが、
ここで意地を張ってトラブルに巻き込まれるのは得策ではないと判断し、36計
逃げるに如かずとばかりに部屋を移ることにしました。幸い、ホテルフロントに
苦情を入れると申し訳ながって別フロアの部屋を用意してくれました。自分の新
しい部屋を確保して落ち着いてからも、やはり放置してきた彼ら二人のハシシ入
りバッグがどうにも気になります。結局、フロントに言って彼らのために私とは
別の部屋を用意してもらい、彼らのバッグを新しい部屋に運んでおいてあげたの
でした。もし放置しておいてハシシが見つかった場合、そのとき相部屋だった私
も吸っていたと疑われるよりマシかと考えたのです。至極まっとうに生きてきた
私にとっては冷や汗モノの出来事でしたが、午後の出先でばったり出会ってコト
の次第を説明しても、「あははっ悪かったね、助かったよ〜」程度の反応のその
二人には、一人で気をもんでいた私はあっけにとられるしかありませんでした。
閑話休題。その午後に出かけた先とは、もちろんミャンマーとの国境地帯です。
瑞麗に2箇所あるゲートのうち、最初に訪れた方では数十メートルも先で、既
に歩みを止められてしまいました。そのゲートは碗町住人かミャンマー人しか通
れないとのことで、外国人は近づくことも許されませんでした。続けてもう一つ
のゲートに行くと、こちらは先ほどのよりは人も少なくノンビリした雰囲気では
あったものの、やはり少し手前で止められてしまいました。山道を散策中に知ら
ずミャンマー側へ踏み込んでしまい、藪の中に隠れて待ち構えていたミャンマー
軍人に捕らえられて暴行を受けたり金品を巻き上げられた外国人観光客の話を聞
いていたので、こちらとしても、無理に近づくつもりはありません。ただ、島国
日本に生まれ育った私には陸続きの国境が物珍しく、それがどんな雰囲気のもの
なのかを見たかっただけなのです。これ以上は近づきませんからと自ら申し出、
少し離れたあぜ道に座り込んで鬱蒼と茂るミャンマー側のジャングルをぼんやり
と眺めていました。
しばらくそうして寛いでいると、少しでも国境に近づこうと試みたり、賄賂を
差し出してミャンマー側に行かせてくれと言い出さない私に興味を抱いたのでし
ょう。国境ゲートに一人で立っている監視員が、ぼそぼそと話しかけてきました。
お前は外国人なのか、どこの国の人間だ。中国で何をしている?親兄弟はいる
のか?それらの質問に答えるうち、私が中国少数民族のために建てられた中央民
族学院という北京の大学に留学中であることを知ると、彼の険しい表情が一気に
緩みました。自分はここの人間ではないが、実は少数民族の出身だ。そして妹が、
甘粛省の西北民族学院に通っている。お前は少数民族に詳しいのか?そうか、
お前の北京での友達はみな少数民族なのか。
話がふと途切れたのち、彼が小声でこう言いました。
「お前はカメラを持っているのだろう?旅行者はみな、ここで写真を撮りたがる。
本当は国境での写真撮影は禁止だが、お前は民族学院つながりの友達だ。あっ
ちの方向を見てみろ、ここからあの木がたくさん茂る辺りまでは中国の土地だ。
俺がいまから後ろを向いているあいだ、お前は中国の国土を写すふりをして、少
しだけなら写真を撮っても構わない」
本当なら、国境付近の写真を撮ったことが分かればカメラを取り上げられ、フ
ィルムを引っ張り出してすべての写真をおじゃんにされてもおかしくないのです。
それにミャンマーのような国は、滅多に行けるようなところではありません。
思いもかけない彼の親切な?申し出が嬉しく、人通りがないことを確かめてから
パパッと数枚、撮らせてもらいました。
当時の中国ではこういうとき、お礼にタバコを差し出すものなのですが、生憎
私はタバコもお酒もやりません。私はちょっとした交流の機会があったときのた
めにと日本円のコインや記念切手を持ち歩いていたので、それを記念にプレゼン
トしました(あら?これって賄賂でしょうか?)。中国では記念切手コレクター
が多いせいか、この彼にもコインより切手のほうが喜ばれたようです。数時間に
一本しかないバスの時間が近づいた頃、彼に別れを告げてミャンマーとの国境を
後にしました。
(筆者は在深セン・日本語教師)
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■【研究論叢】
戦時期社会政策と社会民主主義政党政治家
日本育英会と三宅正一(上) 飯田 洋
