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=================================================================== ◎「九条」がなかった日本は、朝鮮・ベトナム・湾岸とアメリカの戦争に
駆り出され「勇猛」に最前線で戦わされた筈である。 ===================================================================
□目次
=================================================================== ■憲法月間に考える■
アジアからの孤立にくわえ、日米軍事同盟の再編や改憲のための国民投票法案 上程への動きの中で、「日本国憲法」にどう向き合うかが一人一人の問題として、 ますます重みを増してきた。そうした状況を踏まえて、今月号の「オルタ」では 単に“護憲”のかけ声を唱えるだけでなく、≪非戦と人権≫の憲法なき社会は私 たちに何をもたらすのか、先の戦争の時代を振り返りながら考えてみることにし た。
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※※「日本国憲法」のなかった時代 ※※
■1、斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」(注記と全文)
■2、無産政党政治家の戦争遂行協力責任
――三宅正一の思想と行動をめぐって 飯田 洋
■3、藤田若雄の足跡をたどってー
ー労働組合研究と無教会キリスト教
木村 寛
※※ 憲法九条をめぐって ※※
■4、栃木でも始まった「憲法九条の会」 大原 悦子
■5、ナマクラ右翼と腰抜け左翼の憲法対決 仲井 富
■6、偽善のすすめ (LETS PRETEND) 西村 徹
■7、北から南から
1 北のたより(北海道) (11) 南 忠男
2 老農夫のつぶやき(栃木)(4)
富田 昌宏
■8、オルタのこだま 羽原 清雅
■9、私と「新憲法」のかかわり 今井 正敏
■10、俳 句 富田 昌宏
■編集後記
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■1、斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」(注記と全文) ──────────────────────────────────── 【注記】 この演説は昭和15年2月2日、第75帝国議会で行われたもので、一般には昭和11 年5月7日、第69議会で行われた『粛軍に関する質問』演説と混同され、斎藤隆夫 の『反軍演説』として、その一節「徒に聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑 却し、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくの如き雲をつかむむ ような文字を並べ・・・」が一人歩きしているが、単に「反軍」演説という側面 だけで括ってしまうのではこの演説のもつ歴史的な意味を見失うことになると思 う。 まずは現代政治史において、国家の針路を誤らせないため軍部の圧迫、右翼テ ロリズムの跳梁する中で孤立をおそれず最後まで戦い抜いた一人の果敢な政党 政治家を持ったことを私たちは日本人として心から誇りたい。彼はこの演説のた めに一言一句をおろそかにせず繰り返し筆を入れ、海岸で喉を鍛え、全文を暗証 し、草稿を全く見ないで壇上に立ったという。いまようの政治家からはまったく 想像も出来ないその姿からは鬼気迫り、それだけに強く国民の胸を打って、さす がの軍部も動揺したと言われている。 今日の時点からこの演説を振り返ってみて、次のようなことが指摘できると思 う。 第一には、政府が明らかに中国に対する大規模な侵略戦争を展開し、10万人 の戦死者を出しながら「支那事変」と誤魔化して国民を欺き、「国民政府を相手 にせず」などと日本を15年戦争の泥沼に引き込み自滅させた無責任体制の実体 を斉藤議員が鋭く暴いて、今日までもつづく「中国問題」が日本現代史における 最重要な課題の一つであることを国民に認識させたこと。 第二に、演説の内容自体が、単に理不尽な戦争政策と軍事行動に対する非難攻 撃というだけでなく、帝国議会議員として慎重に言葉を選びながらも、出口なし の戦争にはまり込んでいく時代の日本の政治経済の矛盾、さらにその時代の精神 そのものの欺瞞性に対してまでも総体として批判する広がりと鋭い論理性を持 っており、今日においてもその価値を少しも減じていないこと。 第三には、帝国議会が時局同志会・政友会革新派・社会大衆党などを含んだ多 数(賛成296票、反対7票、棄権144票)で、この演説をもって斎藤議員を除 名処分にし、さらに各政党の解散に突き進み、明治以来曲がりなりにも続いた議 会政治を自ら終わらせ、軍部独裁への翼賛政治体制をしいて、全面的に戦争推進 協力体制をつくる転換点にしてしまったこと。 以上の視点から、斎藤演説が持つ日本現代史における大きな歴史的な意味を読 み取りたいと考え、戦前の重い史実として演説全文を中公文庫・斎藤隆夫著『回 顧七十年』(1987年・中央公論社刊)から再録させていただきました。
