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━メールマガジン「オルタ」━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メールマガジン「オルタ」38号(2007.2.20)
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◎ 地方政治の変革で改憲・格差拡大の安倍路線も変えよう。
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□目次
■統一地方選挙を前に ― 報告と提言
【地域からの変革を目指して】
(1)地域格差の象徴〜夕張のいま 南 忠男
(2)神奈川県知事の政策モデルについて 力石 定一
(3)長野県・村井仁知事の「脱『脱ダム』宣言」にどう対処するのか? 関 良基
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■日中の言語文化差異 河南省鄭州大学 王 春橋
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≪連載≫
■1、臆子妄論
安倍晋三とコリオレーナス 西村 徹
■2、回想のライブラリー(17)
「オルハン・パムク」を読む 初岡昌一郎
■3、人と思想 『下村湖人』 富田 昌宏
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【北から南から】
■深センから 『中国人男性受難の日』 佐藤 美和子
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■【ガン闘病記】 吉田 勝次
■【オルタのこだま】
教育基本法と日青協綱領 今井 正敏
メルボルンから 2007のお正月に 入江 鈴子
■【随想】 高沢 英子
■【俳句】 富田 昌宏
■【編集後記】
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■統一地方選挙を前に――報告と提言
【地域からの変革をめざして】
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今年は全国にまたがる統一地方選挙の年である。いまマスコミでは、この選挙
を参議院選挙への前哨戦として政局がらみでとりあげ、都知事選の候補者選び
などを大きく報道して話題を盛り上げているが、この選挙で何より問われてい
るのは、小泉政権から安倍政権へとますます深刻化している、今の社会の荒廃
と根本的な歪みを地域の草の根からどう変革していくかという選択の問題であ
ろう。
今月号のオルタではこの観点に立ち、1)いま全国の自治体問題の焦点となって
いる「夕張」の現状レポートと、2)首都圏で注目される神奈川知事選に向けて
の「環境派」からの政策提言を、常連執筆者のお二人の方にそれぞれ寄せてい
ただき、新たに関良基氏には田中前長野県知事の「脱ダム宣言」のシンボルに
なっていた淺川ダムの実相について解明していただいた。。
(1)地域格差の象徴〜夕張のいま 南忠男(元旭川大学非常勤講師)
(2)神奈川知事の政策モデルについて 力石定一(法政大学名誉教授)
(3) 長野県・村井仁知事の「脱『脱ダム』宣言」にどう対処するのか?
関良基(地球環境戦略研究機関研究員)
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■統一地方選挙を前に――報告と提言
(1)地域格差の象徴〜夕張のいま 南 忠男
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◇地域再生の課題を背負い思考を凝らす 冬・雪まつり
日本一寒い地方都市旭川の冬まつりが2月8日から始まった。私も昨年から詩
吟の仲間と冬まつりのメイン会場のステージに立って「耐寒吟詠大会」に参加し
ている。これも老人の参加できる「マチおこし」運動か?
今年の吟題の一つに私の好きな杜甫の漢詩「春望」がある。「国破れて山河あ
り、城春にして草木深し」と唸りながら、夕張にも間違いなく春の季節は訪れる
が、それがどんな春であるかに望みをよせている。
58回目の札幌雪祭りは巨大な氷雪像で訪れる人々を楽しませているが、全道
各地の冬祭り・雪祭りはそれぞれの市町村が住民参加により思考を凝らしながら
地域の個性を活かし、地域再生の課題を背負いながら頑張っている。
◇総務大臣3時間半の視察・住民感情を逆なで
昨年暮れ官庁の御用納めも終わった29日、急きょ菅総務大臣が夕張市を訪問
した。しかも、滞在時間はわずか3時間半。一般市民との直接対話の場もなく、
これでは「担当大臣が夕張に来た」というアリバイづくりに過ぎず、市民からは
「駆け足視察で市民の痛みが分かるのか」と批判があがり、国に対する疑心をい
っそう強めることとなった。一応、「お年寄りと子どもに配慮した再建計画を」
と安倍総理の意向を伝えたが、政治的思惑がからんだこの方針転換は住民感情を
逆なでするものだった。
先に夕張市がまとめた「財政再建計画枠組み案」(06年11月14日発表)に対
して菅総務大臣は「聖域なき見直しをして当然だ、厳しいことも必要だ、住民生
活への影響はやむを得ない」と突き放し、「総人件費の削減をさらに拡大し、再
建期間を当初案で示した20年程度から短縮させるべきだ」と更なる追い討ちを
かけてきた(06年11月17日の記者会見〜「北海道新聞」)その舌の根も乾かな
いうちの出来事で、市民には統一地方選挙・参議院議員選挙をひかえての安倍内
閣の人気浮揚策としか映らなかった。
夕張市民の政治に対する感度は鋭いものがある。国の石炭政策に翻弄され、そ
れと戦ってきた歴史がある。夕張出身の政治家も、大矢正(参議院北海道地方区)
阿部竹松(参議院全国区)塚田庄平(衆議院)中沢健次(衆議院)(いずれも旧
社会党)など多士済々。
◇人間(住民)不在の「財政再建計画素案」
「財政再建計画素案」は一応まとまったが、これは到底生身の市民・職員が担
いえるものとは考えられない。
◎解消すべき赤字額 約353億円
◎再建期間 18年
◎基本方針
(1)全国で最も効率的な水準になるよう、行政をスリム化する。
(2)市税の増収を図るほか、受益者負担の見直しによる収入の増加を見込
む。
(3)高齢者と子どもに配慮する
これが国・道・市が最終的にすり合わせて作った「公文書」の総論部分である。
計画案では現在約1万2千8百人の人口が、再建の完了する2024年度には約
7千3百人まで減ることを前提にしているが、この人口予測は楽観的だ。夕張市
ではここ数年、年間の人口減は4百人程度で推移して来たが、昨年の6月以降、
いわゆる夕張ショック以降の人口減は加速している。12月には92人の減少があ
り、06年1年間で589人、年間約6百人に近い減少となってあらわれている。
この傾向に歯止めがかからなければマチの崩壊は必至である。計画案にある住民
の高負担と住民サービスの切捨てや、雇用の不安は人口減の歯止めどころか、加
速が予測される。
市の職員の150人を超える退職は人口減に更なる拍車をかけることになる。
計画によりマチに活力を呼ぶことによってはじめて再建の道スジを示すことに
なるが、借金の返済<数字>だけが先行し、再建の道スジを置き去りにした、人
間〜住民不在の計画案ではマチの再生はおぼつかない。
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◇職員の大半(152人)が一挙に退職・懸念される市役所の機能マヒ
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一般職職員の給与30%カット・退職手当も段階的に削減し、職員数も3年で
半減させるという案であったが、職員の退職希望者は計画をはるかに越える、
152人(総数309人の約半数)がこの年度末に一挙に退職するようである。部長、
次長は全員、課長も大半ば辞めるようだ。部署毎にばらつきもあり詳細な状況は
明らかにされていないが、幼稚園教諭がゼロになったり、簡単に補充のきかない
技術部門の有資格者や、救急救命士の半数の退職は2台ある救急車の運用が困難
になり事態は深刻である。
高橋道知事は、有資格の技術職員については道からの派遣を考えているようだ
が、救急救命士については、近隣市町村の応援を依頼するというものの、近隣市
町村で余裕をもった人員配置をしていて、夕張に人的応援のできるところは一つ
もない。知事として認識不足もはなはだしい。
北海道の市町村はいずれも夕張市と同じ深刻な財政事情におかれている。この
度、旧産炭地の歌志内市は5年間で職員の4割を、赤平市は7年間で3割をそれ
ぞれ削減する方針を打ち出したが、これは今後全道に波及する状況で、とても他
町村を応援するどころの話でなく、自分の足元すら危なくなっている。高橋北海
道知事よ、北海道の状況を正しく認識すべきである。
市立総合病院は公設民営化で有床の診療所とし、老人保健施設を併設すること
としたが、救急指定病院としての機能がなくなり、病床数も削減されることにな
る。これは、高齢人口40%という超高齢化地域夕張にとって深刻な事態である。
救急指定病院がなくなれば近隣の救急指定病院への患者搬送は必至で、救急救命
士の定員確保は水道事業等の円滑な運営等と併せて緊急の課題である。
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◇高齢者や子どもは配慮されたか
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基本方針の総論では高齢者や子どもに配慮するとされているが、各論を読む限
り、配慮されたとはいえない。各種の税負担・手数料・使用料が新設を含めて大
幅な引き上げとなっている。図書館・美術館は廃止、集会施設・体育施設も大幅
に休止となっている。4校ある中学校は1校に統合され、7校ある小学校につい
ては当初案では1校に統合するとなっていたが、本年中に検討すると先送りされ
た。保育料は市独自で負担軽減を行っていたのを廃止する当初案から、3年間は
据え置き、その後7年かけて段階的に引き上げるとしている。
病院通いなどの負担を軽減するために市内の路線バスの運賃が割引される高
齢者敬老パスは受益者の負担を引き上げて存続されることになったが、病院の機
能縮小により、人工透析などの高度医療の受診が困難になれば折角の運賃割引も
意味がなくなる。
これでは高齢者や子どもが配慮されたとはとても言えず、「検討する」「配慮す
る」というお役所言葉は「検討しない」「配慮しない」と逆に解釈するのが適当
とされているが、総務大臣が現地視察を行ってこのありさまでは政治不信がつの
るばかりである。
解消すべき赤字額353億円については、道が市に低利融資をすることになっ
た。これに要する金利差は国が半分負担して道を支援するとしている。4月の知
事選挙を意識した党利党略で、ここでも夕張市民が置き去りにされている。
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◇国や道の責任を棚上げし、市民に負担を押し付けるもの
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夕張の負債は一義的には国の責任である。根元は炭鉱閉山後の地域振興策の失
敗であり、国や道には赤字が膨らむのを見過ごしてきた責任がある。百歩譲って
も市の理事者・議員の無定見と不勉強が指摘されるが、市民には関係のない話で
ある。市長や議員を選んだのは市民であることには間違いないが、残念ながら選
挙権者である市民の責任が問われるほど自治体の情報公開などはすすんでいな
い。これは今後の自治体改革の大きな課題である。
格差社会の拡大する中で、353億円の借金返済は、夕張市民にとっては天文学
的数字である。標準財政規模(通常見込まれる年間収入)が43億円でしかない
夕張市が年間約19億円を住民負担による収入増とサービスカットによる経費節
減で補うなんていうことは本来考えられない話であるが、現実にはそれが国から
強制されているのである。
悪名高い新衆院赤坂議員宿舎を民間に売却すれば500億円と言われる。「格差
社会の殿堂」と皮肉る議員もいるこの宿舎を売却するだけで、夕張の借金を解消
してさらにお釣りが来る。
加えて、家賃タダの議員会館を自分の政治団体の事務所とし、事務所費を計上
して巨額の金をネコババしている議員・大臣がいるのに、この議員会館を建て替
えのために総工事費1500億円の事業が着手されているとか。「泥棒に追い銭」
にしてもあまりにも巨額である。
夕張の負債の一時棚上げ論に対して、モラル・ハザード(倫理観の欠如)云々
と言うが、これは本来銀行の不良債権処理に対する国の巨額な公的資金が投入さ
れた際の議論で言われたことで、夕張の財政再建でこんな言葉が出てくるのは全
くの見当違いである。モラル・ハザードは、議員会館・議員宿舎問題にこそバッ
チリだ。
ヤラセで問題になっているタウンミーテイング開催に19億9千万円もの税金
が投入されたと報道されている。例年2月に開催し、17年の歴史をもつ「ゆう
ばり国際フアンタステイック映画祭」は1億円の資金がねん出できず、今年は中
止となり、代替措置として、内外の映画関係者の善意により、「ゆうばり応援映
画祭」が同月に開催されることになった。タウンミーテイングでの官邸のムダ使
いは20回もの国際映画祭を可能にする金額である。国のムダ使いは枚挙にいと
まがないし、国の行政改革は少しもすすんでいない。
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◇自治まで奪って良いのか
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「財政再建計画素案」は形式的には、夕張市がまとめたことになっているが、
実質は国や道から強制され、三者がすり合わせたものに過ぎない。ここには自治
の片鱗も窺えない。
負担増と受益減の数値を割り出す根拠数値として、「全国で最大の負担・全国
で最小の受益水準」が挙げられている。先に述べたように、素案の基本方針の冒
頭で、「全国で最も効率的な水準になるよう、行政をスリム化する」と謳ってい
るが、半数の職員が去って市役所の機能が麻痺し、学校が統合され、図書館・美
術館がなくなり、集会施設・体育施設・福祉施設は必要最小限にする(必要最小
限の内容は明確でない)ことが「効率化」であり、「スリム化」であるとすれば
とんでもない話である。
4月の統一地方選挙を前にして大型施設の休廃止は投票所・開票所の確保に支
障を生じており、職員の半減により選挙事務の要員確保も困難にしている。
市会議員の定数は現在の18から9に半減される。現職議員の多くは「市の多
額の借金をチエックできなかった責任は当然ある」と不出馬を表明しているよう
である。市長選についても現職の責任の取り方を含めてなんらかの動きがあるべ
きだが、現在のところなんの動きもない。「自主事業ができなくなり、自治のな
いところで市長や議員を選んでもどうしょうもない」という捨鉢な声さえ聞こえ
てくる。
「保育料は独自削減を廃止し、国の基準にあわせるが・・・・・・」とあり、
一応経過措置はとられてはいるものの、国の福祉切捨て政策による住民の負担増
を緩和するため自治体が独自に設けられた制度を廃止することが、「効率化」で
あり「スリム化」であるとは検討違いも甚だしい。
私の住む旭川市の新年度予算編成も「がけっぷちの予算」と云われているが、
低所得者の負担増を少しでも緩和すべきであると、苦心して低所得者へ給付を市
独自で上積みし、扶助費の増額を図った。
例えば、障害者自立支援法施行以降、障害者の負担が増える一方と言う現実に
対して自治体が独自の出費によって障害者の負担を軽減することは自治体の当
然の責務である。
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◇安倍首相の施政方針演説はホラ話か?
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去る1月26日に衆議院本会議で行われた安倍首相の施政方針演説は4月の統
一地方選挙を意識して「魅力ある地方の創出」とうたい、地方の問題をとりあげ
ている。まず冒頭に「地方の活力なくして国の活力はありません」というが、云
うこととやることが逆であればホラ話だ。
政府が提案している2007年度の国家予算で、地方交付税が2年連続で減額さ
れている。新年度は前年比7千億円の減となる。
地方税の増収が期待できるのは一部の都市部自治体で、交付税に依存せざるを
得ない北海道などの自治体にとっては交付税の減額によって受ける打撃は致命
的であり、大都市と地方の格差は拡大され、地方の活力はますます削がれること
になる。現に北海道の自治体は札幌を含めて軒並み新年度の予算規模は前年対比
で縮小されている。「地方に活力を」と本気で言うのであれば、提案している予
算案を撤回して出直すべきである。
「国が地方に押し付ける」ことは止め、「地方が自ら考え、実行することので
きる体制づくり」というが、夕張の事態はまさに「国の押し付け」であり、「自
治の侵害」である。また、「頑張る地方応援プログラムをスタートさせ、子育て
支援など独自のプロジェクトを考え、具体的な成果指標を明らかにして取り組む
地方自治体を地方交付税で支援する」などと言うっているが、これは、三つの欺
瞞がある。
第1は、これまた夕張市の例で、先に述べたように同市は、保育料を国の基準
より低くして子育て支援をしているが、今回の再建計画では、国の基準まで引き
上げろと命令している。
第2の「地方応援プログラム」は応援の名のもとに自治体を政策誘導しようと
するもので、地方分権ではなく中央集権である。子育て支援で自治体のできる分
野は限られており、子育てと女性の社会進出との両立する環境をどう構築してい
くかなど国の責任をまっとうすることが先決である。
北海道では、「産婦人科」や「小児科」の医師が不足し、出産を取り扱わない
産婦人科病院が増えている。産科医などが不在のため地域で出産できない自治体
は道内180市町村のうち141にのぼる。これでは子どもは生めないし、育てら
れない。このような現状に無策な小泉継承安倍内閣だから、柳沢厚生労働大臣の
「女性を産む機械」になぞらえるような人権無視のセクハラ発言が出てくるので
ある。
第3は地方交付税の使い方の問題で、安倍がここでいうように、国の眼鏡に適
う自治体を選別して支給することは、交付税制度の歪曲である。交付税は地方税
など自治体の収入の不均等を是正して、各自治体が一定の行政水準を維持するた
めに制度化されたもので、本来、自治体の判断で自主的に使用できる財源である。
それがいつの間にか「特別交付税」の名のもとに政府が恣意的に地方へばらまく
ようになった。透明性の確保と恣意的運用の排除が強く求められている。
全国知事会・全国市長会・全国町村会など地方六団体は「地方共有税」と名称
を改正し、交付税本来の財政調整機能・財源保障機能を充実させるよう要求して
いる。
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◇夕張市民・北海道民・企業も立ち上がる
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財政再建案では「住民生活に必要な最小限の事務事業以外は原則廃止」と明記
されており、石炭の歴史村などの観光施設の運営から市が撤退することになった
が、貴重な財産を自分たち市民の手で守ろうと、任意のボランテアグループやN
PO法人を立ち上げ、存続があやしまれている29の施設の元従業員もそれぞれ
任意団体をつくって営業継続に名乗りをあげてきた。
映画のロケセットの保存・運営を担おうという「ゆうばり観光協会」や、市民
主導での国際映画祭の継続をめざす「ゆうばりフアンタ」が誕生し共にNPO法
人の設立を申請中である。
観光協会が中心になってまちづくりのための資金を全国から募る「寄付条例
案」をつくり、市民5百人余の署名を添えて市に提出し、寄付条例の制定を求め
た。このように元炭鉱のマチにふさわしい活発な市民の動きが展開されている。
このような住民パワーがマチの活力の原動力になるが、これらを下支えする事務
局としての市役所が機能してはじめて効果が大きくなる。
◇手作りの成人祭〜工夫でマチに活力を
昨年までの成人式は市役所主導で行われてきたが、今回は助成金などをたより
にしないで、6人の新成人が中心になり、手作りの成人祭を成功させた。「お金
がなくても工夫でマチは元気になるんだ」と参加した成人だけではなく、とりま
く大人たちも感激したと報道されている。
◇「夕張雪はね・雪おろし応援ツアー」「公衆トイレの維持支援」
北海道中央バスの関連会社の旅行社は昨年の10月に夕張市民と交流するバス
ツアーを計画したところ好評で全道から200人が参加した。今年は1月と2月
の計2回夕張の休業観光施設の除雪をする「夕張雪はね・雪おろし応援ツアー」
を計画し、第1回目は1月27日に行われた。幼稚園児から高齢者までの約120
人が札幌と小樽からバスで夕張入りし、地元のボランテア80人も加わって、休
業中の観光施設の雪かきに汗を流した。市の除雪費の予算はゼロで、夕張の貴重
な文化遺産が雪の重みで壊れるのを守ろうという善意の結集である。次回は2月
17日の予定である。
岐阜県大垣市にあるITベンチャー企業が、夕張市内にある7ヶ所の公衆トイ
レが全廃されるのを聞き、毎年行う社会貢献活動の一環として、うち1箇所分の
維持費の寄付を申し出た。同社は電気代や消耗品費として70万円を寄贈し、ト
イレの清掃などは地元のボランテア団体が、ボランテアで行うこととなっている。
同社社長は「日本が今あるのは、高度経済成長を支えた炭鉱のみなさんのおかげ。
私たちも支出を切り詰めて寄付するので、夕張市民も頑張ってほしい」とメッセ
ージを送っている。
◇夕張を桜の名所に・ゆうばり応援映画祭・プロ野球・大相撲
家具・インテリアチエーン大手ニトリが「夕張市に桜を植樹して日本有数の桜
の名所にしたい」との申し出も来ている。
昨年、17年の歴史に幕を下ろした、ゆうばり国際フアンタステック映画祭の
復活は当分むつかしいが、その実現に向けて奮闘している人達も大勢いることは
先に紹介した。2月22〜28日国際映画祭に携わった映画関係者による「応援映
画祭」、学生による「学生映画祭」が相次ぎ夕張で開かれ、国内外の20作品が一
堂に集まることになっている。
北海道日本ハムフアイターズ対巨人のニ軍戦、大相撲等々が次々に夕張市で応
援興行を行うよう計画されている。
◇青い芽をふく夕張メロン
5月中旬の初出荷に向け、夕張メロンの栽培農家のビニールハウスでは一斉に
メロンの苗に青い芽が吹きはじめた。
国の言いなりになっている市役所や議会の壁を乗り越えてマチの再生に突き
進む夕張市民のパワーは、夕張メロンのように、「住民自治」として間違いなく
結実する。この動きに共感する全道・全国の仲間、国の「夕張いじめ」に対抗し
て地方自治を守るために連帯する自治体・個人・団体の輪も広がりつつある。こ
の輪が「格差をなくし・地域を再生する」運動として発展するに間違いない。
(筆者は旭川市在住・元旭川大学非常勤講師)
目次へ
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■統一地方選挙を前に――報告と提言
(2)神奈川県知事の政策モデルについて 力石 定一
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地方自治の強化という民主政治の課題は環境や異常気象、地震の危機の時代に
ふさわしい内容をもっていなければならない。またそれらの危機に立ち向かう仕