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三宅正一(明治三十三年〜昭和五十七年)
岐阜県恵那郡静波村の素封家に生まれた。父弁次郎は若くして自由党に投じ、
長年村長を務めた。
大正七年、早稲田大学政経学部に入学。在学中、浅沼稲次郎、稲村隆一等同志
と共に建設者同盟創立に参加し社会運動に入った。卒業とともに新潟県に入り、
抜群の行動力と雄弁をもって多くの小作争議を指導した。とりわけ、大正十五年
から始まる木崎争議は、地主側の土地取り上げ、立ち入り禁止処分に対し、無産
農民学校の設立などで対抗し、凄惨な闘争で全国に知られた。日本農民組合、労
働農民党、日本労農党の執行委員を歴任、昭和十一年、社会大衆党から新潟三区
で衆議院議員に初当選、戦後三年間のブランクを経て、昭和二十三年の総選挙に
おいて日本社会党から政界に復帰した。衆議院当選十五回。
党内では河上丈太郎派(右派なたは中間派)に属し、一貫して党の統一に尽力し
まとめ役としての本領を発揮した。昭和四十三年日本社会党副委員長、昭和五十
一年から約三年間衆院副議長を務めた。
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■始めに
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日本育英会(現独立行政法人日本学生支援機構)は昭和十年代に入り軍国主義化
が進む中で、教育の機会均等の理念と当時の大東亜共栄圏建設という国家目的の
達成のための人材養成課題が結びついて国家的育英奨学制度の確立が要請された
結果、昭和十八年に成立した我が国で初めての国家的育英奨学制度である。
本稿の目的は、日本育英会の成立の経緯と、成立に中心的役割を果たした三宅
正一の活動を検証する。即ち、総力戦下において全ての社会政策が戦時色をまと
って論議されねばならなかった時代に戦時国策の一つとして成立した国家的育英
奨学制度の経緯と、農民運動の延長としての育英奨学制度を目指した三宅が制度
実現のためにどのように対応したかを明らかにすることによって三宅の戦時教育
政策に対する姿勢が戦時国策協力一辺倒であったという批判にはあたらないこと
を論証していくことにある。また、三宅の活動が社会民主主義政党政治家の職能
代表としての活動とは異なったユニークなものであったことを明らかにする。
なお本稿においては、「日本育英会」「戦時中」という用語について次のように
定義することとする。
日本育英会は、昭和十八年十月財団法人大日本育英会として創設された。昭和
十九年四月には改めて法に基づく特殊法人大日本育英会として出発し、昭和二十
八年には特殊法人「日本育英会」と名称を変更、平成十六年四月独立行政法人日
本学生支援機構として国家的育英奨学事業を再編・再発足するまでの六十年間業
務を遂行し今日に至っている。このように名称は何度か変わったが、日本育英会
という名称は我が国の奨学金の代名詞として広く人口に膾炙しているため、本稿
では特に区別する必要がない限り、日本育英会という呼称で創立から現在までの
育英奨学事業を呼ぶことにする。
本稿で戦時中という時期区分を用いる場合は、昭和十二年二月の日中戦争勃発
から昭和二十年八月の第二次世界大戦終了までを指すものとする。
私は先に論文「戦時期保健医療政策と社会民主主義政党政治家の職能性」にお
いて、三宅正一の戦時期における農村医療運動を通じて社会民主主義政治家の戦
時医療政策における職能代表的側面について論じ、同時に戦時国策協力との関係
を明らかにした。即ち産業組合特に医療組合の政治代表として利害に深く関った
三宅が、両組合の職能代表として国民健康保険法成立を中心としての戦時社会政
策に関与したとした。
今回取り上げる日本育英会に至る国家的育英奨学制度創設運動の取り組みは、
国民健康保険制度創設の取り組みとはその経過を異にする。勿論両者とも原点は
三宅の農民運動、小作運動を通じて貧農の悲惨な境遇からの救済を目指したとこ
ろにあった。三宅が、農民とその子弟がたとえ家が貧しくても医療と教育を受け
られるよう国家的な健康保険制度と育英奨学制度の必要を感じたのは、彼の長い
農民運動のなかで農民生活との接触から得た体験によるものだった。
両者への三宅の取り組みの違いは、次の点にある。国民健康保険制度創設の運