(編集部)
☆斎藤隆夫代議士の略歴 兵庫県出石町出身;1870年9月13日生〜1949年10月7日没 1894年東京専門学校(現早大)行政科卒・ 1895年翌年弁護士試験合格・エール大学留学 1912年立憲国民党から総選挙に初当選、以後1949年まで13回当選。 1946年第一次吉田内閣に国務相として入閣。 1947年片山哲内閣に憲法担当国務相として入閣。
──────────────────────────────────── ○斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」 昭和十五年二月二日、第七十五議会における演説 ──────────────────────────────────── 【全文】 支那事変が勃発しましてからすでに二年有半を過ぎまして、内外の情勢はます ます重大を加えているのであります。このときに当りまして一月十四日、しかも 議会開会後におきまして、阿部内閣が辞職して、現内閣が成立し、組閣二週間の 後において初めてこの議会に臨まるることに相成ったのであります。総理大臣を はじめとして、閣僚諸君のご苦心を・十分にお察しするとともに、国家のために 切にご健在を祈る者であります。 米内首相は組閣そうそう天下に向って、現内閣の政策を発表せられたのであり まして、我々は新聞を通じてこれを承知致しておるのであります。
しかしその政策と称するものは、ただわずかに題目を並べたに過ぎないのであ りまして、諸般の政策はこの帝国議会において陳述すると付け加えてあります。
それ故に昨日のご演説を拝聴致したのでありまするが、相変らず抽象的の大要に 過ぎないのでありまして、これによって、国政に対する現内閣の抱負経綸を知る ことはもちろん出来ない。しかしながら私は今日この場合において、これらの問 題、即ち第一は支那事変の処理、第二は国際問題、第三は国内問題、これらの三 問題全部を通じて質問を致す時間の持合せもありませぬから、この中の中心問題 でありまするところの支那事変の処理、これについて私の卑見を述べつつ主とし て総理大臣のご意見を求めてみたいのであります。 支那事変の処理は申すまでもなく非常に重大なる問題であります。今日我国の 政治問題としてこれ以上重大なるところの問題はない。のみならず今日の内外政 治はいずれも支那事変を中心として、この周囲に動いているのである。それ故に 我々は申すに及ばず、全国民の聴かんとするところももとよりここにあるのであ ります。一体支那事変はどうなるものであるか、いつ済むのであるか、いつまで 続くものであるか、政府は支那事変を処理すると声明しているが如何にこれを処 理せんとするのであるか。国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、この議会を 通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らくー人もないであろうと思う。 さきに近衛内閣は事変を起こしながらその結末を見ずして退却をした。平沼内 閣はご承知の通りである。阿部内閣に至って初めて事変処理のために邁進すると は声明したものの、国民の前には事変処理の片鱗をも示さずして総辞職してしま った。現内閣に至って始めてこの問題をこの議会を通して国民の前に曝け出すと ころの機会に到来したのであります。これにおいて私は総理大臣に向って極めて 率直にお尋ねをするのである。支那事変を処理すると言わるるのであるが、その 処理せらるる範囲は如何なるものであるか、その内容は如何なるものであるか、 私が聴かんとするところはここにあるのであります。
