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━メールマガジン「オルタ」━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メールマガジン「オルタ」39号(2007.3.20)
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◎ 変えなきゃゴーマン・暴言石原都政
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□目次
■アメリカ覇権の終焉と技路に立つ日本
―ネオコン路線の挫折と小泉・安倍外交の破綻―
久保 孝雄
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■変えなきゃ石原都政 塩田三恵子
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■花から中国と日本の文化を見る 王 鉄橋
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≪連載≫
■1、臆子妄論
柳澤伯夫弁護――オーウェルのひそみに倣って
西村 徹
■2、回想のライブラリー(18) 初岡昌一郎
■3、人と思想(4) 『北原泰作』 富田 昌宏
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【北から南から】
■1、春節以後の北京事情 谷 洋一
■2 2007年私の春節 佐藤 美和子
■3 佐藤さんの中国便りをメルボルンで読む
入江 鈴子
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■【ガン闘病記】 吉田 春子
■【オルタのこだま】
改憲と岸信介氏の思い出 今井 正敏
■【俳句とエッセイ】 富田 昌宏
■【編集後記】
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■アメリカ覇権の終焉と技路に立つ日本
―ネオコン路線の挫折と小泉・安倍外交の破綻―
久保 孝雄
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■「パクス・アメリカーナの終焉」
世界中が「平和な世紀を」と願った21世紀の幕開けを、血塗られた門出に変
えてしまったブッシュのイラク戦争が、開戦いらい満4年を迎えている今、この
戦争の歴史的な帰結がしだいに姿を現してきた。それは何よりも「パクス・アメ
リカーナの終焉」(ワシントン・ポスト紙、船橋洋一、週刊朝日、3,9))で
あり、アメリカの世界覇権の劇的な崩壊の始まりである。そして、ことごとに
ブッシュに追随してきた小泉・安倍外交の惨めな破綻である。
米ソによる東西冷戦が終わった後、唯一の超大国となったアメリカは、比類
なき軍事力を背景に一極支配体制を築いてきたが、イラク侵攻の大失敗を契機
に大きく崩れ始めてきた。開戦いらい14万人規模の軍隊(これに7万人の民
間軍事要員が加わる)と4、300億ドル(約50兆円)の戦費を投入し、
3、186人の戦死者(他に英134人、伊33人など)と2万3,924人
の負傷者(以上、3月5日現在)、帰還兵の3割を占めるPTSD(心的外傷後
ストレス症)患者などを出しながら、止むことのない武装ゲリラの激しい抵抗
によって、今や政治的、軍事的な破局を迎えつつある。
侵略を受けたイラク国民の犠牲は、はるかに悲惨かつ甚大である。アメリカの
ジョンズホプキンズ大学の推計によると、武装ゲリラ、民間人を合わせたイラク
人の死者は開戦いらい3年間で65万人に達するという(イギリス医学誌ランセ
ット、06.10.11)。さらに、180万人の市民がシリア、ヨルダンなど
の隣国へ脱出したほか、国内難民も200万人近くになる(日経、2.8)。古
代文明の遺跡が数多く残る国土も破壊し尽くされてしまった。にもかかわらず治
安は最悪の状態で、宗派対立も激化し「内戦状態」に移行しつつあると見られて
いる。アナン国連事務総長(当時)をして「フセイン時代の方がましだった」と
嘆息させるほどの事態になっている。
しかも、イラクへの先制攻撃の大義名分だった大量破壊兵器は存在しなかった
し、テロ組織アルカイダとのつながりも証明できず、イラク侵攻の根拠はすべて
崩れ去っている。ブッシュ大統領もイラク戦争が誤った情報に基づいていたこと
を認めざるをえなかった。まさにイラク侵攻はアメリカの「国家犯罪」ともいう
べきものであり、イラク市民への無差別攻撃や非道な検問、拘束、イラク兵捕虜
への野蛮な拷問などを考えると、最高司令官であるブッシュ大統領の行為はまさ
に戦犯に値するといわざるを得ない。最近、前マレーシア首相マハティールが、
ブッシュを戦争犯罪人として裁く民間法廷を開設したのは象徴的な動きである。
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■画期的なアメリカ中間選挙
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かつて、開戦時に80%の支持率でブッシュを熱狂的に支えたアメリカ国民も、
イラク戦争が大義なき戦争だったことを知ってブッシュ批判をつよめ、支持率は
30%まで急落している。さらに、戦死者の増加による反戦、厭戦気分が全米に
広がり、昨年11月7日の中間選挙でブッシュを地滑り的敗北に追い込んだ。ア
メリカ国民はイラクからの撤兵を要求し、ブッシュの単独行動主義や先制攻撃戦
略を否定したといえる。ネオコン路線になびき、右に振り切っていたアメリカの
世論の振り子は、12年ぶりに真ん中へ戻ってきたように見える。アメリカ民主
主義の健全な一面がまだ生き残っていたことを証明した選挙結果だった。
中間選挙でアメリカ国民が下した歴史的審判は、ブッシュ大統領の登場いらい
世界を覆っていた「反テロ全体主義」化の暗雲に一条の光を射し込むものであっ
た。「帝国」化したアメリカは単独行動主義や先制攻撃戦略によって世界を威圧
し、世界覇権を確立したかに見えたが、アフガニスタン、イラクへの侵攻でアラ
ブ、イスラム世界を反米に駆り立てたばかりか、アメリカの「裏庭」の中南米に
まで反米の嵐を巻き起こしてしまった。同盟国イギリスもふくめEU(欧州連合)
にも反米、嫌米機運が高まってしまった。イギリスBBCが33カ国で行った世
界の主要国に対する好感度調査によると、好感度が最低だった国はアメリカだっ
た(船橋洋一、前掲誌)。
フランスのドビルパン首相は「米国はイラクで失敗した。私は03年に<軍事
的手段でイラク問題は解決しない>と言った(が、これは正しかった)・・イラ
クが民主化され,平和になったら(米軍が)引き上げると言うのはばかげている。
そんな日は永遠にこない」と主張し、ドストラブラジ外相も「イラク問題の唯一
の解決法は,08年までに駐留の外国軍隊がすべて撤収することだ」と述べ、米軍
の早期撤退を求めた(朝日,2月7日)。派兵に応じた有志連合も半数近くに激減
し、崩壊寸前である。最大の派兵国イギリス(7100人派兵)も年内に半数を撤退
させると発表している。アメリカの孤立と苦悩は深まるばかりである。
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■自壊するネオコン路線
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アメリカはイラクの泥沼に足を取られ、反米機運の世界的高まりのなかで世界
各地で威信を低下させており、中国の勃興、インドの台頭、ロシアの復活、EU
の存在感の高まりなど、パクス・アメリカーナの解体過程の進行にも有効な手だ
てが打てない状態である。ロシアのプーチン大統領は2月10日、ミュンヘンの
国際会議で演説し「アメリカはすべての分野で国境を越え、自分たちの意思を他
国に押しつけている」と批判し、「これを警戒して大量破壊兵器を持ちたいと言
う国が増えている・・・核拡散の問題はアメリカの対外政策にも原因がある」と
の考えを示し、さらに「一極支配の世界は受け入れられないだけでなく、不可能
だ」と述べて国連への結束を訴え、アメリカの「一極支配」に反対する姿勢を明
確にした(NHKニュース,2月11日)。
アメリカの威信低下は、同盟国イギリス、日本の政治的、外交的衰退によって
も加速されている。最近のブッシュ政権は、「悪の枢軸」と名指し、武力侵攻の
可能性を否定しなかった北朝鮮、イランに対しても外交交渉重視にシフトせざる
を得なくなっている。この2月、北朝鮮の核開発をめぐる6カ国協議が進展した
のは、米朝2国間による金融封鎖解除をめぐる交渉が進展したことによるし、イ
ラクの治安回復にイランの協力を求める姿勢に転じつつあるのも、ネオコン路線
を維持できなくなっているアメリカの新しい模索の現れである。
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■イラクを議論しない政治の退廃―小泉・安倍「幼稚」外交の破綻
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イラクからの米軍撤退を求める声は、民主党が上下両院で多数を占めたアメリ
カ国内はもとより、世界中で高まっているが、ブッシュはこうした声に耳をかさ
ないばかりか、08年までに戦闘部隊の撤収を勧告した超党派諮問機関「イラク研
究グループ」(ISG)の報告書(12月8日)も拒否して4万人規模の増派を決定
し、国内外からの厳しい反発にさらされている。
ブッシュ追随が裏目に出て、支持率が2割を切り始め,政権維持が困難になっ
て引退を予告せざるを得なくなったイギリスのブレア首相も、間接的ながらイラ
ク戦争の誤りを認め始めているが、ひとり日本政府はいまだに「イラク戦争支持
は正しかった」との見解に固執している。自衛隊派兵の責任者である小泉前総理
も何ら良心の呵責(かしゃく)を感じていないようである。最近の世論調査によ
ると、日本国民の75%が「イラク戦争は誤りだった」と答え、69%がイラク
戦争への「協力を見直すべきだ」とし、イラク特措法を延長して自衛隊のイラク
派遣をつづけることにも「反対」が69%を占めている(朝日、3.15)。日本
国民もブッシュのイラク戦争とこれに追随、加担してきた小泉・安倍外交への批
判を強めていることが分かる。
しかし、国会論戦をみると(政治とカネのスキャンダル追求も結構だが)イラ
ク戦争をめぐる国の進路をかけた激しい論戦がまったくないのは何とも異様で
ある。イラク戦争への認識、加担の是非,イラク派兵の責任などについての突っ
込んだ議論がほとんどない。世界情勢への深い洞察や政治に対する誠実さや責任
感が微塵(みじん)も感じられない、驚くべき政治の退廃である。
ブッシュのペット(ポチ)と見られていた小泉首相と後継の安倍首相の「幼
稚」外交によって、国際政治における日本の威信と影響力は衰退しつづけてい
る。小泉首相の靖国参拝を機に「政冷経熱」となり、5年間も首脳会談が途絶
え、アメリカから「隣国と首脳会談も開けない日本は、アメリカにとっても利
用価値がない」(米国務省高官)とまで言われた中国,韓国との関係、伝統的
に良好だった中東イスラム諸国との友好関係の冷却化、ASEAN諸国の日本離れ
と中国接近など、日本外交の空転が目立つ。とくに北朝鮮の核開発をめぐる6
カ国協議では、核問題より拉致問題を優先するかのごとき日本の態度が、各国
の外交辞令以上の支持をえられず、最終場面ではいつもカヤの外に置かれてき
たのが実情である。
2月の核開発放棄合意後の作業部会(3月)で、米朝協議が順調に進展している
のに対し、日朝協議はまったく進展がなかった。
アメリカのタイム誌は「安倍首相が(拉致問題にこだわり)一切の譲歩を拒否す
れば、日朝間の離反が続き、北朝鮮への積極対応に転じた米国との歩調にも乱れ
が生じる」と報じ、さらに、従軍慰安婦問題について「強制の証拠はなかった」
との最近の安倍発言に関連して「首相は一握りの日本人の拉致の清算を北朝鮮に
求める一方、何百、何千といわれる性的奴隷(慰安婦)に対する自国の責任に疑
問を投げかけているように見える」と述べ、このままでは「日本が(6カ国協議
で)取り残される危険があり、そうなれば金正日を喜ばせるだけだ」と指摘して
いる(読売、3.10)。拉致問題で北朝鮮の人権侵害を激しく攻め立てている
安倍総理が、日本の過去の恥ずべき大量の人権侵害の責任について、疑念を表明
したことに対し、中国、韓国、東南アジアはもとより、アメリカなどの国際世論
にも大きな反発が起きている。首相就任後、真っ先に北京、ソウルを訪問して首
脳会談を実現し、関係改善を図った自らの成果をも台無しにしかねない愚行であ
る。
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■輝きを増す憲法9条―迫られる日本の選択
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日本のとるべき道は、まず第1に、イラク戦争が誤った戦争だったこと、なぜ
それが起きたのかを検証し、ブッシュ路線に追随して自衛隊をイラクに派兵した
責任を明らかにすることである。防衛省が誕生し、海外派兵が本来任務に格上げ
された今、派兵の責任を徹底して明らかにしておくことが必要である。マハティ
ールの民間法廷はブッシュ、ブレアを被告人に見立てているが、自衛隊は戦闘部
隊でないということで、小泉はかろうじて戦犯指名を免れている。
第2は、史上最大、最強の軍事力を4年間(第2次世界大戦の長さに匹敵)も
行使しながら、イラクに平和と秩序を回復できなかったばかりか、事態をさらに
悪化させてしまったイラク侵攻から、必要な教訓を引き出すことである。つまり
武力によっては国際問題を解決することは不可能だということが、改めて確証さ
れたのである。憲法9条の改定や自衛軍の創設をめざす安倍内閣のタカ派路線が
いかに時代錯誤であるかを、イラクにおける「帝国アメリカ」の敗退から学ぶべ
きである。「イラクの悲劇」を通して「国際紛争解決の手段としての武力行使」
を禁じた憲法9条が、一段と輝きを増していることを知るべきである。
そして第3は、アメリカの世界覇権崩壊後の多極化する世界で生きる日本の対
外戦略を抜本的に見直し、立て直すことである。最近、政府はインド、オースト
ラリアとの連携強化に動いている。いずれも日本にとって重要な国だから関係強
化は当然であるが、将来の日米印豪の同盟構築をめざし、安保、軍事面での連携
強化を図っているのは、対中国牽制と言う意図がミエミエなだけに、印、豪側に
懸念を、中国側に警戒心を生じさせている。
オーストラリアのハワード政権(保守党)は、ブッシュに同調してイラク派兵を
継続しているタカ派であるが、7割近いイラク派兵反対の世論に押されて支持率
が低下(39%)し、中国との提携重視の野党労働党(61%)に大きく水を開
けられている。今秋には総選挙が予定されているので、安倍首相と交わした日豪
安保共同宣言の行方は不透明である(産経、3,14)。
戦後60年、日本の対外戦略の不動の基軸だった日米関係は、今後より相対化
されるべきだろう。「21世紀は、中国とインドに率いられるアジアの世紀にな
る」(米国・国家情報会議報告書、05.1.16 共同)ことは間違いない。
中国が経済規模で日本を追い越す日は目前に迫っている。2040年ごろにはア
メリカを抜き世界一の経済大国になっているとみられる。そのときインド、ロシ
ア、ブラジルなどもトップグループに浮上してきているだろう。世界構造に地殻
変動をもたらしつつある最大の要因は、現代世界に強いインパクトを与えつつあ
る中国、インド、ロシアを抱えるユーラシアのダイナミズムである。しかもこの
3国は「アジア・トロイカ」という緩やかなコアリションで結ばれている。日本
はユーラシア世界の一員として、このダイナミズムにどう向き合い、対応してい
くのか、まさに戦後60年の次なる「百年の計」を急がなければならない。
その第一歩は、6カ国協議のテーブルを北東アジアの安保協議のテーブルに発
展させるために全力を尽くすことである。そのためにも、一日も早く「過去を清
算」して日朝国交回復を図り、南北朝鮮の平和統一に力を貸し、日中韓(統一朝
鮮)の間に相互理解と相互信頼のゆるぎない関係を築き、東アジア共同体への筋
道をつけるとともに、ASEANを含むアジア共同体構想に向けて一かつてEU
結成に当たって、ドイツが「過去との対決」に徹し、長年敵対してきたフランス
と和解し、近隣諸国の信頼を得る努力を重ねてきたように一「過去との対決」を
恐れず、近隣諸国のために「縁の下の力持ち」の役割に徹して信頼感の醸成に努
めていく覚悟を固めるべきである。
(筆者は元神奈川県副知事)
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■変えなきゃ石原都政 塩田三恵子
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石原知事の登場がそれなりに期待を持って受け止められたのは、黒い煤入りの
ペットボトルを振って行ったディーゼル車規制の発表だ。しかし、ロードブライ
シングなど継続すべき政策展開はみられず、トップダウンの都政運営と時代遅れ
の政治感覚(国際感覚・男女共同参画・分権等)、さらに教育基本法改悪を先取
りする都教育委員会の強権体質の背景にある教育委員任命権者である知事の責
任は大きい。
2007年度東京都予算案の審議を経て、2期8年の石原都政が終わろうとして
いる。今期の公約であった1000億出資して開業した「新銀行」は思惑がはずれ
危機的状況にある。加えて側近浜渦氏の重用や四男への特別待遇に見られる都政