動は戦時中の代表的農村更生団体であった産業組合、医療組合を中心として推進
され、制度の必要性に共鳴した三宅は政治的側面における中心的代表として活動
した。従って当時彼が属した社会大衆党には多くの同調者がおり、党の推進する
政策として彼らは共同歩調をとった。三宅の活動は、当時の社会民主主義政党政
治家の医療組合における職能代表としての活動であった。
それに対し、国家的育英奨学制度の創設の運動は、三宅の個人的提唱によって
産声をあげた。三宅が育英奨学制度の確立に取り組んだ主な動機は、彼の長い農
民運動の中で、農民との接触から体験した「頭の良い少年が貧しさから進学でき
ず、苦学して警官や教員になっても、非常に低い待遇を受けているのを見て、た
とえ家が貧しくても教育が受けられる国家的な育英制度の必要を感じた」ことに
あった。
三宅は、昭和七年最初の衆議院選挙立候補の時から一貫して育英奨学制度の確
立を選挙公約とした。三宅の初当選は昭和十一年であるが、当時、国家的育英奨
学制度は、彼の属する社大党においても共通の政策課題とはなっておらず、三宅
はその実現の土台作りをむしろ時の政府首脳や政権与党である政友,民政等保守
政党の志を理解する農村出身の議員との共闘に求め、また彼の農民運動を通じて
親交のあった新官僚の協力を求めた。そうすることが実現への早道であることを
認識した三宅は、育英奨学制度実現のために、彼の所属する社民党代議士という
枠を越えて超党派的に主導的活動をおこない、具体的な成案作りにまでタッチし
た。その意味で日本育英会創設運動は、国民健康保険制度創設運動とは異なった
ユニークな運動であった。
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■資料及び先行研究
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次に本稿に関係する資料及び先行研究について述べる。
日本育英会の創立からの通史としては「日本育英会十五年史」「同二十年記念
誌」「同三十年史」「同五十年史」(いずれも日本育英会編集発行)「日本育英
会史 育英奨学事業60年の軌跡」(日本学生支援機構編)があり、創立の経緯
が詳しく資料に基き叙述されている。通史という性格上客観的事実の羅列に終わ
っているが、当時の情勢を知る上では貴重な資料である。教育研究の立場からは
『教育学講座20 教育機会の拡充』(学習研究社)があり、<教育機会の拡充の
制度的保障>の項で、国家的育英奨学制度の確立に触れているが、これも成立に
至る時系列的解説に終わっている。
研究論文としては、服部憲児「日本における学生財政援助の展開 育英と奨学
の観点から」(『教育制度学研究 第5号』及び「日本育英会奨学生推薦基準の変
遷」(広島大学紀要センター大学集論集)がある。
服部は学生に対する財政援助分析の視点は次の三点が考えられるとする。(1)給
付か貸費か(返還を求めるか否か)(2)質か量か(少数の者に多額の援助をするか
、多数の者に少額の援助をするか)(3)育英か奨学か(優秀者を対称とするか、経済
的に恵まれない者を対称とするか)である。彼はこのうち国家的育英制度におけ
る「育英」・「奨学」の二原理について分析し、時代により多少の変化はあるに
せよ「育英」に重点が置かれ、「奨学」原理のみに基づく制度はなかったと結論
づけている。しかしながら当該論文は、実態からの結論を導き出しているにとど
まり、なぜ育英制度が「育英」に傾斜したかについての理由、是非など社会的背
景の考察には触れていない。
従って、戦時の社会政策、とりわけ教育政策の中で国家有為の人材育成に重要
な意味をもつ「日本育英会」の創設運動から創設、発展にいたる理念と中身の変
容について考察した研究は皆無であるといえる。
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■三宅の育英奨学制度への関心
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三宅が、農村子弟のために、たとえ家が貧しくても教育を受けられるよう国家
的な育英奨学制度の必要を感じたのは、直接的には彼の小作争議運動を中心とす
る長い農民運動の中で農民生活との接触から得た体験によるものだった。しかし
彼は、それ以前に貧民教育の重要性を認識し、育英奨学制度に目を向ける機会を