方にも十分考え抜かれた政策思想の理論的裏付けがなければならない。
都市の建築思想の選択、交通体系のモーダルシフト、森林の植物生態学的管理、
水質汚濁浄化法の選択、エネルギー革命の洞察等々学際的知識を動員し判断しな
ければならない問題が山積している。
タレント族や永田町政治学で特訓された塾生のように不勉強な人達にまかせて
いるわけにはいかない。日本を地球の「統治能力」をひそませているような政策
を地方政治の力で展開してもらうことである。
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I 太陽電池
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大抵災害時の避難所に指定されている県立高校の屋根に90kWの蓄電池付
の太陽電池をつけることにし、中学校と小学校もこれにならうよう基礎自治体に
呼びかける。さらに、高知、熊本、島根、三重、宮崎、千葉などの各県にも同調
を呼びかけ、量産効果によるコストの大幅低下をはかる。
これによって、次の景気上昇期をリードする技術革新の波をかきたてる。
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II みなとみらい地区の中層ビル街への改装
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みなとみらい地区の超高層ビル群は、高いスチール柱と梁を立てた骨組みに、
軽金属、ガラス、プラスチックのようなカーテンウォールをかぶせて出来上がる
柔構造になっている。そのため来るべき大地震に際して、大きく揺れるけれども
決して倒れないよう造られているから大丈夫というわけだ。しかし、内部の人員
は、振幅で投げ飛ばされたりして、恐ろしくなって早く外に逃げようとするが、
エレベーターは止まっているので、階段に殺到する。大勢が先を争うので将棋倒
しが起こると、パニックになって悲惨な事故が予想されるのである。設計者は建
物の倒壊を避けることが関心事で人間のことは「自己責任」だといわぬばかりの
冷酷な設計思想である。生命への無関心という退廃はゆるされないと、みなとみ
らい以外の伝統的な中層ビル街の落ち着いたたたずまいと比べながら県民の多
くが、批判的に眺めている。大地震に間に合うよう、中層ビルへの改装計画の議
論を進めるべきである。
<注> みなとみらい地区の超高層ビル街は三菱造船所の跡地に造成した敷地
に計画された。当初建設ビルは少なく、広大な空地をかこっていた。近年、県は
補助金を用いて誘致を行って一定の成果をあげたので松沢県政の功績とうたっ
ている。
共産党推薦の候補者は進出大企業の利潤額と補助金の額を並べて、こんな
に利潤をあげている大企業にこんなに税金をくれてやるとはあきれたことだと
批判している。補助金の誘因で本社ビルが進出したことによって法人県民税の増
収が相当あったことにはまったく触れないでこんな風に云うのはあいかわらず
単純な論法だ。
迫り来る大地震のことを考えないで超高層ビル計画に盲進する頭も単純
でどっちもどっちである。
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III 扇島国際空港
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羽田空港の拡張のような場当たり的な計画は、東京港の海上輸送航路や漁民の
権益、千葉県民の騒音被害とかち合うなど問題が多すぎる。このままでは、国際
空港はソウルということになりそうだ。
川崎沖の扇島に本格的な国際空港をつくることだ。扇島に翼状の埋立地を付け
加えて、長さ3500〜4000mの4本の滑走路−−−主軸となる3本と横風
用1本の計4本をつくる。扇島と羽田空港の距離は7kmだから、国際線用と国
内線用の双子空港として機能させる。この案は岡崎前知事によって支持されてい
た。この案を堅持するべきである。
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IV 京浜工業地帯の再生
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京浜工業地帯の空洞化に対しては、まず、土壌汚染の問題を旧土地所有者に責
任をとらせて解決する。そして、空港利用と結びつきの高い業務機能を有する企
業を東京から誘致し、緑の多い低層のオフィス街をつくる。
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V 貨物新幹線
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東名高速道路の慢性渋滞を緩和するために第二東名が建設されているが、土地
買収と建設工事はまだ中途段階にある。
横浜市から愛知県東海市に至る第二東名自動車道のうち、神奈川県下では海老
名市中野から山北町西の静岡県境までの約36kmのルート(厚木市、伊勢原市、
秦野市、松田町を通る)が決まっているが、これも土地買収の初期段階にある。
高速道路を増やせば自動車がすぐ増えて悪循環、事故や公害も増えるだけだ。こ
の際京都議定書の大義の旗をかかげて発想を転換し、第二東名の建設済みの橋脚
や取得済みの土地をそのまま利用して、貨物新幹線を通す計画に変更すべきだ。
第一東名のトラック貨物の長距離輸送分はコンテナ化し、貨物新幹線にシフトさ
せることによって、沿線の公害を軽減し、交通事故の減少も期待できる。
沿線の各県知事を糾合して政府に要求するのは神奈川県知事の仕事である。こ
れができれば、名神にまで延ばす。地方の整備新幹線の旅客ダイヤは、比較的す
いているから、その間に貨物コンテナのダイヤを入れて、つないでやれば貨物新
幹線の全国ネットワークができるのである。
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VI 緑のダム
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水資源を保護するための水源税が先頃県議会を通った。神奈川県の森林の総面
積は9万5415ha。そのうち国有林が1万0936ha、民有林が8万44
79haである。民有林のうち人工林面積は3万1936haで38%を占め、
天然林が4万8516haで57%、その他竹林無林地が4027ha
(5%)である。人工林の間伐対象樹齢に達したもののうち、間伐の実施されて
いるものの割合は50
%で全国平均と同じ水準である。間伐が実施されないと針葉樹は陽樹なので互い
に日照をさえぎり合ってもやし状になる。浅根性なので嵐で倒れ易いし枯れてし
まうものもでてくる。林業家は輸入材との競争にならないと投げ出して、間伐を
放棄しているのであるが、その結果水害に見舞われ易くなる。針葉樹の落葉には
リグニンという物質が含まれて土壌生物がこれを嫌うので落葉の分解が十分に
行われないために土が硬くなり、フワフワのスポンジ効果のある土壌にならない
ので、雨水は表層をすべって川に流出する。間伐をやって樹間に日光が入り、広
葉樹の潅木の実生が生じるようにしてやればその落葉はスポンジ状の土壌を形
成し、雨水は、一度表土に貯えられたあとで、地盤のスキ間から地下水に向かっ
て浸透していく。このために河川への雨水の到達は時間をかけて行われ、洪水が
避けられる。
戦後の拡大造林政策で、人工林を不適地にまで植え過ぎた。不適地というのは急
斜面や尾根部水辺のように地盤の不安定なところだ。古老たちは年輪をかさねた
自然植生の地盤安定化作用を尊重して、これの保全に努めたのであるが、拡大造
林は、ブルドーザー、チエンソー、索道といった「三種の神器」を用いて地盤の
危険性という制限を無視して強行したのである。人工林の弱点は、暴風に直面し
たとき、この不適地で真っ先にあらわれ、土石流を伴う災害を頻発した。
この不適地では、間伐による潅木の実生を待つのでなく、宮脇昭方式で間に間伐
材を用いて土留めをして有機質の盛り土を行った上に潜在自然植生の広葉樹の
ポット苗を植栽するべきである。ポット苗は一年で活着し、あとは急速に成長す
る。針葉樹の日影のもとでも陰樹である自然植生は、平然と成長し、陽樹の針葉
樹の上を覆うような拡大をとげ、やがて針葉樹は枯れるから、除伐は容易で完全
な樹種の交替が行われるのである。
このように間伐による広葉樹の潅木の実生と、不適地の積極的な樹種交替と二つ
の広葉樹林化が行われることによって前述した人工林比率38%は23%以下
に低下し、天然林比率57%は約72%に上昇する。森林の保水力は、大幅に強
化されるだろう。以上は県全体でマクロ的にみて森林の保水力を強化する政策を
述べたものである。
次にもう少し立ち入って考えてみよう。
第一に、人工林の不適地における間伐を行ったときに間に植える自然植生のポ
ット苗は、標高750m以下のところでは、シイ、カシ、タブが選択される。人
工林から常緑広葉樹林に転換されるわけである。 第二に、標高750m以上の
ブナ林帯は尾根筋の地盤の不安定な地域であり、人工林の適地は存在しない。全
面的に不適地であるから、人工林の間伐は、ブナ林への樹種転換を土壌侵食のお
それのある皆伐を避けて漸進的に行うためのものである。ブナ林へのポット苗を
追加的に拡大植栽し、それ自体の持つ深根性と直根の安定作用を発展させること
であって、水源税の使途で言っているような土砂崩れに対して土木的保護策は問
題にならない。
第三に、標高750m以下の二次林、落葉広葉樹の主なものはコナラである。
コナラはかつて農家の薪炭林として20年毎に切って炭焼きをし、切株が「株立
ち」して20年たつと成木になる、また切るといった具合に輪作が行われていた。
戦後石油燃料が入って来て、農家はこの薪炭林の作業をやめてコナラ林を放置し
てきた。コナラ林は蔓や蔦が巻き付いてジャングル状になっており、まきつかれ
たコナラは日照をさえぎられて弱っている。台風による倒木や枝折れなどを減ら
すには、蔓や蔦を切り取る手入れを行って活力を取り戻してやることが必要であ
る。コナラは「浅根性」であるが、針葉樹の浅根性と違って、横につっかい棒の
ように張り出す根をしているので針葉樹よりは倒木しにくい。しかし激しい暴風
雨に直撃されるとシイ、カシの自然植生のようにビクともしないという訳にはい
かない。枝が折れたり、根ごと倒木するリスクもある。これが地下5mに達する
長い直根とたくさんのひげ根で岩盤にしがみついている深根性のシイ、カシとの
違いである。
コナラの落葉は、針葉樹の落葉のようにリグニンという物質を含んでなく土壌
をやせさせることはなく、フワフワの有機質の腐蝕土をつくるので、降った雨を
スポンジ効果で一次保留する力があることは確かである。しかし葉をみると常緑
広葉樹の場合、暴風雨が直接土をたたくのを防ぐように、分厚くしっかりと傘を
張っているのに対し、コナラ二次林の広葉は厚みも薄く張力がずっと弱く、土壌
がたたかれるのを防ぐ力は、はるかに弱い。秋深く落葉期が近づけば一層そうで
ある。土壌が豪雨にたたかれると泥水となって流れ出し、折角のスポンジ効果も
失われてしまうのである。コナラの浅根性とシイ、カシの深根性の違いは、雨水
の地下浸透を誘導する作用の相違において顕著にみられる。シイ、カシの葉、枝、
幹や土壌周辺に降った雨水はシイ、カシの地下5mに達する直根に沿って地下に
導かれ、さらにたくさんのひげ根が通っている土壌のすき間を伝って地下水近く
まで下りてゆき、地下水の毛細管現象と連携作用をしている。これに対して浅根
性のコナラの根にはこのような雨水を地下深く導く作用は存在しない。
コナラ林のもつこの弱点を補うために何をするか。
コナラ林の斜面に、間伐材を用いて土留めをおこなって盛土をし、シイ、カシ
のポット苗を植え付けた常緑広葉樹林地区を防波堤状に横につないで築いてゆ
き、水害の予防線とする。予防線は中高線と低高線と二本とするのである。
今回発表された水源税の使途についての解説は以上のような生態学的な森林
保水力の強化のメカニズムを軸心において組み立てられていない。在来の林業家
や土木業者の言い分に追随して特別会計資金をばらまいているようにみえる。
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VII 下水道問題に残された課題
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都市の公共下水道の普及率は約100%に達している。しかし、建設初期に作
られた雨水と汚水の合流方式の部分は、西欧のように降雨量が少なく、傾斜がゆ
るやかな都市で行われている方式をそのまま踏襲したものであった。日本のよう
に降雨が、しばしば豪雨の形態をとり、つよい傾斜地形にそっている場合には、
しばしば汚水処理場が受入れ困難な量に直面しなければならないことになる。そ
こで、処理場はその場合受け入れ不可能な量を河川や海に直接放流せざるをえな
い。未処理の汚水が年間何十日分か放流されることによる河川や海の汚染を、く
やしく眺めているわけである。
1970年代にはこの弱点に当局も気付きその後の下水道建設は、雨水、汚水
の分流方式を採ってきているが、初期の合流方式部分が「間違いであった」こと
をはっきりと公開し、この部分を「分流方式にやり直す」という方針を採用する
とはしていない。このような断固たる決断を避けているために、水汚染問題の軸
心が抜けているので色々と対症療法をしてみても、抜本的解決には、ほど遠い。
今一つの残された汚水処理問題は、住居が点在している地域で、各戸屎尿処理
槽が使われ、屎尿以外の汚水(台所や風呂場などの排水)が未処理のまま家庭か
ら放流され川や海に入っていることである。
新築の場合には合併浄化槽が法的に義務づけられ3分の2の補助金が出るこ
とになっている。しかし既存の住宅については、各戸処理槽を合併浄化槽に転換
することが法的に義務づけられていない。「いずれ公共下水道ができる予定だか
ら、それまでは」といった気分で、先送りが続けられているのである。これは、
はっきり法的義務付けをおこなうと同時に3分の2の補助金を支給することに
するべきである。
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VII 東京湾に原子力艦船入るべからず
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現在、横須賀において原子力空母母港化反対の住民運動が進められている。
それは原子炉装置の事故による放射能流失の危険のリスクの重大さを主として
問題にしている。これに加えて、原子炉の通常運転の間にも、気付かないうちに
放射能物質の危険が進行している。ヨウ素131やセシウム137、ストロンチウム
90などが、冷却水の中に流れ出していることである。
横須賀の原子力潜水艦が停泊する区域では、海底から自然放射能レベルの10
倍のセシウム137が検出されたことがあるなどは、そのような事実を裏付けて
いる。
先程原潜の周囲の海水中からコバルトも検出された。原子炉の稼動に伴って、
微量放射能が流出していることは、国際的にどこでも認められている。問題はこ
れが自然放射能と比べて、微量であることから、それ以上に追求しないという態
度が大抵とられてしまうことである。
たしかに自然放射能のレベルと比べて微量である。しかし、宇宙の彼方や地殻
の底にある放射能物質から照射されてくる放射線は原子そのものとは違う。生物
によって濃縮されることはない。これに対して、セシウム187やストロンチウム90は原子そのものである。プランクトンが水の2,000倍、魚は水の40,000倍というように生物濃縮される。
またセシウムはカリウムの代わりに、ストロンチウムはカルシウムの代わりに
という具合に良く似た構造の生体にとりこまれて、細胞を破壊してゆくことになる。
放射性物質が生物の中を移動したとしても、こうしたサイクルから出ていくこ
とはほとんどありえない。したがって、放射能の半減期が長い場合は、長期間に
わたって、多くの害を及ぼすことになる。(セシウム137の半減期は30年、ス
トロンチウム90のそれは29年である。)これが自然放射能と異なるところであ
る。
二次冷却水から海水に移転される微量放射能の問題は横須賀に原子力空母が
入ってくる以前において、およそ予想することができる。港内外にはすでに多数
の原子力潜水艦や原子力駆逐艦の運航が行われているから、これらの原子炉から、
前述した経路辿って、魚をよく食べる現地の人々の身体にセシウム137やスト
ロンチウム90がどれほど蓄積しているかを調べてみることだ。それは放射線医
学の専門家の仕事である。
その蓄積量と原子力発電所から遠く離れた地域の人々の場合と比較してみる
のである。
千葉市にある放射線医学総合研究所では、ホールボデイーカウンターという人
間の体内に摂取された放射性物質の量を体外から測定する装置によって、体内に
ある放射線の測定を行っている。ここに測定を依頼する。測定された数値から、
原子力空母ジョージ・ワシントンの原子炉2基が加わった場合をおよそ予想する
ことができる。
セシウム137やストロンチウム90を体内に含んだ魚は三浦半島の周辺、東京
湾や相模湾の海域を自由に遊泳している。漁業者に捕獲され、住民に食べられて
いるわけである。
現在、発展途上国の人々は原子力発電の導入を熱心に望んでいる。彼らの多く
は、先進工業国住民の肉食傾向に対して、魚食傾向を示しているから、原子力発
電問題は技術的に原爆保有に転移するという難しい問題ばかりでなく、社会的な
発癌要因という難問をかかえることになる。魚食民族を代表して、東京湾周辺の
市民が全世界に警告を発信するわけである。
注(1) 微量放射能はどのようにして発生するかについて触れておこう。原子炉
を構成している金属の性質が高温と強力な放射能のために変質してしまう
こと、冷却装置の壁において、とくにこれが顕著である。普通より変質し
にくい金属を用いるように努めているが、依然として、可燃性の金属の外
皮が割れたり、ひびが入ったりする。専門家によって中性子照射による原
子炉の脆化、配管の応力腐食割れなどと言われる現象である。
(2) 微量放射能→生物濃縮→人体の癌形成という道を辿らない為には「原子
炉」からジーゼル炉に返る以外にないわけである。J・F・Kennedy号のよ
うなジーゼルの空母を修理して配置する方法がまだいくつも残っていると
専門家は証言している。
(3) アメリカの環境団体シエラクラブに同調を呼びかけ、民主党が支配して
いる新しい上院外交委員会で取り上げて貰うようにすれば、ネオコンが没
落した現国防省の「方針転換」を実現させることは2008年まであれば可
能である。
現在の横須賀市長や神奈川県知事は原子力空母問題は国の外交問題であ
るから地方自治体が関与できないとしてアメリカの言い分をうのみにする
スタンスをとっているが、かって池子問題で逗子市民が行ったような形で
の市民的国際外交のシナリオが存在することを三浦半島の市民ははっきり
と憶えているのである。
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IX 総合交通体系整備特定財源
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道路特定財源は国と地方とを合わせて年間6兆円に達する。これをすべて道路
整備に使う目的税方式はアメリカですら1973年の交通法で否定され、ガソリ
ン税の税収の一部を公共的な都市交通機関の建設に向けることができることに
なった。西欧先進国ではどこでも、総合交通体系整備のために用いるのが当たり
前となっている。
日本ではすべて道路へ投入するか、すべて一般会計へ入れるかのどちらかで論
じられている。地方の「開明的」な知事もこの点でははっきりしない。
神奈川県知事は西欧型の解決策をもって、この点を啓蒙する必要がある。この財
源を用いれば、たとえば、神奈川県では東海道線や横須賀線の駅間隔を短くし、
運転ダイヤも増やして急行と鈍行を走らせる事などが可能となる。エレベータや
エスカレーターなどの駅整備の改善を進めれば自動車利用から電車利用へのシ
フトを引き起こすことができる。さらに商店街も一極集中から駅数が増えればそ
れだけ多極化し、道路の渋滞緩和にもなるのである。
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X 横浜国立大学を総合大学に
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神奈川県の人口は850万人で東京都に次ぐ日本第二の人口規模の地方自治体
なのである。
県庁所在地横浜の人口は350万人で大阪府の中心都市大阪市の人口250万人を
100万人も上回っている。
大阪市には大阪大学という総合大学があって理学部、工学部、基礎工学部、医学
部、歯学部、薬学部、文学部、人間科学部、法学部、経済学部の10学部で学際
的で創造的な研究を行っている。京都大学と並ぶ総合大学の陣容を整えている。
横浜と似た関西の港都神戸市を見よう。人口は150万人で横浜より200万人
少ないが神戸大学は総合大学として経済学部、経営学部、工学部、理学部、医学
部、農学部、法学部、文学部、国際文化学部、発達科学部、海事学部の11学部
をもっている。
横浜国立大学は後れた地方県の新制大学が旧制高校と師範学校と高等専門学
校を合わせただけで国立大学と称してきたのと同じような形で、工業と経済二つ
の名門専門学校を基礎に師範学校をあわせてつくられている。
首都圏の大学は政府が財政支出で国立の総合大学を整備することをできるだ
け避け教育費をもっぱら家計費負担に委ねる私立大学中心の発展に放置してき
たのである。この方針は教育と福祉への財政支出を抑えて経済発展を進めるとい
う(先進工業国中で例外的な)土建国家型成長モデルである。
横浜国立大学のこのようなステータスを問題にし、これを変革しようとする声
が神奈川県内からあげられたことが、かってなかったことである。横浜国大の教
授が知事に選出されていた時を含めてそうなのだからあきれてしまう。土建国家
型成長モデルの理論的な批判の声は大きく叫ばれたが、横浜国大が総合大学でな
いのはおかしい、これを改革しなければならないという意見は全然聞かれなかっ
たのである。
新世紀の学制改革の波を足下から巻き起こし、原理主義的民営化論の反革命的
風潮を日本列島から消滅させてゆくように努めることである。
横浜国立大学に文学部、理学部、農学部、法学部、医学部、国際文化学部、海
事学部を新設し総合大学に発展させるには県とその周辺の私立大学に散在して
いる優れた教員スタッフを吸収し、移転利用できるキャンパス用地などについて
大いに論じるべきである。
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XI 歴史的建造物の保存と活用
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県内には湘南地方の別荘建築をはじめ、文化的な価値の高い歴史的建造物が数
多く存在している。それらの建物が現在各地で取り壊しの危機に直面し、保存と
活用にむけた住民運動が始まっている。県および県教育委員会は歴史的建造物の
保存を積極的に支持し、保存に協力するよう基礎自治体を励ますべきである。
以上、神奈川県の政策選択は中央政府の政策を左右する管制高地の位置を占め
ていることを県民は知ってほしい。
(筆者は法政大学名誉教授)
目次へ
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■統一地方選挙を前に――報告と提言
(3)長野県・村井仁知事の「脱『脱ダム』宣言」にどう対処するのか?