のファミリー化は知事としての末期的状況が表面化したものだ。
石原都政の長期構想として、かつて「東京構想2000」が策定されたが、「長
期構想は嫌いだ」とこれを放棄。ごく限られたブレーンで、新銀行などのサプラ
イズ政策を打ち出すようになった。結果、政策の総合的、体系的な展開ができず
場当たり都政の弊害を生む事態となっている。
国の外交マターである沖ノ島への漁業権確保に熱を上げたり、突然思い立った
ようにオリンピックの招致に予算をつぎ込むなど、都民のための政策というより、
知事個人の思い入れ政策がまかり通っているのでは都政の私物化と言わざるを
えない。
「知事の仕事は都庁に来ることだけではない」と、週2、3日しか登庁しない
ため、職員は刹那的な政策や知事の目をごまかすことに汲々とし、政策に一貫性
や発展性がなく、全てが中途半端なままとなっている。
さらに、知事自身の国際感覚は、都民の利益はもちろん、国益をも損なってい
る。中国、韓国に対する露骨な敵視発言をくりかえしながら、国際性が問われる
オリンピック招致をめざすという倒錯した感覚に、都民は疑念を募らせている。
三選出馬を表明した石原知事は、知事選を見据えた昨年末「10年後の東京・
東京が変わる」を発表。重点8項目中4項目が都市整備に関するもので「水と緑
の回廊につつまれた、美しいまち東京の復活」などのフレーズに彩られ、ついに
「環境重視への転換か」と思わせておきながら、具体策は「3環状道路の整備
で・・・快適で利便性の高い都市を実現」など、道路整備が全面に出されている。
東京は、3300万人という世界最大の都市圏と、それを支える発達した鉄道
網という点でまさに巨大都市のモデルと言われている。1人当たりの交通で消費
する二酸化炭素(温室効果ガス)は、工業国中で最も低い水準を維持しているの
であり、この点で、知事が長期計画で描く「10年後の東京」には、疑問を呈さ
ざるを得ない。石原都政の本質が露呈した今、新しい知事の誕生は切なる都民の
願いである。
浅野史郎さんが出馬を表明した。生活者ネットは「ようこそ浅野さん」と大歓
迎し全力で当選のために力をつくしたい。すでに生活者ネットの「東京構想」を
浅野さんに渡し「市民マニフェスト」策定を提案した。共に都政改革を進めてい
きたい。
(筆者は東京・生活者ネット運営委員)
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■花から中国と日本の文化を見る 王 鉄橋
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◇花から中国と日本の文化を見る。
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和歌(《古今和歌集》905年)の中の五本の指に入っている花は、花(特定の対
象のない花)、桜、梅の花、女郎花、菊の花の五種類である。唐詩の中ではあれ
ほど多かった桃の花も、和歌の中にはどこにもない。特に説明したいのは和歌の
中の特定対象のない花は、ほとんど桜の花を指している。例証は次の如くになる。
駒なめて いざ見にゆかむ ふるさとは 雪とのみこそ 花は散るらめ
詠人知らず(春歌下:百十一)
山高み つねに嵐の吹く里は 匂ひもあへず 花ぞ散りける
紀利貞(物名:四百十六)
桜は日本では群芳に追いかけられない、「鶏群の一鶴」のような地位を占めて
いるからこそ、日本の昔の人達はこのような断言をした。「櫻之千我国也、不日
櫻花面日花、如洛之牡丹、蜀之海堂、蓋所以貴之也。」《般若盛百首》
そのほか、もう一つ注意すべきところがある。「桜の花の歌」の中で「桜は散
る」というような和歌は半分以上も占めていて圧倒的な優勢になるが、桜の盛り
を賛美する和歌は13%しかない。これを通して日本人の考え方の特徴及び美学
意識を伺うことが出来る。
残りなく 散るぞめでたき 桜花ありて世の中はての憂ければ
詠人知らず(春歌下:七十一)
この和歌は明らかに「残りなく 散るぞめでたき」の桜の花を世の中の最高の美
徳のシンボルとしている。桃の花と同じく日本文化の中で特別な意味を持ってい
る桜にも、十分な単語群がある。
桜雨、桜いか、桜煎り、桜狩、桜会、桜魚、桜川、桜衣、桜酒、桜前線、桜吹
雪、桜鯛、桜月、桜干、桜蒸し、桜餅、桜山、桜湯、桜肉、桜麻、桜鱒・・・・・
一つの単語群としての充実は、桃の花と遜色はない。「花」で現した中日文化
の差は、桃の花と桜の花だけではない。中国で上品の花として扱われている梨の
花も、同じようなことが言える。
唐詩の中で、梨の花は相当重要な素材なので、大勢の詩人に使われている。例
えば、
「忽如一夜春風来、千樹万樹梨花弁」(?参)
「砌下梨花一堆雪、明年賄淮凭?千?」(杜牧)
などがある。
白居易氏が絶世の美女の楊貴妃の容姿を形容していた「玉容寂寞泪闌干、梨花
一枝春帯雨。」は中日両国の人々に知られている名句絶唱である。早くも平安時
代日本の女流作家の清少納言が《枕草子》の中で、これにたいして透徹した評価
をしている。
その意味は「日本では梨の花を卑しくて不吉なものとされているので、たとえ
簡単に得られても絶対に詩歌には使わない。しかし、中国ではそれをすごく上品
なもののシンボルとしている。だからこそ「梨花一枝春帯雨」で楊貴妃が皇帝様
のお使いに会ってからの喜びを抑え切れなく、悲しそうに見える時の美しさを形
容している。」
しかし、わたしはそうではないと思う。日本人が梨の花を好まない理由の一つ
は、多分発音と関係があると思う。「梨」は日本語の「なし」と同音でローマ字
で表すと「NASHI」である。
このほかに、中日両国は花を雪に比喩して、雪を花に比喩する習慣があるが、
よく見ると、中国と日本での違いも明らかにある。
花を雪に比喩する時、唐詩では梅の花、楊花、柳花、菊の花、杏の花、蕎麦の
花などをよく使うが、和歌の中では、白梅、桜などえをよく使う。
雪を花に比喩する時、唐詩では梨の花、柳花等を主として使っているが、和歌
では特定しない「花」を圧倒的に多く使っている。
最後に、蛇足を加えるかも知れないが、強調したいのは日本の「花」の王座は、
最初から桜でなければならないとは限らない思う。《大和本草》の中で指し示し
ているように、「日本は昔梅を花と言う。中世以来桜を花と言うようになった。
日本で花を観賞するにはこれが第一だ。」江戸時代国語学者本居宣長も、その著
作《玉勝間》で指摘しているが『古今和歌集』までは、桜を花と称した例はなか
ったと言うことである。
《万葉集》時代には、日本人は中国文化の影響を受けて、梅花を「百花の頭」、
「花兄貴」、「花一番」等と呼んでいたので、庭さえあれば梅の木を植えなけれ
ばならなかった。1254年に世に問うた《古今著聞集》の中にも、当時の有名
人たちが花の頭は一体梅の花か、桜の花かについて熱烈な争いがあったことが記
載されている。梅の地位が、どうして桜に取ってかわられたのかという問題につ
いて、次のように言われている。
桜も梅も種類が多いが、梅の場合はだんだんその実を採ることを主な目的とす
る人が多くなってきた一方、花を目的にする人が少なくなってきた。しかし、桜
を植える人はその花を観賞することを主な目的としていた。というわけで、昔の
人は梅を花を花としていたが、近代の人は桜を花としている。《古今和歌集》を
みてもわかるが、学者たちもそれぞれの見解を持っていた。しかし、植物の本の
《草木六部耕植法》の中では、
花の香を 風のたよりにたくへてぞ 鶯さそふしるべにはやる
紀友則(春上:十三)
これは明らかに桜ではなく、梅を賛美している。花の事は時期によって移り変
わるから、花の頭も月日の経過によって変わる。日本の花王は梅から桜に変化し
た事実から、中日文化の発育から成熟の過程の中に残されていた跡が垣間見える。
いつまでもこんもりとした文化の木、いつまでも散らない文化の花を受け継いで
いるように思われる。
これらの宝のような歴史的な年輪は、現在中日文化を研究しているわたしども
には、多くの啓発とインスピレーションを与えてくれる。
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◇花から中国文化を見る
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特定の対象とされている花の中で、「桃の花」は一番目の地位になっています。
唐詩を多少勉強している中国の人なら多分、催護の《七絶・題都城南庄》はしっ
ているはずです。
去年今日此門中、人面桃花相映紅。
人面不知何処去、桃花依旧笑春風。
照りつけている桃の花の下でしとやかな少女の姿、その内容が見える、淡々た
る中に濃厚にある心情、依然とした情景に佳人がいなくなった寂しさ、筆で描く
ことは出来ない意境は、この詩を千古絶唱の宝座まで押し上がってきました。そ
れに対して唐の時代の名人、政治改革派の劉寓錫さんが、「桃の花」を借りて都
の政治家たちを批判する次の七絶を書きました。
紫陌紅塵払面來、無人不道看花回。
玄都観里桃千樹、尽是劉郎去後栽。
『玄都観桃花』 劉寓錫
それは元和十年に郎州から都に帰る時、花を見る諸君子に贈る言葉です。
しかし、この詩で皇帝様まで驚かしたため、また左遷させられました。十四年
後、劉寓錫さんがもう一度勢いを盛り返してやり直す時、硬骨漢の新七絶を書き
ました。
百畝庭中半是苔、桃花浄尽菜花開。
種桃道士帰何処、前度劉郎今亦來。
『再遊玄都観』 劉寓錫
唐詩の中でのこのような「桃の花」の詠み方は、和歌の中にはどこも見当た
らないだろうと思います。「桃の花」は中国文化の中ではその独特の地位を占
めているため、中国語の中にも多くの単語群があります。桃印、桃桔、桃弓、
桃板、桃符、桃唇、桃花顔、桃花酒、桃花粥、桃月、桃花運等があります。
このような言葉は一つの側面から桃の花と中国文化との関係を表しています。
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◇中国の「風花雪月」と日本
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中国東方文化には東方の独特の美しさがあります。中国と日本両国の「風花雪
月」という自然の風物を描くとき、東方式に共通した美学的な鑑賞方法がありま
す。それこそ白居易氏の「琴詩酒伴皆室拠我、雪月花時最億君」という詩句は、
東隣国の日本でも心からの共鳴を得ることができました。
雪月花という唐詩の中の言葉は、平安時代(西暦 794〜1192)日本の文化人に
受入れられ、室町時代(1333〜1573)、江戸時代(1603〜1867)には、もう完全
に日本文化の中に浸透していました。中国と日本文化のこのような親縁関係は、
両国文化の間に多くの共通した源があることを表していると同時に、中国と日本
共通の大切な文化遺産になることと思います。
しかし、中国南方の蜜柑を黄河の北側に植えても蜜柑にならないとの如く、中
国の古い詩人に賛美されていた「雪月花」は日本の解釈になると、実は違うとこ
ろがたくさんあると思います。その違いのところさえ分かれば、中国と日本の文
化を研究されている皆さんには有益なことだと言えるでしょう。
唐詩でもいいし、和歌(日本の詩歌)でもいいのだが「雪」、「月」、「花」
をテーマにしている作品のなかに、「花」という言葉は圧倒的な多数になってい
ます。それらを比較するために、著作者は上海辞書出版社で出版されていた《唐
詩鑑賞辞典》および、日本の小学館で出版されていた《古今和歌集》を参考に「花
詩」、「花歌」を一通り調べてみました。
その結果によれば、唐詩の中で五本の指に入っている花は、花(特定対象の
ない花)、桃の花、落花、梅の花(楊花、杏花と梅花は並んで四番目)、菊の
花です。日本の国花とされている桜は、唐詩の中で一番少なく詠われている
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●王鉄橋教授、略歴
1953年中国鄭州市に生まれ,1990年東京国際大学大学院修了(国際学修士)
鄭州大学講師、東京大学外国人研究員、文教大学講師、研究員
東京国際大学客員研究員を経て
現在洛陽外国語学院大学教授・博士指導教授
○中国大学日語教学研究会副会長
○河南省高等院校日語教学研究会会長
○同会中日文化交流センター理事長。
●主要著作
『日語詞義辨析』(合著)上海外語教育出版社、1991年
『中日文化差異趣談』(主編)香港国際交流出版社、1998年
『儒教文化とその変容』軍事誼文出版社、2002年など
●論文
『現代中国語の敬語表現−日本語との比較』、1989年
『中日両国の敬語表現と儒教文化』、1990年
『中日儒教文化の構造と変容』1991年など30点
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≪連載≫
■1、臆子妄論 柳澤伯夫弁護――オーウェルのひそみに倣って
西村 徹
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◆まえせつ
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もはや旧聞に属することかも知れぬが今年はじめ柳澤伯夫厚生労働大臣が失言
して騒ぎになった。その騒ぎのもとになった発言内容は次のようなものだ。
「なかなか今の女性は、一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。人口統
計学では、女性は15才から50才が出産する年齢で、その数を勘定すると大体分
かる。他からは産まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決
まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、
後は産む役目の人が1人頭でがんばってもらうしかない」
これはまずかろう。本人が「産む機械」と言って、すぐさま「ごめんなさい」
では、いよいよまずかろう。「ごめんなさい」と言ってしまえば自ら非のあるこ
とを白状したことになってしまう。裁判沙汰になればそれが証拠として採用され
る。だから濫訴のアメリカでは交通事故などでも絶対に「ごめんなさい」を言っ
てはならぬとされている。シンドラーもパロマもなかなか「ごめんなさい」を言
わなかったのは、長年アメリカで商売してきたからだった。
「機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね」を言わなかっ
たとする。こんな騒ぎになっただろうか。なってもおそらく言い訳はしやすかっ
ただろうし、騒ぎにしにくかったろうと思われる。言い換えた、あるいは言い足
した「装置」のほうが、実際はおなじだけれども「機械」より風当たりの和らぐ
言葉だろうからだ。核燃料棒を取り出す「装置」などといって「機械」といわな
い。それだけ「装置」のほうが「機械」よりなんとなく高級感があるというわけ
だ。
なにはともあれメディアを介して「産む機械」という言葉だけがまず吹きこぼ
れて大臣は袋叩きにあった。おかげで男の多くはこれまで気づかずにいた女の側
の怨念「と言ってはなんだが」痛みの根の深さをあらためて知ることが出来た。
不妊に悩む人、産めるが産みたくない人などを激しく傷つける言葉であったこと
を学んだ。私自身、既婚の女性に「お子さんは?」とたずねてしまったことがあ
るが、そのときはそれがいけないとは知らなかった。「家族にカンパイ」とかい
うテレビ番組でツルベという芸能人が、やはり「お子さんは?」とたずねていた。
どうしても男はそのあたり鈍感だ。必ずしもすべての女性を傷つけるとはかぎら
ないので、なおさら鈍感になる。
病院の泌尿器科の待合室で隣に座っていた私よりは若い老人が言った。「男は
やっかいですな。損ですな」。前立腺は男にしかないからのことだ。男の手前勝
手を絵に描いたようなことを、しかも真顔でため息混じりに言うのがおかしかっ
た。女の人が聞いたらおかしいと思うより怒る人のほうが多いだろう。子宮がん
も卵巣がんも女だけがかかる。乳がんもまず女だけがかかる。出産と関係してい
るのかいないのか骨粗しょう症も女のほうが断然多い。素人目に見て女のほうが
男のように構造が単純でなく、女が機械なら男は道具ぐらいちがう。なにしろ産
む性ではあるから複雑にできていて、そのぶん生理的負担が段違いに大きいよう
に思う。妊娠、出産に伴うリスクに加えて毎月の生理だけでもたいへんだ。兵隊
に行くことが避けられないと観念したとき以外に、女であればよかったと思った
ことはあまりない。ところが男にはこの前立腺肥大の老人のように知らぬが仏の
単細胞が多い。
しかし大臣が、しかも厚生労働大臣も同様では困るだろう。袋叩きもやむをえ
まい。奥さんにも叱られたというから当然辞任が妥当ではあろう。しかしである。
どんな極悪犯でも裁判には検事の論告だけでなく弁護人の弁論がなければならな
い。なり手の少ない弁護人になったとしてどんな弁論が可能か。それを試みてみ
ようと思う。なにか別なものが見えてくるかもしれない。告発でもなければ判決
でもないことをことわっておく。
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◆ジョージ・オーウェルのウッドハウス弁護
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ジョージ・オーウェルのIn Defence of P.G.Wodehouse「P.G.ウッドハウス
弁護」(1945年)を思い出してのことである。以下引用は平凡社刊『オーウェル著
作集III』(1970年)の小野寺健訳による。 P.G.ウッドハウス(1881−1975)
というユーモア小説の作家がいた。パブリックスクールを出て銀行員だったが副