経験していた。
最初の機会は彼の幼少時代から中学時代である。三宅の郷土である岐阜県は小
作争議が全国の中でもっとも早期に展開したいわば小作争議の先進県であり、そ
れだけ貧しい農村地域だった。富裕な地主の旧家に生まれた三宅は名門の岐阜中
学に下宿して通学したが、中学に進学したのは彼を含めて数人に過ぎなかった。
中学から休みで帰郷する度に、彼の家には貧しさから進学出来ずに労働に服して
いる小作の子弟がやってきて、羨望のまなざしで彼の中学生活に熱心に聞き入る
のが常であった。三宅は「中には私よりも頭がいい者もいた。自分だけが何一つ
不自由なく勉強出来ることに子供心に何か済まないような気持ちと自分より向学
心の或る子供が貧しさゆえに進学できないことに矛盾を感じた」と述懐している
。幼少時代におけるこうした印象は、それ自体としては小さな意識の断片として
地主階級の子息としての日常の中に沈潜してしまっていたが、後に早稲田大学に
進学して社会主義理論に接した時、再び意味を持つことになった。三宅の目を社
会運動、特に農民運動に向かわせ、行動へと駆り立てた意識の底には、郷土岐阜
県における農村の暗い厳しい生活の記憶があったことは間違いのない事実であろ
う。
早稲田大学に入学した三宅は、建設者同盟に参加し社会運動に開眼していくが
、彼がロシアの文豪トルストイに心酔したことはあまり知られていない。「トル
ストイの思想に関心を持ったキッカケは、新しい村を創った武者小路実篤や、小
作農民に自分の農場を解放した有島武郎の実践が、トルストイの思想的影響によ
るものだと知ったからだ」と三宅は述べている。とりわけ、トルストイが自分の
荘園の中に「愛と調和を軸にした人間教育」をスローガンに掲げ、労作を通した
全人格的教育をめざして創り上げた農民の子供のための学校実践は、後述する三
宅の木崎争議における農民学校建設運動の発想の端緒となった。特にトルストイ
が学校の教師としてモスクワ大学の学生などを集め、子供と付き合うことでお互
いの人間形成を高めあうという教育活動方法に倣って、木崎農民学校では多くの
学生が教師として子供と寝食を共にした。この実践が三宅に教育における教師の
重要性を認識させ、育英奨学制度の出発点として、教師養成の援助を盛り込むこ
とにつながっていくのである。
三宅を始め建設者同盟の同人は、早稲田大学卒業と同時にそれぞれの分担に従
って各県に散っていくことになるが、三宅は大正十三年九月日本農民組合関東同
盟主任として新潟に入り、それ以後新潟の多くの小作争議を指導した。本稿では
彼の指導した争議の詳細には立ち入らないが、なかでも当時天下を震撼させた木
崎争議における無産農民学校の設立は、彼が長年にわたって暖めてきた教育理念
の実践化であった。
争議の最中における地主と官憲側に組みする村長と小学校長に対する抗議の同
盟休校に端を発して開校した無産農民小学校には、東京大学を始めとする東京の
大学生や、小学校の教員、新聞記者、クリスチャンなどが多数來村して無償で教
鞭をとった。教師が、生徒の人間形成に付き合うことによってお互いの精神と人
格を高め啓発されていく様を目の当たりに体験した三宅は、教育における教師の
重要性を認識させられた。このことが後述する育英奨学事業の端緒となる教師育
成への財政的援助の発想の基となるのである。
無産農民小学校の発展として三宅が中心として設立した「無産農民のもつ我が
国最初唯一の教化機関」無産農民高等学校の設立趣意書で彼は「暗黒なる農村に
於いて、未だ組織的教化に浴する機会を鎖される優秀なる青少年諸君。奮って第
一期本科生徒として応募されんことを望む」と呼びかけた。このように国会進出
前の三宅は、自前の教育事業構想を実践に移したが、地主の攻勢と官憲の弾圧が
進む中で所期の目的を充分に達成されないままに閉鎖されることになる。しかし
ながら、これらの経験が、「戦前小作人の子は、いかに頭が良くても、小学校を
出るのがせいぜいで、中小地主で中学、大学へ行くのは大地主の子弟に限られて
いた」状況を打破するための国会進出後の教育推進活動、特に国家による育英奨
学制度の創設を目指しての活動の原点となった。
新潟における農民運動は、想像を絶する貧困と圧迫の中で追い詰められた小作
貧農の生存権をかけた必死の生活防衛闘争であったが、三宅は、闘争の指導の過
程で小作農民の教育の必要を痛感することになった。より高度の闘争を展開する