関 良基
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<はじめに>
田中県政の後を受けた村井新知事が「脱『脱ダム』宣言」をしたことが大きな
話題になっています。具体的には田中知事が凍結した9河川のダム建設計画の中
の一つ、長野市の県営浅川ダム問題において、村井知事は田中知事の方針を覆し、
建設を容認したのでした。当初計画にあった利水目的は放棄され、ダムの下部に
は1メートル四方の穴があり、常時、川に水は流しているが、大雨の際には水を
貯留して治水機能を発揮するという「穴あきダム」です。これで「環境に配慮し
た」とされました。ダム本体の建設費用は約100億円とのことです。
この問題に対し、マスコミの論調を見ても環境に配慮した「穴あきダム」な
らよいのではないかというニュアンスの報道が結構あります。「穴あきダム」
の場合、当初計画の密閉ダムに比べて多少は環境的に好ましいということはあ
るでしょう。しかし問題の本質は、そんなところにはありません。治水上全く
必要のない無駄なコンクリートの固まりに100億円もの資金が投入されることが
大問題なのです。
この問題に関して、私は力石定一氏とともに「緑のダム」政策の有効性を一
貫して訴えてきました。日本には間伐を実施しておらず保水力の低いモヤシ状
の人工林が広がっています。これらを適正に間伐を実施して針広混交林に転換
していけば、森林土壌の改善によって十分にダムを代替するだけの治水機能を
得られるという考えです。田中知事が就任した直後の2000年11月には、力石氏
とともに浅川ダム上流域の植生と間伐実施率から、治水対策として針広混交林
に転換する費用は5億円と試算し、森林整備を浅川ダム建設の代替案とすべき
という提言書を田中前知事に送ったものでした。
しかしながら当時、大問題であったのは、森林整備で本当にダムを代替する治
水機能が得られるのかという点でした。この6年のあいだ、森林の保水機能が強
化されることによって洪水時の河川ピーク流量をどれだけ引き下げることができ
るのかに関して、長野県でも随分と研究が進んできていたのです。ところが何故
かこうした研究成果が全くマスコミで報道されておりません。じつに困ったこと
です。
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<問題の本質は何か? ―過大に計算された基本高水流量―>
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国交省は、想定される豪雨の際の洪水ピーク流量を算出し、その数字に基づ
いてダム建設計画を立てています。これが「基本高水流量」と呼ばれる数値で
す。
ところがこの基本高水流量という数字がきわめて恣意的に高めに設定され、
ダム建設の根拠とされている場合がじつに多いのです。
基本高水流量は80年に一度確率とか100年に一度確率で想定される大雨の際
の河川ピーク流量のシミュレーションの数値のことであり、この数値に基づいて
堤防の高さやダム建設の必要性の有無などの河川計画が決められます。既存の河
道が、基本高水流量を流せない場合、ダムを建設したり、堤防を高くしたり、放
水路を造ったり、遊水池を造ったりして、河道が基本高水流量を流せる状態にし
なければいけないというわけです。
ここで何が問題なのかと言うと、国交省が「基本高水流量」を定めるための
貯留関数法のパラメーターは、多くの場合、1960年代から70年代という、天然
の広葉樹林の伐採が各地で大規模に行われ、日本の森林が非常に荒廃していた
最中に発生した洪水実績から決定されていることです。実際には、それから30
年以上の時間が経過しています。そのあいだに人工林が成長してくる中で、流
域の森林の状態は改善されてくるのでパラメーターは変化しているはずなので
す。1990年代など、より近時における洪水実績から流出モデルの構築を行って
パラメーターを決定していけば、より人工林が成長した状態が反映されるの
で、洪水ピーク流量(=基本高水流量)はもっと低めに計算されるはずなので
す。
何故か学者たちは、これまでこの問題の研究に取り組むことはありませんで
した。この問題に日本ではじめて本格的に取り組んだのは吉野川の住民運動
だったのです。NPO法人吉野川みんなの会が、学際的組織である「吉野川流域ビ
ジョン21委員会(委員長・中根周歩広島大学教授)」は、国交省の算出した数
値である2万4000トン/秒という基本高水流量が、上流の森林がもっとも荒れて
いた1970年代初頭の洪水実績をもとに算出されており、森林の現状を反映して
いないことを明らかにしました。そして、適正間伐という森林整備の治水代替
案によって、基本高水流量は1万8000トン/秒にまで減らすことができる、つ
まり国交省の値に比べ25%も低い値に下げることができることを明らかにした
のです(注1)。基本高水を25%下げることができるのであれば、吉野川可動
堰はもちろん吉野川上流で計画されている4つのダムの建設計画は全て必要な
いことになります。
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<長野県における基本高水流量の水増し方法-パラメーターを恣意的に設定->
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長野県で重要だった研究は県の林務部が実施した「森と水プロジェクト」の
調査でした。吉野川のような大河川の場合、まがりなりにも現実の洪水流量の
観測データに基づいて貯留関数法のパラメーターを決定し、その降雨を「150年
に一度確率の降雨」に引き伸ばした上で、基本高水流量を算出するというプロ
セスを踏んでおります。その作業の何が問題なのかと言えば、パラメーターを
決定するのに用いられた洪水実績が、広葉樹林が広範に伐採されていた拡大造
林の最中、つまり上流の森林がもっとも荒れていた当時の森林の状態を反映し
ているということでした。
ところが長野県の県営ダム計画のような小規模河川でのダム建設の場合、そ
のようなプロセスも存在しないことが明らかになりました。長野県で問題に
なっているような小河川におけるダム建設の場合、そもそも流量の観測データ
を取らずに基本高水を決定していたのです。パラメーターは適当に決めて流量
計算されていました。その結果、基本高水流量はとんでもなく高い値に算出さ
れ、その値に基づいてダム計画が立てられていたのです。長野県林務部の「森
と水プロジェクト」研究グループの中心にいた加藤英郎氏(現・長野県林務部
長)は次のように述べています。
「ところで、河川工学の分野では、貯留関数法による流出解析においては、森林
の機能は織りこみずみだとか、森林の存在を前提にしているという説明がなされ
ているが、この9ダム(注:長野県の治水検討委員会で問題になった9ダム)計
画の解析においては、森林の状況はほとんど考慮されていないのではないかとい
う疑問が出てきた。これはどういうことかというと、流出モデル作成の過程では、
まずモデルの初期値を決めてそれを検証して最終モデルとするが、9ダム計画で
決定されたモデルでは、結果的に初期値をほとんどそのまま最終定数として採用
している事例が多かった。このモデルの初期値は本来ならば実績の洪水データか
ら求めることとしているが、実際はすべて経験式によって求められていた。とこ
ろがこの経験式においては、河川(流路)の延長と平均勾配のみで数値が決めら
れることになり、森林の状況を表すファクターは全然入っていないのである」
(注2)
旧建設省が定めた、「河川砂防防災基準計画編」には、基本高水の決定方法
の手法として以下のように述べられています。「基本高水を設定する方法とし
ては、種々の手法があるが、一般的には(所定の治水安全度に対応する超過確
率をもつ)対象降雨を選定し、これにより求めることを標準とするものとす
る」。
この基準に照らし合わせれば、実際の流量観測データに依拠せず、経験値と
して知られるパラメーターを恣意的に導入して基本高水流量を決めている長野
県のやり方は、違反行為となるのです。ダムの何百億円を注ぎ込む前に、まず
流量観測を行い、適正なパラメーターを決めて基本高水を再計算するのは当然
のことだといえるでしょう。
そこで長野県林務部の加藤氏らは、経験式による従来の方法に変わって、建
設省河川局が定めたとおり、近年の洪水実測データを尊重し、さらに土壌の雨
水有効貯留量を評価して、再計算を実施しました。すると、長野県の薄川にお
ける洪水時の最大流量は、従来の方法による計算値よりも40%も低い値が出た
のです(注3)。
実際の基本高水流量は、ダム計画において採用される数値よりも40%も低い
ものなのであるとしたら、ダムは必要ないことになります。貯留関数法を用い
ても、森林の近況を反映している近年の洪水実績を踏まえてちゃんと計算を実
施すれば、基本高水流量は大幅に引き下がることが示されたわけです。
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<浅川ダムの基本高水の水増しはじつに6倍>
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長野県林務部が行った薄川の研究では、森林を考慮に入れた実際の基本高水流
量(想定する降雨の際の洪水時のピーク流量)は、ダム計画において採用されて
いる架空の「基本高水流量」(実際の観測に基づかず、経験値であるパラメーター
を用いてシミュレーションされている架空の値)よりも40%ほど低くなる可能性
が指摘されました。
ところが、河川によっては、基本高水流量の「水増し評価」の実態は、40%ど
ころの騒ぎではないことも明らかになってきました。今回、村井知事が建設を表
明した県営浅川ダムの場合、じつに6倍という水増しであることが観測の結果明
らかになったのです。
長野県では、ダム計画で採用されている基本高水流量が妥当か否かをめぐって、
洪水時の流量の観測が行なわれるようになっています。県営浅川ダムの建設計画
においては、「100年に一度の確率の雨量」を想定して、基本高水流量が定められ
ています。この100年に一度の想定雨量は、24時間雨量で130ミリというもの
でした。2004年に長野県を襲った台風23号の際には、ちょうど長野市でこの100
年に一度確率の降雨があったのです。
浅川ダム計画では、浅川と千曲川の合流地点での最大ピーク流量は「450立法
メートル/秒」というシミュレーション結果がなされ、それに基づいてダム建設
が計画されていました。2004台風23号では、24時間雨量で125.5ミリという、
ほぼ「100年に一度」の想定雨量に匹敵する降雨だったのです。
県のダム計画における洪水シミュレーションでは、百年に一度の降雨がくれ
ば長野市の富竹地区においては260立方メートル/秒が流れるはずでした。とこ
ろが、県側の実際の観測結果によれば、台風23号の際の富竹地区でのピーク流
量は「43.8立方メートル/秒くらい」だったのです(『信濃毎日新聞』11月30
日)。
何と、ダム計画のじつに6分の1の値なのでした。観測に基づかないパラ
メーターの恣意的な設定によって、いかに途方もない数値が捏造されているか
分かるでしょう。
他の河川における観測の結果から考えると、実際の基本高水は、県の土木部
が採用している「公式数値」の半分程度かそれ以下だろうとダム問題に関わっ
てきた住民は考えております。問題になっている9河川のいずれにおいても、
基本高水が半分だったらダム建設は必要ないという結論になります。
これを受けて田中知事時代の長野県では2005年9月に各河川の流域協議会の
住民たちが「基本高水協議会」を組織し、あまりにも過大に算出されている現行
の基本高水の数値を見直そうという取り組みを始めました。
2006年8月25日には、県と住民が組織した「基本高水協議会」の中間報告が
発表されました。その報告では、浅川に関して、流域の土壌がどの程度の雨水を
吸収するのかを反映して決定される貯留関数法のパラメーターであるRsaの値が
50mmと、森林の機能を全く評価しない非常に低い値になっていたことが問題で
あると指摘されました。実際、基本高水協議会で、Rsaの値を100mmに変更し
てシミュレーションしたところ、2004年の台風23号の流出を再現できたそうで
す(注4)。
第14回の長野県基本高水協議会の議事録には、委員の一人が以下のように発
言しておられます。
「基本高水が既に非常に過大なのに、『(県の土木技監は)それを超えて超過洪水
が出る』と、そういう形で私たち住民は、ある意味には脅されている・・・・ (中
略)河川砂防技術防災基準の中で欠けているのは、森林をどう見るかということ
で、森林整備の問題である。依然として国土交通省は、森林整備の問題は折込済
みだと言っているが、森林の質、この前清水会員の岡谷の(土石流災害の)とこ
ろでクルミが一本生き残っていたという話が非常に象徴的だったが、樹種、樹齢
がどうなっているかという、今日段階の森林の問題をきちんと評価していない、
計算していない、それを無視しているということだ。・・・(中略)・・・例え
ば、(Rsaの値が)浅川だけはなぜ50mmなのだ・・・・・・」(注5)。
-----------------------------------------
<村井知事の驚くべき発言>
-----------------------------------------
さて、これだけ証拠が出揃えば、当然、基本高水を現実にあわせて下方修正せ
よという意見は社会的コンセンサスを得られそうな気がします。ところが現実は
そうなっていないのです。何せ、マスコミの記者の中に基本高水の過大評価のカ
ラクリをちゃんと理解して、報道している人がいないという実に寒い状況なので
す。
村井長野県知事は、浅川の基本高水流量が過大すぎるという住民の批判に対し、
「(数値を)動かす理由がなかなかつくりにくい」と述べ、あくまでも現行の450
トン/秒という数字を動かす必要はないと強調しました。さらに「(観測による)
検証を10年、20年やったから(高水を)修正するというものでもない」とも述
べたそうです。(『信濃毎日新聞』2006年12月9日)。
村井知事によれば、実際の観測で基本高水の6分1しか流れなかったことが明
らかになったにも関わらず、それは基本高水を修正する理由にはならないのだそ
うです。科学的な実験的事実よりも、架空のパラメーターによって恣意的に捏造
した数値の方が重いとでもいうのでしょうか。科学を根本的に愚弄する暴論だと
いえるでしょう。申し訳ないですが、知事が本気でそう思っているとしたら小学
生以下の知性としか言いようがありません。
そしてさらに驚くべきことは、こうした村井知事の暴論に対し、マスコミは平
然とそれを報道するだけで、それを批判できないという事実です。
『毎日新聞』など浅川ではたびたび洪水が発生しているから、穴あきダムなら
良いのではないかという論調の記事でした。不勉強きわまりないです。浅川は千
曲川の支流なのですが、たびたび発生する洪水は千曲川の水が逆流して発生する
内水氾濫です。浅川の上流でいかにダムをつくろうが、下流から水が逆流するこ
とによって発生する内水氾濫の対策にはなりません。浅川ダムに100億円という
ムダ金を投資するよりも、ポンプで千曲川に水を排水するという「排水機場」の
設備にお金を使えば十分なわけです。
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<おわりに>
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最近の国交省は、1997年の河川法改正の理念を覆して、各河川の流域委員会か
ら住民を排除する動きを強めています。幸い、不勉強な日本のマスコミも、一応、
こうした国交省による住民排除の動きは批判的に報道しております。
国交省がなぜ住民を排除するかお分かりでしょうか。長野県のように、住民の
研究活動は、基本高水の数値を強引に水増しして住民を脅し、強引にダム建設の
根拠にしているという、その国交省のカラクリを見抜いてしまったのです。「森林
を評価しないことによって水増し評価された基本高水の数値」というダム問題の
本質的な論点に対し、国交省側はきちんと説明責任を果たすことができないから
です。科学的な議論では、彼らは負けることを悟ったので、あとは住民を排除し
て、議論せず、独裁的手法でダムを造るより仕方なくなったというわけです。
おりしも去る2月14日に永田町の衆議院議員会館において、「公共事業チ
ェック議員の会」(会長・鳩山由紀夫議員)の主催する「河川整備基本方針・
河川整備計画策定問題に関するシンポジウムが開かれました。その中の国交省
への要請事項の中には、「 従前の工事実施基本計画の基本高水流量を踏襲する
のではなく、森林の保水力の向上を評価し、科学的に妥当な基本高水流量を新
たに設定すること」という要求が三番目に入りました。
地域における地道な市民の研究活動を通して、国会議員の側もここまで言い
切れるほど、理論水準が上がってきました。この決議には拍手を送りたいと思
います。
最近の国交省による住民排除は、江戸幕府が、倒壊前の最後のあがきとして
井伊直弼大老の安政の大獄を行ったようなものだと解釈すればよいでしょう。
あと一息で国交省河川局の牙城を攻め落とすことができると私は思います。
<注>
1)吉野川流域ビジョン21委員会『吉野川可動堰計画に代わる第十堰保全事業
案と森林整備事業案の研究成果報告書』2004年3月。なお、報告書の概略版は
「吉野川みんなの会」の下記のホームページにもある。
http://www.daiju.ne.jp/v21hokoku/hokoku.htm
2)加藤英郎「脱ダムから『緑のダム』整備へ」、蔵治光一郎・保屋野初子編著
『緑のダム ―森林・河川・水循環・防災―』築地書館、2004 年:183−184頁
3)加藤英郎、前掲書、185頁。
4)長野県基本高水協議会「諮問9河川の基本高水流量についての中間報告:
今までの手法への問題提起」2006年8月25日。
http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/houkoku/chukanhonbun.pdf
5)長野県基本高水協議会第14回議事録。2006年10月22日。
http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/youshi14.pdf
(筆者は地球環境戦略研究機関・客員研究員)
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■日中の言語文化差異 河南省鄭州大学 王 春橋
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◎中日の色彩意識「紅白」
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まず「紅白」に対する説明をしておいてから「白」と「黒」についてお話する。
日中両国ともに紅色は「危険」を表す。例を挙げると、両国共に「赤信号」を
危険の信号にしているのである。
中国の大革命の時、左翼分子は交通信号の紅信号を、他の色に変えようとして
いたそうである。その理由は「紅」は革命のシンボルだから、「革命」を停止させ
るわけにはいかないからだそうである。実は、交通信号の「赤信号」の赤い光は、
一番速く、一番遠くに伝わるという物理特性で決められたそうだから、民族の習
慣や政治には関係ないのである。
日本人は、全然関係のない一切つながりがない人を「赤の他人」と言う。これ
は多分日本人は知らない人を「赤信号」と取り扱って警戒心を強める意味だと思
う。(他にもさまざまな説がある)
中国人は物事が「順調で、成功した時、重視させる時、人気者になる時」に「紅
色」を使う。「走紅運」、「開門紅」、「溝堂紅」、「紅角」、「紅人」等の言い
方がある。
前にも述べたように、日本人は目出度いことがあると、単一色ではなく「紅」
と「白」の組合せを使う。家でお祝いするとき、「紅白の垂れ幕」を飾る。菓子の
容器も紅白の糸で巻き、お礼の袋も紅白で飾る。
中国には「紅白喜事」の言い方がある。ここでの白は長寿者のお葬式のことで
ある。日本人は目出度い日に赤飯を食べる習慣がある。これも「紅」(小豆)と
「白」(白米)の目出度い表現だと思う。
私は一度九十才以上の老人のお葬式に参加させられたことがある。その時も赤
飯をいただいた。日本人も長寿者の葬式を、慶ぶこととして視ているのであろう。
日本人は通常、単一色で目出度いことを表さないのだが、「白星」という言葉を
優勝と成功の標記として良く使っている。
「紅白」は目出度いという意味の外に吉祥という意味もある。日本人の好きな
色である。日本放送協会(NHK)が大晦日(除夜)に放送する歌番組は「紅白
歌合戦」と呼ばれている。日本の国旗も海上自衛隊の旗も「紅」と「白」の色を
使っている。
日本の小学生が運動会に参加する時、紅白の防止を被る。この帽子は白と紅の
リバーシブル(裏表)で、紅チームは白を裏にして紅を表にし、白チームはその
逆にすれば良いのである。
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◎「すみません」を多用する日本の文化
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日本の社会でよく耳にするのは「すみません」という言葉だ。電車で、道で、
人に声をかけるとき、いつもその言葉が聞こえる。それによって、日本の社会の
小さないざこざを滑らかに静め、大きな衝突に至らないのであろう。
以上のことは、日本の一般的な社会でのことだが、会社と言う限定的組織内で
は、責任の縄張りもあり、上下関係の問題もあって、みなが同じ目標を目指して
いるときには、まるで「はい」と「すみません」だけの言葉で通じているように
思われることがある。一般社員と会社の上層部との関係について言えば、日本で
は一般社員は上層部の取り決めに絶対服従しなければならない。そうでなければ、
辞職するしかない。上層部との駆け引きは不可能である。
私(管理人ではない)が仕事をしているラジオ日本・国際部に、中文科を卒業
した女性がいる。彼女が入社した時、上層部は彼女にベトナム語放送を担当させ
た。彼女も他の日本人と同じようにおとなしく上層部の決定に従った。仕事上で
必要なので、彼女は喜んでベチナム語を勉強し、同僚に教えを請うなどしている。
このようなことは中国では想像できないことだと思われる。
仕事上で分からないことが出てきた場合、「すみません、わかりません」と言っ
ても間違いではない。ただし、分からないと言って、そのことが終わるわけでは