業の小説が当たって専業の作家になった。小説のほかにゴルフの本も書いている
ので小説に縁はなくてもゴルフ・マニアは知っているかもしれない。1940年初夏
にドイツ軍は電撃的にベルギーに侵攻した。P.G.ウッドハウスはル・トゥケの別
荘に住んでいたが、ドイツ軍はよりにもよってこの笑話作家を逮捕し、さしあた
り自宅拘留にした。自宅拘留といってもウッドハウスの開くパーティーにドイツ
軍将校が客として出入りしていたが、結局42週間ほど他のイギリス人と団体で精
神病院に収容されたらしい。一年後に拘留を解かれてベルリンのホテルに移りド
イツのラヂオ局から英国向けの放送をすることになった。
放送は5回に亘り、ナチの勧めによるものではあったが強制によるものではな
かった。放送原稿は検閲らしい検閲もなかった。NHKに対する当局の干渉ほどに
もナチは干渉しなかったらしい。収容所のイギリス人は「みな最後にはイギリス
が勝つと堅く信じている」と放送で言うことも許した。中身は低調で、いつまで
も気の抜けたものだったから、ナチも5回でお払い箱にして釈放したが、最初の
放送の
「私は政治に関心をいだいたことはない。およそ、戦闘的な感情をかきたてる
ということができないのである。どこかの国に対して戦闘的な感情をいだこう
としたとたんに、ちゃんとした男に会ってしまう。その男といっしょに遊びに
出かけて、どちらも戦闘的な思想や感情などは失ってしまう」
は当時のイギリス人の間で非常な憤激を買ってしまった。今の平和な、とりわけ
日本でなら、こんなことを言って国民の憤激を買うなどはありえない。戦時中で
も永井荷風ならもう少し毒を含んだ言い方で似たことを内緒でなら言ったかもし
れない。むしろきわめて平和主義的な言辞である。たしかに民間交流が盛んにな
って人と人とが交われば仲良くなるにきまっている。まだ戦争初期のイギリス人
も概ねみんな似たり寄ったりだった。
しかし戦争は人を狂わせる。開戦一年後にはイギリス人も概ねみんな狂ってし
まった。国がのるかそるかの瀬戸際だったのだから無理もない。ウッドハウスは
のほほんと外国に暮らして、追い込まれて以後のイギリス国内の対独感情の変化
を知らなかった。知らぬが仏の能天気。反英的でも親独的でもなかった。オーウ
ェルによるとイギリス人は鈍感で危機に臨んで目が覚めるのが非常に遅いという。
それにしてもウッドハウスは遅すぎた。
能天気さ加減を表すものとして、もうひとつ放送からの引用をする。
「戦争前には、私はイギリス人であることにいつもささやかな誇りをいだいて
いた、しかし数ヶ月、このイギリス人ばかりの置き場というか倉庫といったと
ころで暮らしてみた今は、いささか怪しい。・・・私がドイツ側に望む唯一の
譲歩は、パンをくれること、正門に銃をもって立っている方には横を向いてい
ていただくこと、そしてあとのことは私に任せてもらうことである。お返しに
はインドと、署名入りの私の著書ひとそろいをさしあげ、薄切りポテトをラジ
エータで料理する秘訣をお教えしてもよろしい。この申し出は来週水曜まで有
効である」
笑いを取ろうという魂胆が見え見えだが、これに加えて別な場所で「イギリス
が勝とうが負けようが」と言ったというので国を挙げての「売国奴」攻撃になっ
た。図書館から彼の著作は追放され、放送からも締め出された。反逆罪で裁判に
かけようという声もあがった。しかし彼の念頭にあったのは「コメディアンの最
大の願望――人々を笑わせたいということだったのである」。「罪状はせいぜい
馬鹿だという以上のものではない」とオーウェルは言う。政治音痴、思想音痴だ
っただけである。
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◆日本テンション民族
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日本人はもっとテンション民族だから戦時中捕虜の行列を見て「お可哀そうに」
と言った女性が「非国民」と罵られた。教育勅語をちょっと読み違えて自殺した
学校長もいた。軍人勅諭の棒暗記をさせられて「な思ひそ(so)」を正しく発音する
たび「な思ひぞ(zo)じゃ」と殴られた国語学者の新兵もいた。京都の市電のなかで
赤い表紙の横文字本を読んでいた青年を第三高等学校の国史の教授は「怒鳴りつ
けてやった」と教室で昂然として生徒に話した。山口高等学校の生徒だった私の
友人は国史の授業中に、天孫降臨は物理的にありえないと疑義を呈していきなり
教授に殴られた。物価統制令で小売商は公定価格の表示を義務づけられた。書い
た値札が漢数字でなくアラビヤ数字だというので経済巡査に咎められ、警察署に
呼び出されて「敵性語(!)を使う非国民」と罵られ、手ひどく小突き回された。
商店街の入口の交番で巡査は退屈しのぎに通りがかりの朝鮮人を引きずりこんで
殴った。
国および国民が集団発狂状態にあるときは多数派の理不尽がまかり通って集団
リンチが発生する。戦後民主主義になってもそれは変わらない。Political
correctnessが幅を利かせてリンチが起こる。焼け跡の闇市で今度は日本の巡査が
いわゆる三国人にとっ捕まって袋叩きにされた。小泉苳三という歌人は「歌集『山
西前線』のただ一首によって不適格とされ、立命館を追われた」(折々のうた 朝
日新聞 07年2月23日)という。「東亜の民族ここに戦へり再びかかるいくさ
無からしめ」の一首に学内の教授たちは襲いかかった。「歌を読めない烏合の衆
による血祭りにあげられた」と大岡信はいう。歌を読めなくてもこの日本語の意
味は誰にもわかる。東洋平和が戦争の理念になっていた。それを逆手にとって反
戦を歌いこむ苦肉の策とも読める。苳三の意図は別として、戦時中ぎりぎりの抵
抗はその種の韜晦によらざるをえなかった。藤田嗣治の戦争画についても同じよ
うなことがあった。
四人組全盛のころ、江青ではなくて前の毛夫人だったかへのオマージュとして
書かれたはずの詩に、嬌の一字があったことに言いがかりをつけられ人民裁判に
かけられた詩人がいた。その当時に熱烈文革支持派の日本人中国文学者から聞い
た話だ。「嬌」にはいろんな意味があるが、その詩の英訳では「嬌」がproudに
なっていて、それが咎められたらしい。Proudには「傲慢な」の意味もあるから
だった。
ウッドハウスとこれらの例とはまったく同質でもないが、まったく異質でもな
い。悪気などなくて時の狂気に翻弄されて災難にあった点はおなじだ。同質でな
いのは、これらの犠牲者は純粋に不幸な犠牲者であって決してウッドハウスのよ
うにおめでたい馬鹿ではなかった点だ。したがってこれら犠牲者の災難は悲劇的
であった。ウッドハウスは「馬鹿だという以上のものではない」点、災難は喜劇
的であった。悲劇というにはあまりに間抜けな時代遅れの俗物に過ぎなかった。
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◆柳澤氏の口通事故
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柳澤氏の場合もウッドハウスの場合と同じようなものではないかと私には思え
る。袋叩きにあったのを悲劇として弁護する余地はないが、これを機会に議論を
大いに深めうることを怪我の功名として、とんまな喜劇を笑うこともあっていい
のではないか。女性を怒らせもしたが笑わせもしたぶん情状酌量の余地はありえ
まいか。これ以上ひっぱたくと、アメリカ人でありながらムッソリーニを熱狂的
に支持して、イタリアのラヂオからアメリカの参戦に反対し反ユダヤ主義を鼓吹
した「エズラ・パウンドがアメリカ当局によって逮捕され銃殺されたならば、彼
は数百年にわたって詩人としての名声を確立するであろう。ウッドハウスの場合
でさえ、追い立てられた彼がアメリカに逃亡してイギリスの市民権を放棄したと
するなら、われわれは結局ひどく恥ずかしい思いをすることになるであろう」と
オーウェルがいうようなことに柳澤氏の場合もなりかねないだろうからである。
おそらく柳澤という人はクソ勉強をして大蔵省に入った金融とか経済のことで
は一家言を持つ優秀な「精密機械」なのであろう。銀行に公的資金注入の必要な
しとする自説を曲げず竹中平蔵と対立して金融大臣の職を解かれた硬骨漢でもあ
る。狭斜の巷になど近づいたこともない石部金吉の堅物なのであろう。女性の秘
部をたわむれて機械と呼んだりするような駄洒落には馴染んでいなかったにちが
いない。そうでなければ金輪際こんな言葉を公の場で口にはしなかったはずであ
る。機械本来の意味でよりもセクハラを責められる恐れ十分だからである。
時にそういう人物が本人はまったく知らずに発する言葉の含意に周囲は抱腹絶
倒することがある。本人はきょとんとして「なにがおかしい?」というのがまた
さらなる笑いを誘うということがある。松江でしゃべったこの失言はじつはその
類のものであったと思われる。野暮といえば野暮、「なにがおかしい?」のかわ
りに「ごめんなさい」だからますますこじれた。趣味は謡曲・オペラ鑑賞とくれ
ばいよいよその気配は濃い。母子家庭に育ったこともあずかっていよう。官僚は
それですむが政治家はそれではすまない。
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◆言葉狩りの危うさ
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敵失に乗じるのは野党として当然だから審議拒否も当然として、言葉狩りであ
るかないかといわれれば言葉狩りでないとはいえなかろう。生物と無生物、意志
のあるものとないもの、恐れ多くも人間様と機械という、まるで遠いものを一緒
にしたからいけないというわけだが、類比というのは遠くて近いものを結びつけ
るところに成り立つ。日本の官僚は精密機械などという。ザトペックは人間機関
車などという。鉄の女などともいう。天皇の肉体を玉体などというのも物を修辞
として使う点では同じ部類に入るだろう。
ものを考えるとき抽象という手続きは必要だろう。その結果を数式や記号だけ
で表現できればよいが。そうでなければ分かりやすくするには具象を借りること
にもなろう。機関車や鉄や玉はよくて機械は悪いということにはなるまい。機械
だけ悪いとなれば機械工学をやっている人などは愉快でないだろう。いくら気の
強い女であっても、日本の鉄の今日あるについて、どれほどの男の血と汗を吸っ
てきたか、また派遣だの非正規だのが言われていなかったころから高炉の事故で
命を落とすのは本工ではなく下請け孫受請けの男たちだったことを思うと、鉄
が、女にささげる修辞として使われるのは困る気はするが、それをあながちい
けないとはいえないだろう。類比は自由であろう。言論自由に属することであ
ろう。一般論原則論としてそうなる。
この一般論原則論は、好みは別として押さえておく必要があるだろう。そうで
ないと好き勝手にタブーをかまえて歯止めなく言葉狩を膨らませることになるだ
ろう。菅直人が出生率の低さを生産性が低いと言ったのは「産む機械」と言った
のと同罪だと公明党が言った。菅は女性に限って言ったわけではないし、出生率
の高低をほとんど記号的に即物的に言い換えただけだ。菅についての公明党の言
いがかりは言葉狩り以外ではない。これは言葉狩りが言葉狩りを呼び出してしま
う適例だろう。戦前、天皇機関説も似た手口でやられた。
しかし言葉は時とともに文脈とともにイメージが動いてプラスにもマイナスに
も本来はなかった価値が降り積もり重なってゆく。玉体というとエロチックに感
じる人さえありうる。文字面からは不具というより障害というほうがむき出しで
残酷に感じられるけれども前者の消極表現が遠ざけられ、故障というより不具合
のほうが無難とされる。ひと昔前まで「おんな」というだけで差別のひびきがあ
った。「婦人」はむしろ少しあらたまっていう言葉であったが今日よろしくなく
なった。だから本来価値中立的であった言葉も、理屈は抜きで、その時点で、そ
れを言われて不愉快に思う相手がいるなら使うのは止めるのが礼儀ということに
なる。おなじく中国をシナというようなことは使う側に悪意はなくても使わない
がいい。「機械」の語を女性が嫌うなら使わないのがよい。「なにが悪い」と開
き直る権利は一般論原則論としてありえても、やはり使わないのが作法であろう。
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◆作法のしくじり
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作法をしくじったことは間違いない。本人もそれはすぐに気がついた。A slip of
the tongueという類いで、人は時としてしくじる。痴漢でないのに痴漢にされて
しまうことさえある。顧みて寛容でありたく思う。鼻をひくひくさせ、眼を皿に
して人がしくじるのを待ち伏せて踊りかかるのはファシズムの属性でもあるだろ
う。これだけ何本もタオルを投げこんでいるのを打ち続けるのは道徳的にもよく
ないだろう。うっかり舌がもつれて将軍様をショーベンさまとかチョーチンさま
と言ったとする。天皇陛下をテーノー陛下といったとする。その場合の北朝鮮や
大日本帝国といっしょではこまる。
鴨がネギをしょって出てきたのだから野党はこれを撃たない手はないが、それ
で内閣を倒せるわけでもないのなら次の手に移らないとやぶへびになりかねない。
知的サービス業で成功した多くの偉い女性がこの失言は男の意識を露呈したもの
だと攻めていて、それはそれでそのとおりだが、これひとつを攻め続けて男の意
識はすぐに変わるほどなまやさしいものでもない。攻めるにしても攻め口に工夫
が要るだろう。失言にしても、安倍首相には「美しい国」など自分の言葉に自己
陶酔する癖があるのを、それを「女学生趣味」だといった大売れ筋なんでも屋の
評論家がいる。女を持ち上げるのに機械を引き合いに出すのが適当でない以上に、
男をこき下ろすのに女を持ち出してくる方がはるかにひどい女性差別だろう。伊
吹文相の「人権メタボリック症候群」などとともによほど悪質なはずだ。
辞めてもいいが辞めて男の意識がすぐさま変わるわけでもない。彼が辞めない
のは竹中と対立して職を解かれたことを考えると地位に恋々としてのものではな
いように思う。福井総裁が日銀を辞めなかったのは竹中の登板を阻止するためだ
ったのとおなじような理由があるのかもしれない。
産む産まないは個人の問題で国が口を挟む問題でないとして、私自身は少子化
になぜ対策が必要なのか、もうひとつ分かりかねているが、それでも、もし少子
化対策が国の重要課題だとするなら国政に携わる政治家としては国の枠組みでも
のを考えるほかなかろう。その際ルーティナイゼーションといって、いったん情
緒的なものを捨象して冷徹に即物的に対応することは医者が治療に臨むときとお
なじくすべての実務家には不可欠であろう。産める状態をつくること、産みたい
気持ちを起こさせるのが先決だとして、産んでもらいたいと思っていけないわけ
はなかろう。医者にしても何もかもおれに任せろでなくて患者みずからがその気
になってもらいたいと願うはずだ。
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◆小物叩きは大物を逃す
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「今度の戦争で、現在行われている反逆者・売国奴狩りほど、道徳的に嫌悪す
べきものはない。・・フランスでは、大物の方はまず例外なくのがれているのに、
あらゆる小物――警官、安ジャーナリスト、ドイツ兵と寝た女など――が狩りた
てられている。イギリスでは、1938年に懐柔策をとった保守党員、1940年にこれ
を唱導した共産党員が、猛烈な売国奴狩りを呼号している。」
オーウェルは1945年2月このように書いた。厚生労働大臣を「小物」とは言え
まいが、事柄は小物だろう。渡辺美智雄が老人福祉にカネを使うのは「枯れ木に
水をやるようなものだ」と言った。ゼニ勘定の得失でいえばそのとおりだし、問
題発言が売り物の男のいうことだから人々は「またか」と笑ってしまった。けし
からんことではあるが、大きく問題にならなかったのは老人はまだ今ほど多くな
かったし自分は老人だと思う人が少なかったからだ。そろそろ現れ始めた老人男
女を若い男女は露骨に疎んじてはばからなかった。盛り場の喫茶店など老人が入
ってくると人目につかない奥のほうの片隅に隠すようにして座らせた。
「ババアどけーッ!」と自転車で突っ走る小ギャルがいた。今もいる。そして
たしかに、ヒッタクリなどにしても被害を受けるのは老人のなかでも女性が多
い。Fair sexであるぶんweaker sexではあるらしい。ミッチーにはそのあたり
の計算ができていた。老人を切り捨てても票が逃げるほどでないことを知って
いた。露出度の低い俗習に馴染むことの少ない実務家の厚労相は女性が人口の
過半数であることに迂闊だった。一度標的になると、学校の虐めとおなじで、
どう動いても捕まる。「子供二人が健全」と言って捕まり、単純労働を「時間
労働だけが売り物」と言って捕まった。警邏巡査が捕まえやすい子どものバイ
クばかりを捕まえるのに似てくる。
どう見てももっとすごいのが、俗悪の臭気芬々たる石原慎太郎みたいなのが強
面だから却ってろくに騒がれずにきて、今度の厚労相は俗臭の少ないぶん余計に
叩かれた。謝ったから叩きやすくなって叩かれるのを見て、これは義にあらず恕
にあらずという気がして一言いいたくてくどくなった。
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◆蛇足
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最後にもう一言。産む、産まない、産めない、産みたくないは論議されたが、
生まれてくる側のことはまったく論議されなかった。余程わたしが幼稚なのかも
