メールマガジン「オルタ」 48号(2007.12.20)            

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◎ 民主党の政権獲得は総選挙の「王道]によるべきである
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□目次

 ■2007年政治動向の総決算              羽原 清雅
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 ■揺れる政局のキーパーソン              船橋 成幸
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 ■寄稿 
   (1) CO2削減を地元環境のなかで求めよう。   力石 定一
   (2) まだ小さい日印関係               松田 健
   (3) 世界が100人の村だったら           七里 敬子
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 ■書評
   松下圭一著『市民・自治体・政治』          久保 孝雄

≪連載≫
 ■臆子妄論                        西村 徹
 ■海外論潮・短評                     初岡 昌一郎
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  ■【北から南から】
  1、北の大地から                      南 忠男
  2、深センから                       佐藤 美和子
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 ■【オルタのこだま】
  1 篠原令氏の中国レポート               今井 正敏
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 ■俳句                            富田 昌宏
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 ■【編集後記】 

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2007年政治動向の総決算         羽原 清雅
―その不可解と不愉快、そして国民の不幸―
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  2007年の政治は、戦後史の中でも意外性があり、面白さから言えば5指に
入るだろう。しかし、じっくり考えると、不可解であり、不愉快な印象がじわっ
と湧き上がり、みずからを含めて国民にとってはかなり不幸な事態だった、と言
わざるを得ない。 
 
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◆辞めなかった安倍首相
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  7月の参院選の勝敗は年初からの焦点だった。この結果は、意外なほど自民党
の惨敗に終わったが、年金問題などを考えれば、健全な国民の審判だった。とは
いえ、善戦した民主党に対しても、政権担当を期待できるほどの空気は出なかっ
た、と言っていいだろう。
  むしろ、その敗退の原因が失政に近い安倍政権にありながら、本人が「辞めな
い、続投だ」と言い出すと、それを引き止めることもなく、政権が継続されるこ
とになった。宇野宗佑、橋本龍太郎の両政権は同じ参院選で責任をとり、与党は
政治運営の変更に踏みきることで、その後の国民の期待に応えようとした。とこ
ろが今回、不可解なのは、自民党内でこの「暴走」を止めようとする動きも出ず
に、容認してしまったことだ。自民党のリーダーシップがそこまで損なわれてい
るのだ、と驚かされ、悲惨なことであった。
  この事態を許したことが、その後の政治混迷の端緒でもあった。

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◆安倍退陣の非礼
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 その安倍首相の退陣表明は1ヵ月半後に突然、しかもいざこれからというべき
所信表明演説の直後に、だった。理由は病気だったとはいえ、その経緯から見て、
理解に遠い辞任だった。アキレテモノガイエナイ、というべきか、同情はもちろ
ん、怒りの声も出ないままに総裁選に移っていった。思えば、安倍首相に国民感
情への理解や尊重の基本がなかったのだ。その後、わびる機会もあったが、すで
に政治家としてもその存在感はなく、ハダカの王様に過ぎなくなっていた。

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◆福田政権の登場
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  自民党総裁選出にあたっては、現財務相が周囲の意向もつかめないまま後継者
選びに名乗り出たものの一日で取りやめたこともあった。結局、マンガ好きの、
時々歴史にはずれた発言をする外相などを退けて登場したのが、福田康夫首相だ
った。予想以上の好印象の反応で、安倍政権の交代を歓迎するものだった。思え
ば、安倍時代に国民投票法、改正教育基本法、防衛省昇格法など年来の懸案を実
現し、一部で評価される一方で、将来に禍根を残しかねない論議不足や、多数勢
力の数に頼んだ強行ぶりに不安感も出ていた。このような政局運営の不満感もあ
って、福田首相へのバトンタッチに、国民の間にはなにかホッとしたような歓迎
の意向が示されたのではなかったか。つまり、「安倍失政」が「福田期待」に貢
献したということでもあろうか。
  福田政権はいま、新補給支援法案に手を焼き、守屋前防衛次官の汚職問題、さ
らに防衛費の不当使用・水増し疑惑に直面し、年金や消費税などの継続的課題に
冷たい目を向けられている。ただ、安倍時代のような、不正疑惑などに対する説
明のない防御の影は収まり、また改憲の強硬姿勢、NHKへの介入措置といった
一方的な権力行使の構えもまずは落ち着き、世論も見守るだけの余裕を見せてい
るようだ。今後も緊張が解けることはないが、不可解・不愉快は多少猶予された
ようだ。

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◆「ねじれ」現象のどこが悪い
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  衆院の自民党多数、参院の民主党多数、という参院選の結果に、政治の混乱を
懸念する財界人をはじめ、何かと批判の声が上がった。なんとか自公連合による
政権維持を続けている自民党・保守陣営としては、再度の政権喪失の恐れから、
また55年体制の長期政権下のパターンに慣れきっており、衆参の「ねじれ現象」
に強い警戒心と嫌悪感が高まるのも当然だろう。
  自民党がこれまで、野党側の少数意見に耳を傾けず、しかも数によって自己主
張を遂げてきたことからすると、たしかに自民党側とすれば危機感も募るだろう。
「ねじれ現象」は困った事態に違いない。自民党幹部らが<政治の混乱回避、政
策遂行の遅れ、民主党の身勝手、民主党の応分の責任分担の必要>など、危機感、
攻撃、嘆きをしきりにアピールするあたりに、それが見えてくる。
 
しかし、衆参の多数政党が異なることは、論理的にも、実態的にも、極めて当
然ありうることである。多数派・長期政権に慣れきった驕りやマンネリ、さらに
野党意見の黙殺など、これまでのやり方に溺れてきたことのツケがまわってきた
もので、まずは反省のもとに、新事態への取り組みを編み出さなければならない。
福田首相はそのあたりを心得て、しきりに話し合いを訴えている。
  「ねじれ」の中で、選挙前の民主党は打算づくでもあり、そう簡単には妥協で
きないだろう。それはそれとして、当分続くこの事態への取り組み方には、ノウ
ハウと工夫が必要だ。自民・社会の2党時代は、賛成と反対の激突なり、裏取引
なり、形式として見せ場を作ることが多かった。だが、もうあれでは通用しない。
まず、議論をすることだ。野党は、公開を求め、弱点をつき、不安を暴き、国民
の前に、政権側の「非」や対案の正当性を見せつけることだ。自民党も、暴かれ
てから守るスタイルを止めて、説明責任を正面から果たすことだ。議論を透明に
して、説得力を持つことこそ、国民の審判に耐えうる。「黙ってついてこい」の
手法は通用しなくなっている。
 
もうひとつ、法案をめぐる対立にあたって、賛成・反対という形だけの対決で
はなく、その質をめぐる論議を見せて、それぞれの主張を示すこと、そして少し
でも法案修正に持ち込める努力を果たすことだ。そして、多数党は少数党の意見
をよく聴き、反対ならその論拠を示し、比較の中で妥当性をアピールしなければ
ならない。
  このように、「ねじれ」となった以上、政権をかける状況になった以上、王道
の手法というものになじまなければならない。論議を通じて、国民に正否を問い、
ベターの方向に近づけることだ。
  やや余計なことに触れると、政府・国会はテレビで国会討論の模様を常時流す
ような番組提供を計画すべきではないか。ムード政治ではなく、政策作成のプロ
セスを見せ、政党、政治家の力量を示しうる手段をこのさい、作り出してはどう
か。 

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◆「大連立」協議の矛盾を見抜こう
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  ところで、2007年の政界を揺るがしたのが大連立をめぐる動きだった。福
田首相と小沢代表の2回にわたる会談の中で協議されたこの問題は、お膳立てし
た読売新聞社の実力者の暗躍、小沢代表の突然の大連立受け入れと党側の拒否に
よる引責表明など、副産物の話題もいろいろ提起した。内々の相談も一切なく、
党に持ち帰り受け入れさせようとした党代表のワンマン感覚も驚きだった。もし
受け入れ派が存在して党内分裂に至った結果、一部が自民党に行って自民党に安
定をもたらし、民主党は解党的混乱に陥りでもしたら、政権交代などの事態は完
全に消えて、政局は一変していたはずだ。こうなれば、渡辺恒雄氏の意図した「政
治の安定」はたしかに確保されたに違いない。ただ、こうしたことが、民意に沿
うかどうか、はまったく自明のことである。
 
  ここでは、わき道には行かない。正面から考えてみたい。
  というのは、4回行われた衆院選での小選挙区制は、どのような名分のもとに
導入されたか、を考えてほしい。1区1人の選挙によって、2大政党の政策的な
対立状態を実現し、政権交代の可能な政治形態を作り出す、ということではなか
ったのか。ところが大連立は、対立的に政権を争うはずの2つの大政党が合体す
るわけで、いわば独裁的で、対立する論争がない状態を、国民の関与できないと
ころで進めるのである。政策や政治姿勢、将来の日本像など、さまざまな違いを
うやむやにして手を握り合って政治を進めるとしたら、どうなってしまうのか。
「国難に対処するため」と推進派のいう大連立は、国民を置き去りにして、説明
のない措置を次々に押し付け続けることにもなり、小選挙区制をいいことに独裁
体制を作るための謀略にもなりかねないのだ。
  むしろ、価値観の多様化した現代にあっては、国民に多数の選択肢を提供して、
その意思を確かめたうえで体現に努めるべきで、小選挙区制はこれに逆行してい
るのだ。少数意見の存在は、民主主義にとって大切で、こうした原点から大連立
の不可解を指摘したい。

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◆2008年につなぐべき課題
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 年が変わる。忘れたいことは忘れて、この時期に新しい気分でスタートし直し
たいところだ。しかし、時間の問題でごまかしてはならない。
  年末も含めて、2008年には衆院解散が予想される。選挙を前に、いろいろ
なごまかしや隠ぺい、争点隠しがまかり通ることは一般的にありがちなことだ。
しかし、そうさせてはならない。
  とくに今回は、3月になると年金問題が再燃するだろうし、守屋問題の刑事的
解明はもちろんとして、防衛予算をめぐる政界への波及や、グアム島移転の米海
兵隊住宅建築費など米軍再編に伴う経費疑惑の追及、インド洋補給の燃料費の解
明など、きちんとしなくてはならない。腐敗の追及にとどめず、その根絶(はあ
りえないが)対策にまで論及されなければならない。
  政府・自民党はウミを出したうえでの再出発を、民主党など野党はむなしい追
及に走らずデータ入手に努めたうえでの解明と対策を、そして公明党はゲタの雪
ではなく与党の立場を生かせる公正な判断をして欲しい。ほとんど期待できそう
になくても、やはりそう求めざるを得ない。(2007.12.10記)                   
                               以上
              (筆者は帝京大学教授・元朝日新聞政治部長)
                                                     目次へ 
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揺れる政局のキーパーソン           船橋 成幸
      ためらわず、政権交代の王道を!
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  ことし10月、革新政治運動の大先達 江田三郎の没後30年・生誕100年
にあたるということで記念の集会と出版が企画され、私もその一齣として、敬愛
の念をこめて『江田三郎への手紙』を何人かの仲間とともに執筆した。『手紙』
といっても、私の場合、故人に対して没後30年間に生じた国内外の主な出来事
を報告する形をとったのだが、それを脱稿したのがちょうど参議院選挙の直後と
あって、選挙の結果、新たに生じた政治変動の意義を十分に捉えることはできな
かった。
  『手紙』では、「安倍内閣はすでにレームダックに過ぎず、自民党の大勢は・・
できるだけ早い機会に首相の首をすげ替え、『党刷新』の装いを凝らして世論の
逆転を狙おうとする方向に流れています」と記したが、現実の局面は、そんな私
の予想をも大きく超える様相と速度で変動した。

安倍首相は、所信表明演説直後の何とも間の悪いタイミングで辞任。その無責任
ぶりが非難の嵐を呼び、危機感を募らせた自民党各派閥の領袖による談合のあげ
く、総裁選の形を経て福田康夫を後継首相とし、自公連立政権を代替わりさせた。
自民党の親分衆は、小泉・安倍首相のような国家主義的イデオログーの臭味を拭
い、「癒し系・調整型」と目される福田の政治スタイルで参院選挙が示した厳し
い民意に対応、新たな政権イメージで未曾有の難局を乗り切ろうと考えたのであ
ろう。自民党のオハコである「振り子の原理」の作動と言えるかもしれない。だ
が、それがうまくいくほど今回現われた「ねじれ」といわれる国政の構造は生易
しいものではなかった。

 自公政権は、議席の数の力で思い通りに法律をつくり、政治を動かす条件と可
能性をこれから最短でも6年、あるいは9年もの間、あきらめるしかないと見る
のが参議院選挙後の常識となった。国民の多くが、衆議院のコピーといわれ続け
てきた参議院がしっかりと機能するようになり、議会制民主主義の本来の姿が現
われることを期待した。
  私もそれを受けて、前記の『手紙』では本格的な「政策競争の時代」の到来を
予想し、今後は衆参両院間、与野党間の「調整、妥協、対決」が交錯、(政策の)
選択を世論に問うという新たな政治環境が現われるだろうと記していた。そして、
その半面、「民主党にスキが生じれば」「野党分断・政界再編の策謀やハプニング
解散のような事態が起こりうる」ことも「想定のうちに含めておくべき」と述べ
ていたのだが、現実は残念ながら、政権側の策謀に民主党の党首自らが乗じられ、
大きなスキを見せてしまったのである。  
 
小沢民主党代表が一時的にせよ「連立につながる政策協議」の誘いに乗ろうと
し、党の総意によって拒絶されたことから辞意を表明、それに対して党幹部こぞ
っての慰留というドタバタ劇を演じたことは、民主党にとって思わぬ痛手となっ
た。参院選挙を通じてこの党に寄せられていた国民多数の支持と期待には、冷水
が浴びせられた。
  小沢代表は何ゆえ、自身の政治生命にもかかわる危険な選択を、しかも自ら率
いる民主党がかつてない高揚の勢いを示していた時期に、あえてなそうとしたの
だろうか。
  何人かの大物フィクサーに乗せられたとか、「壊し屋」のクセがまた出たのだ
とか、そうした批評が多く噴出した。それらをすべて的外れとは言えないまでも、
大方は皮相の現象批判に過ぎないのではないか。私は、ここで福田首相や小沢代
表のホンネがどこにあったとか、確かな根拠もなく「ハラ探り」をやるつもりは
ない。そんなことよりも、辞意表明時の会見で小沢代表がメディアを通じて国民
に説明した内容に重い意味を感じ、それをまともに受けとめることから行論に当
たりたい。