なく、後でそのことを明らかにしなければならない。これは道を尋ねられた時と
違うところである。
もし、その分からないことが一般的な常識の範囲である場合、日本人はとても
恥じ入り、「すみませんでした」などと言う。日本では責任逃れをしたりする時、
「誰も私に言わなかった」とはめったに言わない。
日本で、「誰も私に言わなかった」と言う場合は、責任逃れと言うよりは、皆か
らいじめられて不満を言っていると言った方が当たっている。つまり、皆がある
ことを故意にその人に教えなかった時、このような文句をよく聴く。
中国においては、このようなことは比較的少ない。多いのは自分が得た最新情
報を誰にも教えないか、あるい奥の手として取っておくことである。このような
状況では人に教えを請うても、特別に親しい関係でないかぎりは、誰も教えてく
れない。中国ではしばしば「誰も私に言ってくれなかった」と言うのをよく聴く。
中国人がこのように言う時は責任逃れをする時か、他人を恨む時で、私を責め
るなと言う意味である。
「知りません」という言葉についても、日中間には大きな違いがある。善しあ
しを別として、日本人のこの言葉に対する態度は職業上の教育と、競争社会が生
み出した結果だと思われる。
-----------------------------------------
◎中国と日本、「知っている」と「しらない」
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中国人が話をする時、相手がその話の内容を知っているかどうかに係わらず、
「あなたは知らないだろうが、町の変化はとても大きい。私は町から帰ったばか
りである。・・・・」等々。このような話方を日本人が聞いた場合、魯迅の作品中
の人物「阿Q」を思い浮かべるだろう。中国人のこうした言い方をそのまま日本
語に訳した場合、日本人の感情を害することが往々にしてある。
一般的にこのような場面では、日本人は「あなたもご存知だと思うが、町の変
化はとても大きいです。私は町から帰ったばかりですので。・・・・」などと言う。
相手が明らかに知らないと分かっていても、あたかも皆が知っている話かのよう
に話しを始める。通訳をする場合、「あなたは知らないだろうが、」を「あなたも
知っていると思うが、」と言うように変えたほうがいいと思う。
日本人の学生は「分かりません(知りません)と言うのが好きである。この意
味は「答えられません」の意味で、先生が質問すると、往々にしてこの答えが返
ってくる。学生にしてみれば「分かりません」と言えば、それで安心し、自分と
は無関係な問題となる。実際、「分かりません」と言うのは消極的な学生で、先生
もそれ以上質問しない。
この点は中国の学生も日本の学生も同じである。違うのは社会に入ってからで
ある。
日本人は社会人になってから、ある時には再々「知りません」と言うが、状況
は二種類に分けられる。それは仕事中とそれ以外のときである。先ず仕事以外に
ついて話してみよう。
仕事以外の場面で、ある人があなたに道を尋ねたとしよう。中国人は「知らな
い」と答えるだろう。だが、日本人はただ「知らない」とだけは言わない。普通
は「すみません、わかりません」や「ごめんなさい、知りません」などと言い、
最低でも「わかりませんから、他の人に聞いてください」と言ったりする。日本
語ではこのような言葉は語気によって気持ちを表す。
もし、日本語で「知りません」とだけ言うと、言われた人は「あなたには教え
ない」と言われたのと思い、ぶっきらぼうな感じを受ける。そして、相手を不愉
快にさせてしまう。
もし、仕事の上で、同じように道を尋ねられた場合、「知りません」と簡単には
言えない。たとえ、礼儀正しく答えても「知りません」を言うのには注意を要す
る。では、本当に知らない場合はどうするのだろうか?日本の会社員は先ず同僚
等に聞き、その後丁寧に道を教える。特にサービス業に従事する人々はこのよう
な対応を非常に重視する。彼ら(彼女たち)はお客さんに対するサービス精神に
基づき本来の仕事と全く関係ないことでも、丁寧に対応する。勿論あまりにも忙
しく、あなたの相手をできない時などは「わかりませんので、他の人に置きくだ
さい」などと言われることもあるだろう。
警察官以外の人々であれば、道を尋ねられて答えることは自分の本来の仕事で
はないので、答えないかもしれないが、では、自分の仕事の範囲内の場合、日本
人はどのように対応するのだろうか。
例えば、お客さんが洋服売り場の店員に向かって、「レコード売り場はどこです
か」あるいは「この服はどこの国で生産されたものですか」などの質問をした場
合、決して「知りません。他の人に聞いてください」などとは言わない。必ず、
同僚等に聞いてから、お客さんの質問に答える。そして、答え方は道を教える時
より、さらに丁寧でなければならない。
「知らない」と同じような言葉に「聞いたことがありません」「したことがあり
ません」などがある。自分の仕事の上で分からないことが出てきた場合、日本人
は一般的に自主的に勉強する態度を取る。「しりません」「したことがありません」
「勉強したことがありません」などは仕事を断る理由にはならない
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≪連載≫
■1、臆子妄論
安倍晋三とコリオレーナス 西村 徹
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◎「元日や手を洗ひをり夕ごころ」
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朝日新聞元日の「折々のうた」は芥川龍之介の「元日や手を洗ひをり夕ごころ」
だった。俳句について知るところ深いとは到底言える柄でない。したがって見当
違いかもしれないが、この翳りのある句が元日の一面に掲げられることの意味は
私にとって小さくはなかった。大抵正月の新聞は嵩張ってばかりで間延びがして、
テレビの番組表以外読むところなどない。それがのっけにこの句でこころもち息
を呑んだ。
直接には芥川の内面の不安そのものの痛切に加えて、2007年の先行きを占う痛
切がそこにあった。ひそかな編者の憂慮が、あるいはそこに込められていたのか
もしれない。のっぺらぼうな元日の新聞には珍しく新鮮であった。この国の疼き
始めようとする傷口の新鮮であったが。
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◎きれいは汚い汚いはきれい
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安倍という人は、西村真悟みたいに白刃をかざして鬨の声をあげ、というので
はないが、白刃を隠して勇ましげなことを、甲高い早口でしゃべって歩いて人気
をあつめた。政権の座につくと豹変するかのように中韓との外交関係を修復した。
そうやって煙幕を張りながら着々とその間教育基本法を歪め、防衛庁を防衛省に
格上げし、美しい国というレッテルを貼ったキナ臭い国づくり路線を進めた。「き
れいは汚い、汚いはきれい」とマクベスの魔女がトンボを切るようにして、今し
がた修復したばかりの中国との関係に、こんどは水をさすようなことをわざわざ
NATOに出かけて行ってしゃべって苦笑させた。自衛隊のアフガン出前サービス
まで売り込んだ。
一方、残業代ゼロ法案(=過労死促進法案)を出したかと思うと引っ込めた。
高利貸の金利高止まり法案も引っ込めた。共謀罪も出し入れした。出しては引っ
込め出しては引っ込め迷走するかのようでいて、支持率はツルベおとしに下げな
がらも、しかし一瀉千里で改憲にまい進していることだけはたしかだ。そのため
の国民投票法案など、桂ざこばの「強情」という落語にそっくり。借金を頼みな
がら、いくら借りたいかをいう前にとにかくウンと言えという。法案の中身も理
由も論議しないでとにかく先にウンと言えいうのだからこの落語とおなじだ。
落語の方は借り手も貸し手も善人だからよいが、こちらは国民の生命を預けるは
なしだから物騒だ。安倍という人は改憲という強迫観念だけが頭にあって再チャ
レンジもなにも他のことはどうでもいいらしい。改憲で国権を強化して、あとは
どうにでもできると踏んでいるのかもしれない。ならばなかなかしたたかなのか
もしれない。本間も佐田も松岡も、伊吹も中川も、そして柳沢も、そんなことは
どうでもいい。参院選もどうでもいい。「自分の任期は短い。短い間におっ母さ
んの言いつけどおりシッカリ、祖父さん以来の宿願を成就しよう」というハラか
もしれない。
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◎マザーコンプレックス
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おそらくそう見るのは買い被りであろう。未熟なまま総理になって、というより、
されてしまって本人は五里霧中、まさしくダミーであって自覚もなにもないのか
もしれぬが結果としてそうなる雲行きに見える。
おっ母さんの影響力が相当に強いと聞く。あれだけ強く妖怪祖父さんを意識す
るからにはさもあろう。男女共同参画社会基本法に反対らしいところからもさも
あろうと思う。だとするとシェークスピアの「コリオレーナス」に少し似ている。
少しであって大いにというのではない。軍神マースのような勇猛果敢の軍人と安
倍総理はまったく違う。見かけは大いに違う。しかしただひとつマザーコンプレ
ックスの点で似ている。暮れから正月にかけてテレビでたくさん芝居を観た。勢
いでビデオに録っておいた97年パナソニックグローブ座でのスティーブン・バ
ーコフ一座が演じたものを観た。92年銀座セゾンでの同じくバーコフの「サロメ」
がすばらしかったのでこれも録ったというだけで、ろくに観ていなかったものを
観た。その偶然でふと似ていると思ったにとどまる。
シェークスピアについても、俳句についてと同じく、知るところ深いと言える
柄でない。シェークスピア学者というのはゴマンといて、マルクスとちがって流
行りすたりもなく、あとからあとから玉石とりまぜ論文が出る。Books about
books about booksの出版が跡を絶たない。成果主義で、とにかくpublish or
perishだからペーパーを出さないと落伍するアメリカのシェークスピア学者が、
データ追跡に忙しくて「シェークスピアなんか読んでる暇なんかない!」と言った
という。なんかよくわからん話であるが、荒廃か興隆か。いずれにせよそれほど
の繁盛亭には割って入る余地はないが、野次をとばす自由はだれにもある。
milliard-minded(観自在千里眼)のシェークスピアだから玄人を歓ぶとはかぎら
ず素人を厭うともかぎらないだろう。
-----------------------------------------
◎コリオレーナスの悲劇
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「コリオレーナス」はプルタルコスの「対比列伝」に材を得た紀元前4世紀、エ
トルリアもなお命脈を保っていた時代のローマ武将の悲劇である。書割も照明も
揚げ幕も引き幕もなしの、奥にせり上がりのようなバルコニーがあって、前方に
青天井エプロンステージのせり出している舞台で、昔は女優を使わず、コスチュ
ームのほかは俳優のせりふが一手に効果のすべてを引き受けるシェークスピア劇
は、どの作品のどこを開いてもかならずどこかおもしろいが、これは37編ほど
ある全劇作品のなかでは比較の上で人気のない、上演回数の少ないものである。
極右ミリタリズムを鼓吹するとして30年代フランスなどでは敬遠されていた。
日本占領の米軍が忠臣蔵を禁止したようなものだ。たしかにコリオレーナスの立
ち位置は極右ミリタリズム以外のなにものでもない。それはそれなりに戦士とし
て清冽ですらあり、杉本五郎中佐の凛冽がある。チャンバラもふんだんにあって、
あるいは遊就館や安倍総理などは歓ぶかもしれない。ちなみにベートーヴェンの
コリオーラン序曲はシェークスピアではなくドイツの詩人ハインリッヒ・ヨーゼ
フ・フォン・コリンの劇に献呈した曲ではあるが、この劇もまた同一人物を主人
公とするものである。
「コリオレーナス」は一口に言って復讐劇である。復讐が復讐を呼んで最初に復
讐を企てた主人公が最後には敗れる悲劇である。また主人公は民衆の敵でもあっ
て民衆の側に照明をあてれば民衆のしたたかさがうかびあがる。ブレヒトはそう
いう読みをしている。ヤン・コットも民衆こそがローマの大義であると見ている。
シェークスピア劇には、ほかにもたとえば「ヴェニスの商人」は喜劇とされてい
るが、シャイロックこそが主人公の復讐悲劇と読む余地はありすぎるほどある。
「オセロー」もコリオレーナスに似た直情径行の軍人の悲劇であるより狡知無類
の悪役イアーゴの復讐悲劇でもある。「リア王」も娘たちに裏切られる王の悲劇
ではあるが、滑稽なまでにおべっかに弱い、いい気な老人のおろかさのきわだつ、
さればこそ一層深刻な悲喜劇である。オーウェルはその種の趣旨のことを書いて
いる。どの演劇も演出に左右される余地は大きいがシェークスピアはとりわけ多
面多層で人類を映す鏡といわれるだけに一筋縄ではいかない。
-----------------------------------------
◎今も昔も――金持ちの金持ちによる金持ちのための政治
-----------------------------------------
劇は民衆蜂起の場面に始まる。舞台はローマ市の街頭、武装した民衆が集まっ
て、「飢えて死ぬより斬り死にする方がよい」(rather to die than to famish)との
覚悟を確かめ合う。民衆の敵ケイアス・マーシャスを倒して穀倉を襲おうという
のだ。傲慢王タルクィヌスが追放されて共和制になってはいるが、統治を付託さ
れている貴族と平民との対立は深刻である。「貴族の奴らが食いすぎの分から、
おこぼれをちょっぴり分けてくれりゃ助かるのだ。腐ってさえいなけりゃそれだ
けでも恩に着るぜ。ところがそんなぜいたくはできないときた。平民が食うや食
わずの青息吐息、骨と皮だと奴らにはそれがごちそう、眼の法楽。手前の金満が
引き立って、こっちの呻き声が奴らには心地よい格差というわけだ」(一幕一場)
といったせりふがほとんどいきなりのっけに出てくる。
いきなりのっけに出ることによって、この劇の調子はこれで決まって、その調子
が一貫して通奏底音のように鳴り響くことになる。ブレヒトやヤン・コットの見
方の成り立つゆえんである。今日的というにも、あまりに今日的な場面ではない
か。金持ちの金持ちによる金持ちのための政治が民衆を苦しめているのだ。こん
なことも民衆は言う。
「おれたちは飢えているのに連中の倉庫は穀物ではちきれそうだ。高利貸に都合
のよい条例を作って高利貸の便宜を図る。金持ちを規制する従来の真っ当な法律
は廃止する。貧乏人をがんじがらめに締め上げようと、ますます苛烈な法律をつ
くる」(同上)。法人減税とサラリーマン増税の、まるで今日ただ今、日本の政
治状況そのものである。この種の民衆の声はくり返し現れる。
-----------------------------------------
◎寡婦が育てた護国の鬼
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さて民衆の敵ケイアス・マーシャスは、イタリア南部の山地コリオライのヴォ
ルサイ人と戦い、これを撃破した功によってコリオレーナスの称を与えられた。
さらに彼を執政官に推挙の声があがり、母親は彼がこれに応ずることを強く望ん
だ。母ヴォラムニアは軍国の母、帝国ローマの鑑である。彼が猛将に育ったのは、
皮肉なことに、むしろ寡婦ヴォラムニアが女手一つで一粒種として育てたことに
負うところが大きい。ヴォラムニアがいかに猛女烈婦であるか。
舞台は出陣中のマーシャス家の一室。針仕事をしている妻ヴァージリアに姑のヴ
ォラムニアは言う。
「息子が手柄を立てられそうなら喜んで危地におもむくにまかせました。凄惨な
戦に送り出すと息子は額に柏の冠をいただいて凱旋してきました」
「でも、お母様、どうしましょう?そのために戦死してしまったら」とヴァージ
リアが言うのに答えて、「そのときは戦死の報せこそ生身の息子に代わるたまも
の。息子は英霊となって、その命脈は尽きることがありますまい。よくお聞き、
私が誠を語るのを。私に十二人の息子があって、それぞれにおなじように愛しく、
そなたの、そして私のマーシャスにおとらず貴いものであったとして、十一人が
祖国のために名誉の戦死を遂げるようなら、それこそむしろ望むところ。残った
一人が遊蕩ざんまい無為飽食するのを見るよりも」(一幕三場)。
こういう猛母が手塩にかけて育てた、出来すぎるほどよく出来上がったケイア
ス・マーシャス・コリオレーナスという男は、まさしく「愛国心」の権化、国に
とかくの注文をつけるばかりで、兵隊にしても腰抜けで役立たずの平民を非国民
のごくつぶしだとして極度に嫌悪している。
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◎民衆の敵の大衆論
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「お前ら(平民)に甘いことを言ってちやほやする奴は下の下の下司だ。戦争も
いや、平和もいやで一体なにが欲しいというのだ。野良犬どもめ。戦争だと震え
上がり平和だと図々しくなる。・・・偉大の名に値するのはおまえらに憎まれる
者のことだ。・・・おまえらはころころと気が変わり、今けなしていたかと思う
とほめそやす」(一幕一場)
これが彼の大衆論の一端であるが、それはそれで穿っていて、かなりよく大衆
の一面を捉えてもいる。この認識はあながち民衆の敵に固有のものとして葬り去
ることのできるものではない。大衆の側に立つというのは大衆に幻想をいだくこ
とでも迎合することでもない。組織されないかぎり大衆にはこういうところがた
しかにある。それをポピュリストがいちばんよく知っている。ポピュリストやデ
マゴーグと戦う者はそのことを認識というより覚悟として踏まえていなければな
るまい。ドラゴンと戦っているとドラゴンに似てくるという危険はあるが、敵に
学ぶことはしばしば味方から学ぶより有用なものだ。敵を知るとはそういうこと
だ。
「あいつらは囲炉裏端に座ったきりで、さも知ったかぶりに議事堂でなにがあっ
たの、誰が頭角を現しそうだの、誰が浮かんで誰が沈むだの、あれこれ派閥に肩
入れしたり、ガセネタの結婚ばなしを言いふらしたり、あれこれの党派にてこ入
れしたかと思うと気に入らぬ党派は土足で踏んづけるのだ」(同上)
これは今でいうならメディア論として十分に説得力を持つであろう。紀元前四世
紀ローマ市民の民主主義そのものではなく、17世紀初頭のイギリス社会の俗状を、
市民革命前夜というにはまだ少し間があるにせよ、同時代的にも先見的にもシェ
ークスピアの目が映し出したものではあろうが、それは古代ローマにも今日にも
十分通じるものであるだろう。「産む機械」さわぎのバカバカしさ、スキャンダ
ル国会で政策論議が宙に浮いてしまっているのを見てそう思う。
コリオレーナスは、平民に甘い顔を見せて、いちいち彼らのいうことを聞いて
いると貴族の地位は危なくなるという危機感から「貴族たちが情を捨てて私に剣
を揮わせてくれるなら、やつらをずたずたに裂いて槍の穂の届くかぎり死人の山
を築いてみせる」(同上)と歯に絹を着せぬ、正真正銘のハードライナーである。
-----------------------------------------
◎変節の苦き果実――母に屈して
-----------------------------------------
このおよそ現実政治に馴染まぬ男が、軍人の節を守って「闘う機械」に徹すべ
きであった男が、こともあろうに執政官に推挙され、母の懇請もだしがたく、膝
を屈して粗衣をまとい、広場の民衆に、彼がもっとも軽蔑する民衆の前に、戦場
で負った傷痕をさらして一票を請う羽目となる。しかし彼は大衆に媚びるポピュ
リストではない。「美しい国」などと逆説ではないかと思えるような看板を、ぬ
けぬけと掲げるデマゴーグでもない。到底このような屈辱に耐えて己を偽りおお
せるものではなかった。民衆を嘲弄したとして怒りを買い、軍功に免じて死罪は
まぬがれたが単身国外に追放されてしまった。
彼はコリオライのヴォルサイ人将軍オフィーディアスと何度も戦い、そのたび
勝利した。その功によってコリオレーナスの称号を得たのでもあったが、その宿
敵のもとに身を寄せる。忘恩のローマを共に攻めようとの手土産をたずさえて。
オフィーディアスは歓び迎えると見せて配下の精鋭をコリオレーナスにゆだねる。
コリオレーナスは赫々たる戦果をあげ、いよいよローマ入城も近くなった日に親
友メニーニアスが忍んで来て、和を求めるが言下にこれを斥ける。しかしその後、
明日はローマ城壁の前に陣を敷くという日になって、母ヴォラムニアが妻ヴァー
ジリアと一粒種の小マーシャスを従えやってくる。
-----------------------------------------
◎再度の変節そして奈落へ――またしても母に屈して
-----------------------------------------
気丈な母が七重の膝を八重に折り、地にまろぶようにして、ローマを火の海に
はしないでくれと嘆願する。心ならずも執政官の道を選んだときとおなじく、ま
たしても彼は心くじけて復讐を断念することになる。母の、この口説きの場面は
舞台では大きな見せ場であるが、ここから劇は急転回する。
オフィーディアスは戦勝の報をたずさえ一時帰還のコリオレーナスを、あろう
ことか逆賊として元老院に告発する。
「国の長たる元老院のみなさま。彼はみなさまの信頼をうらぎって、わずか数
滴の涙のために、我が手中に落ちたローマを捨てたのです。母と妻とのために。
我が手中に落ちたローマをと、くりかえし申し上げます。宣誓や決議をボロ絹の
ように破って、軍議にもかけず独断で、子守の涙にもらい泣きに泣きじゃくって、
涙もろとも勝利をわっと投げ出してしまったのです」(五幕六場)
すでにオフィーディアスの意を汲んでいる刺客に取り囲まれ、数百年を経て後の
日にシーザーが倒されたのとおなじように、無数の刃を身に受けてコリオレーナ
スは壮烈な最期をとげる。骸となって動かぬコリオレーナスを前にオフィーディ
アスの怒りは消え、悲しみにとらえられる。彼自ら三人の隊長とともに遺骸を担
ぎ、葬送の太鼓打ち鳴らさせ、従う兵士には槍を曳かせて退場する。「敵将なが
ら葬儀は厳かにせねばならぬ」(Yet he shall have a noble memory)という一声を
残して。
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◎月とスッポンではあるが