しれないが、あらゆる生物とひとしく人間も、なぜ石や金属でなくて水以外は他
の生物を食わねば生きられないのかという疑問と同時に、なぜそもそも生まれて
こなければならないのかという疑問が物心つくころから漠然と心の荷になり始め、
それは濃くなり薄くなり、いまだに素朴未熟で分からないまま諦めてしまってい
る。
だから私には殺生をしない機械には安心するところがある。機械も機嫌がよか
ったり悪かったりするけれど人間のように傲慢なところ生臭いところは少しもな
い。十五歳のころ他生物をいけにえにして生きる罪について話したら家がクリス
チャンの友達が理屈抜きでえらい剣幕で怒り出した。神の定めを疑うことだとい
って怒った。山口高等学校の国史の教授が天孫降臨を疑うことに怒ったように怒
った。そういえばあの子はかしわ屋の息子だったけれど。
その頃読んだ芥川の『河童』には電話の送話器を子宮にあてて生まれるかどう
かを本人に尋ねるところがあった。他の部分は忘れてもそれだけが不思議に鮮明
な記憶として残っている。人間も河童のようだといいなと思った。たしかあのな
かでは子宮のこどもは「いやだ」と言ったのだったと思う。英語を習っていて「生
まれる」は自動詞であってもいいはずなのに、いつでも他動詞の受身しかないの
が心にひっかかった。
健康を売り物にして活躍する老人もいるにはいるけれど、皮膚一枚下に苦行衣
が貼りついたような愁訴をかかえて老残を過ごす人も多い。眼耳鼻舌身意ことご
とく劣化しながら痛覚だけがぴんぴんしていて困っている老人は多い。生きてい
てほとんど意味を失いながら、そのくせ死にたくはないようにつくられているか
ら余儀なく生きている老人は少なくない。生まれたら死ななければならない。ひ
そかに生まれなければよかったと思っている老人もいるはずだ。
だとすると少子化はなぜこまるのか。これからの老人を養うためというのでは
産む側の勝手に過ぎるのではないか。大国である必要はなぜあるのか。フィンラ
ンドは日本と同面積で人口は500万だが、人口56万のヘルシンキには図書館が
38もある。教育がすぐれているのも周知のところだ。自殺者数は2002年WHO
の統計で日本は世界10位、10万人あたりにして男が35.2に対して女は12.8と、
男が女の三倍近い。
なぜ男がこんなに自殺するのかといったことも頭のどこかに置いて、産む産ま
ない問題は考えてもらいたいものだ。そしてなんといっても公害を出す親玉は人
間なのだから、略奪グローバリズムでなく博愛グローバリズムの観点から人口と
密接に結びつく公害と貧困の問題を国益問題、地政学上問題としてだけでなく、
地球温暖化問題の一環として世界大でとらえるようでありたいものだ。
(筆者は大阪女子大学名誉教授)
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≪連載≫
■2、回想のライブラリー(18) 初岡昌一郎
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(1)
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自分の活動的人生の大半にわたる26年間、つまり29才から55才までを労働組
合運動の中で専従活動家として送ってきた。最初の7年間は、全逓信労働組合
(全逓)という郵便労働者の組合の書記局で、その後の20年間は国際郵便電信
電話労連(PTTI)という、郵便電気通信労働組合の国際組織(本部ジュネー
ブ)に雇用されていた。郵便電気通信事業において労働者として働いたことは
ないのだが、その労働組合に雇用されたスタッフであった。
大学を出た時には政治活動を目指していたのであって、労働組合に入ろうとは
必ずしも考えていなかった。われわれの未熟な構造改革論が、社青同と社会党に
おいて政治的なセクト的争いによって否定されたことが、政治活動中心の生活か
ら離れる契機だった。そして、狭義の政治戦略論よりも、関心はより広い思想に
向かっていった。
1960年秋に浅沼委員長が暗殺された後、その秋に委員長代行となった江田三郎の
颯爽たる登場振りは社会党の前途に大きな希望をもたせるものだった。その頃は、
私も社青同本部専従になったばかりの25才、張り切っていた。
この年の夏、安保闘争がヤマを越えた直後、加藤宣幸、森永栄悦、竹内猛とい
う、社会党本部三羽烏に加わって「三分の一をどう破るか」というテーマで、雑誌
『世界』の座談会に出て気負ったことを発言していた。これは、この頃私と意気
投合していた岩波編集部の安江良介が行った企画だった。
この座談会後、懇談の席に眼光の鋭い、半ズボン姿の理知的な風貌の人が加わ
った。これが加藤周一だった。その頃、そしてその後も彼のシャープで、視野の
広い、そして理知的な評論には魅せられた。彼の代表的著作の一つである『日本
文学史序説』(上・下巻)が70年代中頃に筑摩書房から出ると、いち早く買い込
み、拾い読みした。西欧型教養主義の典型的知識人という印象を私がもっていた
加藤周一が、土着的思想から普遍的外部世界への通路をみいだそうとする視点か
ら、広い意味での日本の文学と思想をみなおしていることに、新鮮な衝撃を受け
た。それまで、自分が西欧型世界に理想のモデルをみる視点に深くはまっていた
ことを思い知らされたからであった。加藤は、日本的ナショナリズム的特殊性へ
の回帰とはまったく異なる、日本的伝統思想を普遍性への結節点としてみようと
していた。この姿勢は、今でも朝日新聞に定期的に発表されている加藤のエッセ
イに一貫している。
加藤がその『日本文学史序説』(下)において「内村鑑三と安部磯雄」をとりあ
げた節の中でしていた「現実に超越する正義の立場にたちながら、しかもその立場
と現実の条件との緊張関係を彼みずから生きていた」という内村評は、私の求めて
いた生き方に光明を与えるものであった。
私の場合、それはキリスト教というよりも構造改革論の帰結としての社会民主
主義であった。それは「主義」という、システマティックな理論というよりも、平
和と民主主義だけでなく、社会的公正を追求するという理念であったろう。
60年代に入って日本が高度成長に突入して新しい時代を迎えるようになるにつ
れて、50年末から安保・三池の闘争に象徴される街頭闘争型の短期決戦から、継
続的な陣地戦に関心が移っていった。これは私にとって自然な選択だった。
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(2)
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1964年10月に全逓本部書記局に入り、共闘部(政治国際部)に配属された。
全逓は当時すでに水道橋に9階建ての自前ビルを建設しており、宝樹文彦委員長
を頂点とする全盛時代で、総評の中でも屈指の有力組合だった。
私の初任給は24000円だった。それは郵便局の給与水準に準拠したもので、決し
て高いものではなかった。しかも、大学卒業後「正業」についていなかったため、
前歴計算はゼロ。同年輩では最低の賃金水準だった。
私を勧誘した青年部時代からの親友、新井則久中央執行委員(共闘担当)等が骨
折ってくれ、「通訳手当」という名目で、月2万円という役員並みの手当を付けて
くれた。その代わり、他の書記局員と違って超勤手当はつかなかった。それでも、
これは29才にして初めて手にした“まともな”賃金だった。
最初の給料袋を手にして驚いたのは、社会主義協会機関誌『社会主義』購読代
が給与からの控除項目に入っていたことだ。社青同時代の協会派との抗争を通じ
て、私の協会嫌いは生理的なものにまでなっていたので、これにすぐいちゃもん
をつけた。この頃、すでに全逓本部内の協会離れはかなり進行していた。宝樹委
員長自身が協会を離れ、反協会の立場に移行していたので、まもなくこの控除項
目はなくなった。
全逓には共産党指導(支配)下の産別会議の中核的組合の一つとして戦後名を馳
せた前史があった。産別全逓は民主化運動を通じて分裂、そして新生全逓が生ま
れた。宝樹委員長をはじめとする幹部の多くは、この経験から強烈に共産党嫌い
であった。
全逓は結成後間もない1951年に早くも、国際自由労連(ICFTU)と国際郵便電
信電話労連(PTTI)という、いわゆる西側の国際労働団体に加盟していた。とこ
ろが、郵政省から電電公社が分離したのに伴い、全逓から分れて結成された全電
通は、これらの国際組織への加盟について異論続出でまとまらず、ようやく加盟
にこぎつけるのは、1970年代の山岸時代に入ってからだった。
協会派など左派(共産党を含む)からの宝樹執行部に対する攻撃の矢は、当時、
主として国際関係に向けられていた。「アメリカに主導された国際自由労連という
反共団体」への加盟反対が、主要打撃の方向だった。
私が参加した初めての全逓大会は、1965年夏の熱海大会だった。この大会では
国際自由労連脱退決議が上程され、白熱した討論の後に、採決に持ち込まれて否
決された。それでも、約四分の一の代議員が脱退賛成の票を投じた。
その当時、組合大会出席者は和風旅館に分宿して、修学旅行生と同じように、和
室にスシ詰めになって寝ていた。本部は役員も書記局員も同じ旅館に泊っていた
が、国際問題をはじめ本部が批判されることに、快哉を叫んでいる書記が多いこ
とに驚いた。
産別時代に共産党員書記局員の主導の下に組織が引き回されたという苦い経験か
ら、その反動として書記局員を事務員扱いしようとする役員が多かったのにたい
する反撥も含まれていただろう。全逓のような単一組織は本部が使用者である郵
政省との交渉や折衝を担当しており、郵政職員ないしその出身である役員が当然
のこととして活動と運営の中心となっていた。この点が、ヨーロッパやアメリカ
型の企業外役員を中心とした組合をモデルに作られた、総同盟型組合(ゼンセン
同盟がその代表例)とは異なっていた。
官公労では、省庁のキャリアとノンキャリア構造になぞらえて、役員をキャリ
ア組、書記局をノンキャリアとみるような風潮があった。しかし、当時の組合の
場合には、ノンキャリア組の方が学歴が高く、よりイデオロギー色が強かった。
総評や官公労では、社会主義協会の牙城であった九州大学と東京大学出身が目立
っていた。また、共産党や学生運動を経て組合書記局に入ったものもいた。
しかし、60年代以降、学生運動を経由して労働組合に入るものは激減し、次第に
皆無に等しくなった。それは、学生運動が分裂し、次第にラジカルになるだけで
なく、暴力的傾向を強めたことに大きな原因がある。組合の側でも、新左翼セク
トの潜入を非常に警戒し、公募などで学生を採用することがなくなり、縁故採用
に頼ることが通例化していった。労働組合の企業内化や、組合内でのキャリア機
会の不在が、意欲や志のある学生にとっては魅力ある働き場所とは映らなくなっ
たことも、もう一つの大きな要因である。
ドイツの社民党やフランスの社会党などは、その国の新左翼派学生のかなりの
部分を受容して、その中から活力ある幹部、活動家を生み出した。それによって
党の活性化と新しい時代への先取り的適応をしていく。こうしたプロセスは日本
の左翼政党や労働組合にはなかった。
プロフェッショナルとしての労働組合専従役職員という職業は、日本において
は確立していない。欧米の場合、いったん専従役員となると、多くの人達は生涯
的に労働組合に留まるので、職業としての地位やそれに伴う倫理観や自立心を持
つことになるのだが、日本の場合、多くの役員は人生の比較的短い期間を組合専
従役員として過ごし、しかる後に企業に復帰することが予定されている。またあ
る程度長期に役員として留まる人達も、やがては政治選挙に出るか、外郭団体に
移るかを期待されているし、本人もそれを意識せざるをえないことになる。
役員の交替が特に官公労において激しいのは、役職任期の短い省庁人事文化と
無縁ではない。
私が全逓に入って6年後の1970年、一世を風靡した宝樹委員長とその執行部が
総辞職するという驚くべき事態が発生した。私はこの時、ニュージーランドに出
張していた。秋山実共闘部長から「執行部総辞職、安心して旅行せよ」という電報
を受け取り、思わず苦笑いしたことを思い出す。
今から振り返ってみると、宝樹さんの「長期政権」(といっても10年にもならな
かったのだが)にたいする批判が、参議院出馬を宝樹さんが断ったことから、「人
事の停滞」打破のエネルギーという形をとって暴発した側面が強い。当時、宝樹失
脚の原因として「戦線統一論」提唱や、右翼的政治国際路線にたいする批判が喧伝
されたが、「理屈は後から貨車で来る」(後に民社党委員長となった春日一幸の名
言)であった。E.H.カー流にいえば、先行する動機がそれを実現するために都合
のよい理論を生み出すのである。
この見方を裏付ける例証をあげておくと、宝樹退陣以後も、全逓における自由
労連脱退論は陰をひそめ、国際関係批判もあまり聞かれなくなった。戦線統一に
向けての全逓の立場も基本的に変化せず、政治路線にも変更はなかった。ただ、
宝樹文彦という類稀な立役者を失ったために、世の中にたいする発言力を組合が
失ったことは惜しまれるべきことだった。
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(3)
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全逓に入った頃は、それ以前3年間のソ連やユーゴでの生活、そしてイタリア
をはじめとする西欧社会での経験を通じ、私はソ連型社会主義とははっきり決別
していた。そのささやかな記念碑が、1965年に加藤宣幸さんの肝いりで新時代社
から出版した訳書、セトン=ワトソン『東欧の革命』だった。これは、東欧の革
命が内在的な政治的発展によるものではなく、スターリンによる膨張的世界戦略
にもとづいたソ連の軍事侵略であることを鋭く、かつ詳細に描いていた。しかし、
この本はあまり売れなかっただけでなく、ほとんど注目を集めなかった。
東欧の非共産党系の社会主義・社会民主主義者はもとより、民族的共産主義者
が、スターリン的支配によって、次々とパージされ、粛清された東欧戦後史は、
西欧ではよく知られていた。しかし、日本ではほとんど知られていなかった。と
いうか、無視されていた。チェコなどにおける暴力的な社共合同のプロセスによ
り社民党をつぶし、少数派にすぎなかった共産党が支配権を確立した東欧諸国の
政権に、西欧の社会民主主義政党や労働組合運動が全面否定的拒絶反応を示して
いたのがよく理解できるようになっていた。
私にとって、当時の全逓本部は政治的に居心地の良いものだった。兄弟以上の
関係だった新井則久は上司であると共に、友人であり、同志だった。そして、共
闘部長秋山実がまた良かった。彼は、私がユーゴに留学してまもない頃、ベオグ
ラードに来訪した。ユーゴの労働組合から頼まれて数日間その世話をし、すっか
り意気投合していた。秋山の滞在中、ケネディ大統領暗殺事件が突発したのが記
憶に鮮やかだ。ユーゴ人達がすかさず「ジャクリーンが後追い自殺」というデマま
でつけて流していたことも。
思想的政治的にまだ不分明であった当時の全逓本部において、共闘部は国際的に
はICFTUとPTTIとの密接な連携の推進派、政治的には江田派的だった。それだ
けに組織内からは風当たりも強く、秋山、新井両中執は大会の度に、他の役員よ
りもはるかに多い不信任票を浴びていた。
それだけに、党内江田派の文書が、1966年元旦の毎日新聞で報じられた宝樹文
彦論文による労働戦線統一論を「右翼的」と批判して、一線を画そうとしたことに
衝撃を受けた。これは党内力学を考慮して誰かが書いたものだったと思うが、江
田派文書として新聞に出たからには一人歩きするのは当然だった。さらにその文
書は「政党支持の自由」を主張していたことからも、社会党支持の中核的組合だっ
た全逓、特に宝樹委員長たちを憤慨させた。
その年の夏、熱海で開催された江田派全国集会に久しぶりに参加した。誰に頼
まれたわけではなかったが、江田派文書による「宝樹戦線統一論批判」を再三、発
言して追及した。しかし、会場からはあまり反応はなかったし、もちろん撤回さ
れることもなかった。
この集会以後、江田派の会合に二度と出ることはなかった。その頃になると、
江田派は党内闘争に敗北していたし、構造改革論も党の方針から葬り去られてい
た。私は社会党と距離をおきつつ、次第に労働組合内に埋没していった。
この頃、自分の意見をもっともよく発表した場は、創刊されて間もなかった『月
刊労働問題』だった。国際労働問題のコラムを定期的に担当していたが、それ以
外にも実名とペンネームでほとんど毎号のように書いていた。その当時つかった
ペンネームには寄場良(よせばよい)とか川並進というものもあった。後者の由
来は、その頃新橋の川並という名の小さなビルに国際自由労連東京事務所があっ
たので、そこからとったものだ。
新産別書記長からその事務所長になった落合英一には随分と目をかけてもらっ
た。国際自由労連加盟組合ではなかったが、総評と同盟の間にあって、独自の労
働組合主義を標榜していた新産別とは特に親しくなっていた。
これは、学生時代、新産別の創始者ともいえる細谷松太の日本労働組合運動史を
愛読していたことや、社青同時代から新産別長老で政治部長だった三戸信人によ
く指導をあおいでいたことにもよる。書記長となった富田弘隆は社会党青年部の
先輩であり、特に親しくしてもらった。彼の依頼やすすめにより、新産別機関紙
にはしばしば寄稿していた。
この後、構造改革派は思想的には二つの方向に進んでいったと思う。一つは、
松下圭一に代表されるように、大衆的市民社会の成立を重視し、市民団体の自主
的活動と地方自治体の役割を重視する方向である。この分野は、構改派の専売特
許ではないとしても、大きな成果があげられてきた。もう一つは、佐藤昇自身が