ためには、当事者としての小作農民が自らの置かれた地位の矛盾を自覚し、改善
を要求するための理論武装と社会的開眼が必要であったが、知識と分析力を持た
ない貧農達は、自分の置かれた差別的地位をやみくもに恨み、感情的な暴力的行
為に走りがちであった。一方、諦めから地主の専横的な支配に唯々諾々と従う者
も多かった。
研究者の中には、小作争議は農民的小商品生産発展の過程で中農層を主要な担
い手としたとして、貧農的小作農民運動が小作争議の高揚をもたらしたのではな
いといういわば教育を受けた中農主体説を唱えるものがある。この説は、小作農
民の果たした役割を実証的に検証してないことから導き出されたもので組みする
ものではないが一面の事実をついている。三宅の周辺でも中農、小地主でありな
がら地主制度の矛盾を認識し、小作争議に積極的に加わり指導にあたった者も複
数存在した。彼らは、大学に進学し勉学することによる自己啓発の結果社会的に
開眼していったのである。三宅は、小作争議が"這い回る経験主義を脱して状況
を変革していくための理論武装するためには、何よりも小作農民が教育によって
自ら問題解決能力を養うことの必要性を感じていた。
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■衆議院議員として育英奨学事業に関する活動
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三宅は、農村子弟のための国家的育英奨学制度の必要性について最初に選挙に
臨んだ第一声の中で政策課題の一つとした。当時の社会状況は、第一次大戦後の
経済不況そして満州事変以後の戦時下にあって、出征将兵家族、軍人遺家族、一
般勤労者、企業整備による廃転業者の子弟等で経済的理由により進学に困難をき
たす者が激増した。三宅は昭和十一年初当選した総選挙にあたってのスローガン
においては農村子弟にとどまらず全ての貧困子弟を対称とする育英奨学制度の必
要を訴えた。彼は選挙演説の中で「私は過去十余年、貧しい農民諸君のために闘
ってきました。そうして得た貴重な体験を活かして、これからは労働者、農民、
中小商工業者など広く勤労大衆のために私の全生命を捧げて生きたい」と述べて
いるように、運動の軸足を小作農民一辺倒の運動から、中農、一般市民、労働者
などの勤労大衆を含めた幅広い運動へと軸足を移した時期であった。
国会では、まず最初に、三宅は無産農民学校建設の経緯から得た教師の養成の
重要性から教師の育成に対する補助の問題に取り組んだ。
昭和十二、三年頃の小学校教員の待遇の低さ,悪さは、軍需産業の好況と相ま
って師範学校入学志願者を大量に工場に吸収した。青森県を例にとれば、昭和十
五年ごろ、師範学校二部の入学志願者は百名の定員に対しわずか二名という激減
ぶりを示し、また教員で軍需工場へ転ずる者の数も年とともに増える一方の情勢
であった。 師範学校に生徒を吸収し、危機に直面した小学校教育を崩壊の危機
から守るためには、まずもって小学校教員の待遇の改善が焦眉の急務であり、師
範学校生徒の給付の増額も直ちに対処すべき問題であった。
三宅が議会でこの問題に取り組んだ昭和十五年は、日本は既に戦時体制に入り
、近衛第二次内閣が成立して新体制運動が開始された時期であった。一国一党的
新党運動のもとで「バスに乗り遅れるな」を合言葉にして、時流に孤立すること
を恐れた既成政党は、社会大衆党を始めとして相次いで解党し、労働組合も農民
組合も解散した。その後、新党計画は後退し、当初考えられていた政治力の結集
や政治指導の一元化、軍部への牽制などを意図した強力な国民政治組織構想は、
挙国一致的な翼賛体制へと変質し、大政翼賛会が発足、国家総動員体制が確立し
た。
拠って立つ政党が消滅した中で、政策の実現を図るためには、志を同じくする
議員を党派を超えて糾合する必要があった。三宅はそれまでに培った人脈を生か
し、精力的に保守派の議員に対しても働きかけを行った。同時に、国民健康保険
法成立運動の時と同じく、新官僚の協力を要請した。三宅が後に「陰ながら応援
してくれた官僚の諸君が貴重な情報を提供してくれたおかげで議員の説得がうま
くいった」と述べているように文部省を中心とする新官僚の協力は大きな役割を
果たした。当時、文部省内においては剣木亭弘専門教育課長を中心とする育英奨