 小沢代表が福田首相との会談を応諾、連立につながる政策協議に踏み切ろうと
した最大の理由は、「国の安全保障政策の極めて重大な転換」の確約を信じ、期
待したことにあったと代表本人が言っている〔11月4日、辞任願い提出直後の
記者会見〕 その「転換」の内容は、(1)国際平和協力に関する自衛隊の海外派遣
は国連の決議によるものに限ることとして、特定の国の軍事作戦は支援しない、
(2)新テロ特措法案は連立が成立するならあえてこだわらない、というもので、こ
れを福田首相が「確約」した。だから「この一事をもってしても政策協議に入る
べき」と、小沢代表は判断したのだという。そして、政策協議を通じて連立政権
に加わることは、マニフェストで国民に示した諸々の生活課題にかかわる約束を
実行し、「民主党政権の実現を早める近道」だと考えたと言うのである。
党首会談の結末が不首尾となったあとでこそ「転換の確約」について福田首相の
言いぶりは否定的だが、すくなくとも小沢代表がそうと信じ込むような言質を
(たぶん会談前から)与えたのであろうと想像はつく。

だが、それがどうであれ、小沢代表による「説明」をそのまま読み解くならば
自衛隊の海外活動に関する政府方針と憲法解釈の転換こそ党首会談の眼目、主題
であり、連立につながる政策協議の話は政権側から持ち出された付随的な課題だ
と、代表自身は認識したということになろう。その主と従の軽重判断がおかしい、
逆ではないかと見るのは傍目であって、小沢代表はそれなりの論理と発想法で党
首会談を応諾、連立をも可とする理由づけを行なったのである。
  私は、小沢代表のこの判断の根底には独自の「国連中心主義」があったように
思う。その意味するところを一言で言えば、国連決議に基づく国際平和維持の活
動は日本国憲法の規定外〔フリー〕の活動であり、したがって海外での武力行使
を含む場合でも、わが国は兵力の提供などあらゆる手段で参加することが可能で
あるとする主張、これが小沢一郎氏の持論であり、多年にわたって貫いてきた政
治信条にほかならない。

 その発端は、1990年11月、国連平和協力法〔PKO法〕案をめぐる与野
党協議を当時の小沢自民党幹事長が仕切ったときからではないかと私は見てい
る。あのとき、「国連中心主義」を謳い、「非軍事・民生分野の国連活動に自衛隊
とは別個の組織で協力する」という自公民3党合意に社会党が(理もなく)強く
反発して協議途中で離脱、法案はいったん廃案となったいきさつがある。その後
92年に土井委員長を継いでいた田辺社会党委員長があらためて3党合意の線
に同調しようとしたが、時すでに遅く、同年6月、PKO法は90年の「合意」
を超えて自衛隊の海外派遣に関する規定を明文化し、結局、自公民3党と社会党
が激突するなかで成立した。
 
翌93年6月、小沢氏は自民党を離れて新生党を結成、同年8月、細川非自民
連立内閣を樹立するため積極的な役割を担ったが、社会党との確執が解消したわ
けではなかった。94年4月の羽田内閣からは社会党が外れ、同年6月末に結成
された自社連立の村山内閣には、小沢氏らの新生党など非自民野党が厳しく対決
した。それ以降、小沢氏は新進党、自由党の党首を経て2003年9月、民主党
に合流、07年4月からは党代表をつとめている。
  この過程で、小沢氏は自らの「国連中心主義」に関する主張をしばしば公にし
てきた。例えばその代表的な一つに『文芸春秋』99年9月号に掲載された「日
本国憲法改正試案」がある。そこでは占領下で強制された憲法は本来無効だとし
て、天皇元首論や参議院の無権力化などの主張とともに、独自の国連中心主義を
展開、国連常設軍の設立と自衛隊の積極的参加をも唱えている。この小沢自由党
党首〔当時〕の所論に対して民主党幹事長代理をつとめていた鳩山由起夫氏から、
ほぼ全面的に厳しい批判が加えられたこともある(前掲誌同年10月号)が、小
沢氏の主張の基軸は変わらないまま今日に至っている。

 こうした経過を振り返ってみると、「国連中心主義」に関する小沢氏の思い入
れが尋常ならず深いことがよく分かる。代表辞意撤回後の今日にいたっても、小
沢代表は、連立参加に応じようとしたときの「政治判断は今でも正しいと思う」
と言い切っている〔11月16日『朝日』インタビュー〕 正しいと思うけれど
も、民主党としては認められないから断念して総選挙準備に専念するという。そ
してテロ特措法に代わる新法には、たとえ給油・給水活動に限定されようとも,
国連決議に基づくものでなければ原理原則の異なる問題となるので政策協議の
対象にはできず、あくまでも反対を貫くというのである。

 正直な話、私は小沢代表のこのような発想法、割切り方がよく分からなかった。
そのため参議院選挙直後の局面では、アフガン戦争支援の給油活動が日本の政局
を揺るがす直接最大の争点になることを予想できず、前述の『江田三郎への手紙』
ではあえて触れなかった。小沢民主党が関係法案を本当につぶすまで闘うのか、
それとも何らかの妥協に落ち着くのかは予見不可能と見ていたからである。そし
て、それがどうであれ、民主党が年金や格差など生活関連の課題で市民の共感を
得られる闘いを真剣に進めるならば、次の総選挙でも勝利する道は開けるに違い
ないと、私は単純に、安易に考えていた。
  ところが、その見通しは大きく外れた。テロ特措法と新法をめぐって政局が異
常に緊迫、そこから党首会談、連立への動きまで現われたのはまったく予想外で
あり、この事態の片鱗さえ思い浮かばなかったのは私の不明であった。その点は
反省しなければならないが、他方、小沢流の「国連中心主義」や「連立が政権へ
の近道」とする主張には驚くばかりで、あらためて深い疑問が生ずるのを抑える
ことはできないのである。

 疑問の第一は、小沢代表が主張する「国連決議に基づく平和維持活動への自衛
隊参加」という、その具体的なケースが今後いつ、どんな態様で現われるのかが
見えないことにある。近年、多国籍軍に参加のイラク派権は別として、わが国の
自衛隊が国連決議に基づく要請を受け、PKO法によって東チモールやネパール、
コンゴ、ゴラン高原などに派遣された事例はあるが、それらはほとんど数名規模
の選挙監視要員であり、紛争後の兵力引き離しへの監視活動であり、唯一400
名を超える派遣となった東チモールでも、主たる業務は道路、橋梁などのインフ
ラ整備に集中していたのが実態である。小沢代表の想定がその範囲内にとどまる
ものだとは考えにくく、「国連決議のもと憲法の枠外で恒久的に兵力の提供が可
能な平和維持活動」などと言われると、話が大きく違ってくるように思う。かつ
て鳩山由紀夫氏は「この国連中心主義は現実の国連の姿を無視した理想の話」で
あり「常備国連軍構想はしょせん絵空事」だと評したが、私はむしろそれに共感
する。
 
さらに現実的に見れば、いま日本周辺で平和に対する最大の脅威は北朝鮮の核
問題だといわれるが、それはすでに交渉による解決のプロセスにあり、かりにこ
じれても、国連(まず常任理事国)が一致して日本に兵力による「平和維持活動」
を求めるような事態は最も想定しにくいことである。また、中東の産油国と日本
を往来するタンカーや商船に対して海賊、麻薬取引、海上テロなどの危険も言わ
れるが、これらは関係沿岸諸国への外交努力と、その了解のもと海上保安庁など
による日本の警察活動で対処すべきであって、大袈裟に「シーレーン防衛」など
と戦略問題化すべきことではない。
  もちろんグローバルな見地から平和維持のために貢献するという課題は重要
だが、その方策を平和憲法を歪めてまで軍事に結びつけねばならない必然性・必
要性はなく、現にNGOをはじめとする非軍事的貢献の多様な活動が、国際的に
も高い評価を受けつつ経験を重ねている。

 第二は、「政策協議を通じた連立参加は政権への近道」という小沢代表の認識に
対する疑問である。その前提として「次期総選挙情勢の厳しさ」や「民主党の政権
担当能力の不足」を代表は指摘したが、そうした弱点をまったく否定はできない
までも、だから連立だというのは飛躍であり、あまりにも主体性のない話ではな
いか。弱点があればこそ、それを直視して克服の努力を強調するのが、政権への
道を先導すべき党指導者の責務ではないのか。
  連立の効能として、前記の安保問題のほかにも、さまざまな生活課題をめぐる
公約の実現を挙げているが、そもそも今日の市民生活の困窮や格差をもたらした
元凶は自公政権であるとし、それゆえに政権交代の目標を掲げ、厳しい政策・政
治対決を進めてきた野党としての行動原理はどうなるのか。また、政権交代の実
現を目前にひかえ、日本における政治的民主主義の成熟がようやく確証されよう
とするとき、連立ないし大連立への志向は、あたかも「大政翼賛会」的レジームへ
の復古・転落につながるのではないか。
 
さきの参議院選挙で民主党に期待し、2400万票を投じた有権者は、政治体
制のこのような逆行を決して求めはしないし、許すはずもない。しかも実際に連
立を組もうとすれば次期総選挙での小選挙区制は成り立たず、中選挙区制などに
変えようとしても大混乱は必至で、それぞれの党内で容認される見込みはきわめ
て薄い。
  私は小沢一郎氏ほどの有能な政治家が、これほど単純明白な問題を読み誤るこ
とはめったにあるまいと思う。だが、それならばなぜ、という疑問と不安は、小
沢代表が、党首会談のときの「政治判断は正しい」と言い続けるかぎり残らざるを
得ないのである。

 一方、大きな救いは、小沢代表が辞意表明後ギリギリの局面で党幹部の説得を
受け入れ、党首の座の維持継続に応じたことである。もしもこの強力なパワーを
持つ党首の「慰留」に失敗しておれば民主党内の混乱は測り知れず、参議院選挙
のせっかくの成果も大崩れする危険があった。それだけに、党幹部たちは危機回
避に努力の限りを尽くしていた。小沢代表も最後には、自己の存念や権限よりも
党組織の意思を尊重し、それに従う道を選択した。この経緯を通じて、民主党は
政権党としての未熟と動揺の側面を露呈した半面、その名にふさわしい「民主主
義の党」の内実をも確かに示し得たのである。
 
私はいま、前回総選挙のとき民主党が流したテレビCMの画像を思い起こして
いる。嵐の中、荒れ狂う風雨に船長が舵取りの手を離して吹き飛ばされそうにな
ったとき、船乗り仲間ががっしりと支えて危機を乗り切る場面である。偶然では
あろうが、あの画像は、今回の顛末と今後の民主党における党運営のあり方をみ
ごとに示唆していたと思う。
  民主党の寄り合い世帯的性格にはそれなりにポジティブな側面もあり、一枚岩
の団結を強いて求める必要はないが、党の存在意義がかかるような正念場を迎え
たとき、共通の目標で互いに深く協力する関係は不可欠となる。その関係を保障
する原則が党内民主主義であり、それが欠ければ、政権獲得も安定的持続もおぼ
つかないことを民主党は今回の出来事から深く学ぶべきである。

 次期総選挙への情勢について小沢代表は「極めて厳しい」と述べている。自民
党のしたたかさを百も承知の立場から油断を戒める発言としては適切だろうが、
傍目で見れば、いまの政治情勢が基本的に野党に有利、与党に不利ということは
明らかと言えよう。自民党は前回の郵政選挙で「勝ち過ぎ」ており、参議院選挙後
の「ねじれ」国会で従来型の政治手法を著しく制約されている。また、福田内閣
は厳しい財政状況のもと、年金・社会保障や格差対策のほかさまざまな政策ニー
ズに追い立てられ、つぎつぎに深刻な問題をひろげている。加えて給油支援新法
のめども立たないのに防衛汚職の泥沼に足をすくわれ、ほとんど立ち往生の状態
にある。このまま解散・総選挙を強行しても、与党側が3分の2超の現体制を維
持するどころか、過半数獲得さえ安易ではあるまい。
 
この現状を踏まえるかぎり、民主党をはじめ野党陣営が次期総選挙で一挙に政
権交代を実現するか、あるいは政権への至近距離に接近するか、いずれかの展望
が現実性を深めていることは確かだと思われる。
「次期総選挙で政権交代を実現できなければ、死んでも死に切れない」 これも
小沢代表の言である。覚悟のほどは分かるが、私は、たとえいっきに政権交代と
いかない場合でも、絶望する必要はまったくないと思う。民主党と野党
が参議院の多数体制を維持しつつ衆議院でも大きく前進し、古い表現だが「瞰制
(かんせい)高地」を制するならば、この数年内に漸次的に政治・政策運用の主
導権を侵食し、安定的な「政権への近道」を選ぶ可能性は強く残るはずである。

 さらに小沢代表は、次期総選挙の目標として「ベストは民主党で過半数、次善
は野党で過半数、三善は民主党が第一党」とも述べており、この「三善」あるい
はそれ以下となった場合、またもや何ごとか起きるのではないかと、マスコミで
話題になっている。つまり、政権側から見た場合、参議院の勢力関係が現状のま
ま与党が衆議院でどうにか過半数を得て政権を維持しても、3分の2を割れば再
議決の道すら閉ざされ、野党の同意なしにほとんどの法案を通すことができなく
なり、政権は機能不全になってしまう。それを避けようとして、衆参両院で野党
を分断し、安定与党体制を回復しようとする策謀が熾烈化するに違いないと言う
のである。また、野党側からも与党の分断を図り、いわば「調略」によって政権
交代を迫ることが可能となり、いずれにせよ総選挙後の政局は、戦国時代にも似
た調略合戦の様相を呈するだろうと見るのである。

もちろん、そのいずれの場合も、議会制民主主義の根幹である民意を離れ、それ
に背く邪道であって、そんな手法で政権を得ても安定を期待できるはずはない。
極端な悲観も油断もよくないことだが、いま考えられる最悪の事態は、日本の政
治が策謀の渦に巻き込まれ、議会制民主主義を底なしの泥沼に沈めてしまうこと
である。私は、とりわけ民主党が、そうした邪道をきっぱりと排し、政権交代の
王道をまっしぐらに進むことを強く願っている。

 この年末の政局は、給油支援新法反対と防衛汚職への追及を焦点に与野党の激
しい攻防戦となっている。ほかに年金や格差問題など、より大きな政策課題があ
るのにとの声も聞かれるが、いったん手をつけた問題で政府・与党と激突した以
上「振り上げた拳」を中途でおろすべきではあるまい。しっかりとケリをつけて、
それこそ「無原則な海外派兵」の道をふさぎ、防衛汚職の究明を徹底し、憤激して
いる世論に応えることが野党の当面重要な責務である。同時に、被災者救援法や
政治資金規正法などで与党側と道理のある合意づくりに努めてきたことは評価
できるし、今後も市民のニーズを受けとめつつ推進すべきである。また、200
8年度予算の編成にも、政府案決定の前から積極的に関与し、生活を守り向上さ
せる立場で、すこしでも修正や組替えの成果を積み上げる努力が大切だと思う。
そのための開かれた政策協議は大いに必要であり、市民の切実な願いに適うこと
だと言えるだろう。
 
だがもちろん。根本は政策競争である。年金・医療など社会保障の諸問題、階
層間・地域間の格差問題、財政・経済問題、教育と雇用の問題、そして安保・外
交問題などなど、与野党間の政策は各党のマニフェストを見ても隔たりが大きく、
基本的に対立する場合がすくなくない。
  だからこそ開かれた論争を通じて政策の優劣を競い、その争点を明らかにし、
選挙で有権者の選択を求めることが議会制民主主義の本旨となるのである。この
関係が従来は政権側の専横によって歪められてきたが、「ねじれ」といわれる参
議院選挙後の政治構造は公正な競争の条件を保障するはずである。年末から年明
けの国会を舞台に大いに論争し、政策を競い、解散・総選挙で選択を民意に問う。
その機会は、まぢかに迫っている。