その道を歩んだように、社会民主主義への方向であった。この分野では、それほ
ど目覚しい発展があったとは思われない。
そして、労働組合内にいた構改派的な人達は、労働組合における戦線の統一と、
政治的には社公民路線といわれる、よりましな政権選択の道を追求するようにな
っていった。
(筆者は姫路獨協大学名誉教授)
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≪連載≫
■3、部落解放運動に生涯を捧げた
日本青年館の職員=北原泰作 富田 昌宏
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日本青年館(大日本青年団を含む)に勤務した職員の中には、鈴木省吾元法務
大臣や望月新一全国開拓農協連会長など異色の人材が多い。生涯を部落解放運動
に尽くした北原泰作もその一人で、今回はこの偉大な先人について書いてみたい。
北原泰作は明治三十九年岐阜県に生れた。小学校五年の時級長に当選したが、
担任の教師は「この選挙は参考までにやった」といって、大地主の息子を級長に
指名した。北原が被差別部落出身であったからである。学校では同級生から部落
出身者は賎称語で蔑まれ、世間の冷たい風にさらされた。
小学校高等科を卒業した北原は十七歳の春に東京に飛び出したが、予定してい
た就職先が身元調査をやるというのであきらめた。部落出身と分れば希望する働
き口を断わられるのである。そこで新聞配達をしながら神田の予備校に通った。
北原はその新聞の記事を通して京都の水平社運動を知り、異常な感銘を受けた。
早速郷里に帰り、京都の本部と連絡をとり、部落問題を学びながら解放運動に身
を投ずるようになる。
水平社運動は大正十一年に京都の岡崎公会堂で全国の部落民代表四千人が集
まり「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」ではじまる大会宣言を採択し、
弾圧と戦いながら全国的な解放運動を起こすのであるが、その発祥は奈良県南葛
城郡で、掖上村柏原青年団の西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作の三人によってノ
ロシがあげられた。
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■水平社運動の闘士
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水平社運動の闘士として知られるようになった北原は適齢期に達し徴兵検査
をうける(当時、兵役は国民の義務であった)。だが検査官の指示に従わず、筆
記試験では白紙答案を提出した。入隊式には営門に到着するまで、集まった群衆
や警備の憲兵を前に、反軍演説をぶちまくった。
当時、日本の軍隊は世界一の厳しい規律で知られ、上官の命令は絶対服従の社
会であった。北原はこの軍隊の中で不服従、反抗を通し解放運動をすすめようと
した。入隊式にはただ一人髪を伸ばしたまま、宣誓式では宣誓を拒否した。また、
上官に敬礼せず、理由を聞かれると「わしはあんたを尊敬していない、それで敬
礼する必要はない」とせせら笑って答えた。こうした抵抗運動に中隊長や連隊長
も手をやき、北原には手を出すなと部下にいい聞かせるようになったのである。
ある日、古参兵がスリッパの修繕をしながら行なった差別発言に激怒した北原
は、連隊主催で差別撤廃の講演会を開くことを要求した。これを拒否された北原
は、軍隊内の差別撤廃運動は外部の同士と共闘しなければ目的は達成できないと
考え、無断で脱走し、外部との連絡をとった。一週間ほどして帰隊するが、その
まま二十九日間の重営倉に処せられた。拘置所内で北原は断食で抵抗した。中隊
長は北原の妹や両親を呼んで説得に当る。
やがて全国水平社東海連盟の代表が訪れ、軍隊内での差別問題を詰問する。連
隊長は会見の席で「北原を軍隊内でたたき直すつもりだったがとうてい直すこと
は出来ないと分った。北原を帰します」と言明。
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■天皇に直訴
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そして北原が軍隊内で最後に打った前代未聞の奇手は、天皇陛下への直訴であ
った。昭和二年十一月十九日、名古屋方面での秋の陸軍特別大演習の最終日、馬
上で閲兵中の天皇陛下にかけよって直訴状を差し出した。その文面は「恐れなが
ら訴におよび候」ではじまり「一、軍隊内における特殊部落民に対する賎視差別
は、封建制度下に於ける如く峻烈にして、差別争議続発し、その解決に当る当局
の態度は被差別社に対して些少の誠意もなく、むしろ弾圧的である。二、三(略)
右の状案御聖察の上聖旨を賜りたく訴願におよび候、恐々謹言、昭和二年十一
月十九日、第六八連隊二等卒北原泰作」というものであった。
この事件は記事差し止めとなり、解禁は四日後であった。北原は懲役一年の刑
に服した。『昭和史発掘』第二巻で「北原二等兵の直訴」を取り上げた松本清張
は「未解放部落に対するいわれのない差別観念は、今でも拭い切れていない、い
わんや昭和二年の当時である。北原二等兵の行動はそれに対する激しい抗議であ
った」と結んでいる。
その後、北原は日本青年館で働き、さらに部落解放運動に身を挺する。戦後は
部落解放同盟中央執行委員、書記長や同和対策協議会委員(総理府委嘱)として
活躍するが、この偉大なる闘士、青年団の先輩も今はない(昭和五十六年一月没)。
存命中一度ご来館をいただいた。その時私は色紙に一筆書いてもらった。それ
は〃地にあるものは落ちることなし〃であった。先生の信条が直に伝わる言葉で
あり、今も大切に保存している。(文中敬称略)
(筆者:元財団法人日本青年館常務理事、元法務省人権擁護委員)
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【北から南から】
■1、春節以後の北京事情 谷 洋一
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◆悠長このうえない中国の春節◆
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今年の北京は「冬を忘れたかの如き毎日」である。中国最大の祝賀行事・春節
(旧正月)もまた例年にない温暖な日々だった。参拝者が押し寄せる寺院では獅
子が舞い、市内要所の歩行者天国には延々と露店が並ぶ。その賑わいは「迎春祭
り」かのようである。
何といっても圧巻は、市内全域に轟く爆竹音である。それも「千連発」型。直
径50cmの「連発打ち上げ」型を、昼夜を問わず団地広場や道路で破裂させる。
最初は新年の熱烈祝賀と思って耐えたが、耳に突き刺す連日の爆竹に「もうたく
さん」と逃げ出したくなる思いであった。
《中国人は縁起担ぎがお好き》
「毎日、毎日、何が楽しいのか」と思うが、春節に心弾ませる人々は「この音
を聞かなければ春節が実感できない」という。わが集合住宅の住人も「去年の愁
いを吹き飛ばし、新年に福を呼び寄せる“まじない”だよ」と笑っていたが、五
千円、一万円もする大型の爆竹を放つ商売人たちは、さしずめ「千客万来」とい
う事だろう。
新年に先立つ大晦日の一日だけで「北京全体で集積された燃え空のゴミが900
トン」と報道。何事も規模のデカイ国だが、「縁起」担ぎの好きなは、悠久の歴
史による国民性でもあろう。日本人も門松、しめ縄を飾って悪霊を払うのが慣習
だから「動」「静」の違いはあるが、似た者同士である。
《爆竹という名称の由来》
「爆竹」とは、その昔に竹を燃やして「パン、パン」と破裂させ、新年を楽し
んできた事に由来する。やがて竹筒に火薬が使われるように成り、今では花火型
に包装した大型連発へと変化してきた。華北一帯は、冬の厳しさによる迎春の喜
びが一際、大きいので途絶えることなく春節名物?と成っている。
北京市は首都の平静を保つため一度、爆竹を禁止した。しかし、反対世論に押さ
れて3年ほど前に再び解禁へと譲歩。かつては深夜にも破裂音が轟いたが、それ
が止んだのは市民の側も僅かとはいえ自重が覗える。
《いま何故、旧正月なのか》
中国は、農民人口が80%を占める農民国家。革命後に元号を廃止して国際社
会に順じた西暦一本化した。が、最大人口の農民に配慮して旧暦の正月を今も踏
襲している。
中国の四季は、日本より一ヶ月早く循環する。12月〜1月に厳寒期が過ぎ、
2月に初春を迎えと農民の種まき準備が始まる時期に標準を合わせているとい
う事である。日本も一昔前まで中国伝来の元号による旧暦に沿って旧正月を祝っ
ていた。新暦に変っても真冬の最中、初春でもないのに年賀状に「賀春」「迎春」
と書くのは、その慣習であろう。
春節期間は2月18日〜24日の一週間。北京市は、海外企業に対して「春節
は中国人にとっての重要な祝賀行事」である事に理解を求め、「期間中は中国人
を働かせてはいけない」旨の通知を出している。しかし、「一週間」という期間
は、北京市が独自に決めているに過ぎない。全国的に春節期間は、15日間が慣
例で「悠長な事、このうえなし」である。
《日本人口に匹敵する民族移動》
中国の巨大人口を名実と共に実感するのが、春節を前に一斉に動き出す里帰り
である。列車もバスも鮨詰め状態で、「帰郷者は全国で一億人余」と報道してい
た。その規模は、日本人口に匹敵する人間が一斉に動くに等しく、「大民族移動」
と比喩されるのも過言ではない。
大方が内陸各地の農村への帰郷のため、行きも帰りも列車の乗車は20〜30
時間が常識。気の遠くなるような長さである。北京の底辺労働やサービス業界は、
その男女で埋め尽くされている。一年ぶりに帰郷する人々は、ゆっくり家族と過
ごし、3月下旬まで戻らない人も多い。
他方、ホテルや料理店などは少ない従業員で営業。雇主との合意とはいえ、交
代勤務の割り当てで帰郷できずに家族を想い、郷愁の念を抱きながら働き続ける
人も多いのが現状だ。
【取材メモ】日本の古代史研究によると、門松とは中国唐代の新年風俗だった。
「松と竹は厳寒に耐えて冬にも変色しない」中華思想に基づくが、それを遣唐使
が日本伝え、貴族社会から民衆の慣習へと定着したとされている。
しめ縄とは、遠き弥生期に稲作に伴って伝来した渡来倭人の古代宗教がルーツ
と考えられている。それを裏付けるように古代に倭人が移住した東南アジアや朝
鮮半島の一部にも「しめ縄や鳥居の習慣が残っている」ようだ。その点は鳥越憲
三郎(大阪教育大教授)著の『中国と倭人』に詳しい。中国では、双方とも歴史
の流れに衰退し、完全消滅している。
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◆歴史に培われた北京人の過剰な防犯感覚◆
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北京には、各区に警察署はあるが、日本のような派出所はない。昼夜の警官パ
トロールも殆ど見かけない。温暖な昼さがりに年輩婦人たちが、「治安巡回」の
腕章を巻いて団地周辺を“のんびり歩き”している程度である。それでいて「首
都北京は、治安が良い」というのが定説である。
そうした現状とは逆に、北京人の住宅の玄関は何処も二重ドアであり、集合団
地1〜2階の窓は、決まって鉄格子が張られる厳重さだ。そこに見る微妙な矛盾
を深く考えないまま、直感的に現金やパスポートを盗られてはお手上げなので、
その保管には神経を尖らせてきた。ところが二年近く北京に住んで空き巣の気配
も無ければ、実際に「泥棒に遭遇」した話も耳にしない。財布をすられたとか、
自転車を盗られたとか、他人話のコソドロばかりである。
《過敏症になる要因》
開放政策による自由化は、「生活向上と引き換えに人心が荒廃」した。加えて
北京には、現金収入を求めて内陸部の農村から出稼ぎの外省人が300万人規模
で押し寄せている。都市に出た彼らは、食住の確保が先決だから食住付きの求人
に“潜り込む”ように就労する。北京に戸籍がある人は、月額6500円程度の
生活保護を受給できるが、戸籍のない出稼ぎ外省人は枠外である。職に就けずに
収入が得られなければ、生きるために乞食か泥棒に走るしかない。日本にも言葉
を話せない外国人が増え、職に就けないまま、生き抜くために泥棒に転落してし
まう事例と同様である。そんな情況下で「日本人は金持ちと思われているから注
意して下さい」などとアドバイスを受ければ、過敏症になるのも仕方ない。しか
し、2年近く北京に住んで「単なる思い込み」に過ぎないのではと、こんな実感
を深めている。
《日中は共に塀好き文化》
中国の歴史は、遊牧民の侵入や王朝防衛のため万里の長城で国を遮断し、宮城
はもとより都市全体を高い塀で囲んできた。それに習って住居も土壁で囲んで防
備する4000年の長い習性を持つ世界でも特異な国である。
そこに示された伝統的な用心深さが、所得格差の拡大する現代において「備えあ
れば憂いなし」の防犯意識となって、再び市民社会に息を吹き返しているという
ことである。故毛沢東は生前、「制度が変っても旧社会から受け継がれた人の頭
は何も変わっていない」と語っている。現に日本の「塀好き文化」も中国の慣習
が伝来して生まれ、今に引き継がれている。
《偏見が生む用心深さ》
また、中国の歴代王朝は、周辺国を「文化を持たない蛮人」と見下し、朝貢に
よって属国の認可を与えてきた。その優劣意識は「優れた家電、アニメを作る日
本人を優秀民族?」として接する反面、顔も服も汚い貧しい国内人民を見下す傾
向になって現れている。
そんな蔑視による偏見が、都市貧民に対して「泥棒しかねない連中」と思い込
んでいる節がある。つまり、旧社会から引き継がれた防備観念と貧民への偏見が
先述した“過剰防犯”の住宅現象となっているというだ。
《日本人会にも強い偏見》
その偏見は、現地日本人にも少なからず抱いていると思われる。その典型が一
昨年の日本人会主催の「秋祭り」の事である。
旧知の中国人家族を誘って出かけたら、会場の日本人学校は門を閉ざし、「会
員の方以外は参加できません」という。押し問答の末、責任者が出て来て「会費
を払って登録すれば入場できますが、中国人は事前の参加登録が無い方はダメで
す」の一点張り。「垣根を造って選別しないと中国人は危ない」とばかりの偏見
である。日中友好を掲げてこの始末である。それでいて「日本人会は北京の情報
源」の言葉が巷に一人歩きしている。
在米イスラム人に対して「テロをやりかねない人々」と疑惑を抱く米国。反日
デモが報道されて「中国人は反日感情が強い」と短慮に思い込んでしまう日本。
いずれも偏見と蔑視による社会現象である。
《貧民は必死に生きている》
農村から出てきた彼らに直に接触すれば分る事だが、都市の人間に比べて極め
て素朴で純粋。物欲が少なく、窮乏生活に耐え抜く逞しさを備えている。同郷人
の連帯感も強い。それに北京には、最低1日10元(150円)以下で食える社
会基盤がある。だから北京人は、職がなくても薄給の底辺労働には、面子もあっ
てか、就かないのが実情である。
外省人の流入を含めると北京の人口は約1500万人。うち底辺の貧民は、最
大に見積もって20%として300万人。仮に「その1%が食えずに泥棒に走る」
としても3万人。あえて女人や就労人口を除けば、せいぜい「数千人ではないか」
と思う。
「甘い」と言われるかも知れない。しかし、各種の建設現場で肉体を駆使して身
体を張り、実際に中国の経済建設を支えているのは、ほかならぬ農村からの出稼
ぎ労働者である。それに貧民たちは毎日、ゴミ集めや街の清掃、家政婦や警備員、
路上の小銭商売など精一杯、生きている。仮に北京で1万人が盗みに動けば被害
が蔓延し、「治安が良い」などとは、とても言えないはずである。
《貧富共存が北京の活力》
警察も特別な任務でない限り、日本のように銃も警棒も携帯していない。丸腰
の気楽さを見ても「実際は思い込まれているほど泥棒は多くはないのでは...」
とも思える。
「乞食や盗みの自由があるから貧民も生きていける」と寛容で心優しい北京人
も多い。改革開放から30年、「豊かに成れる者から豊かになってよい」とした
ケ小平の号令によって富裕層・中間層・貧民層が楕円状に浮き出た格好で共存し
ているのが、躍動する北京の活力源でもある。
【取材メモ】紀元前500年の昔に孔子は、「衣食足りて礼節を知る」と名言を
残している。現代の中国においても言い得て妙である。食えなければ礼儀も人々
の偏見も構っておれない。孔子が残した「富める人にも悩みが有る、貧しい人に
も楽しみが有る」との名言も然りである。そこに貧富の差を超えて共存する土俵
を成している。貧民にも等しく人権がある。日本人は自由な市場経済を是とする
なら蔑視、偏見からの脱皮が問われている。
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◆中国人の髪?でお洒落する日本女性◆
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北京の古美術文化街「琉璃廠」。そこは日本人観光客も案内される場所だが、
その西街の奥には露天商いをしている人々が多い。いずれも北京の外から来て既
存商店の軒下を借り、道路にはみ出して骨董品や印鑑商売をやっている。
処場代、仕入れを差し引いても月額3万円程度の計上益があるので「勤めに出る
より少しまし」と聞く。貸す側も「処場代で家賃の補充益」になるので共存共栄
というわけだ。
《人間の髪を売買する商売》
ところが来年の北京五輪に向けてか、市の道路整備に立ち退きを迫られ、何処
となく消えてしまった。昨年、晩秋の事である。
懇意にしていた董建氏(35歳)夫婦は、場所代えを考えたが空きがなく、郷里
の山東省に引き上げた。別れ際に「故郷にカツラを作る仕事が見つかりました。