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コリオレーナスは二度が二度とも母の言葉に惑わされ、心ならぬ道を選んで身
をほろぼした。マザーコンプレックスそれ自体は多くの男のまぬがれぬところ。
そのあるなしが男の値打ちを決めるものではさらさらないが、その対応を誤ると
大きな悲劇のたねになる。安倍晋三とコリオレーナス、この二人を並べるのは鳶
と鷹、月とスッポンかもしれぬし、悲劇と茶番とのちがいは大きくもあるが、ひ
と刷毛刷いたぐらいは二人はたがいに似ているように思う。
(筆者は大阪女子大学名誉教授)
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≪連載≫
■2、回想のライブラリー(17)
「オルハン・パムク」を読む 初岡昌一郎
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(1)
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暮から正月にかけて何冊かの本を読んだ。一番の収穫は、何といってもトルコ
の作家、オルハン・パムクが書いた二編の小説だった。2006年のノーベル文学賞
を受賞したことや、アルメニア人虐殺問題にたいする発言によりこの作家が国家
反逆罪に問われたことから、日本でもパルクの名は知られるようになってきた。
彼の訳書はいずれも藤原書店から出版されている。訳者は、パムクがノーベル
賞を受賞する前から翻訳をいくつかの出版社に持ち込んだが、いずれも断られた
という。そして、ついに藤原書店にたどりついた。さすがは、フェルナン・ブロ
ーデルの大歴史書『地中海』全5巻を世に問うたこの出版社だ。
昨秋出版されたばかりの『雪』はトルコの一地方都市カルスを舞台に、カフカ
的な不条理な世界が展開されている。小説の主人公であるKaをはじめ、都市名
も『雪』もすべてカフカのカという、韻を踏んでいるのに作者の意図がはっきり
とみてとれる。この小説は政治的社会的な色彩が濃い。背景となるイスラム世界
が一枚岩とはほど遠く、複合的な社会であることが生き生きと描写されていて、
私にとってはストーリー以上に興味深かった。
二冊目の『わたしの名は紅(アカ)』は、2004年に出版されていたが、昨年の
ノーベル賞受賞以後に日本でも注目されるようになった。これは600ページにの
ぼる長編小説だ。読みはじめるとその世界に惹きこまれ、一気呵成に読了した。
小説の舞台はイスタンブル。時代は16世紀末で、オスマントルコが全盛期に
あった。得意先であるムスレム王朝の宮廷と下町の庶民社会にはさまれて暮らす、
細密画職人達が主人公だ。物語は『雪』よりもはるかにドラマティックで、ミス
テリー仕立となっている。
冒頭から「私は屍」と、細密画家の一人“優美さん”が仲間に殺された時の語り
が始まる。それに続いて「私の名はカラ」、「人殺しとよぶだろう、俺のことを」
わしはおまえたちのエニシテだ」「ぼくはオルハン」「人はわたしを“蝶”とよ
ぶ」などと、次々と登場人物が、一人称で物語を展開する。
同じ情景や状況が、異なる視点から切り取って見せつけられる。羅生門的な筋
書きだが、それよりもはるかに複雑かつ社会史的文化史的な背景が色彩豊かに書
き込まれている。読者はいつの間にか、16世紀のイスタンブル社会に迷い込み、
その庶民達の生活を追体験させられる。当時のイスラム社会の住居とその内装、
食材と料理、ペルシャや中国に起源をたどる細密画とそのあざやかな色を生み出
す技法など、われわれの日常的体験と異質な世界に踏み入れる興奮をこの小説は
味合わせてくれる。
小説の中で、一人称で登場するのは人物だけではない。「わたしは犬」「わた
しは一本の木だ」「わたしは金貨」「わたしは馬」と、人間以外のモノや動物の
視角からの語りがストーリーの倍音となっている。さらには「わたしの名は死」
とか「わたしは悪魔」という章もある。
ラテンアメリカのノーベル文学賞受賞作家、ガルシア・マルケスが描いた熱帯
の極彩色風景とどろどろとした人間関係の世界にかつて私は魅了された。パムク
の世界はそれよりも広く、深く歴史につながっている。今年に日本語版の発行が
予告されている『イスタンブル』(2003年)という、彼の最新作を心待ちにして
いる。
10年ばかり前、2週間ばかりトルコに行き、駆け足旅行の中でも、イスタンブ
ルには5日ばかりいた。この街はとても印象深かった。このツアーは買い物など
には案内せず、歴史と文化に徹するというポリシーを持つユーラシア旅行社が組
織したものだった。その翌年には、やはりこの旅行社のツアーでギリシャを回っ
た。
かつてヨーロッパとは、ギリシャ世界の最東に位置するビザンチンまでを指し
ていた。ボスポラス海峡とマルマラ海をへだてた現在のイスタンブル市ガラタ地
区は“アジア”のはじまりであった。今のトルコは“小アジア”と名付けられて
いた。ヨーロッパ中心の地理感覚から、イランなどは中東、中国、日本は極東と
呼ばれることになった。そもそもアジアとは、所詮、ユーラシア大陸の非ヨーロ
ッパ世界の総称で、一定の共通性に結ばれた地理的区分ではなかった。
日本人、特に日本の知識人は、昔は中国人の目を通じてモンゴルや他の世界を
みていたように、近代においては西欧的知識と教養を通じて、非ヨーロッパ世界
を軽くみてきた。
私の場合も、どっぷりとヨーロッパ的な見方につかってきた。まずキリスト教
とその周辺の諸思想を通じて、次いで社会主義思想を通じて世界や歴史をみてき
たのであった。意識するとせざるとにかかわらず、私の世界観と精神世界はこの
ヨーロッパに起源を持つものの見方に支配されてきたように思う。
今になって気づくのは、キリスト教とマルクス主義、キリスト教とイスラム教
という、一見、鋭く対立し、絶対に相容れないとみられている思想と信仰が共通
する核を持っていることだ。
それは「真理は一つ」という一元的世界観である。自分の信仰なり、信念や思
想が唯一の真理に立脚していると考えるならば、他の原理を全的に否定する立場
を容易にとることになる。
「真理は一つ」という絶対主義的な観念と、多元的な立場を容認しなければ成
立し難い民主々義、そして社会民主々義とどのような調和ないし共存がありうる
のだろうか。自らを全的に否定する他者を容認することは“寛容”と“赦し”だ
けなのだろうか。
オルハン・パムクに刺激されて、新年の想いは、久しく離れていた抽象と哲学
的な世界にいざなわれることになってしまった。
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(2)
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トルコには旅行者の眼でしか接していなかったが、複合的な魅力を持つ国とし
て印象に強く残っている。地中海沿岸部はギリシャ・ローマ世界の歴史を色濃く
残しているし、内陸部のアナトリアやカッパドキアに行くと中央アジアの様相を
呈する。住んでいる人達もアジア系の顔つきを持つもの、金髪碧眼で西欧人と区
別がつかないもの、アラブ人らしい相貌など、まことに雑多である。宗教的にみ
るとオスマントルコの進出によって回教国となったが、アタチュルクの軍事力を
背景とした近代革命によって、国家と宗教は分離された。回教色の強い政党が現
在は政権を握っているにもかかわらず、この原則はこれまでのところ維持されて
きた。
近代的民主々義の原則の一つは政教分離である。しかし、政教分離それ自体は
民主々義の保障ではなく、トルコも王制を廃止して近代国家になってからも、独
裁下にあった期間が長い。トルコの政教分離を支えてきたのは軍部である。この
軍部が未熟な政党にとって代わり、政権を再三掌握してきた。それは、クーデタ
という非民主的手段を通じてである。政教分離という近代国家のファサードが軍
によって守られているところが、トルコのジレンマであろう。
現在のトルコを形成している地方には、初期キリスト教が広く根を張っていた
し、中世では、ビザンチウム(イスタンブル)が一千年にわたって東方教会の拠
点であった。この頃、ヴェネチアは東方と西欧を結ぶ交易国として大きな勢力を
地中海で持っていた。ルネッサンスによってフィレンツェなど中部イタリアの諸
都市が興隆するまでは、ヴェネチアこそが最も富裕な都市国家であった。それは、
歴史的に長期間にわたり先進地域であった地中海東方世界の富を背景としていた
からである。
地中海は歴史的には諸民族の共同の海で、その沿岸では国家の歴史は比較的浅
い。近代になるまで国境は確立されたものでなく、きわめて流動的であった。
トルコ地方は、オスマントルコが支配権を確立する16世紀までは、「ノーマン
ズ・ランド」(主なき地)であったといえよう。紀元前にアレキサンダーがマケド
ニアから出て、この地方を席巻した時代、この地域の大半がペルシャの支配下に
あった。ギリシャが繁栄した時代には、沿岸部は圧倒的にヘレニズムの影響を受
けていたが、内陸部はアジア系騎馬民族が力を持っていた。「南船北馬」的な様相
がここでもあった。
オスマントルコが16世紀から力をのばすと東はエジプトに至るアラブ世界を
支配し、西はヨーロッパを侵略してブルガリア、ルーマニア、アルバニア、ギリ
シャをはじめ、旧ユーゴスラビアの大半に勢力を拡大した。第一次世界大戦頃に
は「病める巨人」といわれたものの、トルコはまぎれもない帝国であった。すべて
の帝国は多文化的多人種的にならざるをえないが、トルコもその例にもれなかっ
た。
このトルコは、EU加盟を指向しているものの、その道はますます険しくなっ
ている。その社会的状況や国民の意識からみて、EU加盟が強いアピールを持っ
ているとは思えない。潜在的にはキリスト世界とイスラム社会が同居できるかと
いう問題があるとの見方が強いが、しかし今日の西欧社会は、すでに内部に定住
した移民によるイスラム社会を抱え込んでいる。
EU側がトルコにつきつけている主たる問題は、少数民族であるクルド族にた
いする抑圧と、人権および民主的な法の支配に関連している。クルド民族はトル
コだけではなく、イラクとイラン等の地続きの一帯に約4000万人が居住してお
り、それらの国すべてで少数民族として存在している。クルドは自らの国家を持
たない世界最大の民族である。近代的国際政治の原則の一つ、民族の自決はこの
民族に関する限り適用されてこなかった。
もう一つの人権問題は、クルド問題とも密接に関連している。トルコの人権と
結社の自由問題が、私がILOに深く関係していた70年代から80年代に国際的に大き
くとりあげられていた。しかも、現在は民政移行と民主々義の回復は改善された
ものの、まだ根強く残っている。
私がクルド人問題に目を開かれ、関心を寄せる大きな契機となったのは、トル
コ出身のクルド人監督ギュネィの映画だった。彼の代表作「道」から強い感銘を受
けた。もう一度ぜひ見たいと思いながらその機会がない。国外に亡命を余儀なく
された時に作られ、国際的に大きな評価を受けた点で、この作品は台湾の監督、
候孝賢の「非情都市」と共通性がある。
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(3)
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ここまで書いて、あとをどうつないでいこうかと思案しているうちに、前から
予定していた韓国行きの日が来てしまった。帰国した直後なので、別の方向に書
き進むことにしてしまった。
1月22日にソウル下町のホテルに現地集合したのは、私が勝手に名付けて提
唱した「安東自由大学準備会」に参加することになった7人のサムライ達であっ
た。この自由大学構想なるものはやや発作的な思いつきで、また何ら中身はなか
った。しかし、それは「面白い」と6名の仲間が同行してくれることになったの
だから「ひょうたん」から駒を出すような成行となったしまった。
同行者を年の順に紹介すると、まず私と同年輩の小島正剛。彼は大学卒業後す
ぐに国際金属労連(IMF)に入り、その東アジア事務所長を定年退職した後は、
同国際労連書記長アドバイザーとして非常勤ながら今でも東奔西走している。政
労使の国際関係担当者仲間に同年代者が多いことから生まれた「イノシシ会」を
共に創立するなど、彼とは同業者としての長いつきあいで、波長も良くあう。
元全電通労組国際部出身の大西正一はわれわれ世代の仲間には珍しく、新技術、
新製品に強く、また韓国語も含め、多言語をかじっている多能者。最近では労働
ペンクラブの世話役としても活躍している。旅行中はみんなに「ジョンイル」と
呼ばれることになってしまったが、彼には独裁者的素質は皆無であって、サービ
ス精神にあふれている。
中嶋滋は早稲田大学在学中に全共闘新左翼のリーダーとして活躍していたが、
自治労本部書記局に入り、持前の政治的センスの良さと行動力で頭角を現した。
私とは一世代違うのだが、早くから注目していた。自治労国際局長、連合国際局
長を経て、今はILO労働側理事となっている。
山中正和についてはこの回想記に前回に書いたので紹介は省くが、体調の良く
ないのをおして参加した。常に冷静に物事を見て、具体的な処理を考える能力を
もっている。
姫路から参加した大西龍一は姫路市職員で、唯一人の現役公務員だ。私が大学
に行った初年から、当時の須田勇学長より国際センター長に任命されてしまった。
そこで思いついた活動の一つが、市職員組合委員長だった石飛猛(現在は美作大
学教員)と相談して始めた「地方からの国際化研究会」だった。中心は市役所の
中堅職員だった。これは私がセンター長をやめてからもかなり長く続いた。しま
いにはおりおりの飲み会となってしまったが、姫路での私の活動にとって貴重な
ネットワークであった。大西龍一はこの最年少メンバーだった。旅行中は彼は
「ヨン様」と呼ばれた。
最後は、紅一点の藤沢初江だ。この人がいないと、新しい企画はたてられない。
大西龍一を除く全員に共通していることは、ソーシャル・アジア研究会のメンバ
ーという点だ。
ソウルで合流したのが、権重東と梁世勲という、畑は違うが、二人の親しい韓
国の仲間。
権さんは韓国ILO協会会長で、75才になるのに矍鑠としている。梁さんは外
交官として、神戸総領事、ノルウェイ大使を務めた人だが、今は著作と旅行でゆ
うゆうたる人生を送っている。彼はスケールの大きなマルチ人間で、抜群のコミ
ュニケーターとして出色の人である。
権さんは年とともに大人の風格と古武士的品格にますますみがきがかかってき
た。この人は私が労働組合に入ってはじめて会った韓国人で、当時、総評や社会
党から白い目でみられていた独裁下の韓国労働組合運動と密接に付き合う契機を
与えてくれた人だ。若くして韓国逓信労組委員長となり、その後アップダウンの
はげしい人生を歩んできた権さんは、友人というよりも先輩というべきであろう。
何をいっても「まかしてください」の一言で片付けられてしまう。
ソウルから高速路線バスで、慶尚北道安東市まで約3時間。途中のサービスエ
リアで5分程度のトイレ休憩があるだけの直行。大型バスは縦3列のゆったりと
した座席で、すべて指定席。しかも、料金はウォン高にもかかわらず、2000円弱
と安い。韓国の物価は次第に日本水準に接近しているが、公共の料金がまだ格段
に安い。賃金は上昇しているので、これで維持できるかと心配になる。
安東に着くと市役所からの出迎えがあり、市のミニバスが待機していた。この
ミニバスを3泊4日の滞在中に市から提供されたのが有難かった。日本人として
始めて韓国の地方公務員に採用された緒方恵子の姿も出迎えの人達の中にあった。
昨年10月、この緒方さんが毎日新聞の「ひと」欄にとりあげられて紹介された
ことが、この訪問を思いついた直接の契機だった。もちろん、安東が権大人の故
郷であり、盟友だった朴栄基西江大学教授(故人)とかつて一緒にその地を訪れ
たことがなければ、それなりに読み過ごす記事であったろう。
市役所を訪問すると、市長室に通され、金暉東市長の歓迎を受けた。市長自ら
が市紹介の熱弁をふるって、歴史と伝統はあるが、産業の乏しい安東市を文化と
ツーリズムの中心地にしようとしていることを力説された。この人はもとは内務
官僚出身だが、すでに公選市長を三期、大衆的政治家となっている、安東高校で
権さんの後輩とのことで「先輩」とか「長官」(権さんはかつて労働長官)と権
さんにしきりに気をつかっていた。権さんは安東中学校が戦後安東高校になった
時の初代卒業生で、同窓会長を長くつとめてきただけに、まことに顔が広い。ど
こに行っても「先輩」とか「長官」と声がかかった。この権さんと一緒の訪問だ
ったために、われわれ一同も権一族の人たちから毎食招待されることになったの
には、ただ参ってしまった。権一族は安東きっての名家であるが、わが権さんは
その分家の末流にすぎない。しかし彼は幼少より秀才の誉れが高く、ソウル大卒
エリートコースを行く人として郷党の期待を一身に担っていたのであろう。
次の夜は市長の招宴で、有名な安東牛肉をご馳走になった。それだけならよい
のだが、例のバクダン酒を飲まざるをえない状況に陥った。
バクダン酒にはウィスキーを通常用いるが、これはバイオで作った有名な安東
焼酎(これも韓国随一と自慢されている)だから、それとは違うとのこと。しか
し、飲む側からすればこの差は、白猫と黒猫の相違というたぐいのものだ。バク
ダン酒なるものは、グラスになみなみ注いだ強い酒(40度)をそのまま大きいジ
ョッキの中に入れ、それにビールを注いで満杯にしたものだ。それを乾杯のかけ
声とともに一気飲みする。飲んだ人がすぐに倒れるからバクダン酒と命名された。
過去の韓国訪問時には、この危険を注意深く回避してきた。まず二次会は、は
じめから固辞して絶対に行かなかった。宴会においては、若い頃は、飲めないと
いう口実を使って最初から酒に口をつけない逃げの一手だった。そのうちに、韓
国でも飲み方が次第に近代化し、若い世代では献杯の応酬もすたれてきたので助
かったし、近頃では、権さんのようにかつての酒豪達はみなドクターストップを
かけられて自重しているので、安心して韓国に行けると思っていた。
市長が自らバクダン酒を作り、自分もそれを手にしたままで、次に目の前の主
賓に一杯をすすめる。その席に座ってしまったものとしては、もはや絶体絶命、
意を決して空にするほかない。盃洗係を事前に依頼していた「ヨン様」は遠く末
席のほうに座っている。生まれてはじめてのバクダン酒の一気のみに、周辺の仲
間が驚いて心配してくれた。すぐに、その両側にあるグラスの水を数杯も飲んで
うすめた。緊張していた故もあって、それほどのダメージは受けなかった。受け
たのかもしれないが、本当に「記憶にございません」
次々にバクダン酒が消化されている。節酒中の権元長官殿も三杯まで飲んだの
は覚えていると翌朝言っていた。あとは無礼講。
救われたのは、その夜の宿が車で1時間以上もかかる山中にある知礼芸術村だ
ったことだ。早く招宴を終了してもらう、正当な理由があった。安東は韓国で一
番面積が大きい市で、ソウルの1.5倍もある。中心から1時間以上走っても市を
通り抜けるのは困難。
安東に行ったら多くまだ残っている「古い民家に滞在したい」という希望を権さ
んに事前に伝えてあった。この希望が増幅されて、3泊とも、両班旧家の文化財
的家屋に泊まることになってしまった。
安東は「科挙」によく似た高級官吏(両班)選抜制で最も多くの合格者を出した
ところとして名高いが、その中心は、金と権の二大一族が突出した位置を占めて
いた。そのほかに文禄の役(秀吉による二度の朝鮮侵略)当時に総理大臣として
評価の高い柳成龍を出した柳一族がある。両班の一族は街より離れたところに本
貫を構えているので、それぞれの村は都市化されず、かなり良く残され、独自性
を維持してきた。
その中でも柳一族の村は河回と呼ばれる、埼玉県高麗の巾着田のような地形、
つまり川がUターンしたために凸出したところに形成されている。この村全体が
文化財として指定され、観光名所となっている。その柳本家に最初の夜は泊めて
もらった。見事な木造りの旧家で、一般的には客を泊めていないという。しかし、
客間は狭く、3、4人ずつの相部屋だった。オンドルによって部屋は温かく、私
は快眠できた。しかし、難点はトイレが家屋の外にあることだ。それをあらかじ
め予想していたので、東急ハンズで使い捨てトイレを買っていった。だが、権さ
んにそれを見つかって大笑いされ、あげくのはては家にもって帰って奥さんにみ
せるからと、とりあげられたので使用不能。
二泊目の知礼芸術村も旧両班家屋を移築したものだったし、三泊目の安東文化
村では金氏の旧本宅を移築したところに泊った。条件は似たり寄ったりであった
が、田舎の旧家で育った私でも不便だと思うバリアーだらけ(階段が多く、高い
ためエリザベス女王訪問時には特別な補助階段を設けたという)。しかし、百戦錬
磨の旅行者であるわが仲間だけに、多少の不満はあっても反乱はおきなかった。
むしろ、異なる環境を一行は楽しんでいたが、3泊が限界だったろう。
李朝時代に学問の都といわれた安東には、約50の書院(学校)があった。今
も、いくつかの代表的な書院が大事に保存されている。その中でも最も有名なの
は、李退渓の陶山書院で、ここから柳成龍をはじめ名だたる俊秀が排出した。李
退渓は朱子学を確立、発展させた人で、江戸時代の日本の知識人に大きな影響を
与えているのだが、今の日本では無視ないし過小評価されてきた。韓国の知識人
で彼を知らない人はいないが、10年ほど前に安東に初めて行くまで、私は不覚に
も名前すら聞いたことがなかった。
権さんの安東中学同級生で、朝鮮戦争時代に日本に密入国し、後に法政大学教
授となった尹学準によると、「歴史まみれの韓国」だが、他の韓国人にいわせると
「歴史まみれの典型は安東」ということになる。韓国で80年代に歴史最大のベス
トセラーとなった『太白山脈』全10巻の日本語訳を監訳した尹学準には、ほか
にも著訳書が多い。残念ながら、数年前に彼は急逝した。
安東大学安東文化研究所『安東歴史文化紀行』(韓国国学振興院、2003年)は、
その冒頭で、安東の歴史と文化を次のように要約している。
「古代には三国文化に接する境界の接境でありながら緩衝地で、統一新羅時代
には華厳宗の前進基地だった。安東は高麗王室の支持勢力でもあった。また、紅
巾賊の侵入時に恭愍王が安東に避難したことにより中央の文化が流入されたとこ
ろであり、朝鮮時代には嶺南学派の中心地でもあった。
なお、日本の植民統治期間の著しい抗争と社会主義運動もこのような精神的土
台の上で行われたものである」
安東からは支配層となる両班知識人だけではなく、抗日や社会主義運動の先覚
者が出ている。われわれは、権氏の村の前にある社会主義烈士の記念碑にも行っ
た。
最後の一夜、安東文化院金俊植院長と彼の旧宅で歴史談義を行った。私がE.H.