 福田首相は突然の就任に際し、もともとは革新的運動から生まれた「共生」の
標語を横取りしたが、それを自らの施策で実態化する動きはまったくない。それ
どころか、小泉・安倍の路線につながる後ろ向き「改革」を基本的に継承する構
えである。だが今日の深刻な社会的・経済的諸矛盾は、かれらの「改革」がもたら
した市場原理の歪み、競争至上主義の帰結であり、共生とは対極の分裂と孤立を
深めるものに他ならない。また、グローバリゼーションの潮流のなかで「斜陽の
帝国」と化しているアメリカへの追随も、しばしば国際社会から孤立し、米軍再
編問題が示すように国益に背く場面すら招いているが、福田内閣がこれを是正し、
すこしでも自主・自立の気概を示そうとする気配はない。
 
こうした福田自公政権と正面から対決し、野党陣営をリードして政権交代を達
成、日本の現代政治史に新しい時代を拓くことが民主党の任務である。2008
年を通じて、政局は何が起きても不思議ではないほど波乱含みで、大揺れだと言
われるが、どんな状況、どんな問題が生じても、民主党は決してぶれずにこの任
務を全うしてもらいたい。
  そのトップリーダーである小沢代表は、さきの参議院選挙で「生活第一」を正
面に掲げ、地方・農村を重視するみごとな指導ぶりで歴史的勝利をもたらしてい
る。さまざまな批判はあれ、強力な指導性と政治力を身につけた稀有の政治家で
あることに相違はない。かれこそキーパーソンである。
「ねじれ」国会のもと、政局の行方を左右する鍵を小沢民主党が握っている。そ
の手にはまた、幾千万有権者の日々の暮らしから発する熱い切実な願いがある。

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■寄稿 
   (1) CO2削減を地元環境のなかで求めよう。 力石 定一
   (2) まだ小さい日印関係           松田 健
   (3) 世界が100人の村だったら        七里 敬子
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   (1) CO2削減を地元環境のなかで求めよう
                               力石定一
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 「グローバルに考えローカルに行動しよう」と言われる。地球温暖化の脅威に
関するグローバルな情報量はますます増加し、危機意識がひしひしと強まってい
る。にもかかわらず、ローカルな行動は「いまだし」の感がある。
  逗子市で生活している者として具体的にできることは何があるだろうかを考
えてみよう。

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◆一、自動車利用の適正化
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  自動車利用による排気ガスを減らすには、逗子駅に到達した横須賀線の15両
編成の前の4両を切り離して、ストックヤードに入れておき、次の通勤時間帯の
11両編成に4両を増結するという今のやり方を改めたらどうか。
  4両編成の車両を東逗子−逗子−鎌倉−大船のローカル線を往復運行させる
濃密なダイヤを実施するのである。そうすれば、大船−東逗子間の線路に平行す
る県道を走る乗用車を電車利用にモーダル・シフトさせる可能性を提供するだろ
う(注)。
  県道の自動車利用が減少すれば、県道から横道に入る市道の上の車も減るから、
自転車利用の危険が低下するし、バスの渋滞緩和にも寄与する。市道を一方通行
化できるところも生まれよう。
(注)=この案を先頃、JR東日本の役員会に提案したところ、前向きに対処し
たいとの回答を得ている。
  自動車利用を減らすもう一つの方法は、京浜急行の単線地下鉄を新逗子駅から
葉山を経て三崎口駅まで新設し、東海岸の複線と結んで「三浦半島環状鉄道」を
形成することである。葉山−秋谷間を結ぶ国道の地下にシールド工法でトンネル
を堀り、地下鉄への出入り口は公共用地に設置する地点をできるだけ選ぶように
し、そこを「上下線の行き違い駅」にする。このようにすれば用地買収費を極力
少なくすることができる。
  葉山、秋谷の人口はすくないので、4両ないし6両で、700名ないし100
0名の乗客を10分間隔で運び、新逗子駅で待っている車両に連結するならば、
国道134号線の自動車交通から、これへのシフトをかなり起こす可能性があろ
う。さらに朝夕の通勤時間に奥様によるJR逗子駅や京急新逗子駅への自家用車
送迎は、最寄りの地下鉄駅までと大幅に短縮されるから排気ガスの減少に寄与す
るであろう。
  JR横須賀線と京浜急行線との乗換えを今のように歩かなくて済むように、J
Rのストックヤードの池子に近い地点で、京急線が上、JRが下になって交差し
ているところに二階建ての乗換え駅をつくる。

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◆二、太陽電池の利用促進
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  次にCO2削減に寄与できるのは太陽電池の利用条件を整備する事である。逗
子では全国に先駆けて市役所と小学校の全校舎に太陽電池の設置を行っている。
これからは県立高校や文化会館、公民館その他あらゆる公共施設にまでこれをひ
ろげるべきである。
  私たちは、当時次のような計測をおこなった。
  全国の災害時の避難所に指定されている四万校の学校に住民安静のために9
0KWの蓄電池つきの太陽電池を設置する。
  90KWx4万=3600MWの計画的な導入によって、量産効果によるコス
ト低下が引き起こされ、ワット当たりの在来電力の料金とほぼ同じ水準に下がる
と見通した。この提案は実行されることなく、民間企業の開発競争にゆだねられ
てきた。2005年の累積導入量は1421.9MWのところを歩んでいるため
にワット当たりのコストも在来電力料金の2倍のレベルのところに位置してい
るのである。
  2005年の累積導入量ではドイツが1429MWに達し日本は世界トップ
の座を奪われたというニュースが注目されている。ドイツは、太陽電池の発電に
対し、電力会社に市場価格の割り増し料金で買い取らせる公的システムをとらせ
ることによって、この追いつきを実現したのである。
  日本も同じような方式をとるかどうかが議論されている。
  私たちは、公的部門の購入計画という兼ねてからの方式を再確認して量産効果
によるコスト引き下げを通じてスピン・オフするというオーソドックスな道を選
ぶべきだと思う。

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◆三、緑の光合成によるCO2吸収
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  逗子市域の面積1734ヘクタールのうち、森林面積は894ヘクタールで5
2%を占めている。このうちシイやタブなど常緑広葉樹林50ヘクタール、スギ、
ヒノキなど常緑針葉樹林200ヘクタールを除いた落葉広葉樹林は650ヘク
タールで全森林面積の70%を占めている。落葉広葉樹林には、エノキ、ケヤキ
のような天然の喬木が部分的に含まれているが、大部分はクヌギ、コナラ、サク
ラのような二次林である。この70%を占める落葉樹林は、冬季は落葉し、CO
2を吸収する光合成機能を停止するから逗子の冬の景観は灰色を呈している。
 
しかし近年、樹林の上層は灰色の二次林に覆われているが、その下層に、常緑
広葉樹の実生や残されている古い根株からの萌芽が次第にひろがってきている。
コナラ、クヌギを薪炭林として利用する人手が絶えず加わっている間は、このよ
うな潜在自然植生への遷移は永年の間容易に起こらなかったのであるが、エネル
ギーを化石燃料に依存するようになってくると、放置された二次林の自然植生へ
の遷移が生じるのである。森林の下層で常緑樹による光合成が、冬季にも復活し
てきていることを見落としてはならない。しかしながらこれについて、「里山の
自然」が常緑樹の復活によって荒らされている、この侵害から里山の景観を守ら
なければならない、といった「環境運動論」が一部に叫ばれているが、これは間
違った議論である。里山が「荒れる」のはツルやツタがクヌギ、コナラに巻き付
いて、ジャングル化するときに言われるべき表現である。ただ遷移にのみゆだね
ていたのでは厳しい異常気象に対して抵抗力の弱い急傾斜地の二次林が倒木し
て土砂崩れを引き起こしたり、豪雨が表土を泥水として押し流したりといった被
害に見舞われることになる。そのような地盤の弱い地域に対して、ポット苗の宮
脇昭式の植栽を計画的に行って(その直根と深根性のひげ根の力を用いて)被害
を予防するような混交林化を行うことが望ましいのである。

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◆四、海草の光合成機能
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 CO2を吸収する光合成機能で今一つ忘れてならないのは、植物プランクトン
と海草類(ワカメ、ノリ、アラメ、カジメ、ホンダワラなど)の役割である。海
草類が光合成をおこなうためには、太陽光が到達しうる水深10メートル内外の
浅瀬であることが必要である。その浅瀬が、前述の山からの泥水によって濁らさ
れたのでは、太陽光線が届かないために、光合成が不可能になってしまう。海の
森林の光合成機能を妨げている例には、沖縄の赤土の海への大量流出や黄河や揚
子江の河川水がほとんど泥水であるため、黄海、東シナ海の沿岸部の海草の成長
を不可能にしていることなどがある。
 
逗子ではどうか。汚水と雨水の合流方式の下水道が、ハイランド地域と逗子三
丁目、四丁目、桜山一丁目、二丁目に残存している。豪雨の時には、終末処理場
が、受け入れることができないので、未処理のまま久木川や田越川に放流される。
それが、相模湾の潮流に押されて、逗子海岸の砂浜に堆積されている。以前は一
年のうち六十日そのような未処理の放流が行われていたが、近年は異常気象のた
めに、豪雨に見舞われる機会が増えているから、この問題は一層きびしくなって
いる。
  海岸の泥土は、波打ちによって、水深10メートルの範囲にかき出され、海草
に太陽光線が到達するのをさまたげその光合成機能を低下させる。最近養殖ワカ
メが不作であると小坪の漁民がなげいているが、この間の事情が背景にあると思
われる。
 
下水道の合流方式から「分流方式」に切り替える土木工事は、CO2削減対策
としても見直されなければならない。
  以上のような各種の政策手段を実施するために逗子市民の間にNPOを組織
し、横浜、横須賀、鎌倉など周辺都市の企業のうちで、逗子のCO2削減の政策
モデルに共感をもつ人々から寄付を募り、集めた基金で、政策的行動をおこなっ
てゆくというような運動が期待されよう。今日本の商社は、日本企業のために海
外のCO2排出権の購入を盛んにすすめているが、逗子のNPOの基金募集は、
「排出権取引」ではない。これは、カーボンオフセット(相殺)制度の一種であ
る。西欧ではCO2を排出せざるをえない企業や個人が、CO2を吸収する事業
に対して寄付をして、自らの排出責任を相殺してもらう制度がひろがっている。
  たとえばイギリスでは、旅客機に乗った乗客が、到着した空港において、飛行
中に排出したCO2の量を相殺するだけ森林事業や太陽電池事業などに対して、
自発的な寄付金を支払うといった行動をおこなっている。
 
逗子の周辺の湘南地域にまで手をひろげて、カーボンオフセットをおこなおう
と思ったら逗子市の行政のイニシヤティブでは難しい。NPOなら、それが可能
になるという点が、特徴である。
  基金の用い方については、京浜急行の株を取得して、単線地下鉄建設計画の実
施に株主権を利用するとか、金融機関の株主権をもち、市民の太陽電池設置への
融資を促すなど色々工夫がありうるだろう。
                      (筆者は法政大学名誉教授)
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   (2) まだ小さい日印関係           松田 健
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 2006年3月のオルタにインドの現状について書かせていただきました。
  それから1年半が過ぎましたインドに、日本政府も日本企業もさらに注目して
いるが、新規に日本企業が続々と進出しているという状況にはまだほど遠い。
  これまでにインドに進出した日本企業は約400社だが、この数にはインド各地
の日系の事業所がだぶって数えられており、新聞社や銀行の事務所も含んだ数で、
日本のインド進出の企業数は実際には300社程度。製造業に限れば、このまた一
部に過ぎず、しかも製造業のメインは自動車関連業界。
  中国に投資が集中しすぎたリスク分散といった観点からチャイナ+1(チャイ
ナプラスワン)が求められるようになってきた。そして新たな進出先としてイン
ドに目を向けるところも出てきたが、実際にはその回避先にベトナムやタイが選
ばれたケースが多い。

 これを裏付けるのは2006年度の日本の対インド投資は、新規については前年比
で減少したこと。だが同年度にもインドにすでに投資している日本企業がインド
での再投資、拡張投資については前年を大きく上回っている。このことは、イン
ドの投資環境の良さは日本ではまだほとんど知られていないが、すでにインドに
投資して操業している日本企業では、インド市場の将来性を大きく評価し、自信
をもって追加投資を行なっていることを意味する。
 
これまでに中国での日系企業はプロジェクト数で2万を超える。インドは外資
に流通業を解禁していないが、それでも、中国にも進出している米国のウオルマ
ートはすでにインドにも合弁進出したが、同じように中国には進出している日本
の流通大手のインド進出の動きはまったく見えない。
  韓国のインドでの存在感が日本以上で、1兆円を超える製鉄所プロジェクトも
ある。企業の現地化の面でも韓国企業が日本企業のお手本的な存在になっている。
インドに進出している韓国企業にはインド事情に精通した専門スタッフが育って
おり、インド人好みのデザインや機能をもつ製品をインドで開発、価格面でもイ
ンド人が納得する安さでシェアを広げている。

 日本企業が進出をためらっているのは中国やタイなどに比べて見劣りするイン
ドのインフラ欠如。それに加え、インドの各都市部での土地高騰でデリーの近郊
の工場用地の土地代が東京の住宅地より高くなっているなど、想定外のコスト高、
また、すでに発生している労働者不足などを知ってインド投資を断念したところ
もある。しかし筆者が親しい日系自動車に部品を供給するインド企業では、「日本
ではインドのインフラの欠如について不満が高いことを聞いているがが、我々も、
すでに進出されている日系企業でもほとんどが大きな利益を出している」という。

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◆後追いに終始する日本の外交
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 1998年5月、インドが実施した核実験にクリントン政権(当時)は経済制裁を
決め、日本はこの米国の経済制裁に同調、90年代に入って伸び始めていた日印経
済関係を膠着させてしまった。日本はインドとの経済関係改善でも米国の後追に
終始した。クリントンはインド制裁から2年も過ぎない2000年3月、米国大統領
として22年ぶりでインドを訪問し経済関係を強化した。これは現職の米大統領の
外国訪問としては異例の1週間近いものとなった。これに刺激されたかのように、
その5か月後に日本の森首相(当時)らの官民インド経済ミッションが2000年8
月に訪印している。
 