最近の新ビジネスですが、稼ぎがいいようなので仕事替えです」という。詳しく
聞くと「人間の髪を買い上げ、カツラ加工する仕事」らしい。「夫婦仲良くお元
気で」と握手して別れたものの「人の髪など仕事になるのだろうか」と疑問に思
い続けていた。
《氷解した疑問》
しばらくして東京の自宅に一時帰国したときだ。学生を謳歌している末娘が、
茶髪の長く奇妙な髪型をしているので「何だよ。その髪は...。うっとうしい
から切りなさい」と言うと笑いながらの返事がこうだ。
「これカツラだよ。今や皆やっている事で最近の流行だよ。髪は中国製らしいけ
どね」。娘によると茶染めの髪は、まさにホンモノ。美容院で自分の髪にうまく
セットしてくれるらしく、肩下まで長く伸びている。「バカ丸出しのお洒落」と
思うのは親父だけ。本人は得意顔でこうも言う。
「髪質によって値段は違うが、セット料含みで約1〜2万円。寝る時も外す必要
は無く、洗髪も可能で概ね一ヶ月程度は大丈夫」と。
それより「中国製らしい」という娘の言葉が、北京を離れてカツラの仕事に転換
した夫婦と重なりあって抱いていた疑問が氷解したような気分である。
《自然に近い中国人の髪》
日本では、今や髪を売る人も買い上げる人も居るはずない?と思う。しかし、
中国では一部地域で「女は20歳に成るまで髪を切らない習慣がある」と聞いて
いるし、チワン族自治区の苗族の女は、膝まで延びた長い髪で有名。小銭商売が
万余と存在する中国なら十分に有り得る話である。
日本女性の髪は、パーマや染色、毎日のアサシャンで痛んでおり、髪型に金を
掛ける人が少ない中国人の髪の方が自然に近いのであろう。若い日本女性が毎月
ペースで、お洒落の髪を取り替えて売れていくなら「人の髪に需要アリ」である。
まさに山東省のカツラ事業とは案外、わが日本市場に需要があるに違いないと思
う。
《知られていない口紅の秘話》
それにしても日中貿易は、いまや日本女性の「人間の髪」にまで及んでいるの
か、と一人笑ってしまった。女性は、大方が口紅の原料が何なのか知らないまま
毎日、自分の唇に塗っているように思える。同様に自分のカツラが誰の髪かも無
頓着のまま、頭を飾っているという事だろう。
ついでながら日本の美容一筋40の年専門家から聞いた口紅に触れておく。旧
友の彼が吐露した話によると「口紅は、羊(マトン)の油に直物色素を加味して
染色加工したもの。羊の油は人間の肌に最も近い」そうである。その原価は安く、
店舗で1万円以上もするのは、「安いと売れない」女心を見込んでの事。化粧品
の大方が、広告宣伝にマインドコントロールされている。
【取材メモ】人類学者の埴原和郎東大教授は、「弥生期千年を通して渡来人の規
模は、縄文人30万人の4倍、120万人以上と推定される」としている。頭部
遺骨や土器の違いをシュミレーション算定したものである。
その仔細はともかく、日本人はコメを主食とし、漢字文化を共有し、古代から中
華文明に吸収してきた民族だ。その意味で日本女性が中国人の髪でお洒落しよう
が楽しければ問題はない。日中両国が歴史的に「帯衣の関係」にあった。それが
時代を経て再現されているに過ぎず、笑う方が古いのかも知れない。
ちなみに世界の化粧品が中国市場に進出するなか、資生堂製品の市場シエアは、
1%程度らしい。
(筆者は東京北京藝術空間顧問・北京在住)
≪筆者紹介≫1944年三重県生まれ。還暦を契機に単身で北京に移住。中国と
歴史研究を趣味に「知る」を楽しんでいる。原稿に対する疑問、意見があればオ
ルタ編集部か、直接、筆者にメールすれば必ず返信される。メールアドレス:
taniyoji@yahoo.co.jp
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【北から南から】
■2 2007年私の春節 佐藤 美和子
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今年の春節(旧暦の正月)は例年に比べてかなり遅く、2月18日が元旦にあ
たる『初一』でした。
春節の時期は前後約一ヶ月にわたり、中国では民族大移動で交通が混乱します。
まず、一足先に冬休みに入った大学生から、帰省のための移動が始まります。ま
た、春節をきっかけに退職して、故郷へ帰る出稼ぎ労働者も多いです。ワーカー
さんたちのお給料では飛行機利用は難しいので、列車や長距離バスを乗り継いで
帰ることになりますが、そうなると移動時間だけでずいぶんかかります。春節休
みはせいぜい7〜10日程度、せっかく帰省しても移動時間を除けば実家にいら
れる時間がわずか数日ではあまりに寂しい・・・・・かといって、春節休みに続
けて休暇を申請しても、許可されるはずがない。ボーナスも貰った事だし、じゃ
ぁいっそのこと辞めちゃうか!となっちゃうんですね。
みなさんに中国の広大さを実感していただくために、少々極端な例ではありま
すが、中国東北部の黒龍江省から広東省へ働きに来ていた、私の友達の帰省ルー
トをご披露してみましょう。
まず広東省東莞市・某鎮にある会社から、バイクタクシーでバス乗り場へ15
分。このバイクタクシーというのは、250ccのバイクに、ドライバーのおじさ
んにしがみついて2〜3人乗りするものです(但し、現在は東莞市内では禁止さ
れています)。そこからバスで、広州へ1時間半。広州から北京までの列車が
22時間半。北京で列車を乗り換えて、ハルピンまで更に10時間余り。ハルピン
からまた実家のある村までバスで約半日。
単純に合計しただけで、40時間以上です。これに、乗り継ぎにかかる時間を
含めると、なんだかんだと片道で3日かかるそうです。ということは、もしその
年の休みが7日間だったとしたら、往復6日間、実家滞在はたったの1日・・・・・
ほとんどとんぼ返りですよね。しかも一大イベントの春節なのですから、行きは
家族や親類への重たいお土産を山のように抱えつつ、帰りは帰りで遠く一人ぼっ
ちで働く我が子のために、親が故郷の特産物をたんまり持たせて送り出すので、
やっぱり大荷物・・・・・の、とっても重労働な移動なのです。こんな長時間の
移動、話を聞いているだけでもみなさん疲れてきませんか(笑)?なにせこちら
では、
「私の故郷はここからとっても近いですよ〜、だってバスで7時間しかかかりま
せんから!」
という感覚です。私なら、3時間以上かかったら、「遠っ!」って思っちゃいま
すけどね。
さて、今年の春節は、相方の故郷でもあり、私の懐かしい留学時代の思い出の
地でもある、北京で過ごしてきました。私にとっては4年ぶりです。
学生時代には60リットル容量もの特大リュックを背負い、1ヶ月もの放浪の旅?
をするバックパッカーだった私ですが、この年になるとさすがに激しい民族大移
動にはついていけません。ということで、大晦日の『午後便』で、北京へひとっ
とび!する事にいたしました。
これがですね〜、実は穴場なのですよ。ほとんどの人が春節初日の2日前まで
には移動するので、前日午後となるとぐっと落ち着いてきます。更に我々の目的
地・北京は、そこから東北などの周辺都市への乗り継ぎ客がけっこういるのです
が、そういう人は当日中に目的地へ着けるよう、午前便で北京へ飛ぶのです。だ
から、午後便ならば満席にもならず、ゆったりできてチケットも安い!というわ
けです。えへへ、なかなかよく考えているでしょう?
北京では、大晦日の晩は親族一同が集まって、みんなでこれでもか!というほ
どの大量のご馳走を作ります。数えませんでしたが、コールドディッシュ・お肉・
海鮮・野菜・豆腐料理といったおかずだけで、40品くらいはあったかしら?テ
ーブルが料理の重みできしみそうなほどお皿が積み重ねられていると、もう自分
がどれとどれを食べたかなんてサッパリわかりません。
そして食事の後半にはどどーんとこれまた大量の水餃子が茹で上げられます。こ
れは中国北方の習慣で大晦日には必ず食べる、日本の年越しそばのようなもので
す。小麦粉で皮を練るところから作るので、大勢で寄り集まってワイワイおしゃ
べりしながら皮を作ったり包んだりと準備するのです。これが、久々に家族が揃
った一家団欒の象徴なんですね。
うちの相方の実家では、ここ数年、二種類の餃子の具を用意しているそうで
す。というのも、身内にイスラム教徒の回族という少数民族のお嫁さんを貰っ
た人がいるから。イスラムの彼女は、豚肉餡の餃子が食べられません。そこで
彼女のために、羊肉餡の餃子も作るようになったそうです。
ご馳走をつつき、お酒も入ってにぎやかになった頃、ご近所じゅうで爆竹や花
火の大響音が炸裂し始めます。
大昔、毎年きまって大晦日に子供をさらいに村へやってくる『年』という化け物
がいたため、その『年』が嫌いな赤い色と爆音で追い払うために、大晦日には必
ず家々の軒先で爆竹を鳴らすようになった、という物語があります。今の中国の
若い世代はただ爆竹を派手に鳴らして遊ぶのに夢中で、そんな由来を知る人も少
ないようですが・・・・・。
私たちも何百連発?だとか、日本でこれを花火師以外のシロウトがやったら逮
捕だよ・・・・・というくらい大型の花火をバンバンあげて、お正月の雰囲気を
盛り上げました。北京中の人が一斉に鳴らすので、もう鼓膜が破れるんじゃない
かと思うほどのすさまじさなのですが、周りの中国人はぜんぜん平気な顔をして
いるんですよねぇ。なんだか鼓膜ひとつとっても、中国人のほうがたくましいん
だなぁ・・・・・と、ひ弱な鼓膜の日本人である私はその数時間、ずーっと両手
で耳をふさぎっぱなし、腕が鉛のように疲れました・・・・・。
今回、私が北京へ行った目的の大半は、北京で大好物の羊肉料理をたくさん食
べること!と、留学時代からの友達に会うこと、でした。羊肉のほうはもちろん
深センでもあるものの、どうも気候の暖かい南ではおいしくないのです。しかも
南では薄切りにして、しゃぶしゃぶなど鍋料理に使われる程度で、羊のカタマリ
肉なんて滅多にお目にかかれません。長年その理由がわからなかったのですが、
最近、
「羊肉は、中国医学では体を温める作用をする『陽のもの』に分類されるからね。
暑い南でさらに体を温めるものなんて食べていたら、体に熱がこもって体内のバ
ランスを崩してしまう。だからおいしくないと感じるのは、もっともなことなん
だよ」と知人に教えられ、目からうろこでした。中国に住んでまもなく10年、
私もいつの間にやら中国医学理論を頭ではなく、体で?会得しつつある模
様・・・・・。
私の北京の友達というのは、同い年のチベット族女性です。
彼女はチベット族のなかでももっとも体格が良く、勇敢なことで知られるチベ
ット・カンバ族という少数民族で、名前もチベット名を中国語音に当てた漢字を
使っているため、中国人にしては風変わりな名前をしています。そしてやはり彼
女の一家もみな大柄で、末っ子の彼女を含め、3姉妹とも女性ながら170センチ
はあります。
91年に知り合ったので16年来の友達なのですが、知り合った当初の私はカタ
コトにも及ばない中国語力でした。それなのに、なぜか彼女とは不思議に互いの
意志が通じ合い、それ以来の大親友なのです。
その彼女ですが、去年一年間、アメリカへ留学していました。元々英語が好き
で、大学時代からずっとこつこつ勉強していたのですが、去年、民間の留学支援
団体の試験に合格したのだそうです。しかも、本来中国ではアメリカのビザを取
るのはそう簡単な事ではないのですが、申請から1ヶ月ほどであっさり許可が降
りたとのこと。彼女いわく、もし同じ試験に合格して留学できる事になったのが
漢民族や、他の少数民族ならもっと時間がかかっていただろう、こんなに簡単だ
ったのは自分がチベット族だからだろうね、とのことでした。そうか、アメリカ
はチベットや東トルキスタンの人権問題に敏感だからなのか!と、思わぬところ
で国際政治問題の末端を垣間見ることができました。
深センには、春節4日目に戻ってくる予定だったのですが、この時は本当に、
どえらい目に遭ってしまいました。
その日は朝からすごい霧だなぁとは思っていたのですが、17:40のフライトに
合わせて空港に行ったらば、その時点で朝7時台のフライトですら、まだぜんぜ
ん飛んでいなかったのです。
「霧のため、18時以降の便はすべて欠航」というニュース、空港到着寸前にや
っと知ったのですが、うーん、我々の便は18時以降じゃないけどギリギリだよ
ねぇ、こりゃ北京にもう一泊ですか?と半分覚悟を決めてチェックインカウンタ
ーに並んでみました。
結果、交渉の末、朝飛ぶはずだった便に変更してもらえる事になりました!だ
って、少し霧がおさまってきた夕方にやっと朝の便から飛ばし始めるのですから、
17時の便なんてぜったい結局キャンセルになるのは目に見えていますしね〜。
たぶん、朝の便がいつまでも飛ばないから列車に変更したり、早々に諦めて翌日
便に振り替えた人がいたりして、いくらか空席がでていたのでしょう。その隙間
に、うまくもぐり込めたってわけです。変更した便は、元々朝7時台に飛ぶはず
だったもので、なんとか今日21時ごろには飛ぶでしょう、とのことでした。
21時までの約4時間、あちこちで長時間待たされ過ぎてイライラが爆発した
乗客が係員につかみかかっていた人や、殴り合い寸前になって公安にしょっ引か
れていく乗客も出てくるわで、なんだかすっごい騒ぎをたくさん目撃してしまい
ました。搭乗口待合室では、荷物を抱えてぐったりと疲れきった人々でごった返
すなか、待合室の椅子の取り合いでケンカをしている人々、退屈なので騒ぎを聞
きつけて野次馬しにくる人々、諦めてそこここの床にどっかり座り込んでしまう
人・・・・・。私はそんな騒ぎを見学しつつ、空港の本屋さんで急遽購入した『数
独』パズルの本で遊んでいたので、あまり退屈はしなかったですけどね〜(笑)。
でも、我々と同じ便で深センに着いたらそのまま香港経由で国外へ飛ぶはずだ
ったのに!という、怒り狂っている女性から
「飛行機に乗り込んだら、乗務係員がなんと言おうと、みんなで着席を拒否して
抗議してやろうよ!みんな、ちゃんと協力してよね!」
と声をかけてこられた時は、さすがにちょっぴり怖かったです・・・・・。だっ
て遅延原因は天候ですよ、航空会社だってどうしようもないんじゃ?などと言お
うものなら、余計に怒らせて首絞められちゃいそうな勢い・・・・・。
そういうフライト遅延にたいする中国式?抗議について、ニュースではなんど
か見ていましたが、うわぁ本当だったんだ!と恐怖半分、面白いもの見ちゃった
という好奇心も実は半分。でも私は元々17時のフライトを変更してもらって21
時に飛べる事になったのだけど、他の人達は朝の7時から待っていることを考え
れば・・・・・でも航空会社に食って掛かったからといって、どうにかなる問題
でもないしなぁ・・・・・。
私の目からすると、乗客の少ない地方都市向けの便は欠航にして都市向けの便
に切り替えたり(欠航になった便の人たちには気の毒ですが)、一度のフライト
で少しでも多くの人間を運んでしまえるように大型機に変更したり、航空会社の
方もなかなか努力はしていたと思います。
結果的に、21時と言われていたフライトは、空港内をだいぶ移動させられて
から21時半に飛行機になんとか乗り込めることになりました。が、この搭乗口
変更のアナウンスにも大ブーイング!でもこれは、大型機に変更したためなの
に・・・・・移動させられるのは面倒だけれど、それくらい協力しようか、とは
誰も思わないんですよね・・・・・。しかし、これでやっと出発できると喜んだ
のもつかの間、今度は管制塔から離陸許可が下りないとかで更に1時間半も狭っ
まーい座席に縛り付けられたままで過ごし、23時にやっとのことで離陸できま
した。
深セン空港に着陸したのが、もう深夜の2時過ぎですよ・・・・・。白タクの呼
び込み集団に囲まれつつも、何とか振り切って正規タクシーに乗り、140キロの
スピードで飛ばして家に辿り着き、ベッドにもぐりこんだのが明け方。さすがに
翌日はへたばって、一日寝て過ごしました。
行きは中国大民族移動を避けられるよう、知恵を絞ったつもりでしたが、図ら
ずも帰路にしっかり体験させていただく事になってしまいました。きっと、これ
を味わってこそ、中国の春節!ということなのでしょう・・・・・。来年からは、
深センで寝正月ならぬ、『寝春節』にしようかな・・・・・。
(筆者は中国・深せん在住・日本語教師)
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【北から南から】
■3 佐藤さんの中国便りをメルボルンで読む 入江 鈴子
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佐藤さんの中国便りを読む度に私は、25年前の私の在英当時の体験と重なっ
て思わず吹き出してしてしまうことがあります。
歴史や文化更に民族の気質などが全く違う英国と中国。にも拘らず、なぜか
佐藤さんの体験しておられることに、25年前の私の体験が重なってしまう。そ
のどの部分に私が吹き出してしまうのだろうか・・と、私は自分の思い出を甦
らせながら考えました。
経済成長がその頂点を走りはじめた1980年代の日本でした。海外進出をめざ
した大小600余りの日本企業が英国にも支社を設立し、日本人駐在員の住宅確
保や個人投資家の物件の売買などと、まるで日本資本の襲来のようにすらみえ
ました。
俄仕立ての不動産業者や日本人ツアーを受け入れる旅行業者など次々とでき
た。が、そのマネージメントは誠にお粗末。売買済みの物件を紹介したり、物
件の住所を書いたメモを渡され、やっと探しあてた住所には物件はないなどは
日常茶飯事でした。
支払い済みの請求書、その領収書のコピーを見せても、なお送られてくる請
求書に苛立つ日本人。仕事の約束を守らせるために、どれ程エネルギーを消耗
したことか。当時の在英日本人駐在員とその家族のストレスは大変なものでし
た。私はB&Bをしながら彼らや日本人留学生の精神的ケアーをしていました。
サッチャー首相の登場により労働組合は徹底的に骨抜きにされ、「日本人のよ