学制度について研究しているグループがあった。三宅は、かねてからの知己であ
る他省の新官僚からこのグループの存在を知り、接触を試みた。その結果、彼ら
も三宅を中心とする議員に積極的な協力をすることになった。彼らにとっては、
国家的育英制度のように長期にわたって多額の国費の支出を伴い、かつ多分に社
会的政策的意味を含むものについては、その実現にはよほどの大きな契機と強力
な推進力を必要であり、衆議院議員の存在は欠かせないものであった。その意味
で三宅の存在は、彼らにとって大きな頼りになった。
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■国民教育振興議員連盟の誕生
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昭和十六年二月、三宅は森田重次郎,小山亮、山本粂吉,今居新造、西村茂生
などいずれも地方出身の保守系議員と諮って「義務教育費国庫負担法中改正法律
案」を議会に提出し、森田に教員の待遇改善に関する質問を行わせた。この森田
演説は、小学校教員の苦境を如実に訴え、国の教育の将来を憂うる大演説で、議
会の内外に感動の渦を巻き起こし、結果として教員一人当たり一ヵ月十円の特別
手当の支給に加え師範学校生徒の給費についても一年六十円から百円に増額する
ことを政府に承諾させるという成果を挙げた。
森田演説の翌日、上記議員を始め教育問題に関心の深かった議員が集まり教育
問題の重大性、その解決の具体的方策等について熱心に討議した。これがキッカ
ケとなって、この議員達を核として「国民教育振興議員連盟が生まれることにな
るのである。会長にはビッグネームが必要ということで逓信大臣等を歴任した永
井柳太郎に就任を依頼した。自分自身貧乏な小学校教員の子として苦学を重ねた
永井は喜んで就任を受諾した。副会長には山本厚三、西村茂生を迎えその態勢を
整えたが、始めは二三十名だった会員も次第に増えて、一年後には当時の衆議院
の議席の約三分の二の二百十六名を数える各党各派をこえた大勢力となった。三
宅は筆頭世話人として実質上連盟の実務を取り仕切った。
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■国民教育振興連盟の建議と政府の確約
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十六年三月に至り、連盟ではかねて懸案であった国家的育英奨学制度創設の問
題を取り上げ、具体的提案によって政府に実現を求めることを決定、研究に着手
することになった。三宅は、かねてから国民健康保険制度を手がけたこともあり
社会保険制度等に造詣が深かったため、育英制度の具体案は、三宅の手元で十ヶ
月の日子を費やして慎重にまとめあげられた。かって国民健康保険法作成のため
三宅に協力した保険会社のスタッフが再び三宅のもとに集まり、献身的に原案作
成に協力した。文部省を中心に新官僚も情報の提供を惜しまなかった。当時のス
タッフの一人であった篠原は「保険会社から出向していきなり育英制度の計画を
やらされ、最初は皆目見当が付かなかったが、三宅さんの熱意を感じて一生懸命
やった。当時は官僚の力が強くて説明に苦労した。三宅さんのお供をして大臣の
ところへ何度も行った。三宅さんの熱意には大臣もたじたじだった」と述べてい
る。
昭和十七年一月、三宅案の提出を受けた連盟は、同年二月「大東亜教育体制確
立に関する建議案」として議会に提出し満場一致で採択された。建議案は十三の
項目からなっていたが、第二項「国民教育普遍化に対する方策の樹立(興亜育英
金庫制度創設案要項)が育英奨学制度に関する項目であり、趣旨説明に立った永
井会長の演説中、その項に関する部分は、この制度の要望とその背景を理解する
うえで、きわめて重要なものであった。永井は、明治新政以来の我が国教育の基
本的指導理念の一つであった教育の機会均等の精神を強調するとともに、これを
政治の正義と結びつけ国家的育英奨学制度の基底として主張した。むろん戦時下
であったから、趣旨としては、東亜全域に送り出すべき人材の育成についても触
れているが、議員連盟の真意はむしろ教育の機会均等の実現にあった。
三宅によれば、「社会主義的な案を露骨に提出することは出来ない。そのため
に、戦争への協力としての動員計画として表面を粉飾した」。また小山亮は「そ