1972年、ニクソン元米国大統領が日本への事前通告なしで中国を初訪問。これ
に驚いた田中角栄首相(当時)も中国に行って周恩来首相らと交渉、結果的には
米国より先に国交回復にこぎつけた。それから30年以上が過ぎたが、重要なイン
ドに対して他国に先駆ける外交ができない。
  05年4月の中国の温家宝首相のインド訪問で、長くインドと紛争していたシッ
キム州をインド領であることを再確認、マンモハン・シン首相と、中国とインド
の『戦略的パートナーシップ』を構築する共同声明を出した。翌06年1月31日、
米国ブッシュ大統領の一般教書演説でもインドが重視され、中国を意識、しかし
先の中印声明と同じ『戦略的パートナーシップ』を打ち出した。08年から日本が
援助するデリー・ムンバイ間産業大動脈(DMIC)プロジェクトが始まるが、
これも『戦略的パートナーシップ』。06年12月のマンモハン・シン首相の訪日時、
両国首脳で決めた『日印戦略的グローバル・パートナーシップ』の一貫としてデ
リーとムンバイ間に産業大動脈を造ることになり、07年8月の安倍晋三前首相の
訪印でそのプロジェクトへの日本の援助も確認された。

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◆両国ともに不足する専門家
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 日本よりも韓国や中国がインドでのプレゼンス(存在)を高めており、「日本人
は、アジアはタイかミャンマーで終わっていると思っているのではないですか?」
と何人かのインド人から問われた。
  日本企業には中国の専門家は多いし、中国人スタッフを抱える企業も増えてい
る。しかしインドについては大企業でさえインドの専門家はほとんどいない。一
方で、韓国や中国企業は将来のインドビジネスを背負う若手人材を数百単位の数
で養成している。しかし日本は大手家電の某役員ですら、「北米、中国、ベトナム
と力を入れなくてはならない国がインド以外にも多数あり、インドに投入する人
材がいない」と諦め顔。
 
韓国や台湾には日本について深い知識をもつ人が多数いても、インドと日本に
は相手国を知りつくしたような専門家が極めて少ない。日本のほとんどの大手新
聞社、通信社はニューデリーに支局を出したが、インドの新聞社は日本に支局は
ゼロ。もっともインドの大手新聞は欧米にも支局は出していないようだが。しか
しインドの新聞社は欧米のニュースのコメントはたくさん載せているが、先日の
安倍晋三首相のインドから日本に帰国直後の首相離職についてコメント記事を書
けたインドの新聞記者は1人もいなかったという。
 
筆者もインドの不勉強がひどいままこんな記事を今書いているが、ただニュー
スを書くだけでなく、深くインドについてコメントできる記者が日本に何人いる
だろう?日本も同じインドを旅すると、日本がインドから歴史的に受け入れてき
た多大な文化的影響を再認識できる。明治時代、インドを訪問し、アジアはひと
つで始まる『東洋の理想』を、英語で書いて英国で刊行した岡倉天心のような人
物は今の日本にいない
  インド投資を増やすためには、インド通の若手人材を早急に育成することが不
可欠。それをしなければ、韓国、中国などに決定的に負ける。インドのインフラ
整備の援助に力を入れるよりも、日本人の若手のインド通の人材育成こそ重要な
気がする。
                 (筆者はアジア・ジャーナリスト)
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   (3) 世界が100人の村だったら        七里 敬子
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  10月22日、再話者の池田香代子さんの講演を聞きました。
  環境学者のドネラ・メドウズさんが書いたエッセイがインターネット上に流
れ、たくさんの人が自分の考えを付け加え、あるいは削除し、知人にメールする
という形で拡がったこのおはなしを池田さんは「フォークロア」ならぬ「ネット
ロア」と名づけました。「ロア」とは知恵の意味。このおはなしから私たちはど
のような知恵を得るのでしょうか。
  池田さんのところにメールが届いたときにはすでに日本語に訳されていました。
9・11とそれに続くアフガン攻撃をきっかけに、2001年12月、絵本『世界がも
し100人の村だったら』が出版され、さらに多くの人に届くことになりまし
た。

 再話にあたって、キリスト教色を取り除き、経済的に豊かなことが幸せである
という意味に受け取れる表現を「恵まれています」と書き換えたそうですが、そ
れでもまだ不十分だという印象を受けます。その後、原作にあたる「村の現状報
告」と『100人の村』の数字の根拠を第2巻(2002年)で取り上げ、そこから見
えてきた「食」と「少女」をテーマに第3巻『たべもの編』(2004年)を、「子
ども」に焦点をあてて第4巻『子ども編』(2006年)を出版、『100人の村』は
4冊のシリーズになっています。
 
1990年にドネラ・メドウズさんが書いた「村の現状報告」は「世界がもし1000
人の村だったら」という設定でした。63億人を1000人に換算することはマイノ
リティに触れられないという欠点がありますが、1000人を100人に縮めること
によって、さらに少数者が切り捨てられることになります。「もし世界が1000
人の村だとしたら、そこには5人の兵士、7人の教師、1人の医者がいます。」
という原作の文章がカットされたのは数字が小さすぎるためだと思われますが、
結果的にそれに続く「村の年間支出300万ドルのうち、181,000ドルが武器や戦
争に、159,000ドルが教育に、132,000ドルが医療にあてられます。」という部
分もカットされ、教育や医療より軍備にお金を使っている実態が報告されていま
せん。

 また原作は森林破壊、農薬、水、核兵器の問題に触れていますが、『100人の
村』ではカットされています。「おはなし」とは、そのおはなしが語られる時の
聞き手の状況やニーズによって変わっていくものです。このおはなしが拡がった
時、人々の関心は環境問題より富の偏在、その結果としてのテロリズムにあった
ということでしょう。対訳者のダグラス・ラミスさんが付け加えた平和への思い
は読者の心に響きます。しかし、原作の意図を変更することになってしまったの
は事実ですし、「この村の現状を知ってあなたはどうするのか」という問いを考
え始めたとき、環境問題、食べもの、教育や子どものことをもっと知る必要が出
てきます。池田さんと編集部が続編を出した理由もそこにあったようです。

 「世界の子どもがもし100人だったら、生まれたことが役所などに届けられ
ない子どもは55人か、あるいはそれ以上です。」「31人は栄養がじゅうぶんでは
なく、22人は予防接種をうけられません。8人は5歳まで生きられません。」「小
学校に行くのは87人です。中学校に行くのは40人です。そのうち20人はとち
ゅうでやめました。子どもたちが中学校に行かないのは、貧しさや戦争や飢饉の
ためです。」「9人は戦火の中で暮らしています。」「16人は働いています。」
「10代の女の子が亡くなる原因のうちもっとも多いのはお産です。」(子ども
編より引
用)

 日本の子どもたちの状況からは想像もできない数字が並んでいます。そして世
界が1ヵ月、戦争にお金を使わなければ、そのお金で、2億2千万人の子どもを
危険な鉱山や不潔なゴミ捨て場から助け出せると訴え、フェアトレードのチョコ
レートを買えばカカオ農場から過酷な労働をしている何十万の子どもを救える
と訴えています。すべてお金の使い方の問題です。21世紀は消費者が革命を起
こす時代だと池田さんはおっしゃいました。消費者が賢い選択をすることでお金
は投票用紙になると。『100人の村』のメッセージはThink Global, Act Local. 
  私はこれにThink Local, Act Individual.を付け加えたいと思います。
  お節介を承知で「日本の子ども100人」について考えてみました。出生届の
出ない子はゼロです。栄養不良、予防接種を受けられない子、中学に行かない子
もゼロだと思います。それでは日本の子どもたちは本当に恵まれているかという
と必ずしもそうとは言い切れません。子どもたちは驚くほど自己評価が低く、P
ISA(OECD生徒の学習到達度調査)の結果だけを見て学力低下が問題視さ
れ、あっという間に全国学力調査が再開されました。その結果が10月25日に
発表されましたが、「基本はできるが応用はできない」という当たり前の結論を
得るために77億ものお金が使われました。国語と算数だけで学力を評価しよう
としているのも疑問です。今後、教員増というメリットがあるかもしれませんが、
競争をあおり、文科省の指導が強化される恐れがあります。池田さんのお話によ
ると、子どもの権利条約を批准している国には5年に1度調査が入るのですが、
その報告書に「日本の学校における競争ストレスは異常」と2度書かれているそ
うです。つまり5年間改善されなかったということ。それどころか状況は悪くな
っているのではないでしょうか。

 自己紹介が後になりましたが、私は大阪府南部の熊取町で子ども文庫活動をし
ています。私たちの活動はすべてボランティアで、地域に「子ども文庫」を開き、
公共図書館で「子どもの本の会」を持ち、学校や保育所で「おはなしキャラバン」
を実施し、町の「ブックスタート事業」に参画しています。子どもの豊かな成長
を願って、子育て中のお母さんを応援し、子どもたちにおはなしや本の楽しさを
届けることが目的です。仲間は約30名。「おはなしキャラバン」と称して町内の
すべての学校・保育所を訪問し、たくさんの子どもたちと出会っている立場から、
子どもを取り巻く問題が見えることがあります。

 ほとんどの子は私たちの拙いおはなしや本の紹介を楽しんでくれますが、中に
は学級崩壊寸前のクラスもあります。ところがいったん話し始めてみると、そう
いったクラスの子どもたちのほうが一所懸命に聞き入ることがあるのです。おは
なしや本の力を確信する瞬間ですが、一方で子どもたちは楽しいことに飢えてる
のかと思います。TT(ティーム・ティーチング)や少人数制が取り入れられて
いるとはいえ、特に小学校ではまだまだ風通しの悪さ、余裕のなさを感じます。
池田さんのお話では、OECD加盟国の文教予算平均は日本の1.5倍。しわ寄
せは現場の先生と子どもたちに来ていて、前述の報告書には「先生が子どもと過
ごす時間が非常に少ない」とも書かれているそうです。教科の時間を削って捻出
された総合学習の考え方は、私たちが本を紹介するときに使う方法(ブックトー
ク)に似ています。まず、あるテーマに関連する本を、自然、歴史、昔話、ナン
センス、詩など、分野を問わず思いつく限りたくさん読みます。それから対象と
なる子どもの年齢や経験を考慮して本を選んでいくわけですが、その過程で大人
も発見があり、学ぶことは面白いと実感します。けれども、それを楽しむために
は時間的精神的ゆとりと基礎的な知識が必要なのです。
 
『100人の村』を紹介するとしたら、対象は小学校高学年以上でしょうか。そ
の年齢の子どもたちに接して驚くことは、地理や歴史に関する基礎知識が少ない
ことです。「それを知らないんだったらこの本は楽しめないかなぁ」と思って取
りやめることもしばしば。日本の子ども100人のうち100人が小中学校に通っ
ているはずです。100人のうち高校には行かない子は6人います。大学に行かな
い子は48人です。(Wikipediaから算出) すべての子どもが通う義務教育の段
階で、子どもたちが朝から夕方までを過ごす学校で、近所の友達と一緒に学んで
おかなければならない知恵や知識があると思うのです。
  
教育課程を審議しておられる文科省の担当者は、もしかしたらわが子を塾に
通わせ、私立の学校に通わせているから真剣に考えていないのではないかと疑い
たくなります。公立の学校で学ぶ内容では入試に対応できないということもはっ
きりしています。塾や家庭教師に頼る親が増え、結果的に子どもたちは放課後も
勉強、遊びやクラブ活動は塾に差し支えのない範囲でするという生活に追い込ま
れます。読書を楽しむ時間などありません。この問題は年々低年齢化していて、
お稽古事や塾のために小学生が子ども文庫に来なくなったのは何年も前の話で、
今では親子で楽しむ絵本の講座でさえ、お稽古を始めた3歳児が来られなくなっ
ています。

  公教育に対する信頼が欠けてきていることが原因のひとつではないでしょ
うか。親が自分の子の利益を第一に考えるのは当然のことですが、そのことによ
って子どもたちの状況はますますひどくなっているように思います。『100人の
村』に提示されたようなGlobalな視点は難しくても、せめてLocalな視点から
わが子とわが子を取り巻く環境を考え、行動したいものです。
   子どもたちにもっと笑顔を! キャラバンのおばちゃんは今日も、おはなし
と本を持って子どもたちのところへ出掛けます。
              (筆者は熊取文庫連絡協議会会員)
                                                     目次へ
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書評 松下圭一著『市民・自治体・政治』
  ─肺腑をえぐる警世の書─         
       (公人の友社、1200円)                  
                    久保 孝雄
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■ 「荒野の剣士」
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  この本は松下さんが講演記録に補筆されたもので、100頁足らずのパンフレッ
トのような体裁の本である。そこで私も気軽に読みはじめたが、ただちに「これ
はただならぬ本だ」と気がついた。まさに「日本の没落」、「社会の解体」(本書
より)の淵に立つ今日の日本の深刻な危機症状と、そこから脱出するための戦略
課題についての、読むものをたじろがせるほどラジカル(根源的)な思考が、ボ
ルテージの高い文章でつづられている。まさに「肺腑をえぐる警世の書」という
べきである。
 
私の思想上、政治上の恩師である佐藤昇さん(評論家、故人)は、少壮学者だ
ったころの松下さんを評して「荒野の剣士」といったことがあった。そのころ、
私は佐藤さんを日本の左翼から教条的マルクス主義を退治しようと孤独な戦い
を続ける「荒野の剣士」と考えていたので、面白い批評だと思いながらも、当時
の私の関心は余所にあったのでそれほど実感はなかった。

 しかし、そのご彼の論文や著書をいくつか読むにつれて、松下さんが日本の社
会科学の全体系をひっくり返すほどの大作業に取り組んでいるすごい戦士であ
ることが分かった。憲法理論、政治理論、行政理論、社会理論、自治体理論、教
育・文化論、ひいては広く社会科学全体にふかく染みこみ体質化している国家統
治型の、官治・集権型の思考様式、思想体系、価値体系の根本的変革にむけて、
すなわち自治・分権型社会をめざす市民自治、市民政治への道を切り拓くため、
荒野に道をもとめてはげしく剣をふるってきたのだと感じるようになった。
 
私は1975年、神奈川県知事に初当選した長洲知事に請われて県庁に入り、知
事の「補佐官」として16年間働いたが、もともと役人ぎらいで、役所勤めなど
夢にも考えたことがなかった私が、45歳で地方公務員になり、必要に迫られて
読みあさった本のなかで、もっとも強烈なインパクトを受けたのが松下さんの本
だった気がしている。役所ぎらいの私がいきなり県庁の中枢に足を踏み入れ、す
べてが初体験で、戸惑うばかりの現実をみごとに解明してくれる松下理論に、目
を見はる思いをなんども体験した。

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■「国の出城」だった県庁に丹頂鶴が舞いおりた
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  私が県庁に入ったとき(1975年)、県の副知事3人のうち2人は自治省(と
もに東大法)、予算、人事をにぎる総務部は部長、次長とも自治省(京大法と東
大法)、土木部長は建設省(東大工)、衛生部長は厚生省(京大医)、労働部でも
身分は国家公務員の地方事務官が多数いた。長洲知事の前任知事も自治省出身
(東大法)だったし、選挙の対抗馬だった人も元厚生次官(東大法)だった。東
京に隣接する「大県神奈川」の要職はすべて東大法出身者を中心とする国家官僚
に占められていたのだ。地方課、財政課などの主要課の課長も国家官僚(自治省)
のポストだった。文字通り県庁は自治体とはほどとおく、まして地方政府ではな
く、国の出先機関としての「地方公共団体」に過ぎない状態であった。
 