うに金持ちになりたかったら働け、働け」と叱咤され続けられていた英国人でし
た。店頭に並ぶmade in Japanの電化製品を驚異と羨望の眼で覗みながら、
また50ポンド札を手にした日本の高校生が、ブランド商品に群がっているのを
軽蔑の眼で見ながらも、当時の英国人の心境は誠に複雑でした。(当時は20ポ
ンド札が庶民にとって大金でした。)
何の準備もない時に、急激に流入した他国の文化。それを受ける人間達のプ
ライドと好奇心、このミックスされた心理状態を整理する余裕もない。その人
間達の狼狽と焦りが無秩序となる。時間の長短は別として文化の交流期にみる
この現象を私は英国で充分味わってきた。「日本企業を成功させたマネージメン
トの秘密は何か」を知るために焦っていた英国人に、私は日本語を教えながら
その問いに答えていました。
佐藤さんの中国便りに私の経験が重なる部分は「完璧主義のビジネスに徹す
る日本人を相手に狼狽する中国人と、英国でみた25年前の日本企業を相手に狼
狽していた英国人」だと思います。その狼狽がなんとも愛しいやら、じれった
いやら、で吹き出してしまうのです。
英国人も中国人も、中味は違っても日本人には到底及ばない思考の深さと、
したたかさを持っており、日本人を見る両国民の見方も違います。にも拘わら
ず、急成長した日本経済、そのプレッシャーに堪えながら日本から学ぼうとし
てきた両国の国民の心情を私は深く察することができます。
更に私は明治の開港と西洋文明の急激な流入時に見せた当時の日本人を想像
します。2千年の歴史に培われた西洋文明に対して、250年間鎖国をしていた日
本人が、チョンマゲ姿で狼狽と焦りで喰らいついていったその当時の日本人を。
その当時の日本人と、25年前の英国人と更に近年の中国人などを私は自分に
投影し、その中にいる私をみて思うことがあります。そして私の中にも在る限
りない知的好奇心と、限りない愚かさをみるのです。そして再び吹き出してし
まうのです。
(筆者はメルボルン在住)
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【ガン闘病記】(2) 吉田 春子
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吉 田 春 子
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」ではないですが、
夫から「今度闘病記を書くことになったんだけど交代で書いてみないか」と誘わ
れたとき、「ああ、いいわよ」と簡単に答えてしまったことが今になって悔やまれ
ます。本来ものを書いたこともない私に何か読者のみなさんに訴えられるような
文章など書けるはずもないことを自覚できていなかったのです。こんな脳天気な
私が今もって社会意識では「死のやまい」とされている「癌」患者とともに2年
間を過ごしてきたのですから、たとえ現在とても大変な状況のもとで癌と共生さ
れている患者の方やご家族のみなさまがいらっしゃるとしても、どうぞ希望を捨
てないでほしいと思うのです。
団塊の世代が定年を迎え、老後を過ごしていくとき、いまや癌は避けて通れな
い病気の一つですが、幸運にも癌と共生したり、運がよければ、あるいは心がけ
がよければ癌を自然退縮させる多種多様な方法が出始めた時期とも一致していま
す。そしてそれは、従来のように、病院で癌の宣告を受けたが最後、ベルトコン
ベアー式に事が運び、余命宣告どおりに亡くなっていくといった癌の進行過程と
はあきらかに違うものです。もちろんそれでも癌はやっかいなやまいであること
に変わりはありませんので、深刻な事態に陥る場合もあるかと思いますが、そん
な場合にもやはりそのレベルに応じた代替療法がすでに幾つかそろっています。
少なくとも私たちはそうした方法のなかから夫のからだに合ったものを数種選ん
で、夫はいま元気に生きております。
いやいや、元気といっても見るからに青白い顔色をして、癌をだましつつやっ
とのことで生活を維持しているのだろうと思われるかもしれませんが、それは違
います。今、夫は朝7時前に起き、自分で漢方薬をセット(一日分10cm×20cm
のビニール袋一杯の乾燥した漢方薬を特殊な電気式壺型容器に入れ、分量の水を
入れる)したあと、いそいそと散歩に出かけます。出かけた先で太極拳、気功を
やってから8時半頃帰宅します。夕方も同じサイクルで散歩をしますので毎日1
日1万5千歩ほど歩いていることになります。それ以外にも、研究職という仕事
柄、書店にはよく出かけますが姫路駅や街の書店まで、3〜4kmの道のりをよく
歩いてまわっています。月に一度は200mほどの近所の八丈岩山に登ったりもし
ます。むしろ動きは私よりも快活です。玄米菜食のせいで、昔の吉田をご存知の
方々からはよく「そんなに痩せて」と気の毒そうに言われますが、体重が80kg
以上あった昔よりも64kgの今のほうが、瞬発力やパワーには欠けるかもしれま
せんが、疲れ知らずでずっと持久力があるように思います。
そんなことを言っても、定期検診でやっと見つかる程度の初期の癌だったのだ
ろうと思われるかもしれませんが、夫の右の腎臓には握りこぶしほどの癌が巣く
っており、術後その塊を見せられた私は卒倒しそうになりました。医学的には5
年生存率0%です。夫の場合はそこまで進行していましたので、副腎を含め右腎
臓を手術でとても上手に取り出していただいたことを私は西洋医学の先生方に本
当に感謝しております。術後、執刀してくださった先生に、きれいに取り出して
いただいてありがとうございました、と大喜びでお礼を申し上げたら、先生は淡
々と応対してくださったあと、「癌はミクロの世界ですからね」と釘をさされ
てしまったことを記憶しております。
すでに散らばっている癌細胞は血液の流れにのっていとも簡単に原発巣から遠
く離れた場所まで運ばれ、そこにふたたび根をおろすというパターンが一般的
だと言いたかったのだろうと思います。数多くの癌患者をつぶさに見てきてい
る先生は、むしろここからが本当の闘病過程にはいるのであって、しばらくし
たらどこかに転移したと告げなければならないことを誰よりもよくご存知だっ
たからでしょう。なにしろ健康な人でも一日数千〜数万個の癌細胞が生まれて
いるという事実を私たちは闘病して初めて知りました。
もっとも普通は免疫の力によって抑えられ、検査でひっかかるまでには至らな
いとのことです。
おかげさまで夫は、ミクロの世界からほんの少しだけ目に見える世界に出か
かっている程度の細胞集団(癌とは名づけたくありませんので)をかかえて
はおりますが、ずっとその大きさを維持し続けています。西洋医学でいう癌細
胞とは無限に増殖しつづけるはずなのですが。
つまり、夫は本当に元気なのです。本人もそう感じていると思いますし、はた
から見ていても誰も相手が癌患者だとは思いません。では、なにが効いてそんな
奇跡のようなことが起きているのか、とすぐに知りたくなるのは人情ですし、私
たちも、こういうことなのよ、とかいつまんで教えて差し上げられたらどんなに
すっきりすることでしょう。
私たちがこの2年間で学んだことは、「癌は百人百様」であるということです。
一人ひとりの人間が少しずつ違うように、癌もまた、その人の歴史を背負って生
まれたもので、その人のライフスタイルやこれまで生きてきた自分史を抜きにし
ては語れないということです。ですから、対処方法も千差万別です。この方法を
やれば必ず治るというものではありません。同じ方法でもある人には効き、ある
人にはまったく効かない場合もあります。けれども共通していることは、代替療
法は、食事療法にしてもサプリや丸山ワクチン、太極拳・気功・ヨガなどにして
も、即効性はありませんがからだやこころにやさしく、少しずつからだやこころ
のゆがみを正常に戻していくものです。自分に合った代替療法を上手に組み合わ
せることで、自然が与えてくれた大いなる治癒力が働きはじめ、こころとからだ
にいのちがみなぎるということではないかと思うのです。もっと端的にいえば、
「人間も本来は自然の一部」なのではないでしょうか。
ここまで書いてきて、話がだんだん精神的な方向に向かっているような気がし
てきました。このままいくと、今はやりのスピリチュアル系に向かって突っ走り
そうですが、私たち夫婦は夫が癌を発病するまでは純粋に科学至上主義的な考え
方をしてきました。唯物論をとなえていた夫をご存知の方々は重々納得していた
だけることと存じます。子供たちが何か神がかり的なことを話題にすると、「そん
なことはあるはずがない」「何をおかしなこと言ってるの」と頭から取り合わない
態度に徹してきました。すべて科学で解決できないことなどあるはずはないとい
う考えです。ですから、どんな病気であろうとも病気になったら専門家である医
者と病院にまかせることを旨としてきました。
ところが癌の代替療法とは、単にみなさまもよくご存知のアガリクスやサルノ
コシカケ、プロポリスなどといったサプリだけではなく、意外にも精神的なゆが
みを正すことに重点が置かれていたのです。いま私たち夫婦は、癌からの生還者、
つまりさまざまな段階の癌と長期に共生していたり、それらの癌がすべて消滅し
てしまった人たちをとてもたくさん知っています。なぜ生還できたのかという問
いに対する彼らの答の一位は、「こころのあり方」だったのです。もちろん、まち
がった生活習慣や食事を正し、必要な代替療法を取り入れることとセットで行う
のが前提です。
こころの問題というのはまったくやっかいです。考えることはまさに一人ひと
り違うからです。代替療法について無知識だった私たちは、術後まず、同じ病気
から奇跡的に生還を果たされ、お元気で国内・海外を問わず飛び回っているとい
う元患者の「先輩」を訪ねることから始まりました。病院でさじを投げられ、自
宅に戻ってちょっと特異な方法で見事に生還されたご本人とお会いして、大きな
勇気をいただいたのですが、そのときパロディのようなお話を聞かせてください
ました。
その方が数年経って、入院していた病院に行ったところ、看護婦さんた
ちが幽霊にでも会ったような顔をされたというのです。まさか数年後に生きて現
れるとは思わなかったということで、当時の主治医とお会いして経過を説明する
と、その先生が、同じ病気の自分の患者を紹介するので相談にのって欲しいとお
っしゃったそうです。また、別の患者(夫が「その1」で紹介したI医師)もや
はり手術可能なレベルを越えているにもかかわらず「お元気で」10年以上癌と共
生しながら仕事を続けておられます。癌の種類も場所も違うにもかかわらずお二
人ともとてもお元気です。その後も数多くの「お元気な」癌患者に出会いました。
彼らはみな、それぞれの方法で頑張っていますが、よく考えてみれば深いところ
で病気との取り組み方、あるいはこころのあり方が共通であるように思えます。
そこから得た私たちの結論は、癌と闘うのは自分なのだということです。癌に
かかり苦しんでいるのは自分なのですから、実力のあるお医者様も含め、すでに
多くの方々が成功しているさまざまな方法を探りながら自分にいちばん合う方法
を見つけ、それを組み合わせて治療することは当然といえば当然の結論なのです
が、なかなか普通は「自分の癌は自分で治す」というこの単純な結論に至ること
が難しいようです。自分のやまいを誰かにお任せにすることは既に癌の治療を放
棄したのと同じです。こころの問題の解決その1です。
次に、生活習慣の改善とこころの問題はとても密接に結びついていると思いま
す。生活習慣病(糖尿病、高脂血症、高血圧、高尿酸欠症)でおなじみとなった
悪い生活習慣で思い出されるのは、お酒やたばこ、塩分のとり過ぎ、甘いものや
脂っぽいもののとり過ぎ、運動不足、肥満などでしょう。これらはもちろん、か
らだにとって悪いものばかりですが、癌の場合には、同時に精神的な生活習慣も
含まれます。家庭内での人間関係のトラブルや職場でのさまざまなストレスは精
神生活を大きくゆがめます。自分の経営する会社であっても事業がうまくいかな
くなったり、たとえ順調でも常時緊張した時間を過ごしていればそれは悪い生活
習慣ですし、そこから癌が生じるのかもしれません。
心おだやかに自然のなかで四季の移り変わりを感じたり、家族と団欒したり、
散歩したり、絵を見たり、音楽を聴いたりというリラックスした時間を全然も
てないとすれば、それはどこかに無理があるのです。こころが緊張した状態が
続くと自律神経(交感神経と副交感神経)のバランスがくずれてからだの症状
となって表れます。夫もまさにその例にもれず、姫路に越して以来、土曜・祝
日もなく研究室にこもって執筆していました。
つまり本を書くことによって極度に神経を緊張させ続けていました。癌
と診断される2年ほど前から、夜、頭のなかが緊張して眠れないと言っては定期
的に睡眠剤を服用していました。夫にとっては仕事が何よりの趣味でもありまし
たので、私は本人が楽しんでやっていることがからだに害を及ぼすはずはないと
信じておりましたが、どんなに精神的に満足した生活をしていようとどこかでリ
ラックスする必要があったのだと思います。ストレスの多い職場にいることで癌
にかかったのだという自覚があれば、それまでの生活習慣を変えるという意味か
ら、すぐに職場を辞めるか別のストレスの少ない職場に移ったほうがいいとい
う意見さえあります。こころの問題の解決その2です。
職場のストレスから解放され、自分で癌とたたかっていこうと決意をかためた
癌患者は、自分の内面の大きなストレスとなっている癌からの恐怖を解消するこ
とがどうしても必要だと思われます。おそらく患者本人にとってはこれほど、言
うはやさしく行なうは難しということばがあてはまるものはないのではないかと
思います。癌が自分のからだのなかに存在することを自分がいちばんよく知って
いるのですから。いつ癌が暴れだし、転移してあちこちで増殖するのではないか
という恐れほどこわいものはないと思います。それを考えているときにはいつも
その先にある死を意識しなければならないからです。気の小さい私とちがい、夫
はふだんあまり動じることはありませんが、術後に受けている定期検診の結果の
出る日や、少しでも何か変わった症状があって病院に行くときには血圧が急に上
がり、手には汗びっしょりです。当日は朝から無口です。私にも付いて行ってほ
しいと言います。術後の数ヶ月は精神的緊張が続き、手がふるえて文字が書けな
くなり、提出書類などを私が代筆していました。
夫本人の癌への恐怖からの解決策は、とにかく癌から生還された方がたとでき
るだけたくさんお会いしてお話を聞くことでした。個人的に訪ねて行ったことも
ありますし、さまざまな患者の会で退縮したお話や、癌との長期の平和共存のお
話を聞いたこともあります。夫はつとめて、亡くなった方に関するお話は見ざる・
聞かざる・言わざるに徹していたようです。癌への恐怖は四六時中です。これを
まぎらわせて恐怖の感情を少しでも忘れるためには何かすることが必要でした。
夫は気功や散歩、半身浴などがこれに役立っていたようで、その瞬間は癌のこと
を忘れていられるのだと申していました。こころの問題の解決その3です。
次は、定期検診の結果が良くても悪くても、自分に癌は治るのだとどうしても
信じさせることが必要なようです。これもまた、「癌は不治の病」であるとする社
会意識をくつがえすことになりますので、そう簡単ではありません。「癌になった
らおしまいだ」という声がまわりからこれでもかこれでもかと聞こえてくる現在
では大変なことです。前述の、生還者のお話を聞くことは、自分ももしかしたら
この人たちのように治るかもしれないと自分のからだに信じ込ませるのにはいち
ばんいい手段だと思います。アメリカではサイモントン療法(癌は治るのだとい
う方向にこころを誘導する)などがよく知られており、夫は一時期、癌が消えて
からだがすっかりきれいになっていく絵を描いて真剣に長時間イメージしていま
した。
イメージ療法で実際に脳腫瘍がきれいに消えたアメリカの男の子の話もテ
レビで放映されていました。ネットでサイモントン療法を見ればいかに患者の精
神状態が病気の経過に大きな違いをつくるかがおわかりになると思います。また、
昨年末にガンの患者学研究所(tel 045-962-7466 http://www.naotta.net)が主
催した大会では、会場に千人ほどの癌患者と家族が集まり、まだ数少ない免疫学
や代替療法を専門とする先生方のお話や治った方々本人からお話を聞いたあと、
大会の最後に希望者が壇上に上がり、一人ひとりが自分の名前と癌の場所を会場
に伝え、会場から「治る、治る、治った!○○さんは治った!」と割れんばかり
のコールを受けます。エイ・エイ・オーというときのあの振り付きです。
子供じみていると思われるかもしれませんが、これも患者のからだに癌は治る
のだと信じ込ませる強力な手段だと思います。夫も大会会場の枚方市まで出か
けてコールを受けてきました。
不思議なものでこうしていろいろな手を使って自分の癌は治るのだと信じ込ま
せていくと、自律神経は確実にそれに答えてくれます。頭ではそんなことは起
きるはずがないと思っていてもからだのほうが反応してくれます。
その結果、免疫力が上がり、自然治癒力が自分の力で治していく方向に導いてく
れるようです。自分の癌は治るのだというスイッチが入るのでしょう。こころの
問題の解決その4です。
自分で自分の癌を責任をもって治そうと決断し、精神的ストレスから解放され、
癌への恐怖を減らして、絶対に治るのだと信じることが少しずつでもできるよう
になれば、あとはなるべく免疫力が高まる生活を送ることです。人は社会生活を
行う動物です。なるべく自分が元気になれそうな集団に入ってまわりの人たちか
ら「気」をいただけばいいのではないかと思います。夫はいま、太極拳の会を主
宰しています。参加者は常時25人を超えています。癌患者をはじめとしてから
だの弱い人たちを中心に健康な人たちも加わって、毎週火曜日の午後2時間ほど