私の見るところを直言致しまするならば、元来今回の事変につきましては、当 初支那側は申すに及ばず、我が日本におきましても確かに見込み違いがあったに 相違ないのであります。即ち我国より見まするならば、その初めは所謂現地解決、 事変不拡大の方針を立てられたのでありまするが、その方針は支那側の挑戦行為 によって立ちどころに裏切られ、その後事変は日に月に拡大し、躍進に躍進を重 ねて遂に今日の現状を見るに至ったのであります。支那側の見込み違い、これは 言うを要しないのであります。 ここにご参考のために引用すべき文書があります。これは昨年十二月十三日、 内閣情報部より発行せられたるところの「週報」でありまするが、この中に「支 那事変を解決するもの」と題して支那派遣軍総司令部報道部長の名をもって一つ の論文が掲載せられているのである。この中に如何なることが現われているかと 見ると、「そもそもこの戦争は、支那人、ことに蒋介石の日本に対する認識不足 と、その日本の実力誤算から出発し、また日本の支那に対する研究不足と認識不 足とによって始められ、また深められて来た」云々と記載されてある。
即ちこのたびの事変は支那が日本に対するところの認識不足、また日本が支那 に対するところの認識不足、この二つの原因によって始められ、またこれが深め られたものに相違ない。しかしながら翻って考えて見ますると、たとえこの認識 不足なしといえども、日支両国の間におきましては早晩一大事変か起こらざるを 得ないその禍根が、いずれの所にか隠れておった、その機運が熟しておった、そ れがかの北支の一角蘆溝橋における支那側の不法射撃、この事実に触れて外部に 爆発したに過ぎないのでありまして、これは仕方がない、所謂運命であります。 両国間にわだかまるところの運命でありますから、これは仕方がない。 しかしながらその後事変はますます進展して、彼我の勢力ならびに勝敗の決も 明かになりました以上は、なるべく速やかにこの事変を収拾する、そうして出来 るならば再びかくのごとき事変が起こらないように、日支両国の問に横たわる一 切の禍根を排除して、もって和平克復を促進することは独り日本の政治家の責任 であるのみならず、実に支那の政治家の責任であると私は思うのであります、た だ問題はどうしてこれらの禍根を取り除くことが出来るか、どうしたならば将来 の安全を保障することが出来るか。我々は支那の立場を考えるとともに、主とし て日本の立場を考えねばならぬのである。 そこでまず第一に我々が支那事変の処理を考うるに当りましては、寸時も忘れ てならぬものがあるのであります。それは何であるか、他のことではない。この 事変を遂行するに当りまして、過去二年有半の長きに亘って我が国家国民が払い たるところの絶大なる犠牲であるのてあります。即ちこの間におきまして我が国 民が払いたるところの犠牲、即ち遠くは海を越えてかの地に転戦するところの百 万、二百万の将兵諸士を初めとして、近くはこれを後援するところの国民か払い たる生命、自由、財産その他一切の犠牲は、この壇上におきまして如何なる人の 口舌をもってするも、その万分の一をも尽すことは出来ないのであります。(拍 手) しかもこれらの犠牲は今日をもって終りを告げるのではない。将来久しきに亘 る、今後幾年に亘るかということは、今日何人といえども予言することが出来な い状態にあるのてあります。実にこのたびの事変は、名は事変と称するけれども、 その実は戦争である。しかも建国以来未だかつて経験せざるところの大戦争であ ります。したがってその犠牲の大なるとともに、その戦果に至ってもまた実に驚 くべきものがある。 昨日もこの議場において陸軍大臣のお話がありました通り、今日の現状をもっ て見まするならば、我軍の占領地域は実に日本全土の二倍以上に跨っているので あります。 しかしてこれらの占領は如何にしてなされたものであるか。
いずれも忠勇義烈 なる我が皇軍死闘の結果である。即ちこれがためには、十万の将兵は戦場に屍を 埋めているでありましょう。これに幾倍する数十万の将兵は、悼ましき戦傷に苦 しんでいるでありましょう。百万の皇軍は今なお戦場に留まってあらゆる苦難と 闘っているに相違ない。かくして得られたるところのこの戦果、かくして現われ くるところのこの事実、これを眼中に置かずしては、何人といえども事変処理を 論ずる資格はない。(「ヒヤヒヤ」拍手) 諸君もご承知のごとく、我国はかつて四十余年前に支那と戦った。三十余年前 にロシアと戦った。これらの戦いはいずれも国運を賭したる戦いであったに相違 はございませぬが、今回の戦いと比べまするならば、その規模の大なること、そ の犠牲の大なること、日を同じくして語るべきものではない。しかるにこれらの 戦いは、如何なる条件をもって、和平克復を見るに至ったかということは、歴史 がこれを明記しておりまするから、ここに述ぶる必要はない。それ故にこれを過 去の歴史に鑑み、またこれを東亜における大日本帝国の将来に鑑み、これを基礎 として、もって事変処理の内容を充実するにあらざれば、出征の将士は言うに及 ばず、日本全国民は断じてこれを承知するものではない。(「ヒヤヒヤ」拍手)