カーの歴史論にふれると、「過去と現在の対話ですね」と打てば響く返事があった。
「過去と未来の対話」こそが今一番の課題だということに、私達の結論は落ち着
いた。
国家中心的歴史観から脱却した、東アジア地域社会共通の歴史認識なしには、
東アジア共同体も存在しないだろう。私達の「安東自由大学」は、そのような方
向を目指す小さなローカル・イニシアティブのささやかな実験であり、まだその
入り口がみえてきただけだ。
今年8月下旬に、短期間滞在による体験的第一回「安東自由大学」を計画中な
ので、年齢を問わず参加を歓迎する。
(筆者は姫路獨協大学名誉教授)
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≪連載≫
■3、人と思想(3)
戦時体制下も貫いた自由主義思想
=小説『次郎物語』の著者 下村湖人= 富田 昌宏
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1.台北高校でのストライキ事件
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前々回、この欄で田沢義鋪を取り上げた。田沢は六十年の生涯を道義国家、
平和国家の建設に全身全霊を傾注した。前回は、その田沢が、二・二六事件で
内相後藤文夫と共にその事件の鎮圧に当った余話を披露した。
今回は、その後藤(日本青年館第四代理事長)、田沢(同第五代理事長)と共に、
戦時下も自由主義思想を貫いた人物、小説『次郎物語』の著者でもある下村湖人
の一側面について触れてみたい。
昭和11年、日本青年館発行の月刊雑誌『青年』に『次郎物語』の連載がはじ
まり、16年に第一部が単行本として出版された。60有余年を経た現在でもこ
の小説は読み継がれ、愛読者をもっている。ベストセラーといわれる書物の寿命
が数年に過ぎないことと対比してみると『次郎物語』の真価が浮かび上がってく
る。今回はその作者、下村湖人について書いてみたい。
下村湖人は明治17年10月3日、内田郁二、つぎの次男として佐賀県千歳村
に生まれた。本名は虎六郎。生後まもなく里子に出され、大正2年下村家長女菊
千代と結婚するが、翌年に実父が病死、そして実家は一家離散の数奇な運命をた
どる。この体験が『次郎物語』の下敷きになる。
湖人は佐賀中学を振り出しに教職の途を歩み続けるが、昭和6年、台北高校長
を最後に上京し、田沢義鋪のもとで、大日本連合青年団の無給嘱託となり、昭和
8年4月、浴恩館(日本青年館分館)に開設中の青年団講習所長となった。この
ことに後で触れるとして、台湾での出来事について述べてみたい。
教職の途を歩んだ湖人は鹿島中学校長から唐津中学校長にもどり、職員、生徒
の敬愛を集めていた。ところが困ったことに湖人は台湾に渡ることとなった。当
時の台湾総督府の長官は後藤文夫であった。後藤は台湾の学校に反日運動が盛ん
で、手を焼き、内地で校長を物色しているうちに、白羽の矢が湖人に立った。そ
の招きに感激して台湾行きを決意するが、唐津中学の職員、生徒はそれを承知せ
ず「松浦(唐津の地名)の哲人を去らしめるな」と猛運動を起こした。湖人はそ
れらの人たちに声涙ともにくだる話をして許しを乞い、台湾教育に使命を感じて
渡台した。
台北一中の校長に赴任、ストライキを見事におさめ、台北高校(今は大学)の
校長に抜擢された。そこで前校長の時からくすぶっていた事件が爆発して大きな
ストライキとなる。下村校長は生徒数名を退学にしておさめ、その後、そのスト
ライキをあおった教員何名かをクビにし、逆に退学させた生徒を全部復学させた。
そのことを総督府に無断でやったというので風当たりが強くなり、湖人はさっさ
と辞表をたたきつけ東京に引き上げた。しかし家族は多く、食うに困る。長男覚
氏を残して一家は帰りの船に乗った。その時の歌がある。
"われひとり島に残るとほこらしく別れに堪へて泣かざりし子よ"(男覚14歳)。
このストライキ事件の処理、決断に感動したのが、当時学生であった李登輝で
あった。李登輝は後に中華民国総統となり台湾を統治するが、湖人の決断に感動
し、後にそのお礼として、長男覚氏を台湾に招待し謝意を表したという。この話
は、台湾から帰国した下村覚氏に直接私が聞いた話であり、人間李統輝の人柄を
象徴している逸話でもある。
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2.小説『次郎物語』と青年団講習所
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湖人一家は郷里佐賀にしばらく滞在して、東京の戸山が原(今の新宿百人町)
の田沢義鋪の隣りに、退職金で買った家に落着いた。
ところが、その生活もつかの間、湖人に新しい仕事ができた。
湖人が台湾から東京に出てきたのは昭和6年9月、それからまもなく大日本連
合青年団(今の日青協の前身)の無給嘱託となり、田沢を助けて調査部につとめ
ることになった。そのころから手をつけた『若者制度の研究』はあとで一冊にま
とめられた。若者制度に関する日本唯一の貴重な資料でもある。
なお、海外に日本の青年団を紹介する英文の本も出版されたが、これも湖人の
執筆によるものであった。東大の英文科が意外なところで役に立ったのである。
昭和8年4月湖人は沿恩館(日本青年館分館)に開設中の青年団講習所に異動
し、その所長となった。内部指導者を育てることが自主的青年団発展の基礎であ
るとする田沢の構想で6年にスタートした青年団講習所は、友愛と創造を基調と
した、一期二カ月ほどの長期宿泊研修会であった。定員は毎回50名程度で年数
回もたれ、昭和12年まで継続した。
湖人は家庭を離れ、沿恩館で講習生と起居を共にする生活をおくった。ここで
の活動は次郎物語の第5部にそのまま描かれており、講習所が『友愛塾』のモデ
ル。明治の背骨を持ち、しかも反戦思想を貫いた朝倉先生のモデルが湖人自身で
あった、といえよう。
講習所における湖人の指導精神は講習生に対する次の説明に端的に表明されて
いる。
「この浴恩館は絶海の孤島と思ってほしい。われわれはここに漂流し偶然顔を
合せた。そこで第1に、まず愉快な共同生活をはじめる努力、第2に、心を深め
合い、お互いに相手を伸ばし仲好しになる努力、第3は、そのために最も都合の
よい組織を作り上げる努力が必要だと思う。この島は伝統もしきたりもない、指
導者も先輩もない、お互いに知恵をしぼり、努力するしかない。大切なのは自由
創造の精神である」。
当時、軍国主義思想の高まりと共に、ある人の指導命令だけで動くように訓練
され、共同生活の訓練というと、だいたいそうだと思っていた青年たちにとって、
この訓示は意表をついたものだったが、湖人は全国から集まった青年団の中堅幹
部と畑の草取りから便所掃除まで一緒にやりながら人生を語り、青年団を説いた。
友愛と創造を基調とした自由なフンイキの中での研修は、講習生に大きな感銘を
与え、その理念はやがて戦後青年団の原点として大きく花開くことになる。
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3.戦時体制下も貫いた自由主義思想
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その頃、日本の軍国主義の色彩が日に日に強まり、青年団内部にもその影響が
及びはじめていた。昭和11年に田沢義鋪が生涯を共にした青年団を去ると、湖
人に対する圧力は次第に露骨になっていった。12年2月の大日本連合青年団の
代議員会では「緊迫したこの時局下、自由主義尊重という生ぬるい運営方針は間
違いだ」とする講習所批判が相ついだ。湖人は香坂理事長に辞表を出した。連載
中の『次郎物語』も自由主義的だとの非難をうけて中止の止むなきに至った。
かくして12年4月、青年団講習所は閉鎖され、湖人も追われるようにして青
年館を去った。その年の7月7日、日本は中国に侵攻し、一路第二次大戦へとす
すむことになっていく。
青年館を去った下村湖人は、その後、自由な講演と文筆活動に専念することと
なった。13年に講談社から『論語物語』を出版。翌14年に『煙仲間運動』を
提唱し、雑誌『青年団』に論陣を張った。また、岩波書店発行の雑誌『教育』に
「行の教育と共同生活訓練」を発表し、教育の軍国主義化を批判した。
一方、『次郎物語』は16年に第1部、17年に第2部を小山書店から出版し、
18年から雑誌『新風土』に第3部の連載をはじめた。第3部が出版されたのは
第2次大戦で日本が劣勢になりはじめた昭和19年であった。最初雑誌『青年』
に連載された名作は、戦前・戦後を通じて日本青年館から発行されることは一度
もなかった。
青年館を去った下村湖人は壮年団に力を注ぐようになる。この壮年団運動は昭
和4年から田沢義鋪が唱えたものであった。その内容は青年団を熱心にやったも
のが少数でもいいから手をつないで地域建設に役立てようという構想で、そのモ
ットーは「郷土の魂」、「社会の良心」の二つであった。
壮年団は既成同盟から飛躍して壮年団中央会へと発展、昭和12年には全国協
議会を開催し、各方面の注目を浴びた。常務理事は後藤隆之助。田沢、下村、後
藤文夫などが理事として活躍したが、この壮年団組織も拡大するにつれ軍部が着
目、大政翼賛運動に組み込まれ、事実上解体を見るに至った。湖人はこの後、「煙
仲間」と称する運動を起こすが、このことは他日にゆずりたい。
昭和27年8月、下村湖人は病身をおして、日青協主催の第2回指導者講習会
に出席し、リーダーシップを説いた。当時受講生として出席していた平野重徳(現
日本青年館顧問)は「あの話を聞いて青年団の在るべき姿を知った」と語ってい
る。
また、栃木県青年会館の『黎明塾』、防長青年館の『防長青年塾』などの指導者
養成機関も、湖人の青年団講習所をモデルに発足したものである。その意味で、
戦後の自主的、民主的青年団の底流には、田沢・下村精神が脈々とうけつがれて
いるということができる。
戦争中は軍におもねり、戦後はもっともらしく民主主義を唱えた文化人、評論
家が多いなかで、終始一貫自己の良心に生きた下村湖人の偉大さをしみじみと思
う。(文中敬称略)
(筆者は元日本青年館常務理事)
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【北から南から】
■深センから 『中国人男性受難の日』 佐藤 美和子
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昨日2月14日、買い物に行った香港からの帰りがすっかり遅くなってしまっ
た私は、相方と街中で落合って、外で夕食を済ませてから帰ることにしました。
そう、中国的バレンタインデーの恐ろしさをころっと忘れていたのです・・・・・。
見せられるこっちがこっぱずかしいよ、勘弁して!な光景があちこちで繰り広げ
られておりまして、ロマンティックなるものが苦手な男らしい?!私にとっては
これってなんかの羞恥プレイですか?!な状態でした・・・・・。
中国ではバレンタインデーが、なんと年二回もあります。一つは日本と同じく
2/14、もう一つは旧暦の七夕です。七夕のほうは、チャイニーズ・バレンタイン
といったところでしょうか。
日本と違う点は、とにかく「中国人男性に生まれたらとっても大変!」という
ことです。だってどちらのバレンタインも、男性→女性へ、ロマンティックな演
出を考え出したり花束やプレゼントを用意したりしなきゃならないんですもの。
その割に、日本のホワイトデーのようなお返しの日もないので、中国人女性は
(1)誕生日、 (2)2/14のバレンタイン、 (3)旧暦の七夕、 (4)クリスマス
と、年に4回も花束やプレゼントを貰ったりご馳走してもらったりの一方通行、
とってもラッキーな状況です。中国では一人っ子しか産めないのならぜひ跡継ぎ
になる男児を!と、法で禁じられている男女産み分けをする人がいまだに後を絶
たず、男性人口が女性のそれをはるかに上回っているため、結婚できずにあぶれ
る男性が増え続けています。さらにお金持ちの外国人と結婚したがる中国人女性
が増えていることが追い討ちをかけ、中国人男性はやっとのことでつかまえた恋
人をべったべたに甘やかさざるを得ないことが、こういった事情に関係している
のかも知れませんね〜。
中国人男性受難の日であるバレンタインは、まず花束で始まります。どんなに
懐が厳しくとも、最低でも美しくラッピングされた真紅のバラ一輪なりとも恋人
に贈らねばなりません。ちなみに当日、うちのマンションのお花屋さんでは、バ
ラやカーネーション、カスミソウで作られた花束ひとつが300元(約4600円)
〜で売られていました。普段なら30元程度だそうで・・・・・。ケチな私なら、
翌日10束貰ったほうがお徳なのに、と考えちゃいます(笑)。
さらに便乗商法?ついでに花瓶も負けずにどーんと値上がりします。で、男性
は色とりどりな花束を抱えてデート先に赴き、恋人と会った後は彼女が花束を抱
えて通り行く人に存分に見せびらかせるよう、自分は彼女のバッグを持ってやら
ねばなりません。そしていつもよりうんと奮発して、オシャレなレストランでの
ディナーと張り込みます。ところがですね、上に挙げた(2)〜(4)の日は、ちょっと
したレストランではどこもスペシャルメニューなるものを作り出すのですよ。カ
ップルに合わせてお二人様用メニューなのですが、往々にして普段その店で食べ
るより、ぐっとお値段がアップ!中身は大して変わらないのに、ちょっと演出を
変えただけで普段の1.5倍〜2倍の出費は覚悟しなければなりません。そして注
文するとき、店員さんがオシャレなグラスワインかカクテルはいかが?スペシャ
ルメニューと一緒に楽しめば、もっとロマンティックになりますよ〜と勧めてく
るので、彼女の手前、断れずに更に消費額はアップしてゆきます・・・・・。
バレンタイン商戦でキレイに飾りつけされたショッピングモールや公園などで
の、彼女との記念撮影も忘れちゃいけません。昨日とあるショッピングモールで
見たものは、お店側が用意して貸してくれる大きな中抜きハート型の模造紙の、
中抜き部分から2人くっつけた顔を覗かせ、更にハートの矢も持って彼女のハー
トを射抜いた格好???にして写真を撮ることができる、というものに順番待ち
している山ほどのカップル・・・・・。大きく引き伸ばした結婚写真を寝室に飾
るのが普通という中国人ですから、こういう節目節目の記念写真はとっても大事
です。
もちろん、余裕のある男性は花束とディナー以外にも、プレゼントもしなくち
ゃなりません。
昨日なんとなくスワロフスキーのお店を覗いてみたら、たくさんのカップルが品
定め中でした。普段はお客さん、あんまりいてないのに・・・・・。恋人の腕に
絡みついた女の子たちが、数百〜数千元するネックレスや指輪をおねだりしてい
ました。スワロフスキーだけでなく、アクセサリーショップやブティックなど、
どこもカップルでごった返していました。ふぅ、中国人男性にだけは生まれるも
んじゃないですね〜。
昨日のラジオで聞いたのですが、昨日はどこのホテルも稼働率100%!いつも
より、平均30%ほど値上がりしているのにもかかわらず、ですって。もしかした
ら今年の中国、年末辺りに出産ラッシュ現象が起きるかもですね〜(笑)。人口減
に悩む日本にとっては羨ましいハナシ???