の趣旨には東亜全域に送り出すべき膨大な人員の指導者を養成するという要請と
、反面、国民の能力あり経済力伴わない者に教育の機会を均等に提供するという
要望の二面があるが、議員連盟の真意は後者にあった。ただし、当時軍国主義の
傾向ようやく濃厚で、これに逆らうことは、事実上不可能だった為、前者を一応
効能書きに取り入れざるを得なかった。」と述べている。このアイデアを提供し
たのは、当時の東條首相の秘書官であった赤松大佐であったといわれるが、ここ
にも密かに育英奨学制度を応援する人物がいたことになる。
金庫案は三宅案をそのまま骨子として、これに政治技術的な面から装いをほど
こして、まとめあげたものである。
まず冒頭にこの育英制度の目標を
―大東亜全域に指導者を送り出す為に―
―戦没有志始め国家功労者の遺児愛児を世に出すが為―民族の中に潜む良能を最
高度に引き上ぐる為に―
広く国民一般に進学の機会を拡充せよ
と大きく掲げた。
なお育英金庫の名称を興和としたのは、大東亜戦争を記念としたもので当時の
状況が窺われる。
三宅案にもとづく金庫案の構想では、先ず基本的なたてまえとして、国費の過
大膨張を防ぐために貸費制をとること、資金は国民貯蓄の集積である保険資金を
運用すること、国は興和育英金庫を創設して政府が相当額を出資することなどそ
の他詳細な実施要綱が定められ、財源についても触れられていた。
(筆者は法政大学大学院博士課程在学)
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■ 俳句 富田 昌宏
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(足尾銅山)
黒々と銅山(やま)の素顔や秋深く
秋深し離村碑の影長く長く
秋たくや那須の秘湯をのぞく猿
なぞり書く万葉仮名や実むらさき
蜩の声を栞に「源氏物語」閉づ
無住寺の門の主や秋あかね
(高野山)
石一つ墓とし拝む野菊かな
歩きつつ洩らす一事や銀杏散る
新藁を褥に牛の親子かな
稲刈機音快調や筑波晴
(俳句結社「渋柿」同人代表)
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■川柳 横 風 人
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郵貯とは 信金信組の 保護者たれ
何でかな ワークシェアが 無理な理由
民主党 努力以上の 市民力
削るより 投資結果の 責を問え
評論に ベキ論多し 茶の間かな
問題が 出るは忙し 仕分けかな
旧悪も どこ吹く風の 野党ボケ
この期にも 問われないのか 資本意図
EUの 協同3法 習えるか
補助金が 育てた事例 依存グセ
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【編集後記】
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◎ 鳩山総理は『最後は沖縄の民意を汲んで私が決断する』というが、まるで恫
喝するようなゲーツ国防長官の発言、大マスコミの民主党叩きに臆しないで時間
をかけてでも県民の声を汲んだ途を拓いて欲しい。我慢の限界を超えた沖縄の人
々にとって政権交代は逃すわけには行かない機会なのである。
もともと、この移設問題は米軍側の計画で当初の要求は普天間飛行場の4分の
1、滑走路もヘリコプターの発着に必要な40メートルほどだったものを、地元
側が軍民共用1000メートルに膨らませたという元国土庁次官下河辺淳氏の証言も
ある。オルタ執筆者で沖縄国際大学佐藤学教授は「米軍にとって普天間飛行場は
日本国内での代替基地建設を必要とするほどの重要性はない。即事返還は可能で
それは米政府にとっても利益になる。」(毎日新聞10月17日)と主張されておら
れる。私たちはこの問題を日米安保の原点に立って考えなくてはと思う。これに
ついて沖縄在住の元桜美林大学教授吉田健正氏と財団法人政治経済研究所・沖縄
・基地問題研究室長で「沖縄・日本から米軍基地をなくす草の根運動」運営委員
長平山基生氏に論じていただいた。
◎ 果たして、国交省OBが93人も天下りしていた八つ場ダムは自民党政治によ
るムダな公共事業の象徴となっているが、中止したあと、翻弄されつづけた住民