憲法、地方自治法施行28年にもなるこの時期の県庁の実態に驚いた私は、つ
ぎの松下理論に完全に同意した。
  「戦後民主主義は、行政体質の革新を素通りして、新憲法啓蒙として展開され
たかぎり、「憲法」は変われど政治の官治的「体質」は変わらず、だったとみな
ければならない。もちろん「憲法」に象徴される戦後改革の過程で画期的制度改
革が実現した(「地方自治法」の制定など)・・・しかし、この戦後の制度改革は、
明治以来の官僚機構の体質転換と直接むすびつかなかったばかりか、・・・当時
の日本国民の市民的未成熟とあいまって、この制度改革自体が官僚主導によって
推進されたかぎり、この制度改革において行政の官治体質は生きつづけ・・・今
日にいたった」(『市民自治の憲法理論』 岩波新書、1975年)。
 
これに対して、知事の長洲さんは一橋大の経済、私は東京外大の中国科、とも
に法律を専攻したことはない。長洲さんのメリットは、マルクス経済学から近代
経済学まで経済学を専攻し、横浜国大では経済学のほか社会思想史も講義するな
ど幅広い教養があったこと、日本経済の分析で業績を上げ、マスコミでも活躍し
ていたことなど、知的ヘゲモニーを持っていたことである。10歳年下の私はと
いえば、中国研究所、労働問題研究所など、国際問題、社会問題の無名の研究者
として20数年働いたほか、東京のベッドタウンで人口2万人足らずの小さな町
の議員を1期4年経験した(県庁に入ってこの経験が大きく生きたのだが)こと
くらいが取り柄の一市民であった。
 
ただし、2人とも、戦後一貫して革新の側に身をおき、日本の構造改革(小泉
元首相のそれではなく、社会党・江田三郎さんらが唱えた日本型社会民主主義路
線)をめざし、政治改革の要として自治体改革を重視し、支持してきていた。こ
の2人で、旧帝大で国家統治学としての法学、行政学を叩きこまれてきたキャリ
アの国家官僚たちに、理論面、政策面で太刀打ちできるのか、はじめはいささか
気弱にならざるをえないところがあった(県庁職員も競争率20倍近い難関を突
破してきた、法学部出身者を中心とする「優秀」な人たちで、私などハナから「門
外漢」扱いだった)。まさに、国家官僚たちが支配する「国の出城」、「官吏の館」
としての「地方公共団体」に丹頂鶴が舞いおりたようなものだった。

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■「神奈川県政府」をめざして
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  かつて首長をとることが主眼だった革新自治体を「泥田に丹頂鶴」と評し、泥
田を美田に変える自治体改革を説いたのは松下さんだったが、1975年の神奈
川県政は、泥田ならぬ「国の出城」に丹頂鶴が舞いおりた状態でスタートしたの
だ。そして、国家官僚たちが支配する、明治の匂いが漂う県庁にいかにして市民
社会の風を通すか、いかにして市民社会の日光で虫干しするか、さらに「国の出
城」をいかにして市民自治の砦(とりで)としての「地方政府」に変えるか、分
権改革の拠点に変えるかが、長洲県政の最大課題になっていった。
 
県庁の南門に「KANAGAWA PREFECTURAL GOVERNMENNT」という英文の門標がでて
いるが、長洲さんはこれを目ざとく見つけ、「正面玄関の表札も神奈川県政府
にしたらどうか」といったことがある。長洲さんの想いが端的に示されている
エピソードだ。長洲さんは「地方公共団体」としての神奈川県を、自立性を
もった「神奈川県政府」に作りかえるために、国や他の都道府県に先駆け
て情報公開(1982年)、環境アセス、民際外交、文化行政、産業政策、科学
技術政策、サイエンスパークやインキュベータ等の地域イノベーションシステム
構築などを大胆に進めたほか、「地方の時代」を唱えて(1978年)分権改革の先頭
に立って挑戦しつづけたが、この長洲県政については、小著『知事と補佐官―長
洲神奈川県政の20年』(敬文堂、06年)に詳述したので省略する。
 
ただ、この過程で感じたことは、当然のことながら行財政の実務に関しては国
家官僚(や県庁上級職)たちに敵わないところがあった(これが長洲県政の弱点
―政策展開は華麗だったが、実務面の改革がおくれたーにつながった)が、県政
の課題発見、課題設定、政策立案といった点ではまったく引け目を感じることは
なかった。もともと私たちは国家幻想をもっておらず、オカミ崇拝もなく、国と
地方は対等であるべきだと考えていたので、キャリア官僚たちを特別視する気持
ちもなかったが、実際、一緒に仕事をしてみてタイシタコトワナイことがわかっ
た。まして、政策づくりは国家官僚の「秘技」で、自治体職員は黙ってその執行
に当たればよいといった、当時まだ国や自治体を支配していた国と地方の主従関
係の考え方をチャンチャラオカシイと思った。だから、松下さんは最近の官僚の
「劣化」を問題にされるが、私はもともとコノテイドの集団だと思っている。

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■「日本の没落」「社会の解体」の危機
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 松下さんは、2000年代の日本は「農村型社会から都市型社会に移行し、この
都市型社会にふさわしい政治・行政・文化の構築にむかうという、転型期にあ
り・・・この転型は(明治いらいの)国家主導の官治・集権社会から、市民主導
の自治・分権社会への移行でもあるという、日本の文明史的転換といってよい」
と規定したうえで、「この官治・集権から自治・分権への転型という都市型社会
の課題にとりくめないかぎり、日本は中進国状況のまま没落するという予感
を・・・もはや否定できません」(5頁)と断じている。
 
さらに、現在、日本の財政が国、自治体を含めて「実質破綻」しているのはな
ぜかと問い、「国、自治体の政治家の未熟、官僚、行政職員の劣化、ジャーナリ
スト、理論家の批判なきその日ぐらしがそこにあります。基本には、私たち市民
の批判力、拮抗力の低下も考えてよいでしょう。いいかえれば、情報公開すらも
始まったばかりという、私たち市民の政治をめぐる品性・力量の中進国型欠落が
あります・・・私たち日本の市民は退化しているのではないか」(7頁)と述べ、
市民課題をきびしく問うている。
 
そして、「今日の日本でおきている事態は、自治・分権型の<市民社会>の成
立にはほどとおく、むしろ犯罪、偽造、事故、汚職の連続さらに行政の劣化によ
る、社会自体の解体というべきでしょう」(83頁)、「市民個々人の自治能力を
訓練しえない、国家統治型の官治・集権「政治」の崩壊は、市民自体の市民性の
未熟となって「社会の解体」を生みだしていくことになるのです。多様な市民運
動がつくる多元、重層性を持つ市民自治型の自治、分権「政治」をつくるとき、
初めて「現代」としての、開かれた「市民社会」の誕生となります」、「2000年
代、日本は後・中進国型の「進歩と発展」という発想を、先進国型の「成熟と洗
練」へときりかえるべき転型期に入るはずでした・・・にもかかわらず、政治の
未熟、幼稚化、行政の劣化、崩壊というかたちで、中進国のまま停滞するのでは
ないかという、「没落と焦燥」を予感させる時点に日本は立つことになります」
(17頁)とふかい危機感を表明している。
 
日本の現状に対する松下さんの認識に私も基本的に同感であり、ふかい危機感
も共有できる。しかし、私の読み方が不十分なのかもしれないが、この状況から
の脱出の経路と課題についていまひとつ具体的に述べて欲しかった気がする。た
とえば、官僚の劣化を防ぐため公務員の人事改革を提言されているが(57頁)、
国、自治体の幹部職員への政治任命制の導入とか、政治家の未熟、幼稚化を防ぐ
ため、2世、3世の立候補を制限(韓国のように選挙区を変えさせるなど)する
とか、すぐに手をつけるべきことがいくつもある気がする。また、今日の政治・
外交の未熟、幼稚化、右傾化によって「社会の解体」と「アジアの孤児」への危
機を生んできた小泉・安部政治と、それを囃し立て、政治を情動化し、嫌中、嫌
韓、憎北朝鮮の世論を誘導してきたメディアの劣化、さらに、これに乗って自民
党に衆議院の絶対多数まで与えた「市民の退化」についてメスを入れてほしかっ
た。

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■ 農業社会―工業社会―脱工業社会
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 もうひとつ気になったのは、農業社会から工業社会へ、農村型社会から都市型
社会への歴史的転型期の課題が明快に解明されているのだが、神奈川県、ついで
川崎市という首都圏の中枢、工業先進地域で30年近く働いてきた私の体験から
いうと、日本社会は80年代に工業社会への移行の完了と脱工業社会への移行の
開始という2つの過程が交錯していたのではないか、そして、90年代以降は社
会の脱工業化が大きく進展してきているのではないかと思っている。日本社会は
先進工業地域を先頭に、工業社会から脱工業社会への歴史的な移行期に入ってお
り、新たな転型への課題が生じてきているのではないか。そこには工業社会、都
市型社会への転型の範疇には収まりきれない新たな課題が出てきていないか、と
いうことである。
 
  80年代後半から90年代にかけて、京浜工業地帯では(国の「工場追い出し制
度=工業制限3法」もあって)工業の急速な衰退がおこった。95年までの10
年間で、事業所数、工業出荷額で4〜5割の減少、従業員数では6割以上の減少
となった。空洞化による遊休地の拡大が進んで、京浜工業地帯の「消滅」さえ危
惧される状況が生まれた。
 
しかし、生き残りをかけた企業の徹底したリストラや、地域再生にむけた行政
の努力などが重ねられた結果、2003年ごろから再生への兆しが見えはじめてき
た。しかし、そこにはもはやかつての工業の姿はなかった。高機能、高付加価値
製品の生産に特化する研究開発型企業や、国内外に展開する事業所の頭脳センタ
ーとなる研究所などへのリニューアルや集積、情報、環境、バイオ、ナノテク関
連企業の集積などが進んだ結果、新たな活力が生まれているのだが、従業員中ブ
ルーカラーはごく少数になり、研究者、技術者など知識労働者が主体になってい
る。1万2000人が働く大手電機メーカーの某事業所は、70年代初頭まで8
5%がブルーカラーだったが、いまは87%を研究者・技術者が占めている。生
産されているのは「情報」で、「工業出荷額」はゼロである。こうした産業構造の
変化の結果、川崎市は就業人口に占める研究者・技術者の割合が全国トップクラ
スとなり、北部の住宅区では人口の3分の1が4年制大学卒以上という高い学
歴構成になっている。「労働者の街」といわれた川崎で、いまブルーカラー労働
者が消えつつある(他面、川崎はホームレスの多い街としても知られ、脱工業化
に対応できない人たちの問題が起きている)。こうした産業構造の変化にともな
う就業者構成、市民構成、地域構造、都市構造の大きな変貌は、川崎だけでなく
横浜、湘南、県央など神奈川県全域に広がっており、神奈川は「工業先進県」か
ら「知識経済先進県」に変貌をとげてきている。

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■ 新しい社会運動の誕生、革新自治体の消滅
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  そして、こうした脱工業化=知識経済、IT社会への移行につれて、80年代
以降、これらの地域を中心に40代から50代の女性たちを担い手とする新しい
社会運動がつぎつぎに誕生し、発展してきている。新しいタイプの生協運動の広
がり(班活動を基礎とする生活クラブ生協は組合員6万6000人、供給高21
0億円の実績を持つ)、これを基盤としたローカルパーティー(84年誕生の神
奈川ネットワーク運動、04年独立のネットワーク横浜など、県会、横浜、川崎
市会はじめ数十名の地方議員を持ち、市会では社民党をしのぐ勢力)の台頭、市
民事業、市民起業家の叢生(「神奈川ワーカーズ・コレクティブ」は223団体、
6200人のメンバーを擁し、福祉、介護、保育などのコミュニティービジネス
を展開し、事業高も60億円近くなっている)など注目すべき動きが広がってき
ている(これらの組織の会合に出るたびに、うまく定義できないが、新しい市民
的人間型の誕生を見る思いがして、感銘を受けている)。
 
他方、オールドエコノミーの衰退とともに労働組合運動が衰退したばかりでは
なく、社、共などの「革新勢力」も凋落してしまった。かつて県、横浜、川崎は
じめ藤沢、鎌倉などにも革新首長を実現し、「革新県神奈川」といわれた時代が
あったが、いま革新自治体はひとつもない。すべて保守系または右派系(松下政
経塾系など)の首長に取って代わられている。(東京都民はあの極右政治家を圧倒
的票数で3選している)。かつて県議会に30名を擁し、長洲与党第1党だった
社会党は、115議席中1議席(社民党)しかもっていない(4月の選挙で、自民が
減り、一部社会党系も合流し、連合が支持する民主党が伸びて37、共産党、ネ
ットはそれぞれ4と3から1へ退潮)。なぜこうなったのか、まだ誰も納得のい
く分析をしていない。そして、ニューエコノミーへの移行とともに台頭してきた
新しい社会運動も、政治的、政党的結集軸をまだ明確にはもっていない。

 脱工業化=経済と社会の知識化、情報化は、工業社会の一段階なのか、農業社
会、工業社会と並ぶもう一つの社会なのか、専門外の私には知識不足だが、経済
活動だけでなく、社会生活や文化の面にも、そして政治のあり方にも、工業社会
時代とは相貌を異にする変化が現れていることは否定できない。これがこれから
の「市民・自治体・政治」にどういうインパクトをもたらすのか、松下理論のい
っそうの深化を望みたい。
           (筆者は元神奈川県副知事・参加システム研究所代表)
                                                     目次へ
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≪連載≫
■臆子妄論 わからないこと、とりあえず二つ    西村 徹
■海外論潮・短評             初岡 昌一郎
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≪連載≫
臆子妄論 わからないこと、とりあえず二つ 西村 徹
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■1.フェルメールの絵『牛乳を注ぐ女』
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  11月18日、NHK「新日曜美術館」でフェルメールの「牛乳を注ぐ女」を取り
上げていた。12月17日まで国立新美術館で見ることの出来た絵だ。大橋巨泉が
「あれウソです」と言った。どこがウソかというと、牛乳を注ぐのに壺の底が水
平より上に持ち上がっていないからだという。「丸い壺だから、これじゃ注げない。
でしょう」。参考に映した当時の風俗画でヘラルド・ダウの「窓際の女の使用人」
が花瓶かなにかの水を窓の外にぶっちゃけている絵を指して、「これが正しい。底
がちゃんと上がっているでしょう」と言う。

 フェルメールの絵は描写の細密が特徴だ。カメラオブスキューラという一種の
ピンホールカメラを使って確かめるほど細心であった。窓ガラスの割れ目から差
し入る光が窓枠に当たる部分は明るい色に描き分けた。国立新美術館のキュレー
ターが言うには、ダウの絵では投げ出される流水は直線だが、フェルメールでは
注がれる牛乳の滴りは直線でなく螺旋になっている。それほどまでに観察は精密
だった。そのフェルメールが巨泉のいうような「ウソ」を描くだろうか。
  水道の栓を捻って勢いよく出せば流水は直線の束になる。栓を絞ってゆくと螺
旋の縺れ合いになる。桶から水をぶっちゃけると滝のように直線の水の束になっ
て落下する。だからダウの絵もフェルメールの絵も、どちらもそれぞれの場合に
応じて「正しい」。
 