そうそう、ホテルを取るほど余裕のない若いカップルは、食事のあと、公園に行
くんだそうですよ。もちろん夜の公園はとっても薄暗いですから・・・・・ええ
と、その先はワタクシ、存じ上げません・・・・・。
昨日はそんなこんなでとにかく街中カップルだらけ!レストランもどこも満員
で、うっかり外食しようとしてしまった我が家はよく行く和食レストランで30
分も待たされ、帰り道ももう22時過ぎだというのに大渋滞、普段なら20分余り
の距離に小一時間もかかってしまい、本当にエライ目に遭っちゃいました。いつ
もよりみんな興奮状態にあるのか?その普段は車でたった20分の距離で、追突
事故が3件もあったんです。どれも幸いオカマを掘った程度だったのですが、物
見高い中国人、後続車が事故現場を通るときはことさらゆっくり運転して事故車
見物?するため、渋滞がよけいにひどくなっていたんですね・・・・・。
ちなみに、これだけバレンタインデーがお祭り騒ぎになったのは、ここ数年の
ことです。私が初めて中国にやってきた91年なんて、バレンタインデーどころ
かクリスマスですら、認知されていませんでした。何気なく中国人の友達にクリ
スマスカードを送ったら、「あなたは一体何の宗教を信じているのですか?」と真
顔で質されたり、とある日本人がお世話になった人にクリスマスプレゼントを贈
ったところ、誕生日でもないのになぜいきなりプレゼントをくれたのか?と相手
を大変いぶかしがらせてしまい、英文科卒で多少、欧米の習慣に知識のある兄弟
にクリスマスプレゼントについて相談したらしく、後日立派なお返しを頂いてし
まった・・・・・というような状況だったのです。
そういえば、今は旧暦の七夕にも男性は恋人に花束をプレゼントすることにな
っているようですが、昔はそんな習慣、ありませんでした。日本のバレンタイン
がお菓子屋の陰謀なのと同じく、中国の花屋業界の陰謀か?!でも、元々ロマン
ティックなことが大好きな中国人には、誰の陰謀だってどうでもいいんでしょう。
しかしながら、年4回も大出費となる中国人男性には、なんとも気の毒なハナシ
です。中国人男性、ガンバレ〜!
(筆者は在中国・深セン日本語教師)
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【ガン闘病記】(1) 吉田 勝次
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オルタの読者の皆さんの大多数は団塊の世代あるいはそれ以上の世代だと思
いますので、高校時代に『蛍雪時代』という受験雑誌を読んだことがあると思い
ます。『蛍雪時代』の受験体験記の特徴は、大学合格者だけを掲載し、浪人の声
はいっさい載せていなかったことにあるように思います。要するに、どんなにお
もしろい体験記でも、合格できなかった受験生の話など高校生は鼻にもかけなか
ったのでしょう。ちょうど2年前、2005年1月に腎臓癌に侵された右腎臓を摘
出した私など、術後5年生存を、癌という難関を克服しためどとするならば、ま
だ闘病生活を始めたばかりで、途中であなどれない敵である癌にたおされて、結
局この原稿はなんの役にもたたないという可能性があります。だから加藤宣幸氏
から原稿を依頼されたときも受けるべきか受けざるべきか悩みました。ですから
読者のみなさんには私の体験記などあまり役に立たなくなるかもしれないとい
うことをご理解のうえ、ご一読いただければ幸いです。
癌とは北朝鮮の平壌のようなものです。巨大な凱旋門、そびえたつ主体タワー、
轟音をひびかせる戦車隊、大地をゆるがすようなデモ隊の絶叫、これらすべてが
偉大な指導者の不滅・不敗をたたえています。この舞台の下で人々はまさかとい
う懐疑心を魂の底で感じることはあるにしてもけっして口に出すことはできな
い、いやそれどころかやっぱり彼は偉大な指導者だと自分自身を偽らなければ生
きていくことすらできません。兵庫県立成人病センターの古びた建物にしてもな
んとも威圧的だし、高価な医療機器がぎっしり詰まった検査室は怪しい。臓器と
いうパーツの修理については高度の技術をもつ修理工たる医師が患者の前に座
って、X線写真をずらりと並べて何十項目かの血液検査の結果をながめて厳粛に
術後に三年生存率は何%、五年生存率は何%と告知します。専門知識と経験から
いえばおよそたちうちできない医師にそう告げられれば、おそらく例外なくすべ
ての患者はたたきのめされます。
この2年間の私自身の闘病は、ある段階以上に進行した癌からの生存はきわめ
て例外的な場合以外にないということを示す医者の言説と、それを支える癌にな
ったらおしまいだという根強い社会意識にしばりあげられながら、もがき苦しみ
ながらその意識と闘い、どこかに光明はないかと右往左往することのくりかえし
でした。いまようやく穏やかに2年を経過して、ひょっとしたらこれは生還でき
る手がかりを持ったのではないかと感じ始めている理由は、「癌とは生活習慣病
である」という日野原重明氏の定義そのものにあるように思います。癌が長年に
わたるゆがんだ生活習慣の結晶だとするならば、癌との闘いに勝利するための王
道は、このゆがみを徹底的に正すこと以外にありえないからです。この場合に、
勝利とは癌が完全に消失することだけではありません。癌細胞がある状態で自分
の身体と共存して暴れなくなり、寿命にかぎりなく近づいて生きていくことがで
きればそれもまた一つの勝利だと考えています。
順次この闘病記では私自身のゆがんだ生活習慣をどのように正そうと闘って
きたかを紹介していきます。まず第一に、仕事について。朝から晩まで土曜、日
曜もなく研究室に閉じこもって仕事をするスタイルを命が大事だとするならば
断然やめること。こう決心しました。この際大きな励ましになったのは「お父さ
ん、般教(ぱんきょう)なんてお父さんが考えてるほど学生は身を入れて聞いて
ないよ」という娘の声でした。ともかく5年生存するまでは研究活動は断念する、
講義は最低限度で徹底的に手を抜く、校務はサボる、こういう方針で過ごしてき
ました。
これ以上この問題を書くと勤務している大学から相当文句が出そうなの
でひかえさせていただきます。ただここでも役にたったことは、癌はまず治らな
いという根強い社会意識が同僚の教員にも浸透していたことでした。会議をさぼ
っても、手抜きをしても「あいつはもう先がないから」ということで、ほぼ100%
同僚のみなさんが寛容に接してくれたのです。ある女性の講師に術後校内でばっ
たり会ったとき、彼女は驚いたような顔をして、「あら、先生……」。そうです。
僕はどっこい生きていました。彼女はおそらく意識のなかで私をすでに殺してい
たのです。もちろん、こんないいかげんな勤務姿勢が許されるのは私が地方の県
立大学の教員であるからであって、町工場で働く労働者や職員の場合にこうはい
かないことはよくわかっています。その意味からも私の闘病記はけっして一般性
をもつものではありません。
実をいうと術後、休職を真剣に考えました。手術のショックは予想以上に大き
く、4月からの新学期に90分の講義ができるか自信がありませんでした。しか
し、なんとしても学生との結びつきを切りたくありませんでした。授業は私の生
きがいそのものでした。後期にふりかえられる講義はふりかえていただきました。
車で20分ほどのところで行う三学部合同の一年生相手の講義のときは、妻に車
で教室の下まで送ってもらい、そっと倒れないように2階の教室に入りました。
大学の講義とは研究者が仕事の舞台裏を見せるものだと考えている私には、総合
講義の準備のほうが学部や大学院のゼミよりも手間のかかるものでした。しかし
やむをえません。この2年間手抜きして、過去の著作を一回一回説明するという
安直な方式で講義をしてきました。講義やゼミは私に生きる勇気を与える精神的
糧とでもいうべきものでした。
ゼミ生や院生に病気のことを隠さず「告知」したこともよかったと思います。
社会人大学院生の徐氏は、朗らかに「途中で逝ってもたらどうしよかと思った」
と笑い飛ばし、台湾から通いで博士論文の執筆に来ることを予定していた王さん
は、いろいろ考えるところはあったことは想像しますが、4月には高い月謝を払
って大学院に籍をおいて下さいました。彼らは私に「大丈夫ですよ、吉田先生。
頑張って下さい」と無言のエールを送ってくれました。私の場合には、研究は断
念し、教育は工夫して最小限度に抑えながら、学生との接触という生命線は残し
ておくという選択をしました。この選択は私の精神を深いところで安定させ、心
身のエネルギーを高めるうえで大きな効果があったと思います。
第二に、運動について。仕事人間だった私にとっては、運動などというのは遊
びの代名詞でした。しかし今は違います。2年前の春から朝晩2時間以上散歩を
して体調をととのえています。大学の裏に自宅があることはさいわいでした。朝
坂道をゆっくり20分ほどかけて下り、桜の木が植えられた一周400mほどのグ
ランドを5周まわり、30〜40分太極拳や気功を楽しんで、そしてまた20分かけ
て坂を上り、帰宅し食事します。気が向けば大野川沿いに姫路城の裏手の公園に
まで行って体を動かし、帰りがけに大学のグランドを何周かして帰宅します。闘
病日記をつけてちょうど今月で大学ノート21冊目になりましたが、数えてみる
と昨年末まででグランドを5000周歩いたことになりました。距離にすると2000km
です。グランドへの往復も入れるとおそらく術後4000km歩いたことになります。
グランドのことなら何でも知っています。あそこに空き缶が落ちている。
ここのベンチの板が一枚はがれている。この芝生は枯れかかっている。グラン
ドを囲む小高い丘「八丈岩山」や「行者の塔」山ともなじみになりました。春夏
秋冬の桜の木の変化、芝生の色合いの変化、丘の緑の季節の移り変わり、土の中
の虫をついばむヒヨドリの群れで冬から春への変化をいち早く感知するなどの経
験は私の人生で初めてのものでした。元気なときには自然のこうした豊かな変化
などほとんど気にかけずに雑誌を読みながら走り回っていたかと思うと、人間変
われば変われるものです。最近は季節の変化、一日の温度変化、雨、風、雪など
の気候の変化などに体が微妙に反応し、調子がよかったり悪かったりすることが
よくわかります。私には癌がたしかにあります。しかし、自然のこうした豊かな
いとなみを感じ取る健康な自分自身がこの2年間に生まれてきたこともわかりま
す。
私は毎日の散歩を通じて自分の生活習慣を大きく変えることにつとめてきました。
そのことはすでに、癌からの生還の是非とかかわらず大きな成果を上げているこ
とを実感しています。
ついでに自慢話を一つさせていただきます。委細は出版ののちということにさ
せていただきますが、この春、春秋社から私が監修して私の教え子の王さんが演
技する太極拳の本をDVD付きで出版いたします。この話を友人にすると、まち
がいなく、まさか、と驚きの声を上げます。生真面目だけがとりえで国際問題を
勉強してきた私が、64歳になって太極拳の本を出版するなど2年前にだれが予
想したでしょうか。私が主宰する太極拳・気功教室もまる1年経ち、毎週1回、
30人近い病気に苦しむご年配の方々が集っています。この辺のところはあらた
めて書かせていただきます。私が太極拳と気功を始めたきっかけは、毎日毎日グ
ランドで散歩をし、柔軟体操をしているときに声をかけて下さった中国の体育教
師王さんとの出会いでした。
第三は食事です。私の食事はともかく「早飯早糞芸のうち」という言葉どおり
でした。結婚当初、妻が台所で二皿目の料理を作っていると、ご飯も一皿目も全
部食べ終わって雑誌を読むので妻はいつもおかんむりでした。それがどうでしょ
うか。この2年間、玄米菜食を徹底的にやってきました。食事という生活習慣の
基本中の基本を変えないかぎり癌とたたかえないということは、癌の生還者の話
を聞いたり、手記を読むとよくわかります。おそらく8割、9割の生還者は玄米
菜食で食生活を根本的に変えたと思われます。理屈は簡単明瞭でした。玄米には
すべての栄養素がある。癌細胞と正常細胞が栄養素を奪い合うとき、ぎりぎりの
量しか提供しなければ正常細胞が勝つ。
玄米は消化が悪いので消化器官がよくはたらき、副交感神経を刺激し免疫を高め
る等々です。こんな理屈よりも大切なことは、三度の食事という生活習慣の中心
に根本的な変化が持ち込まれて家族が私の闘病に全力をあげて協力するという深
いきずながつくられるということにあります。
1年8ヵ月玄米菜食を続けて効果はたしかにありました。88歳の義母のあれほど
質の悪い便秘が嘘のように治り、盛り上がっていた顔面のほくろが消え始め、妻
の肌は本人も鏡を見て歓声を上げるほどすべすべになりました。当然私の体内も
すみずみまでほくろが消え、すべすべになっているにちがいありません。
この闘病記は妻と交互に書くつもりですので、おそらく玄米菜食については、
炊き方からレシピにいたるまで妻がみなさんにご報告すると思います。10年間
も癌と闘いながら陽気に診療所を経営する甲子園口のI医師に、「吉田さん、腎
臓癌は絶対いい水を飲まなきゃダメだ」と喝を入れられて水汲みに出かけるよう
になりました。1年半、月1回兵庫県の中部にある姫路から70kmほどの千種
高原にラドン水を汲みに妻と出かけています。水のいいことはまちがいありませ
ん。だがもっといいことは、往復6時間、妻と一緒にドライブです。新婚時代の
こと、子供が小さかったときのこと、好きな歌などをぐちゃぐちゃしゃべりなが
ら月1回遠出することは私に大きな精神的エネルギーを与えるものでした。
与えられた紙幅が迫りましたので、今回はこの程度にさせていただきます。こ
う書いてみると私自身の闘病哲学とでもいうべきものがいま見えてきたように
思います。生活習慣を根底から改めることとは、癌と闘う心身のパワーを自分自
身の内面に創りあげることだということを意味しているように思います。散歩と
太極拳によって心身ともに癒され鍛えられています。食事によっても心身ともに
癒され鍛えられています。学生諸君には申し訳ないのですが仕事を手抜きするこ
とによって緊張から解放され心身ともに癒されています。癌に苦しんでいる方、
難病に苦しんでいる方にどこまで参考になるかはわかりませんが、連載を始める
にあたって、次のような話をご紹介させていただきます。人々がタゴールのもと
にやってきてこう問いかけます。
「私を向こう岸に渡して下さい」。タゴールは答えます。「海は波立っている。
しかしここには、われわれの到着をまっているむこう岸がある。ここにはこの永
遠の現在がある。むこう岸は遠く離れているのではないし、別の場所にあるので
はない」。彼が言おうとしていることは、希望は足元にあるということだと思い
ます。2年間よき家族や兄弟姉妹に励まされ、よき友人知人に励まされ、自然の
息吹を存分に吸うことによって、私は癌と闘う希望を見出したかのように思いま
す。もちろん敵は難敵です。これから紆余曲折があることも覚悟しています。
しかし、その都度足元に希望を見つけようという覚悟はもうゆるぐことはないと
思います。(2007年2月18日)
(筆者は県立姫路工業大学教授)
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【オルタのこだま】
教育基本法と日青協綱領 今井 正敏
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今年の国会は、安倍首相が「教育改革国会」と呼んでいるので、教育問題をめ
ぐって与野党の激しい論戦がくりひろげられる国会になると思われるが、「オル
タ」でも、12月発行の36号で、《小特集:教育基本法》を掲載し、「教育基
本法」改悪後のなりゆきに強い関心を示した。今後も随時特集を組み、問題を追
及されると思うので、大いに期待したい。
ところで、私が関係してきた日本青年団協議会(日青協)でも、日青協の性格
や活動の方向を示す「綱領」が教育基本法と関係しているので、これについて記
したい。
日青協が結成されたのは、わが国がまだ占領下におかれていた1951年(昭
和26年)佐賀市で開かれた青年団(正確には都道府県連合青年団)の全国大会
において、「綱領」と「規約」を決定、その規約に基づいて5月に名古屋市で開
かれた第一回理事会において会長以下の役員を選出、これによって初めて「日本
青年団協議会」という青年団の全国団体が誕生した。(私はその理事会で常任理
事に選出され、初代の日青協執行部の一員となる。)
上記のように当時日本はまだGHQ(連合軍総司令部)の支配下におかれてい
たため、当然全国団体の結成には、GHQの許可を得ることが必須条件であった。
したがって日青協の結成にあたっても、数年にわたりGHQの民間情報局(CIE)
の青少年部長(当時は、米国のコーネル大学の副総長を勤めていた親日家タイパー
氏)と交渉を重ねていた。当初は、青年団の全国団体の結成については、戦時中の
大日本青少年団の活動などの例を持ち出して、賛成ではなかったが、1949年以
降、米ソ対立の冷戦が激化してきたことから、CIEの態度も反共団体の育成とい
う方向に姿勢が変わり、青年団の全国団体の結成を容認するようになってきた。
このような空気の中で日青協結成の準備委員会には、CIEに「規約案」と「綱
領案」を提出したが、「綱領案」はクレームがつかずOK、「規約案」のほうには、
3点クレームがつけられた。
この第一点は、「共産主義的傾向」を有する者の加入を認めないようにすること、
第二の点は、全国組織に団員が直接会費を納入するようにすること、第三の点は、
役員は立候補制にして全団員の直接選挙によって選出すること−−ということを規
約の中に明記せよ、というものであった。
準備委員会側は、米国の青年団体の主流であるYMCAやYWCAと、日本の
青年団は、その性格や組織形体が違うということで、タイパー部長と激しいやり
とりを交わしたが、最終的には、加入にあたって具備する条件として、(一)政
党宗派に偏しないこと、(二)全体主義的傾向を有しないこと、(三)会費を納
入することの項目を規約の中に明記するということで、タイパー部長の承認をと
りつけた。
上記のように「綱領案」にはクレームはつかなかったが、その「綱領案」は、
四つの項目から構成されており、その最初の項目は、
私達は心身を修練し、よりよき個人の完成につとめます
というものであった。
この「綱領案」の起草者は、20歳まで「教育勅語」下における忠君愛国主体
の教育を受けてきた昭和25年当時、25歳の静岡県青年団体連絡協議会(以下
県団と略称)の会長鈴木重郎君であったが、彼は、この「綱領案」の起草説明で、
昭和22年3月に施行された「教育基本法」を参考にしたと明言していて、例え
ば、最初の「心身」は、教育基本法の第一条(教育の目的)の中に書かれてある
「心身ともに健康な国民」を参考にしたこと、「よりよき個人の完成につとめま
す」の文言は、基本法の前文に述べられてある「個人の尊厳を重んじ、真理と平
和を希求する人間の育成」や、第一条に掲げられてある「教育は、人格の完成を
めざして」や「真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび」等から「個人」重視
の考え方を取り入れたものであることを話している。
私と鈴木君は同世代であり、昭和25年の秋に発足したCIEの「青少年指導
顧問」として活動を共にした同志的仲間であったので、彼の「綱領案」の説明は、
何度も耳にしていたので、いまから50年も前の出来事ではあったが、いまなお
鮮明に記憶している。
私は、上記の指導顧問に就任するまでは、生まれ育った村(現足利市)の中学
校の教師をしていたので、新しくつくられた教育基本法のことは、頭の中に入っ
ていたが、教職に関係のない青年団の県団幹部が、当時、教育基本法に目を通し
ていて、それを青年団活動の中に生かしていこうとしていた姿が見てとれるわけ
で、教育基本法が施行されて、まだ3年程度しかたっていない時点で、民間の青
年団幹部が、教育基本法を口にしていたということは、それだけ教育基本法が一
般の国民から理解されていたことを物語っていたのではないかと思われる。
このように日青協の「綱領」の第一項目は、教育基本法がその土台になってい
たが、これを戦前戦中の青年団の全国組織(大日本連合青年団、大日本青年団、
大日本青少年団)のそれぞれの「綱領」と比べてみると、戦後の日青協は、戦前