楽しそうに集っています。毎回欠かさず参加されるNさんは、余命宣告の期限が
切れてすでに1年半経ちますが、つい先ごろ2週間の東北への湯治旅行から帰ら
れたばかりです。
鳥取県の温泉場ならご自分の運転で通われるとか。気合がちがいます。
こうして気の合う仲間や目的を同じくする集団での交流はお互いの「気」
を高めあい、いい「場」をつくります。生きていこうとする力が強まります。そ
れ以外にも、笑いは百薬の長ということばもあるように、笑いのある生活をする
ことも免疫力を大いに高めます。夫も癌にかかってから初めて落語や漫才のCD
を聞いたり、ときには吉本に出かけたりとまるで人格が変わってしまったのでは
と思える行動をとっております。ダイマル・ラケットの「私の発明」をそらんじ
ているほどです。こころの問題の解決その5です。
今回はこころの問題に焦点をしぼった流れとなってしまいましたが、こころと
からだは切り離せません。次々回の私の番ではわが家の食事などもっと具体的な
お話をさせていただければと思います。
(筆者は姫路工業大学吉田勝次教授夫人)
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【オルタのこだま】
改憲と岸信介氏の思い出 今井 正敏
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3月3日付の「朝日新聞」の朝刊一面のトップ記事に、「安倍色回帰 国民投
票法を最優先」という大きな見出しで、「安倍首相が変身した。「タカ派」イメ
ージの払拭のために続けてきた持論の封印を解き、与党との関係にも変化が見え
始める」という書き出しから始まって、「憲法改正手続きを定めた国民投票法案
の会期内成立を最優先する方針を固め、与党も首相の意向を追認する構えだ。参
議員選に向け、「やりたいことをやって国民の審判を仰ぎたい」─。とらわれて
きた「小泉路線」からも距離を置き、保守理念の実現にこだわる首相の本来の姿
がむき出しになってきた。」と伝えている。
この記事で取り上げられている「憲法改正」や「国民投票法案」などのことに
ついてはいずれ「オルタ」でも特集を組んで論じられると思うので、大いに期待
したいのだが、今回私があえて書こうとしたのは、上記の記事の後半の部分に、
「安倍政権ができたらテーマは当然、憲法改正になる」。四年前、官房副長官だ
った首相は周辺にこう語り、祖父・故岸信介元首相の悲願に思いをはせた。(中
略)政府関係者は、「最近の首相は父・晋太郎氏より岸信介氏に近づいてきた。」
と見ている。」と書かれてあり、現在の安倍首相には、祖父である故岸信介元首
相のカゲが大きく投影されているという記事が目に止まった。その岸信介氏と日
青協の本部役員が、岸氏が戦後、政界に復帰する前につくった日本再建連盟で活
躍し始めたころ、顔を合わせて話し合ったので、そのことを思い出し、このいき
さつを書こうと思ったからだ。
1951年(昭和26年)の夏に、鳥取県の県連合青年団長(日青協の常任理
事に選ばれていた)から、知り合いの代議士を通じて、「日本再建連盟をつくっ
て活動を始めた岸信介会長より、日青協の本部役員と面談ができないかと話があ
ったので、検討して欲しい」という要請があったことが日青協の金星会長に伝え
られた。
日青協の執行機関である常任理事会で相談した結果、日本再建連盟は政党では
ないので、その連盟の会長と面談することは問題ないという意見が集約され、日
青協の会長と副会長3名(男子のみ)、事務局長、常任理事3名(私もその一人
に選ばれた)が岸会長と面談することになった。
面談場所に指定されたのは帝国ホテル。現在でもそうだが、当時、帝国ホテル
といえば、超一流のホテルで、一般庶民にとっては高嶺の花のホテル。
面談におもむく日青協本部役員も、帝国ホテルに入るのは、全員初めてという
ことで、岸会長との初顔合わせのこともさることながら、帝国ホテルに入ること
のほうにも関心が高く、高ぶる気持を押さえながらホテルの中に入った。 ロビ
ーの受付で用件を話していると、ボーイが、「当ホテルは、ネクタイを着用しな
いと、部屋には入れない決まりになっていますので、ノーネクタイの方には、ホ
テルに用意してあるネクタイを貸し出しますから、それをしめて部屋に入ってく
ださい」という。こちら側でネクタイをしめていたのは、会長と副会長1名、事
務局長の3名だけで、ほかの5名は、夏用の開襟シャツ。ホテルに足を踏み入れ
たトタンに、一流ホテルのマナーのきびしさを思い知らされ、オープンで自由な
青年団方式では通用しないことを強く感じながら、それぞれYシャツ、ネクタイ
を借用して身なりを整え、岸会長が待つ部屋へ向かった。
入った部屋は、大きな応接室のような所だったと思うが、そこに新聞の写真や
ニュース映画などで見なれた(当時はまだテレビはなかったので、手がかりにな
ったのは新聞とニュース映画だった)岸信介氏がにこやかな笑顔でわれわれを出
迎え、その背後に国会議員のバッチをつけた人たちが5人ほど立ちならんでいた。
私が岸氏本人と接するのは、このときが初めてだったので、やや緊張した気持
ちで、岸氏と握手を交わした。
そして背後の人たちに目をやると、その中に、私と同じ栃木県人で、選挙区が
同じでよく知っている、当時、外務政務次官をつとめていた森下国雄代議士が見
えたので、すぐ近づいて挨拶すると、森下先生も「おお今井君も来てくれたのか」
といわれて、大変よろこんでくれた。私のほかに、3人ほどが同じように議員の
人たちと知り合いということで、それぞれ親しく挨拶を交わした。
このように、岸会長がおのおのよく知っている代議士を同席させたということ
は、この面談に岸氏側が周到な配慮をしていたということが理解でき、まず最初
から大物政治家の事の運び方の巧みさに感銘した。
面談の内容は、初めに岸会長がやや長い時間、岸氏が考えている日本再建の方
策について熱っぽく語り、この戦争に破れた祖国を再建するのには、これから二
十年、三十年の長い年月がかかるだろう。それだけにいまの若い青年たちの力が
必要で、青年団に私が大きな期待を寄せているのも、そこに理由があると語られ
た。
このあと、日青協側を代表して金星会長が質問し、一問一答の形で話し合いが
進行した。当初私たちは、当然、政治を中心にした話し合いがされ、最後には、
日青協に対して選挙への協力要請があるのではないか、と思っていたが、そうし
た話はまったく出ず、一般的な時局の動きを主体にした話し合いだけで終わった。
それというのも、この1951年(昭和26年)当時、日本の巨大組織体とし
て、総評と全学連、そして日青協の三つが「ご三家」と呼ばれ、総評380万、
全学連160万、日青協430万(昭和25年に行われた文部省調査による数字)
という巨大な人数を組織していたので、これらの巨大組織が政治にあたえる影響
も大きいと見られていたため、発足早々でまだ足もとがまったく固まっていない
日本再建連盟が、結成されたばかりの日青協に目をつけ、この青年団の組織を再
建連盟として活用できないか、と考えたため、日青協本部役員との面談が企画さ
れたのではないかと、日青協側は推測していたからであった。
このように、日本再建連盟の岸信介会長と日青協の本部役員との面談は、具体
的な話し合いはなく、きわめて一般的な顔合わせで終わった。しかし、事はこれ
で終わらず、しばらくたってから、この面談を企画した代議士から、日青協とい
うことではなく、日青協会長の金星氏本人に対して、参議員選に出馬しないかと
いう打診があり、出馬する場合は、金銭的な面での心配は一切いらないという話
があったことが明らかになり、金星氏本人から、金星氏の側近といわれていた静
岡県団の鈴木重郎団長や私に、「どうしたものか」と相談があった。
私たちは、日青協430万といっても、日青協の実態は、団員一人々々の個人
加入ではなく、各道府県団の全国連合体なので、日青協ということを知っている
のは、ごく一部の道府県団の役員クラスぐらいにしかすぎず、430万という数
字にまどわされるな、と強く出馬に反対したので、金星会長自身は大いに意欲が
あったものの、金星ラインといわれた側近の同志に反対されたのではどうにもな
らず、やむなく断念ということになり、この参議員選出馬の話は、表に出ること
なく消滅した。
こののち、岸信介氏は、2年後の1953年(昭和28年)に当時の自由党に
入党、翌年、同党の憲法調査会長に就任して、憲法改正に取りくむようになり、
このころから活発になった保守合同にも積極的に動き、1955年(昭和30年)
にその保守合同が実現して自由民主党が発足すると、その幹事長になり、翌昭和
31年には、自民党総裁選に立候補、石橋湛山氏との決戦投票で敗れたものの翌
32年2月に石橋首相が病気のため総辞職すると、副総理格で外相をつとめてい
た岸氏が、A級戦犯容疑者という経歴の持ち主でありながら、首相に就任・・・
ということで、政界の中枢部をかけのぼったので、日青協本部役員との面談も一
回だけで終わった。
岸信介氏と日青協本部役員との面談、このまったく異質の顔合わせは、関係者
だけの記憶にとどめられただけで、「日青協20年」「同50年史」にも登場す
ることなく、幕を閉じた。
(元日青協本部役員)
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【俳句とエッセイ】 - 未知との出会い - 富田 昌宏
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老いもまた未知との出会い桐一葉
Aging also means Encountering the unknown Early fall
新老人(75歳)まであと1年もある。そんな心の余裕から“老いもまた未知
との出会い桐一葉”が自然に口をついて出た。翌年、遊び心で“胡麻干して関
八州の隅に老ゆ”を詠んだ。この句、路傍の石全国俳句大会で知事賞を受賞し
たが、先輩(97歳)に「老いはまだ早い」と叱責され、以後私の手帳からこの
文字は消えた。
胡麻干して関八州の隅に老ゆ
そして昨年、九月八日の誕生日に喜寿を迎えた。次の三句は今年正月の感想で
ある。
初釜や喜寿を迎へ干支茶碗
不器用に生きて喜寿たり薺粥
耄碌の齢にはあらず寝正月
庭の紅白の梅は満開である。それに見惚れながら
喜寿よりの余白手つかず梅真白
と詠んでみた。“余生”でなく“余白”としたのは、まだまだこれからという
気概であり、真白な余白にデッサンを描く楽しみがあるからである。この“余白”
は久保田兄と共同発行した雑誌『余白』が念頭にある。“梅真白”は軽すぎるか
もしれない。そこで年相応にと次のように直してみた。
喜寿よりの余白手つかず臥龍梅
まもなく桜の季節が到来する。屋敷には岐阜から取り寄せた薄墨桜が七本あ
り、季節には来客で賑わう。
ユダ一人居る筈なれど花筵
花が散り始めると筍の季節。毎朝筍堀りに余念がない。掘った筍は近くの
農産物直売所に出荷する。新鮮さが売りものだけに飛ぶように売れる。そ
して竹落葉の季節である。
竹落葉刻(とき)が斜めに流れゆく
竹落葉の空間に身を委ねながら、過ぎ去った年月を想起し、未知の空間と時
間に思いを馳せる。至福の一刻でもある。
書き忘れたことが一つある。今年の正月、子や孫たちが相集い、私たち夫
婦の金婚を祝う会を開いてくれた。これも至福の時間であった。
ここは平凡に――。
金婚の宴の円かや福寿草
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【編集後記】
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○今月、このメールマガジン「オルタ」は多くの執筆者のボランタリー、そ
して毎号のように増えつづける内外の読者に支えられ、創刊満3年を迎える
ことができた。各位に心から感謝したい。創刊の趣旨は「オルタ」の前身で
もある雑誌「余白」がかかげた『人間・国家・戦争』をより深く考えようと
いう呼びかけを継承し、直接的な契機は4年前の3月20日に始まったイラ
ク戦争の不条理に反対する市民の声を上げることにあった。 昔から「3
号雑誌」といわれるように、始めるのは易さしく続けるのは難しいのが定期
刊行物である。皆様のご支援をいただき、初心を忘れず市民の手によるデジ
タルメデイア「オルタ」を発展させていきたい。
○巻頭論文では、「オルタ」創刊満3年を記念して、久保孝雄さんに不条理
なイラク戦争に反対する私たちの「初心」の立ち位置を確認し、アメリカ時
代の終わりが始まろうとする今、私たちが何をなすべきかを論じていただい
た。
○いよいよ4年に1度の統一地方選挙である。最後まで民主党の候補者がな
く気をもませた東京都知事選もようやく浅野史郎氏が出ることで決着した。
浅野氏が立候補の決意を固めたのは『石原都政をやめさせてくれという悲鳴
のような全国からの声である』といっているが、私たちも是非浅野氏を応援
し傲慢な石原都政を倒したい。今月の「オルタ」はこの強い思いを生活クラ
ブ生協を母体とする地域政治団体東京・生活者ネットワーク運営委員塩田三
恵子さんの「変えなきゃ石原都政」に託した。
市民の力で浅野知事が実現すれば、石原知事にはできない東京・北京・ソウ
ルの東アジア首都サミットで共通の都市問題解決に協力しつつ国境の枠を
越え、アジア共同体形成の夢に向かって進んで貰いたいと思う。
(是非、浅野史郎WEBサイトhttp:www.asanoshiro.org/を開いて勝手連で
応援して下さい)
○先月に続いて河南省の鄭州大学 王鉄橋教授の研究成果である日中文化
差異「花から見た日中の違い」を掲載し熟読をお勧めするのだが、その前に
先月号で先生のお名前を王春橋と間違えたことを先生および読者に深くお
詫びし謹んで訂正いたします。
なお、この号では最新中国情報として北京に在住する谷洋二さんと深せん
で働く佐藤美和子さんに、街中が大きな爆竹の音に包まれたホットな “07
年「北京春節事情」を伝えていただいた。お二人からの春節便りとなったの
は佐藤さんが春節旅行で休載とのことで、たまたま北京に住む谷さんが東京
での美術展に来られた折、生活感のある最近の中国便りをとお願いしたから
である。
中国は広く深く、沿海部と内陸部、都市と農村、など地域や職業によって
大きく違い、これが「中国」だというのは難しい。これからも、せめて北の
北京、南の深センの両方からだけでも、お便りをいただけたらと思う。
○今年の「オルタ」は編集方針に女性執筆者の強化を掲げたがその第一弾と
して塩田三恵子さんの石原都政批判を皮切りに、『危険な独身女性、フエミ
の嫌いな殿方』というユニークなタイトルで堀内真由美さんが登場し、さら
に遠くメルボルンの入江鈴子さんから「オルタのこだま」に2回目の投稿が
つづき、そして今月の吉田教授の『ガン闘病記』は春子夫人の交代執筆であ
る。いよいよ、これからの「オルタ」は、女性の目線でより深く「人間」が
とらえられ、必ず面白いものになる筈である。
○長期連載中の「臆子妄論」「回想のライブラリー」「人と思想」はそれぞれ
が好評で「オルタ」の格調を保っていただいているが、短期連載の吉田勝次
教授と春子夫人による「ガン闘病記」も戦いつつあるご夫婦の手記だけに健
康が気になる多くの読者に強い衝撃を呼んでいる。この連載終了後には大阪
の木村静江さんに認知症の家族を介護する「ユーモラスな家族の生活記録」
を短期連載としてお願いする予定である。なお、今月の高沢英子さんの「随
想」はご家族の急な介護のため休載となった。
○「オルタ」締め切り間際の17日、メルボルンの入江さんから、慰安婦問
題についての米国下院の審議や安倍発言に猛烈に反発する地元大新聞のコ
ピーを編集部に送ったと電話があった。日本の皆さんには電話やメールでは
1面でいかに大きく報道しているのかという実感が伝わらないからだという。
もともとオーストラリアには第二次大戦における日本軍による捕虜虐待問
題があり、ナーバスなところに安倍発言が火をつけたことになる。
入江さんがつきあっているメルボルンの韓国人コミニテーにも慰安婦に狩り
出された韓国女性がいて「女子挺身隊」という名の下に連れ出されたのだと
泣きなら訴えられたという。朝日の社説ではないが軍による強制があったか
なかったかという論議が本旨でなく日本という「国家の品位」が問われてい
るのであり、日本の政府やマスコミは世界の世論を読み誤り、国民を大きくミ
スリードしていると入江さんは憤慨していた。まったく同感である。
○去る3月15日、ジャーナリストの北岡和義氏が主宰し、政治学者の山口
二郎北大教授や、中北浩爾立大教授などがかかわり、江田三郎氏の没後30
年・生誕100年を記念して冊子を作る打ち合わせ会があった。旧社会党で私
たちが江田書記長とともに『構造改革』を提起したのは1960年の安保闘争
の前後であったから、ほぼ半世紀が経ったことになる。当時の江田氏は農民
運動出身でありながら、いかにも一ツ橋出らしく経営センスがあり説得力を
もった異色の幹部であった。国民的人気は高く、政府自民党も江田氏を強く
警戒していた。しかし党内守旧派との戦いに破れ、構造改革の路線で政府与
党と対峙する夢は消えた。
歴史にifはないが、最近ゴア氏が熱演し地球温暖化の危機を訴える『不都
合な真実』やロバート・ケネデーが暗殺される日を画いた『BOBBY』など
の映画をみて、彼らがブッシュやニクソンに代わって米国大統領になってい
たら、どのような米国になっていたのかと想う。かって江田氏は「反独占統
一戦線」という立ち位置から『構造改革』を主張し日本の革新を訴えた。も
し今、彼が政治指導者としていたならば日本の進路にどのような『構想』を
提起し国民的な統合をはかるだろうかと考えた。
(加藤宣幸記)
編集部では忌憚のないご意見・ご要望をお待ちしております。
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