とにかくフェルメールの「牛乳を注ぐ女」が勢いよく牛乳をぶっちゃけていな
くて、落ち着いた手際で注いでいることは絵で見ても常識で考えてもわかる。い
きなり壺の尻を持ち上げてドドッと牛乳をぶっちゃけたらどうなるか、ちょっと
考えたらわかるはずだ。壺は一般に丸いが、仮に四角な壺であっても注ぐときの
角度には関係しない。

 ミルク壷が巨泉の言うような角度になるときはないことはない。注ぎ終わる手
前ぐらいのときはそうなる。そのときだけで、最初から注ぎ終わる手前ぐらいま
で相当の間そんな角度になるわけがない。さらに巨泉の言うことが振るっていた。
「おそらくいまフェルメールが現れて『これウソじゃない』って言ったら『いや
あ、注ぎ終わったところだ』って言うかもしれない」。
  「ウソ」という語を都合3回は言ったと思う。「ウソ」とか「正しい」とか、口
から出まかせ、独断的な物言いはなかなかハッタリが効く。他の三人はお上品で
「それ、ちがうでしょう」とは言わないから巨泉は頓狂なことを得意になってま
くしたてていた。
 
わずか40x45センチのこの小さな絵が持っている圧倒的な量感は、労働する女
のその集中と、威厳が言いすぎならば存在の充実と生活の奥行きから来る。17世
紀オランダ市民社会の、飾り気のあるものはいっさい身につけていない下層の女
の堂々たる姿態が発する代赭色のかがやき。その重厚さは、あえて言うなら社会
主義リアリズムのものだといってもおかしくない。
  もちろん巨泉ほか四人が四人とも、そしてキュレーターを含めて誰もそんなこ
とは言わなかった。それほどこの絵は深く重い。風俗画であって風俗画を超えて
いる。風俗ではなく生活が根のところで捉えられている。バルビゾン派のジャン
=フランソワ・ミレーに繋がるものもある。おしだしのよい体躯、とりわけ両肩
と胸郭の張りには一抹ながら大物の天平仏にも通うものがある。顔は目を伏せて
いるせいか内を向いて沈んで見える。頼もしさ溢れる体格とうらはらに表情に漂
う微かな暗愁のコントラストが人びとを困惑させる。
 
「真珠の首飾りの女」とちがってミスコンやフィギュアスケートを見る目で見
るわけにはいかない。けっして俗受けする絵でないから巨泉の「好みじゃない」
のはよくわかる。それはそれでよい。それぞれの絵について「響きあうもの」が
あればある、なければないで、なにを言うのも随意であるが、壺の傾き加減など
と要らざる茶々を入れる余地はまったくないと私は思う。
  しかし、あんまりまことしやかに晴れ晴れと、しかも弾んだ大声で言うから私
も少々心配になってきた。どうしても巨泉の「ウソ」のほうがウソだと私には思
えるが、ウィキペディアでも高解像度の画像が見られるから念のためお確かめの
上ご意見をいただきたい。

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■2.ゲオルク・ショルティの死
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 こんどは音楽家の話、というより音楽評論家の話だ。ゲオルク・ショルティと
いう指揮者が死んだのは1997年9月5日だから、ちょうど10年前だ。85歳だっ
た。南フランスのホテルで朝ボーイが見に行ったらベッドのなかで死んでいた。
前夜には自伝を書き終えていた。けっこうな死に方だと思う。
  旅先で死んだのだから客死といえば客死だ。しかし2001年アイーダを振ってい
て突然心臓梗塞で昏倒した、まだ54歳だったジュゼッペ・シノーポリの場合とは
ちがう。ましてやオスカー・ワイルドがパリ左岸のリュー・デ・ボーザールの安
宿で世に疎んじられ、失意と貧窮のうちに46歳で息絶えたのとはわけがちがう。
ショルティの場合は大往生というべきであろう。
  ところが日本の高名かつ高齢の音楽評論家はいかにも悲惨な死にざまとしてそ
れを伝えた。まるで横死であるかのように書いた。いったいどんな死に方なら気
がすむのか、この評論家はなにを考えているのか訝しく思った。長患いのすえ家
族が介護にへとへとになった挙句に死ぬのが大往生だとでも思っているのであろ
うか。

 私事にわたるが私の父は80年8月スリランカへの旅の途中マニラ上空の機中で
死んだ。釈迦入滅と同じく80歳であった。もちろん不慮のことゆえ残った者の愛
別離苦は激しかった。とりわけ私の母の嘆きは見るも痛ましかった。さりながら
父の友人の多くは「天竺の空に逝けり」と羨んだ。
  杉浦明平も「疲れたから風呂に入って寝る」と言って翌朝死んでいたと聞く。
羨ましく思う。英語でも寿命が来て心臓が止まって死ぬのはeasy death というら
しい。(Graham Greene; TRAVELS WITH MY AUNT, Bodley Head 1969, pp 11
に ' I hope that her death was an easy one.' 'Oh yes, you know, at her time of
life--her heart just stopped. She died of old age.' とある。)

 齢八十を過ぎて立ち去るべき日も遠からぬ者にとって最大関心事の一つはなる
だけあっけなく死ぬことである。どれだけ近親者に介護の労苦を背負わせずに死
ぬかということである。死ぬとなったら急いで死ぬことである。介護疲れの果て
に起きる悲劇は世間に溢れている。「カネさえあれば何でも買える」末法の世だか
ら金持ちは考えなくてもすむ。聖路加などという豪勢な施設で死ぬのならば、い
くらゆっくり死んでも家族に累はおよばない。
  しかし一般庶民はそうはいかない。なるだけ手間ヒマのかからない、はた迷惑
にならない死に方がいい。だからショルティの自然死を羨ましく思う。それを「悲
惨」だなんて、この評論家はよほどカネがあると見える。一般庶民の気苦労は視
野に入らないらしい。それとも自分は死なないとでも思っているのであろうか。
                     (筆者は大阪・堺市在住)
                                                     目次へ
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≪連載≫
海外論潮短評(5)            初岡 昌一郎
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■テロにたいする戦争に勝利はあるか
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  『フォーリン・アフェアーズ』誌は、アメリカの最も代表的な国際問題専門誌
として知られており、そこに発表される論文はアメリカ政府の外交政策に大きな
影響力を行使してきたものが少なくない。同誌は、近刊号において大統領選に名
乗りをあげている各候補に相次いで外交政策を発表させている。2007年11/12月
号は、民主党ヒラリー・クリントンと共和党ジョン・マケインの両候補の政見に
冒頭の紙面を割いている。これでほとんどの有力候補の外交政策が発表されたこ
とになる。いずれの候補もイラク戦争と対テロの戦いを重点として、方法は異な
ってもその可及的速やかな解決を訴えている。
  その他に、この号には二つの注目すべき論文が掲載されている。その一つは「失
われつつあるロシア」(ディミトリー・シムズ)と「対テロ戦争」(フィリップ・
ゴードン)である。
 
前者は、プーチン政権下で自信を回復しつつあるロシアの外交政策がアメリカ
と衝突している最近の状況に過剰に反応することをいましめている。冷戦時代の
ようにロシアはアメリカを敵視しているのではなく、ナショナリズムに訴えて独
自の立場を回復しようとしているだけだとみて、ポスト冷戦時代にとられてきた
協調的融和的外交政策を継続し、経済と社会文化の分野を重視した実務的協力を
進めることを主張している。
  後者の対テロ戦争に関する論文は、今後の国際関係や日本での議論にとって注
目すべきものなので、それを以下にかいつまんで紹介する。

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■ 対テロ戦争の勝利とは
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  ブッシュ政権の対テロ戦争が、テロリストを根絶するのではなく、むしろもっ
と多くのテロリストを生み出しており、アメリカがその路線を抜本的に転換する
ことなしには、そのような状況が続くとますます多くの人々が主張するようにな
っている。
  この論争において完全に欠落しているのが、対テロ戦争における「勝利」とは
どのようなものかという視点である。戦争に勝つことの伝統的な理解ははっきり
しており、戦場で敵を打ち負かし、敵に政治的条件を飲ませることだ。だが、対
テロ戦争にそのような勝利があるのだろうか。また、このような戦争に終りがあ
るのだろうか。それを終わらせるのにどの位時間がかかり、それが終わったと認
識しうるのはどのような時か。
 
目的を知らずして戦争の勝利は語れない。この戦争は新しいもので、伝統的な
ものとは違い、外国の指導者が一定の条件を受容することで終わるものではない。
また対テロ戦争は、アメリカとその同盟国がすべてのテロリストと潜在的テロリ
ストを逮捕することで終わるのではなく、彼らが求めている尊厳、尊重および機
会につながる有望な道筋を彼ら自身が見つけることによって終わる。
  テロリストの脅威を軍事的に根絶させる目標を追及することは、テロの減少で
はなく、拡大につながることは間違いない。

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■ 過去の戦争の教訓
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  過去においてすべての戦争に終りがあったように、対テロ戦争もいつかは終わ
るだろう。1896年の英・ザンジバル戦争のように迅速に(約45分で)終わった
ものもあれば、百年戦争のように116年もかかったものもある。その終り方には、
第二次世界大戦のように相対的によく目的を達成したものもあれば、第一次大戦
のようにさらなる破局につながったものもある。
 
対テロ戦争にたいする最良の教訓は、冷戦の経験から引き出せる。もちろん現
在の課題は冷戦時と同一ではないものの、その戦いが、狂信的かつ暴力的なイデ
オロギーにたいする多面的な長期的戦いであったことに類似性がある。一方の側
が破産したイデオロギーを断念したことで冷戦が終わったように、テロを支えて
いるイデオロギーがその魅力を失う時にテロリズムにたいする戦争は終わる。
  冷戦は、アメリカがクレムリンを占領したことによってではなく、クレムリン
の住人が戦いを放棄したことによって終わった。冷戦はその参加者が夢想だにし
なかった道筋によって終りを迎えた。
 
冷戦の初期、その勝敗は見当もつかず、核戦争による終末さえ視野に入れられ
た。1960年代中頃には、冷戦を始めた指導者だけでなく、一般市民も冷戦の終結
の可能性を見失っていた。デタント(緊張緩和策)は、冷戦の解決ではなく、平
和共存という、より理性的冷戦状態を目指したものであった。
  デタントの批判者も冷戦の終結には驚かされた。1970年代と80年代に共産主
義を根絶させると公言していたレーガンでさえ、それは「長期的なプランと希望」
だと語っていた。今日、対テロ戦争を主導している人達もそのように思っている
のかもしれない。

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■ もう一つの将来像
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  イスラム原理主義を固定的にとらえ、それを過大に評価することは誤っている。
その政治的イデオロギーとしての長期的展望はそれほど魅力あるものではないし、
状況の変化によって魅力は失われるであろう。
  9・11事件の直後、アラブ社会の広汎な部分と代表的メディアは、犠牲者に同
情を表明し、テロ攻撃をイスラムの教義に反するものとして批判し、犯人の処罰
を求めた。ビンラディンのようなイスラム原理主義者はごく少数であり、ソ連共
産主義者がたどったと同じ道を究極的にはたどるであろう。その可能性は域内の
圧政、不平等、自由の欠落などを克服する展望の曙光がみえた時にはじめて生ず
る。
  そのような変化が近い将来に生まれるとはみえないし、この地域の専制的為政
者はそれを阻止する決意にゆるぎがない。しかし、これらの指導者にとっても権
力を維持するためには、変化することこそ唯一の方法だということが、ある時点
で明白となるだろう。
  エジプト、イラン、パキスタン、サウジアラビア、シリアなどの次世代指導者
達は、改革なしには、その政権が原理主義者の手中に落ちかねず、あるいは域内
のライバルに出し抜かれることをさとるであろう。これは、1980年代末にゴルバ
チョフが直面した状況であった。

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■正しい戦い方
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  対テロ戦争におけるそのような勝利には長い時間がかかるであろう。1947年に
始まった冷戦が終わるまでには、数十年にわたって多くの誤り、後退、悲劇、リス
クが繰り返されてきた。
  対テロ戦争の終結を想定する意義は、それが目前にあると示唆することではな
く、正しい目標を保持していくことにある。それによって、指導者達がこれらの
目標を達成しうる政策を追求することができる。
  現在の戦争が第三次大戦であるという幻想にとらわれるならば、戦争の伝統的
な勝利を目指し、軍事的紛争を継続することになる。
 
第二次大戦のようにアメリカが1600万人の軍隊を動員し、そのために徴兵制
を復活させ、GDPの40%を支出し、いくつかの重要な諸国を侵略し、占領する
用意があったとしても、それはより多くのテロリストを生み、テロリズムを持続
させる憎悪を強くかきたてることになるだけであろう。イラクにおけるアメリカ
の経験は、むきだしの軍事力行使を通じてテロにたいする戦いに勝利しようとす
ることにこそ、大きな危険が内包されていることを示している。
  他方、対テロ戦争の勝利は、テロリストが信じているイデオロギーが支持を失
い、その潜在的支持者達が別の選択肢をとることによって得られると認めるなら
ば、アメリカは非常に異なるコースをとらなければならなくなる。
  テロの脅威に過剰に対応するのではなく、みずからの価値とその社会にたいす
る確信、それを保持する決意を他の形で示すことができる。
  近年において大きく損なわれたアメリカの道義的威信とその社会の魅力を再確
立するために、確固たる行動をとることだ。
  中東における教育と政治経済改革を促進する努力を拡大することは、長期的に
みて、テロリストの脅威を生んでいる自暴自棄と屈辱をこの地域が克服するのに
役立つ。

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■ コメント
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  この論文の趣旨は極めて明確である。対テロ戦争の必要性は認めるものの、現
在の軍事的路線による短期的解決法が単に失敗しているだけでなく、むしろ事態
を悪化させ、テロリズムを逆に拡大していることを正面から批判している。そし
て、非軍事的な長期的な方法により、テロを生み出す基礎を変革するアプローチ
こそが必要だと説いている。社会経済的な平和的路線こそが問題を解決しうる。
 
筆者のフィリップ・ゴードンは、かつて民主党政権時代に国家安全保障委員会
欧州局長をつとめた安全保障専門家である。この論文は来年末に誕生を予想され
る次期民主党政権に大きな期待をかけている。イラク撤兵後の対テロ戦略だけで
はなく、アフガニスタンの戦争にもこのアプローチによる転換が求められていく
ことになろう。民主党がこのような政策に踏み切るのは大統領選後の課題となろ
うが、軍事的に行き詰まった現状を打破するのに有効な代替的戦略として採用さ
れる可能性が高い。日本での対テロ特措法論議や今後の対テロ国際協調は、この
ような戦略転換を助ける方向で行われるべきだ。
 