戦中の全国組織とまったく異なっていることがよくわかるので、参考までに、以
下各「綱領」の一項目を並べてみたいと思う。
◎大日本連合青年団の「綱領」
(1925年(大正14年)に当時の文部省と内務省の指導で初めて結成され
た青年団の全国組織。団長職にあたる理事長に就任したのは、文部大臣や内務大
臣をつとめ、のちに宮内大臣になった一木喜徳郎氏。本部役員の理事には、現役
の青年団員は一人も選出されず、直接青年団とは関係を持たない、男子のみのお
となの組織であった)
「青年団綱領」は1929年(昭和4年)にこのおとなたちによってつくられ、
青年団員に示された。
我等ハ純真ナリ、青年ノ友情ト愛郷ノ精神ニヨリテ団結ス
なお、女子青年のほうは、この大日本連合青年団とは別に、1927年(昭和
2年)に「大日本連合女子青年団」がつくられた。男子と同じく女子のおとなた
ちによる組織であった。
◎大日本青年団の「綱領」
(日中戦争の長期化に伴い、国内体制が統制下へと進んでゆく情勢に呼応して、
大日本連合青年団を、全国の青年団の指導統制機関にしていこうという意図から、
1939年(昭和14年)に大日本連合青年団を改組した全国組織。団長には有
馬良橘海軍大将が就任。この本部理事にも現役の青年団員は姿を見せなかった。)
一、我等ハ大日本青年ナリ
肇国ノ皇謨ニ則リ忠孝ノ精神ヲ発揮シ、
同心団結以テ国運ノ進展ヲ期ス
◎大日本青少年団の「綱領」
(1941年(昭和16年)に文部省が中心になって、大日本青年団、大日本
連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の四団を解体統合してつく
られた小学生から20歳までの青年男女を含めたいわゆる官製の組織。団長には
橋田邦彦文部大臣が就任。のちに鈴木孝雄陸軍大将に交替した。ドイツのヒトラ
ーユーゲントを参考にしたといわれた。この青少年団の本部役員にも現役の青年
団員は皆無。)
我等は大日本青少年団員なり
一、大御心を奉体し心をあわせて奉公の誠をつくし
天壌無窮の皇運を扶翼し奉らん
戦前戦中の青年団の全国組織は、戦後の日青協とその設立の目的、構成、役員
の選出、活動形体等がまったく異なるので、単純に比較はできないが、「青年に
よる青年たちのため」の初めての青年団の全国組織である日青協が、青年たち自
からの力で、教育基本法から学んで、自分たちの「綱領」をつくり、持ったとい
うことをご理解いただければと思う。
(元日本青年団協議会本部役員)
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【オルタのこだま】
メルボルンから 2007のお正月に 入江 鈴子
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加藤様 お達者でおられますか、新年おめでとうございます。お蔭さまで私も
来豪以来3度めの正月をメルボルンで迎えました。
日本のニュースの帰省やUターンラッシュ、各地での正月の様子をTVに見な
がら私は祈っておりました。同胞愛というか、愛国心というか、うまくは言えま
せんが・・決してセンチメンタルなものやノスタルジックなものではありません。
長年日本を離れ日本を外から見てきましたが、近年特にあまりにも悲惨な母国の
現状に私は言葉を失い考えこんでしまう・・その後に込みあげてくる祈り・・で
す。
加藤さん60年ぶりの会話でしたね。思想の芽生えと求道の青年期を、私達は
敗戦という歴史的激動期に直面しました。そうした時期に出会い抱負を語り合っ
た当時の仲間達は今も私の中に生きています。その殆どが議員になり今は他界し
た人達も多いことを岐阜の升原さんから聞きました。看護婦の道を選んだ私は、
仲間とは疎遠になり独り我が道を生きておりました。
あれ以来60年の歳月が流れ、人生のラストステージを生きている今御縁があ
っての私達の邂逅です。たとえ生き方は違っていても、あの青年期に出会った時
に求めていた道と同じ道を、目的にむかって草の根に生きてきた当時の仲間達の
ことを知りました。当時の青年達が秘めていた、枯れることのない青春を感じて
感動せずにはいられませんでした。加藤さんの電話を切った後、私は60年とい
う自分の足跡を見つめていました。
同封しましたのは、日本のダンス雑誌に送っている私の小文です。日本の社交
ダンスのあり方に疑問をもっている私は、社交ダンスの効用を福祉に取り入れて
いる英国はじめヨーロッパの先進国の様子を、1994年以来私の体験をリポー
トしてきました。が、最近になって投稿先を変えることを考えていた矢先に、加
藤さんからお誘いを受けてこれも御縁なのかナーと思いはじめている次第です。
そして、ここ何ヶ月かオルタを読んで感じたことのひとつに、オルタの投稿者
どおしのcommunicateができている暖かさが伝わってきました。このことは、
お互いに会って云々という意味ではありません。うまく表現できませんが・・言
い放し、書き放しではなくresponseがなされているからだと思います。この暖
かさは、書くことに自信がない、にも拘わらず伝えたいことがたくさんある、と
苦しんでいる私を大変励ましてくれます。
現在私は、自分の地域のシニアグループに参加しており、その中の組織のひと
つであるアルツハイマー協会主催のダンスパーティーのお手伝いをしています。
それと中国人コミュニティのシニアクラブの社交ダンスの仲間とダンスや学習会
を通して多くのことを学びました。上海、南京の出身者が多く、第二次大戦と文
革を生き抜いてきた7,80世代です。
日本も中国も同じく言えることは、その国の将来を考える時に重要なことのひ
とつとして、シニア世代が人間としてどのような価値観と哲学をもっているか、
また、若い世代に何を遺産として残そうとしているかを知ることだと私はおもい
ます。このことは英国にいた時も感じていたことで、私にとって興味のある勉強
材料になっています。中国の生活現場を伝えておられる佐藤さんの記事に共感の
拍手を送りながら読んでいます。
現在私は、中央公論、論座、世界そして諸君、V0ICE、文芸春秋などバランス
よく読むようにしていますので、かなり日本の現状を知ることができます。こち
らのメディアは日本のような米国経由ではなく、世界各国のニュースを直接知る
ことができます。
加藤さん、また連絡します。どうかお体に留意されて『オルタ』を続けられて
下さい。富田さんに宜しくお伝えください。
(2007年1月 メルボルンにて 入江鈴子)
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【随想】1冊の本(続き) 高沢 英子
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「台湾のいもっ子」を読了後、私は集英社に、著者の蔡徳本氏の住所を教えてほ
しいという旨の手紙を出した。編集者の細川剛氏が早速返事をくれ、蔡氏は今も
故郷の朴子に程近い台南市に住んでいられることが分かった。
私はすぐに蔡氏に手紙を書いた。無精者の私にしては珍しいことで、著者にじ
かに手紙を書くのは始めてだった。どんなことを書いたかは今も覚えている。と
にかく、私は黙っていられなかった。1995年の春のことである。
二週間ほどして蔡さんから思いがけず、分厚い返事が届いた。謙虚で篤実な性
格のにじみ出るような手紙で、私の感想を素直に喜ばれ、是非台湾に来てくださ
い、とあった。すぐにでも台湾へ行きたいと思ったが、事情があってなかなか行
けないまま、5年の歳月が過ぎた。その間私たちは頻繁に文通を続けた。蔡さん
からは、当時の台湾の状況を報道する日本の新聞雑誌の記事なども送られてきた。
日本に住んでいる日本人に対して、これは少し不思議に聞こえるかもしれないが、
当時も今も、日本人の大部分にとって、台湾の問題は関心外の出来事で、ごく一
部の報道機関や特定の思想傾向を持つ雑誌でしか詳細を報じたり、まして論じて
いる記事は皆無に等しかったからである。
私ははそのときまで、台湾の実情について、またその歴史的背景について、ほ
とんど何も知らなかった自分に驚き、内心恥ずかしく思った。以前、日本語学校
で、主にアジアの留学生たちに日本語や日本文学などを教えたことがあったので、
彼らとの交流を通じて、その故国の生活や、最近の国情などを断片的に聞いてい
たに過ぎなかった。
いろいろ調べているうちに、旧日本帝国の植民地政策の実態、特に台湾へのそ
れや、それが両国の民族に齎したさまざまな影響をおぼろげながら認識できるよ
うになった。とはいえ、政治的にはいまだになにもわかっていないに等しく、た
だ、かの地の人々の暮らしや考え方を聞いたときの理解の仕方が多少深くなった
というに過ぎないが、兎に角蔡徳本という友を得たのは、そんな私にとっては非
常に貴重な体験だった。
「台湾のいもっ子」は、国内外で大きな反響を呼び、間もなく中国語に翻訳され
た。当時はまだ蔡さんのように日本語を自由に読み書きできる世代が、台湾社会
の各層で活躍していたし、中国語訳は主としてより若い世代に、この歴史的事件
を知らせることに意義があったと思う。そしてさらに、かの国に今なお残る国民
党と民進党の対立と両者が主として拠っている内省人,外省人の立場を歴史的に
解明し、相互の積年の微妙な感情的ずれを説明する役割を、実に具体的に明証す
ることで、成し遂げたと私は確信している。
「蕃薯仔哀歌」という表題のこの本は台湾国内でも高い評価を受けた。当時の李
登輝大統領は,海外からの訪台者の誰彼を問わず、台湾を知るには是非この本を
読んでくださいと「台湾のいもっ子」を推挙したという。彼自身れっきとしたい
もっ子であった。
テレビ局のインタビューでは、一人の日本人読者として私の手紙が朗読された
りし,番組を見ることができなかった私のところに、蔡さんからビデオが送られ
て来た。私の手紙を朗読したのは、蔡さんの親友で、当時台湾で盛んだった台湾
万葉集グループのメンバーで、すぐれた歌人だった今は亡き蕭翔文さんである。
彼は戦時中、日本帝国の南方進出の野望を見抜けず、祖国愛の熱意に促され、
特別幹部候補生を志願したという経歴を持っていた。
愚かにも大東亜共栄圏の夢信じ祖国救うと「特幹」志願す
胴体に撃墜マークの燦として出撃を待つ「飛燕」の群は
航空兵として日本帝国の戦列に加わった若き日を回想し、その夢と挫折を赤
裸々に歌い上げた和歌を多く残し、この数年後世を去った。
私は出来るだけ知人にこの本を紹介し、機会あるごとに、台湾の実情について
コメントし、所属する同人誌などにもいろいろ書いたが、まったくなんの反応も
得られなかった。つくづく自分の非力を省み、ひたすら悔しいばかりで,蔡さん
やその友人の方たちに何一つ役に立つこと出来ないと思うと残念でただただ恥ず
かしかった。
蔡さんはその後国民文学賞、国家貢献栄誉賞など、数々の賞をを受賞した。英
語の翻訳も出された。翻訳したのはアメリカ在住の蔡さんの姪に当たる方である
が、英訳の表現も原書の持つニュアンスがよく生かされた優れた訳で,蔡さんも
満足されたという。この訳書もアメリカでひろく読まれたという。
私が念願を果たして、蔡さんとその友人のグループに始めて会ったのはその2
年後、日本の浜松においてであった。蔡さんと其の親しい友人家族のグループが
秋のツアーで來日され、ぜひ会いたいという連絡を受けて私は 一行の訪問地浜
松に出向き、秋の一日を共に過ごしたのである。ツアーの目的は柿狩であった。
台湾には柿ノ木がない。浜松市に在住する医師,間宮夫妻を通じて例年のように行
われていた次郎柿採りは、戦前の日本を知る台湾の人たちの大きな楽しみの一つ
であったことを私はそのとき知った。
秋晴れの爽やかな日で、台湾からはるばる訪れた十数組の家族のほとんどはす
でに還暦を過ぎた方たちであった。一行は、晴れ晴れと柿の実採りを楽しんだ。
次郎柿は今は栽培されることが少なくなり、このあたりが中心だと間宮氏は言っ
ておられた。温暖な浜松近郊のなだらかな山一面に植えられた柿の木には、豊か
に実った大きい次郎柿が鈴なりであった。歓声を上げて次々?ぎ取られた艶やか
な次郎柿は、忽ち籠一杯になっていく。そして、それが集められ、やがて箱詰め
されて、台湾の自宅や知人たちに送り出されるべく、山の作業場で、作業が進ん
でゆくさまを私はしみじみ眺めた。そこにあるのは古きよき日本の風景であり、
それを屈託無く楽しむかつての日本人たちであった。一行のなかには、作品に書
かれている悲しい犠牲者の肉親も多くいられた。今は日本で医師夫人として、二
児に恵まれ、充実した幸せの日々を送られる間宮夫人眞子さんもそのひとりであ
る、と聞いた。
その後、2000年2月、私はようやく蔡さんと交わした訪台の約束を果たす
ことが出来た。台湾では大統領選挙運動の真最中であった。そして、初めて民進
党の候補者がそれまで、多年台湾を支配してきた国民党に対抗して戦っていた。
2月17日、日本は冷たい小雨が降っていたが、夜の便で台湾に飛んだ。僅か
6日足らずのこのこの台南旅行で私は多くのことを学んだ。蔡さんが私のために
作ってくれた旅行プランはすばらしく充実したもので、およそ私が知っておくべ
きこと、知りたいことのすべてを網羅しており、かつ痒いところに手の届くよう
な行き届いた配慮に満ち、忘れがたい思い出である。必ず改めてじっくり書いて
おかねばと思っている。
帰国してまもなく、私は民進党の陳水扁氏の勝利を知った。これは長年耐えて
きた内省人にとって、どれほど待望されたことだろう。台湾はついに民主化の一
歩を踏み出したかに見えた。陳水扁氏は実は台北高校時代の蔡さんの教え子であ
った。 (筆者はエッセスト)
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【俳句】 富田 昌宏
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初蝶の黄の全きに農継げり
とくとくと樹液流れて芽吹かな
裏山の芽吹く気配やカレー煮る
山畑の光あまねし春菜摘む
立春や今朝茶柱の二本立つ
千万の虫絶叫や野火猛る
野火走る父祖伝来の曲り畦
落日も一つの火焔野火果つる
戦争の勲記は空し春彼岸
喜寿よりの余白手つかず臥龍梅
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【編集後記】
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◎いま、日本は小泉劇場内閣を継承し、スキャンダルにまぎれながらも改憲
を呼号する安倍政権のもとで社会の格差を急速に拡大させている。都市では
俗に「ワーキングプワー」・「下流社会」などと新語が生まれるほどの膨大
な貧困層をつくり出し、大都市圏と農村の格差はますます広がり、地方の社
会生活は崩壊に瀕している。地方都市中心部のシャッター街こそその荒廃の
表徴である。この号では『地域からの変革を目指して』として、南忠男氏に
地域格差の問題としての「夕張のいま」を現地から報告して貰い、また、大
都市圏としての深刻な問題を抱える神奈川県の知事選挙に向けての政策モデ
ルを力石定一先生に提言していただき、また田中前長野県知事の脱ダム宣言
で、そのシンボルとなった『淺川ダム』問題についての実相を関良基氏に解
明していただいた。
これらを4月の統一地方選挙、7月の参議院選挙と続く選挙に臨む読者に選択
の資として供したい。
◎この号では国外からオーストラリア・メルボルン市の入江鈴子さんと中国
河南省鄭州大学の王春橋教授、そして国内からは姫路工業大学吉田勝次教授
と地球環境戦略研究機関・客員研究員関良基氏の4氏に新たらしく執筆陣に
加わって頂いた。
遙かオーストラリアから初めてのメッセージを寄せられた入江さんと私は6
0年も前にお会いしたままだったのだが、今回、一瞬にして『時空を超え』
メール上で再会を果たすことになった。また、同じように中国河南省鄭州大
学の王教授と富田昌宏氏との10年以上も絶えていた交流が大陸からのネッ
トによる教授からの問い合わせによって再開され、教授からのお申し出でに
よって自らが開設されているブログから『中国人から見た日中文化の差異』
を掲載していただくことになった。いずれも、「オルタ」がどのようにそれ
ぞれの方のお手元に届いたかはわからないのだが、バックナンバーをご覧に
なって突然お便りを頂いたのである。
これは「オルタ」のデジタルメデイアならではの特性が生みだしたものだ
が、地球上でどなたに読まれているのか。心して編集に当たらなくてはと身
が引き締まる。これからも号を追って広がる新たな人的ネットワークを大切
にしながら国境を越え戦争のない世界を創っていきたいと思う。
旧知の姫路工業大学の吉田教授にはお病気中とは知らずに、「オルタ」を
お送りしていた。ところが最近、初岡昌一郎さんから先生が独自の方法でガ
ンを克服されたとのお話しを聞き、早速、読者のために、その壮烈なガン闘
病記の発表をお願いし快諾をいただいた。
◎去る2月2日、東京・神田の学士会館で「オルタ」のレギュラー執筆者を
中心にして
『「オルタ」新春の集い』を持った。「オルタ」はこの3月で創刊3年を迎え
るのだが、この種の集会を持つのは初めてで、編集部としては会のなりゆき
を心配していた。しかし結果は40名の方々の出席があり、盛会で楽しく交歓
の時を過ごすことができた。とくに記念講演をお願いした日本僑報社編集長
段躍中氏の『日中相互理解促進を目指して』―日本創業10周年の報告―と題
する報告には、ユニークでそのひたむきな活動振りには出席者全員が共感し
感嘆することしきりであった。暖冬とはいえ、冷たい風の中をご来会下さっ
た皆様や、当日、花や餃子を寄贈して頂いた(株)ハイムと美勢商事の両社に
あらためて謝意を表したい。もし来年も催すとしたら時期・規模・会の進め
方などに工夫を凝らし、より充実したものにしたいと思う。
◎今月号は、毎号連載していただいている西村徹氏の「臆子妄論」はシエーク
スピア、初岡昌一郎氏の「回想のライブラリー」はトルコのノーベル賞作家
オルハン・パムク、富田昌宏氏の「人と思想」は下村湖人を取りあげ、奇し
くも文豪・文人論が重なり読者に「人間」の根源について問いかけている。
「オルタ」の前身ともいうべき紙メデイアの同人誌「余白」は2003年6月
に「戦争・国家・人間」の追求を謳って創刊されたが編集長久保田忠夫君が
斃れ、その志は「オルタ」が引き継ぐ形となった。しかし「オルタ」は不条
理なイラク戦争に反対したり、急速に右傾化する小泉・安倍路線を政治的に
強く批判することに忙しく「人間」そのものを問うことが比較的に少なかっ
た。しかし、これからの「オルタ」は「戦争」「国家」とともに「人間」そ
れ自体を深く考える姿勢をつねに保ちたいと思う。
◎「人間」を考えるといえば、このところ珍しく何本かの映画を見た。ナチ
スドイツが崩壊する直前、死を賭して反戦ビラを撒いた兄妹の『白ばらの誓
い』、父親を日本軍の軍属として奪われ、その靖国神社合祀取り下げを闘う
韓国人女性の『あんにょん・さよなら』、命令に従って中国人を刺殺し苦悩
する日本兵の『蟻と兵隊』、36日間にわたる壮絶な日米両軍の死闘を綴る
『硫黄島からの手紙』、「墨守」という言葉を生んだと言う墨子の思想を奉
ずる若者が「非攻」をかかげて城を守るために奮闘する『墨攻』、そして地
球温暖化について誰をも説得しようとする『不都合な真実』である。元米国
副大統領アル・ゴアが地球温暖化による人類の危機を訴える最後の『不都合
な真実』を除いていずれも「戦争・国家・人間」を深く考えさせるものばか
りであった。それぞれの紹介は省くとして、そのすべてに通底するものは戦
争が始まり、それに組み込まれてしまえば人間としての尊厳は奪われ、人が
人を殺すという不条理に抗しきれなくなる姿を描きだしたことにある。
アル・ゴアは地球温暖化を防ぐ為に一人一人が今すぐ行動を起こそうと
「私にできる10のこと」を真摯に呼びかけている。私たちはこれに応えると
ともに戦争を始めないために全人類の一人一人ができることから行動を起こ
さなくてはならないと思う。さしあたって日本人である私たちはまず「憲法
九条」を守り抜くことから取り組まなくてはならない。そのために「オルタ」
はささやかでも役に立つメデイアでありたい。
(加藤 宣幸 記)
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