政府においてその用意があるかないか、私が問わんとするところはここにある のであります。 米内首相は事変処理については、すでに確乎不動の方針が定められておる、か く声明せられているのでありまするが、その方針とは何であるか、所謂近衛声明 なるものであるに相違ない。即ち昨年十二月二十二日に発表せられたところの近 衛声明、これが事変処理に関する不動の方針であることは、申すまでもないこと であります。ところが私は元来この近衛声明なるものに向っては、いささか疑い を抱いているのであります。この際誤解を防ぐがためにお断りをしておきます。 きっぱりとお断りをしておきまするが、私は今にわかに近衛声明に反対をする者 ではない。さりとて賛成をする者でもない。賛成をするか反対をするかは、政府 の説明を聴いてしかる後において考えるつもりであります。(拍手) 今日は質問であります。質問は読んで字のごとく疑いを質すのである。それ故 にこの考えをもってご聴取を願いたいのであります。 近衛声明の中にはどうい うことが含まれているかと見ますると、大体五つの事柄が示されているのであり ます。
その一つは支那の独立主権を尊重するということである。 第二は領土を要求しない、償金を要求しないということである。
第三は経済関係については、日本は経済上の独占をやらないということである。
第四は支那における第三国の権益については、これを制限せよというごときこ とを支那政府には要求しない。
第五は防共地域であるところの内蒙付近を取り除くその他の地域より、日本軍 を撤兵するということであります。この五つが近衛声明に含まれているところの 要項である。 しかしてこの声明はただ日本のみに対する声明でなければ、また支那のみに対 する声明でもない,実に全世界に対するところの声明でありまするから、如何な ることがあってもこれを変更することが出来るものではない。絶対にこれは変更 を許さないのである。もしかりそめにもこれを変更するがごときことがあります ならば、我国の国際的信用は全く地に墜ちてしまうのであります。 ただそればかりではない。ご承知のごとくかの汪兆銘氏、同氏はこの近衛声明 に呼応して立ち上ったのである。 即ちこの近衛声明を本として、和平救国の旗を押し立てて、新政権の樹立に向 って進んで来ているのである。その後同氏はしばしば声明書を発表しております るが、その声明書を見ますると、徹頭徹尾近衛声明を文字通り額面通りに解釈を しているのである。即ち同氏がしばしば発表しましたところの声明書、その声明 書に現われているところの文句を、そのまま取って来て総合しますると、こうい うことになるのであります。 「近衛声明のごとくてあったならば支那にとっては別に不利益はない。日本はこ の声明によって全く侵略主義を放棄したのである。日本はこれまで侵略主義をと っておったが、近衛声明によって侵略主義を放棄したのであるというている。日 本が侵略主義を放棄したということは、即ち軍事上においては征服を図らず、経 済においては独占を考えないということである。かくのごとく日本が戦争中にお いて反省したる以上は、中国もまた深く自ら反省するところがあって、一日も速 やかに和平を実現せねばならぬ,しかしてかくのごとき和平は絶対,に対等の立 場において結ばねばならぬ。戦勝者がもつ敗者に対する態度はー切放棄すべきで ある。したがって和平条件は決して支那国家の独立自由を害するものではないか ら、何人といえども和平の実現を拒むことは出来ない」 声明書に現われておりまするところの文句をそのまま取って総合すると、かく のごときものになるのである。そうしてこの声明を発表して爾来一年有余の間、 和平運動のために進んで来ているのであります。それですらご承知の通り支那民 衆、ことに蒋介石一派よりは実に言うに堪えざるところの攻撃を受け迫害せられ ながら、身を挺して和平運動のために進軍して来ているのであります。それ故に 同氏の立場から見れば徹頭徹尾この声明をば裏切ることは出来ない。もしこれを 裏切るがごときことかありましたならば、和平運動、ひいては新政権の樹立は根 本から崩壊せられてしまうのである。
ここにおいて私は政府に向ってお尋ねをするのである。支那事変処理の範囲と 内容は如何なるものであるか。重ねて申しまするが、支那の独立主権は完全に尊 重する。支那の独立主権を完全に尊重する以上は、将来支那の内外政治に向って はかりそめにも干渉がましきことは出来ない。もし干渉がましきことをなしたな らば、支那の独立主権はたちどころに侵害せられるのである。領土は取らない、 償金はとらない。支那事変のためにどれだけ日本の国費を費やしたかということ は私はよく分りませぬ。しかしながらただ軍費として我々がこの議会において協 賛を致しましたものだけでも、今年度までに約百二十億円、来年度の軍費を合算 致しますると約百七十億円、これから先どれだけの額に上るかは分らない。二百 億になるか三百億になるか、それ以上になるか一切分らない。それらの軍費につ いては一厘一毛といえども支那から取ることは出来ない。ことごとく日本国民の 負担となる。日本国民の将来を苦しめるに相違ない。