日本政府などのいうところの国際協調とは対米協調にほかならず、国際貢献と
はアメリカの軍事力行使に協力することの別称にすぎない。またその対米協調も、
国民からの支持を失っているブッシュ政権の対テロ政策に協調しようとするもの
にすぎない。
  末尾に付言しておくと、筆者の所属するブルッキングス研究所は、第一次大戦
中の1916年に設立された歴史のあるシンクタンクである。独立した機関で、リベ
ラルな中立的立場をとっているが、これまで民主党政権に多くの人材を供給して
きた。
         (筆者はソーシアル・アジア研究会代表)
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■【北から南から】
  1、北の大地から            南 忠男
  2、深センから             佐藤美和子
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■【北から南から】
  1、北の大地から            南 忠男
     1941年12月8日〜私の記憶〜
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  1941年12月8日は日本が真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入した日で、
私が小学校3年生のときであるが、その日のことについて特別の印象は残ってい
ない。
  農家である我が家にはラジオもなく部落の外とは閉ざされた状況で、特段のニ
ュースも入らない。普通に登校し、学友と悪フザケをしながら、普通に下校した。
勿論朝礼で校長先生から特別の講話があったはずだが内容まで記憶していない。

 今年の冬は灯油・ガソリンが高騰し、北海道の生活はますます厳しくなってき
た。「湯たんぽ」「綿入れ」の復活など、あの手・この手の対策が試みられてい
るが焼け石に水で目に見えた効果は生まれない。
  家に帰ると、薪ストーブが赤く燃え、架けてあるヤカンのお湯は湯気をたて、
茹でたカボチャがストーブの上で焼かれている。遊びつかれた空腹のお腹には最
高のオヤツであった。開戦当時のこの生活がむしろゆかしく感じられる今日この
頃である。

 北海道新聞の今日(12月8日)の朝刊のコラム(卓上四季)は、徳川夢声の
日記で「身体がキューッとなる・・・昨日までの神戸と別物のような感じだ。
温室のシクラメンや西洋館まで違って見える」と書いている。太宰治は短編「十
二月八日」で「開戦の放送を聞き・・・私の人間は変わってしまった。強い光線
を受けて、からだが透明になる・・・日本もけさから、ちがう日本になったのだ」
と書いていると紹介している。当時の私いかに鈍感であったのか?
  勿論小学校3年生(8歳)の悪ガキの感性では比較にならないだろうが。

 渡辺淳一の著書「鈍感力」を借りれば、日本国民は鈍感力があったからあの戦
争にも耐ええたし、米国のイラク戦争に協力する現状になんの疑問ももたないこ
とになるのか?作者の発想・思想は云うにおよばず、「鈍感力」と云う本がベス
トセラーになること事態はもっと恐ろしいことだ。
  渡辺淳一は北海道生まれ、しかも上砂川と聞く。上砂川は夕張と並ぶ北海道で
も有数の産炭地である。北海道の名誉のためにも彼を糾弾したい。
  地下で石炭を掘る炭鉱マンは死と隣るあわせで仕事をしているようなもので
ある。安全性は限りなくゼロに近い。これも鈍感力と云うのだろうか?
 
  私の父親は農家の跡継ぎであるにもかかわらず、農業を嫌い、昭和恐慌の中で、
学歴もない父には仕事を探すのも容易ではなかった。数年間、網走刑務所旭川支
所に看守として勤務したが、刑務所の看守ではウダツが上がらず、日本の侵略に
より建国された旧満州に渡った。関東州巡査として旅順〜大連〜瀋陽(当時は奉
天と云われた)〜長春(当時の新京)まで北上し、私は満6歳の就学期をこの長
春で迎えたが、父がソ連との国境にある黒河に転勤となった。黒河は日本人学校
もない寒村のため、私は父の実家の祖父母に預けられた。ここで、41年12月8
日を迎えたのである。
 
  42年10月父がハルピンに転勤となり、私もハルピンの日本人学校に転校した。
転校後が大変であった。田舎の小学校と都会の小学校では学力格差は大きかった。
旧満州の日本人社会自体が格差社会であった。「満州にでも行かなければ仕事に
ありつけなかった」、「満州でしか希望をもてなかった」、私の父のような「でも・
しか族」から、一攫千金に成功した、いわゆる「勝ち組」、各般・各分野のエリ
ート層、軍人等々。45年に私の進学した中学校では同じクラスに「宮川ハルピ
ン総領事」「秋草ハルピン特務機関長」(両氏ともソ連に抑留
中に獄死)の息子がいた。
 
  私の父は自称、軍国主義者であった。軍人勅諭を金科玉条のようにしていた。
それが証拠に、子どもの名前は、忠・礼・武・信の軍人勅諭の五カ条より引用し
ている。私が長男で忠男、中二人が女で、礼子とむつ子、末っ子が信義。四人目
が生まれなかったことは父にとって大変残念なことであったろう。父は兵役義務
で2年間の軍隊教育を受けている。除隊の延期と職業軍人への道を志願したので
あるが、親の反対で、その道もふさがれたのである。 
  父は、自分では軍国主義者だと思っていただろうが、「主義者」といわれるほ
どの思想もなかっただろう。「日本人に生まれた以上、必ず軍隊にとられる。な
らば最初から軍人を志願し、エリート軍人を目指すべし」と、子どもが将来、将
軍さまになることを期待していた。(カエルの子は蛙であることを忘れて)。これ
が父が2年間の軍隊経験から学んだ教訓なのであろう。所詮平凡な功利主義にす
ぎないと思われるが。
  東大法学部を卒業して官僚になり、事務方トップの事務次官をめざし(守屋は
東大卒ではないが)、このレースに負けたものが天下り競争で退職金を稼ぎまく
る官僚機構の構造〜父には軍隊も似たり寄ったりに見えたのではないだろうか。
  当時の農業労働がいかに過酷であったか、あるいは、軍隊で鍛えられた「鈍感
力」故のことか?
 
  <「父親が出稼ぎから帰るまでストーブが焚けない。風呂は3日に1回」。>
<「玄関に新聞がたまっている」という住民の連絡で急行すると、独居の男性(78
歳)が居間でストーブもつけずに寝込み、毛布をかぶって「寒い、寒い」とふる
えていた〜「夕張・超高齢化の現実」9日の「北海道新聞」朝刊>。
  永田町に住む野党の先生たちよ、もう少ししっかりしてくれ、この
ままでは第2の小泉・安倍が出現するぞ。
                         (筆者は旭川市に在住) 
                                                     目次へ 
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■【北から南から】
 2、深センから             佐藤美和子
   『養犬登録への、ながーい道のり』
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  子犬を飼いだしてから、2ヶ月が経ちました。
ものすごい勢いで育つあまり、まだ4ヵ月半の子犬だと言うのに、ナゼだかすで
に成犬サイズになっています(小型犬は約1年で成犬)。子犬にとって今が一番の
成長期なので、あと2ヶ月はまだまだ育ち続けると思われ・・・・・「もしやオマ
エさん、ミニチュア・シュナウザーではなくて、中型犬のスタンダード・シュナ
ウザーじゃないのかい?!」と、本犬にしょっちゅう問いかけてしまいます。あ
ーあ、犬用ケージも一回り大きなものに買い換えなきゃです〜。

 そんな並みより少々でっかい子犬との生活にはすっかり慣れましたが、ペット
を飼うための手続き方面ではこの2ヶ月間、本ッ当〜に大変でした。中国ではペ
ットを可愛がる動物好きな人が増えて、ペットとしての犬に対する知識も広まり
つつある、なーんて事を以前の記事に書きましたが、まだまだ中国をそういう風
に判断するのはちょっと早計だったかも知れません・・・・・。

 子犬を貰い受けた日は、オルタ46号に書いたように、元・飼い主さんは少々私
生活問題でテンパっていたためか(笑)、子犬の誕生日やこれまでに受けさせた予
防接種日などをハッキリ覚えていないということだったので、後日、連絡をもら
う約束を取り付けました。誕生日はともかく、ウチに来るまでにどんな種類の予
防接種をいつ受けさせたのかが分からないと、こちらも困ってしまいます。しつ
こく携帯メールで催促し続け、やっと注射は2種混合と6種混合の2回が済んで
いる、という連絡がもらえました。後から聞いた話では、フラれた香港人彼女に
復縁を迫るために香港での就職を目論んでいた元の飼い主さん、結局どんな強力
なコネがあっても香港では高卒者には労働ビザが下りない事が判明し、道を絶た
れた彼は意気消沈の余り、しばらく携帯の電源も切って、家に引きこもっていた
のだそうで・・・・・全く、ヤレヤレな話です。
 
2回が済んでいると言う事は、あと1回の数種混合予防接種プラス、狂犬病の予
防注射を受けさせれば、『養犬登記(飼い犬登録)』することができ、やっと外の
散歩に連れ出せるようになります。早速3度目の予防接種に獣医さんへ連れて行
ったところ・・・・・元飼い主の言う「2回分の予防接種済み」という話は本当か
どうか分からないから、念のために血液を採取して抗体検査をした方がいいと言
われ、日を置いてそれも受けさせました。結果は、抗体は全然できていないので、
たぶん予防接種はこれまで受けていないだろうとのこと・・・・・そんなぁ〜!

 実は、何度も催促して彼がやっと教えてくれた接種日をカレンダーで確認する
と、2回目の接種日はなんと我が家に子犬を引き渡した日と同日でした。1回目の
接種日は覚えていないというのならわかりますが、普通どんなにテンパっていて
も、当日に2回目の接種に連れて行ったことすら忘れちゃうだなんて、おかしな
話ですよねぇ。しかも本当に接種済みなら、獣医師発行による接種済み証明冊子
があるはず。それもこちらに引き渡してくれない等いくつか不審な点があったの
で、もし一度も受けさせていないのなら、私たちでちゃんとやるから本当のこと
を言ってくれ、絶対に怒ったり文句言ったりしないから!と、何度も彼に念を押
しているんですよね〜。それなのに、一旦ついた嘘は撤回しにくかったのか?彼
は「ちゃんとやってあるよ、しかもワクチンは質の悪い国産じゃなくて、輸入物
の高いヤツを使ったんだから!」などと、嘘を重ねていた訳で・・・・・彼のツ
マラナイ嘘のお陰で、我々は無用な血液検査費用に100元支払い、子犬も抗体検
査のために一本余分に痛い注射を打たれ、かわいそうな事をしました。

この他にも、中国の予防接種事情や飼い犬登録についてよく知らなかった我々、
犬を散歩させている人や獣医さん、ペットショップなどの色んなところで質問し
てきました。ところが・・・・・まぁ中国ではよくあることなのですが、なぜか
10人に尋ねたら10通りの答えが返ってくるのですよ!全員が故意に嘘をついた
のではないと思いますがねぇ(あ、獣医師は我々から費用を騙し取るために、故
意に嘘をついていました)。登録についても、えっ登録?必要ないよ〜、どうせ散
歩だってマンション内の庭で事足りるのだから、外に連れて行かなければ公安に
見つかることもないもの、みんなそんなのやってないよ!という人がいれば、飼
い犬登録は生後1年くらいですればいいよ、子犬はすぐ死んじゃうから、登録後
に死なれたら費用が勿体無いしね〜という人(これはこれでスゴイ考え方です)、
尋ねれば尋ねるほど違う情報が増えるばかりで、本当に困りました。

 さて、そんな紆余曲折を経て一般予防接種のやり直しが済んだら、次は狂犬病
の予防接種、そして『養犬登記(飼い犬登録)』です。
  数軒の獣医さんやペットショップで登録方法について確認したところ、検疫所
で飼い犬登録する時に狂犬病注射は打ってもらえるが、そこで使われるのは半年
しか効果が持続しない国産ワクチンだし、毎日たくさんの犬が登録に訪れるので
順番待ちで数時間かかる、ぜひウチで1年有効の質の良い輸入物を打っていきな
さいなどと言いながら、事前に費用の告知もせず、しかも飼い主がOKを出す前
に打とうとする勝手な獣医師がいたり、獣医師でもないのに、うちでもワクチン
あるから打てるわよ〜などというペットショップ店員がいたり、ビックリするこ
とがたくさんありました。国産ワクチンは深セン市の条例でタダと決まっている
が輸入モノは有償だという獣医や、国産でも料金を取ろうとする獣医がいたり、
あぁもう何がなんだか分かりません!ペットの飼育ですら普及し始めたばかりの
中国ですから、ある程度は仕方ないものの、まだきちんとした法規制のない獣医
業ではやりたい放題のようです・・・・・。

 中国都市部では、飼い犬登録をしていない=犬鑑札がない=ことが公安局に見
つかれば、かなりの額の罰金もしくは犬を没収ののち保健所行き、となってしま
います。特に都市部ではむやみやたらな犬の飼育を制限するため、飼い犬登録の
年間費用が数千元と、かなり高く設定されているのです(千元=約15,400円、登
録費は都市によって違う)。なにしろ〔犬の平均寿命10〜15年x年間数千元〕も
かかるのですから、かなりの負担ですよね。登録費用が高すぎて勿体無いからと
登録せず、たとえ無登録がばれても罰金を払うより、ペットショップで新しい子
犬に買い替える方が安上がりだと、捕まった飼い犬を見殺しにしてしまう心無い
飼い主もいます。
幸い私の住む深セン市は、「登録費を安くすればちゃんと登録する人が増えるはず、
そうすれば登録とセットになっている狂犬病の予防接種率も上がって狂犬病が減
る」という考えで、登録費用は年間300元(約4,600円、日本の登録費用とほぼ
同額)と、中国他都市に比べてずいぶん格安になっています。

 いざ検疫所の場所を調べて連れて行ってみれば、獣医師に言われたような、た
くさんの登録待ちの犬なんて一匹も見当たりませんでした。よほど訪れる人がな
くてヒマなのか、係員たちはパソコンゲームで遊んだり、ノンビリお茶を飲みな
がらおしゃべりに盛り上がっていたりするんですけど?狂犬病の予防接種も、ワ
クチンは国産か輸入物かは自由に選べてどちらも無料、検疫所のその場ですぐに
打ってもらえたんですが?結局、これまで何人もの獣医師に尋ねた情報、見事な
までにすべて嘘っぱち情報でした・・・・・。

 その日は検疫所で狂犬病の予防注射を打ってもらい、飼い犬登録の申請をし、
犬の固体識別ができるマイクロチップを首の皮下に注射針で埋め込むところまで
終了しました。私はてっきりその場で『深セン市養犬登記手冊(飼い犬登録証明
手帳)』と犬鑑札をもらえるのかと思っていましたが、発行には申請から1ヶ月も
かかるのだそうです。えー、なんでそんな時間がかかるの?と尋ねると、それら
を発行する部門はここ検疫所ではないから、私たちには管理できないのよ、だそ
うで・・・・・そういやあちこちの獣医師で騙されかけた事を話すと、町の開業
獣医についても検疫所の管轄ではないから、私たちにはどうしようもないわ!と
のことでした。
こんなに登録費用が安い深センですら登録しない人が意外と居たのは、費用の問
題ではなく、まだこういう手続きがきっちりマニュアル化されておらず情報が錯
綜し、登録までの道のりが大変だからかも知れません。登録方法や規則について
も、市民が気軽に調べて分かるようには開示されていないし、そういえば辺鄙な
ところにある検疫所の場所も、調べるのに一苦労しましたっけ。
  検疫所の壁に貼られたポスターに、深センではマスチフやボルゾイ、土佐犬に
秋田犬など27種の大型犬の飼育が禁止されていると書いてあったのですが、あれ
れ、確か深セン在住の知人が、禁止犬種であるはずのジャーマンシェパードを飼
っていたような?どこぞのペットショップでも、ボルゾイの子犬を見かけたよう
な気がするぞ〜?