の生活をどう護るかも問われる。これについて長年林業政策を研究されてこられ
た関良基拓殖大学助教から代替案として十分な水田保水力が保持される可能性が
あることや、失敗例の多いいダム観光に代わる渓谷美と戦国武将真田幸村にちな
む観光史跡ロード開発の提言を頂戴した。
◎【研究論叢】では戦前新潟地方を中心に農民組合運動を組織し活動した社会運
動家で戦後衆議院副議長を勤められた三宅正一氏の育英奨学制度確立活動につい
ての研究を「日本育英会と三宅正一」(上)として飯田洋氏(法政大学大学院博
士課程)に発表していただいた。なお、オルタ60号・61号には同氏による『三宅
正一氏の農村医療分野における社会運動的農民運動』(上・下)が掲載されてい
る。戦後日本では多くの社会運動家の事跡が戦争協力者として抹殺されてきた。
三宅氏などもその一人であり、飯田氏の研究は貴重である。
◎ 10月26・27日、三重県津市の榊原温泉で和歌山・大阪・三重・岡山など関西
の執筆者が集まり、毎号「オルタ」に「臆子妄論」を連載されておられる大阪女
子大学名誉教授西村徹氏の快気祝いを兼ね「関西オルタの集い」として1泊の懇
談会が開かれた。ちなみに、地元の高木一氏にお世話頂いた榊原温泉は平安時代
に有馬・玉造温泉とともに天下の三名湯と謳われ、清少納言も湯治にきたという
伝説の温泉地であった。
◎ 11月7日、「オルタ」執筆者の元朝日ジャーナル副編集長・論説委員深津眞
澄氏の著書『近代日本の分岐点−日露戦争から満州事変前夜まで−』(ロゴス社
刊)が石橋湛山記念財団から第30回「石橋湛山賞」を受賞されたのを祝ってオル
タの懇談会が東京・有楽町の外国人記者クラブであった。在京の「オルタ」執筆
者など約20数人が参加し、会はまず、オルタ執筆者故蝋山道雄・黒岩義之両氏に
黙祷を捧げたあと河上民雄東海大学名誉教授から現代史評価の視点からお祝いの
言葉があり深津氏が受賞挨拶のあと羽原清雅元朝日新聞政治部長・矢野凱也元江
田三郎秘書・細島泉元毎日新聞編集局長・竹中一雄元国民経済協会長などから発
言がつづき和やかなうちに盛り上がった。
■【人事消息】
新政権は自公政権が自らの失政が明らかになるのを恐れ、隠し続けてき
た貧困率が07年は15.7%(04年は14.9%でOECD加盟30国中メキシコ・トルコ・米
国についで下から4位)であったことを始めて発表した。かねてから、この数字
の発表を強く迫ってきたのはオルタ執筆者湯浅誠氏が事務局長の「反貧困ネット
ワーク」である。この数字は日本社会がいかに惨めな状態にあるかを示すととも
に、格差・貧困社会の是正政策立案の基礎指標である。これを主張された湯浅氏
が鳩山内閣参与として国家戦略局雇用対策本部メンバーになり、昨年暮の派遣村
の経験を生かしてワンポイントサービスの実現などに活躍され始めた。心から奮
闘を期待したい。
■【訃報】
【蝋山道雄氏】
10月18日、オルタ執筆者の上智大学名誉教授蝋山道雄氏が急性骨髄性白血病の
ため81歳で亡くなられた。10月22日東京・中野・梅照院での葬儀に参列した。読
者とともに謹んでご冥福をお祈りしたい。先生は国際政治を専攻され、学者とし
て多くの著書を著わされただけでなく日中国交正常化国民協議会代表世話人とし
て日中友好の実践活動にも熱心に取り組まれた。オルタやオルタの出版物『海峡
の両側から靖国を考える』にも執筆されただけでなく「オルタの集い」などの集
会にもご出席頂いた。謹厳・誠実なお人柄の政治学者として私たちをご指導下さ
ったのに真に残念である。
【黒岩義之氏】
10月31日 オルタ執筆者の元毎日新聞印刷局長黒岩義之氏が膵臓がんのため80
歳で亡くなられた。11月2日東京・目白・東京カルデイラ教会での葬儀に参列し
た。黒岩氏は旧陸軍幼年学校・士官学校という典型的な職業軍人の路を進んだが
、戦後は教職から毎日新聞社会部・エコノミスト編集部・労組委員長などを経て
印刷局長という異色の道を歩まれた。その戦争体験から強烈な戦争反対論を主張
しつづけられ、晩年には10年以上にわたって若い後輩への手紙という形をとった
浩瀚な日本近現代史を書き遺された。膵臓がんを一時は克服され、元気にオルタ
の会合などにも出席され、幾たびかご寄稿も頂いたのに淋しい限りである。心か
ら哀悼の意を表したい。
(加藤 宣幸 記)
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