また経済開発については、決して日本のみが独占をしない。支那の経済開発と いうことが叫ばれておりまするが、これも日本だけが独占をすべきものではない。 第三国権益を制限するがごときことは支那政府に向っては要求しない。これまで 我国の政治家は国民の前に何と叫んでおったか。このたびの支那事変は、支那よ り欧米列国の勢力を駆逐する、欧米列国の植民地状態、第三国から搾取せられて いるところの支那を解放して、これを支那人の手に戻すのであると叫んでおった のでありますが、これは近衛声明とは全然矛盾するところの一場の空言であった ということに相成るのであります。 その他占領地域より日本軍全部を撤兵するというのである。残る所に何かある か、それが私には分らないのであります。ことに日本軍の撤兵については、汪兆 銘氏が如何なることをいうておるかというと、第一次声明の中にこういうことが 現われている。
近衛声明において特別重要なる点は日本軍の支那からの撤兵で ある。そうしてその撤兵は全部が急速にかつあらゆる方面において一斉に行われ ねばならぬということである。即ち撤兵は、全部が急速に、あらゆる方面におい て、一斉に行われねばならぬということである。ただ提案せられたるところの日 支防共協定の存続期間に限って、日本軍の駐屯すべき所謂特定地区はただ内蒙の 付近のみに制限せられなければならない。 かように汪兆銘氏は声明しておりまするが、これを近衛声明と対照しますると、 少しも間違いはないのであります。しかる以上はこれより新政権を相手に和平工 作をなすに当りましては、支那の占領区域から日本軍を撤退する、北支の一角、 内蒙付近を取り除きたるその他の全占領地域より日本軍全部を撤退する、過去二 年有半の長きに亘って内には全国民の後援のもとに、外においては我が皇軍が悪 戦苦闘して進軍しましたところのこの占領地域より日本軍全部を撤退するとい うことである。 これが近衛声明の趣旨でありますが、政府はこの趣旨をそのまま実行するつも りでありますか。これを私は聴きたいのであります。総理大臣は言うに及ばず、 軍部大臣においてもこの点についてご説明を煩わしておきたい。 次に事変処理については東亜の新秩序建設ということが繰り返されておりま す。この言葉は昨日以来この議場においてもどれだけ繰り返されているか分らな い。元来この言葉は事変の初めにはなかったのでありますが、事変後約一年半の 後、即ち一昨年十一月三日近衛内閣の声明によって初めて現われたところの言葉 であるのであります。東亜の新秩序建設ということはどういうことであるか。昨 日外務大臣のお言葉にもあったように思いますが、近頃新秩序建設ということは この束洋においてばかりではない。ヨーロッパにおいても数年来この言葉が現わ れているのであります。 しかしながらヨーロッパにおける新秩序の建設というものは、つまり持たざる 国が持てる国に向って領土の分割を要求する、即ち一種の国際的共産主義のごと きものでありますか、その後の実情を見ますると全然反対である。即ちずいふん 持てるところの大国が持たざるところの小弱国を圧迫する、迫害する、併呑する、 一種の弱肉強食である。ここに至ってヨーロッパにおける新秩序建設の意味は全 く支離滅裂、実に乱暴極まるものであります。しかしヨーロッパのことはどうで もよろしい。ヨーロッパにおける新秩序の建設などは、我々において顧みる必要 はない。この東亜における新秩序建設の内容は如何なるものがあるか。これも近 衛声明及びこれに呼応したるところの汪兆銘氏の声明を対照してみますると、新 秩序建設には確かに三つの事柄か含んでいる。それは何であるか。
第一は善隣友好ということである。 第二は共同防共である。 第三は経済提携であります。