検疫所の壁に条例ポスター貼っておくだけで、一般市民が目にするところで告知
していなければ意味ないよな〜と思いましたが、これもやっぱりお役所仕事とい
うことでしょうか。都市によっては、種類に関わらず飼育許可されているのは小
型犬のみで、中〜大型犬は一切禁止、というところもあるようです(ウチみたい
な、規格サイズ外に発育の良い小型犬だとどうなるのかしら?)。そんなことは知
らずに連れてきちゃったよ・・・・・という事のない様に、中国へペット連れで
赴任や移住予定の方が居られましたら、どうぞ現地の条例を事前によーく調べて
くださいね。それらの手続きに、人間の滞在ビザ手続きなどよりずーっと煩雑で
イライラさせられるだろう事は、私が保証いたします、なーんて(笑)。
                   (筆者は中国・深セン在住日本語教師)
                                                     目次へ
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【オルタのこだま】                     
      篠原令氏の中国レポート   今井 正敏
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 私は、日本と中国の国交が回復するかなり前の1950年代の半ば頃から、日
本青年団協議会(日青協)が推進するようになった日中の国交回復・平和友好増
進の運動に深くかかわってきたので、中国関係の動きに対しては、特に強い関心
を寄せてきた。先月の「オルタ」47号に掲載された篠原令氏の「中国共産党
第17回党大会の内情と失われた紅衛兵世代」の論述は、加藤編集長が、「編
集後記」で「日本の大手メディア特派員の送ってくる記事とは一味違う的確なコ
メントを頂いた」と述べておられるように、新聞や雑誌、テレビ等ではうかが
えない内容が盛り込まれていて、得るところが大きかった。

 まず、内外から大きな注目を浴びていた新しい指導部、特にその根幹となる政
治局常務委員会のメンバー選出の問題。
  篠原氏は、次のように指摘している。
  「今回の人事サプライズは曽慶紅の辞任でも、二人の若手ホープ(筆者注:習
近平と李克強)の抜擢でもなく、賈慶林(筆者注:中国人民政治協商会議主席。
常務委員会の序列は四番目)の留任である。この凡庸な人物が、北京市の前書記
陳希同の失脚後に北京市の責任者となったのは、江沢民からの強い後押しがあっ
たからで、紛れもなく江沢民派の人物である。(中略)、胡錦涛がまだ江派を完全
に排除できていないということを満天下にさらしてしまった」。
  篠原氏の鋭い筆鋒は続く。
  「江派の人間が二人も留任したことに対して国内外の多くの論評は、政治改革
がまだ遅々として進んでいないこと、そしてこのような人事が密室の中で、長老
たちの勢力争いの結果として決められていることに対して不満の意を表してい
る。しかし、次の党大会までの五年間には必ず変化が起きると観ている人々も多
い」。
  さて、五年後に次の第十八回党大会が開かれた時には、どのような変化が起き
るか。現在82歳の私は、あの世でこの変化を知るようになるかも知れないのだ
が・・・。

 上記に続くのが、常務委員会のメンバーが披露された公式写真の前回と今回の
場合の比較の記述。
  「前回は、一列に並んだメンバーの中で、真ん中に立っていたのは、序列で五
番目の曽慶光。俺がトップだと言わんばかりに、真ん中でにこにこしていた。 今
回は序列トップの胡錦涛が真ん中に立ち、五年たって胡錦涛がやっと本来立つべ
きところに立つことができたわけである。少なくともそれだけの権力基盤を造り
あげることには成功したようである」。
  一枚の写真の比較から、上記のような権力構造の変化を読み取り、これを記事
にするのは、北京駐在の大手メディアの特派員ではなかなか書けないと思われる。
  続いて篠原氏は、今回の人事で最も大きな注目を集めた「若手の二人のホープ」
−李克強(52歳)と習近平(54歳)の経歴と将来性について考察をすす
める。
  李克強は、胡錦涛と同じ共青団の出身者。習近平は、父親が習仲勲元首相で、
いわゆる「太子党」と呼ばれているなかの一人。私ごとになるが、私が日青協訪
中代表団に加わって訪中したとき、李克強が全華全国青年連合会(中青連)のト
ップとして活躍していた当時、お目にかかって言葉を交わしたことがあり、また、
習仲勲元首相とも、日青協代表団を接見した当事者として人民大会堂で面談した
ことがあるので、今度の若手の二人が常務委員に就任したことについては、特に
強い関心を寄せていた。

 篠原氏は、「五年後に確実に再任されるのは習近平と李克強の二人しかいない」
と述べておられ、二人の能力をよく知っている胡錦涛は、「李克強には13億の
人間をまとめる能力はないと判断しているようだ」。一方の習近平については、
「党の中央書記処の書記に就任して党務をみることになった。これは胡錦涛の信
頼が厚いことを表している。次期総書記への最短距離にいると言ってもよい」と
記している。
  五年後、この二人がどのような位置で活動しているか、はたまた、別の新しい
リーダーが登場してくるか、波乱の多い中国共産党の動きは、これからもずっと
内外から大きな注目を浴びると思われる。
  篠原氏は、「真に13億の指導者としてふさわしい人間をこの五年間に見つけ
ることができるのかどうかが胡錦涛の双肩にかかっている」と胡錦涛の力量に熱
いまなざしを向けている。

 篠原氏は、後半の部分で、「私的な感傷になるかもしれないが、今回の政治局
常務委員のリストで重要な事実を露呈している」と指摘。それは、「最も肝腎な
政治局常務委員の中に紅衛兵世代が一人もいないということ、しかもほぼ十年に
わたって人材の空白ができている点に私は注目している」と記して、各メディア
がどこも取り上げていない「紅衛兵」世代の問題を論じている。
  「私はかつて1970年の夏、日本の全共闘世代の一員として中国の紅衛兵た
ちと大交流をしたことがある。あのときの紅衛兵たちは今なにをしているのだろ
うか。64歳の胡錦涛が54歳の習近平に後事を託そうとしているのを見て、黙
っているのだろうか?その答えは私たち日本の団塊世代にもそのまま跳ねかえ
ってくるのだが」と述べておられる。

 この紅衛兵世代の空白期間の問題は、これからのち、中国問題に深い関心を寄
せている人たちの間でも論議されるだろうが、この世代空白の問題で、私が注目
しているのは、朝日新聞の北京支局長を勤め、朝日新聞外報部の中国関係の部面
で第一人者と目されている現編集委員の加藤千洋氏が、朝日新聞に書いた次のよ
うな記事である。
  「米エール大などで研究した胡鞍鋼氏は『改革開放当時の留学者は年間860
人。06年には13・4万人になった。次の世代の指導部は一層教育水準の高い
人材が占める。彼らは党のイノベーションを促がすだろう』と語る。(中略)、共
産党は社会的エリート層の吸収に積極的だ。20年ごろの指導層には、こうした
人材が増えるのは確実だ。若手幹部の中には、89年の天安門事件世代も入るだ
ろう。
  その意味で最近、ロンドン大学留学の楊潔虎(ヤンチエチー)氏が外相に、ド
イツ留学後に独アウディ社で技術者を10年務めた万鋼氏が科学技術相に、パリ
第7大学に学んだ陳竺氏が衛生相に抜擢されたことは注目される。しかも万、陳
氏は非共産党員だ」。
  この加藤氏が書かれた高学歴留学組の台頭と「紅衛兵」世代がどのように結び
つくか、篠原氏に論じていただくことを熱望する。
                   (元日本青年団協議会本部役員)
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俳句                 富田 昌宏
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定年のなき野良人や石蕗の花

喜寿の坂越えて安けし石蕗日和

築百年の農家住まいや文化の日

武騎士の三千勝や文化の日

枯蟷螂ドンキホーテになりきりぬ

枯蟷螂明日を夢見て眼コ閉づ

湯豆腐の湯気を囲みてズーズー弁

ベル押せばくさめの返事ありにけり

身に纏う虚飾は空し寒昴

日本列島節々軋む師走かな

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【編集後記】 
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オルタ48号編集後記
◎ 2007年は参議院の与野党逆転・自民党大敗が戦後政治史に1ページを刻ん
だ。さらに暮れになると、報道各社が一斉に福田内閣の支持率急落を報じ、
なか には危険水域といわれる30%台になるものまで現れた。国民として
は、競争原理至上主義で社会を歪め、靖国・改憲で喧騒を極めたタカ派の小
泉・安倍内閣が無残に破綻し、思慮深げな福田総理に替わって、なにやら
「ホット」したのは確かだった。しかし、それは3月ともたないことになる。
  
  政府与党の最重要課題という給油継続の支持は広がらず、防衛スキャン
ダル・年金公約違反・肝炎問題処理と難問が山積しながら総理の声は一向に
聞こえない。国民の不満が嵩じる筈である。世論調査では国民の多数が来春
までの解散を望んでいる。福田総理が、これを無視し解散権を握って逃げ回
わっても果たして国民が認めるだろうか。まさに2008年は冒頭から波乱含み
の年になりそうである。

◎ 荒れ模様の新年に臨む「オルタ」としては、まず羽原清雅帝京大学
教授に『2007年政治動向の総決算』として、小泉・安倍政権から福田内閣の
実現に至る本年の国内政治を総括し、08年への課題を提起して頂いた。元朝
日新聞政治部長としての確かな観察力は事態の本質を読者にお伝えしてい
る。
次いで船橋成幸氏には『揺れる政局のキーパーソン』として民主党小沢代表
が[大連立」協議に応じた不可解な政治行動を鋭く批判し、民主党の政権獲
得は、あくまでも選挙という「王道」によるべきことを説いていただいた。
船橋氏は旧労農党から日本社会党に合流し、非議員の中央執行委員として活
躍された生粋の政党人であるが、飛鳥田一雄横浜市長の側近として革新市政
を内側から支えた行政経験も持たれ、著書には『戦後半世紀の政治過程』
(明石書店)がある。

◎ この号では、定期・連載のもの以外に七里敬子さんの『世界が100人の村
だったら』のほか、久々にアジアジャーナリストの松田健氏に日印関係につ
いて『まだ小さい日印関係』を、力石定一氏には『CO2削減を地元環境の
なかで求めよう』のご寄稿をいただいた。松田氏は2回目、力石氏には何回
もいただいているので改めてのご紹介はしない。  
七里敬子さんは、西村徹先生のご紹介で「オルタ」の読者になり、文中に
もあるように大阪府熊取町で熊取文庫連絡協議会員として子供たちのために
ボランタリー活動をつづけておられる。『世界が100人の村だったら』はあ
まりにもよく知られた本であるが、原作は「1000人」であったものが「100
人」になったことで環境・教育・医療などの重要な問題が除外されてしまう
という指摘は七里さんという地道な実践家からの発言だけに重い。

◎ かつて長洲一二神奈川県知事は、戦後の日本で始めて『地方の時代』を提
唱し、多くの制約の中で文字通り「革新自治体」を創ろうと奮闘し、実績を
残された。その長洲知事の補佐官として知事を支え続けたのが副知事の久保
孝雄氏である。しかも久保氏は副知事退任後も長く県の関連組織サイエンス
パーク社長として、ベンチャー企業の育成に取り組み、地方行政の改革にも
関与された分権・技術革新時代の先駆者である。その久保氏が書かれた松下
圭一氏の『市民・自治体・政治』の書評は長年にわたる自治体活動の体験か
ら滲み出たものだけに、読者は単なる「書評」の域に止まらないものを感ず
る筈である。なお、松下氏は若くして「大衆社会論」を発表された高名な学
者であるが、常に理論の革新に取り組まれ、政治・自治体理論学会の泰斗重
鎮としても、新しい問題提起をつづけておられる。この本はその労作の一つ
である。分権の確立が叫ばれる今の時代にこそ、読まれるべき基礎文献とし
て一読をお奨めしたい。

◎ 時節柄、連載のなかで特に注目したいのは初岡昌一郎氏が紹介されてい
る『フォーリン・アフェアーズ』誌のフィリップ・ゴードン氏による『対テ
ロ戦争』の考察である。初岡氏もコメントされているように「テロとの戦い
に勝つ」とはどういうことなのかが明快に論じられている。 この論文は
「テロとの戦い」を「給油の継続」に矮小化している政府与党の議員諸公も
是非読んで頭を冷やして貰いたいと思う。

◎ 齢が加わるほど月日の移ろいは早く、その上、毎月20日の「オルタ」締め
切りに追われていると、まさに1年があっという間に過ぎてしまう。生来の
粗忽者が慣れない編集作業に取り組むので、段取りの間違い、思い込みなど
数多く、羽原・久保・西村・篠原(孝)氏など執筆者の方々にはご迷惑をお
掛けしてしまった。謹んでお詫びするとともに今年1年「オルタ」のために
ボランタリーで貴重なお時間を割いていただいた新旧執筆者及び、ご笑覧下
さった読者各位にあらためて感謝申し上げたい。 

◎「オルタ」の継続発信にはそれなりの苦労がないわけではないが、それにま
さる喜びもある。号を追って執筆者・読者のネットワークが広がり、反響が
あるのも嬉しいが、何といっても、今年は「オルタ」執筆者にかかわる「慶
事」が多かった。
    まず、参議院の与野党逆転は国民的祝事だが「オルタ」執筆者大河原雅
子さんの参議院東京地方区トップ当選、江田五月氏の参議院議長就任は市民
メデイア「オルタ」として読者とともに心からお祝い申し上げたい。河上民
雄先生は『勝者と敗者の近現代史』(鎌倉書房)を篠原孝議員は『花の都パ
リ「外交赤書」』(講談社)をそれぞれ上梓され、富田昌宏氏が俳句で栃木
県知事賞を受賞されたのも嬉しい。ほかに出版物としては『政治家の人間
力』(責任編集北岡和義・明石書店)が江田三郎没後30年を記念して刊行さ
れ、「オルタ」の関係者としては江田五月・榎彰・船橋成幸・仲井富・初岡
昌一郎・加藤宣幸の6名が執筆に加わった。
   「オルタ」のイベントとして2月に段躍中氏を招いた『オルタ新春の集い』
や、『海峡の両側から靖国を考える』(オルタ出版室)の韓国語版が届いた
のも忘れられない。
   なお、年末にあたり、毎月、編集部の裏方としてWP入力、HPのアップ
などにご協力頂いている堺の木村寛さん、東京の西風陽子さんに改めて感謝
の意を表します。
                     (加藤 宣幸 記)  
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