これがこれまでの公文書に現われているところの新秩序建設の内容であります るが、政府の見るところもこれに相違ないのであるか。新秩序建設ということが 朝野の間においてしばしば謳われているのでありまするが、その新秩序建設の実 体は以上述べたる三つのことに過ぎないのであるか。なおこの他に何ものがある のであるか。なければ宜しい、あるならばそれを聴きたい。あっても言えないと 言わるるならばそれでも宜しい。とにかくこれほど広く、これほど強く高調せら れているところの戦争の目的であり犠牲の目的であるところの東亜新秩序建設 の実体について、政府の見るところは何であるか。これを承っておけば宜しいの であります。 なおこれに関連してお尋ねをしておきたいことがある。ここに昨年12月11 日付をもって発表せられたる「東亜新秩序答申案要旨」というものがある。これ は興亜院において委員会を設けて審議せられたるところのその答申案でありま す。これを見まするというと、我々にはなかなか難しくて分らない文句が大分並 べてある。即ち皇道的至上命令、「うしはく」に非ずして「しらす」ことをもっ て本義とすることは我が皇道の根本原則、支那王道の理想、八紘一宇の皇謨、な かなかこれは難しくして精神講話のように聞えるのでありまして、私ども実際政 治に頭を突込んでいる者にはなかなか理解し難いのであります。(拍手) しかしそれは別と致しまして、一体近頃になって東亜新秩序建設の原理原則と か精神的基礎とか称するものを、特に委員会までも設けて研究しなくてはならぬ ということは一体どういうことであるか、東亜新秩序建設はこの大戦争、この大 犠牲の目的であるのであります。しかるにこの犠牲、この戦争の目的であるとこ ろの東亜新秩序建設が、事変以来約一年半の後において初めて現われ、さらに一 年の後において特に委員会までも設けてその原理、原則、精神的基礎を研究じな くてはならぬということは、私どもにおいてはどうも受け取れないのであります。 (拍手)この点は総理大臣に限らず、興亜院の総裁で宜しいのでありますから、 何故興亜院においては特に委員会までも設けて、こういうことの研究に着手せら れたのであるか、これを聴いておきたいのでありまず。 (以下官報速記録より削除せられたる部分)
私はこれより一歩を進めまして少し私の議論を交えつつ政府の所信を聴いてみ たい。政府においてはこういうことを言われるに相違ない。また歴代の政府も言 うている。何であるか。このたびの戦争はこれまでの戦争と全く性質が違うので ある。このたびの戦争に当っては、政府はあくまでも所謂小乗的見地を離れて、 大乗的の見地に立って、大所高所よりこの東亜の形勢を達観している。そうして 何ごとも道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂ハ紘一宇の精神をもっ て東洋永遠の平和、ひいて世界の平和を確立するがために戦っているのである故 に、眼前の利益などは少しも顧みるところではない。これが即ち聖戦である。
神 聖なるところの戦いであるという所以である。 かような考えを持つておらるるか分らない。現に近衛声明の中には確かにこの 意味が現われおるのであります。その言はまことに壮大である。その理想は高遠 であります。しかしながらかくのごとき高遠なる理想が、過去現在及び将来国家 競争の実際と一致するものであるか否やということについては、退いて考えねば ならぬのであります。(拍手) いやしくも国家の運命を担うて立つところの実際政治家たる者は、ただ徒に理 想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国 家の将来を誤ることがあるのであります。(拍手) 現実に即せざるところの国策は真の国策にあらずして、一種の空想であります、 まず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、これは望ましきことではあります るが、実際これが実現するものであるか否やということについては、お互いに考 えねばならぬことである。古来いずれの時代におきましても平和論や平和運動の 止むことはない。宗教家は申すに及ばず、各国の政治家らも口を開けば世界の平 和を唱える。また平和論の前には何人といえども真正面からして反対は出来ない のであります。しかしながら世界の平和などが実際得られるものであるか、これ はなかなか難しいことであります。 私どもは断じて得られないと思っている。十年や二十年の平和は得られるかも 知れませぬが、五十年百年の平和すら得られない。歴史家の記述するところによ りますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年の間において、世界平和の時代は わずかに二百幾十年、残り三千二百幾十年は戦争の時代であると言うている。か くのごとく過去の歴史は戦争をもって覆われている。将来の歴史は平和をもって 満たさるべしと何人が断言することが出来るか。(拍手) のみならずご承知の通りに近世文明科学の発達によりまして、空間的に世界の 縮小したること実に驚くべきものである。これを千年前の世界に比較するまでも なく、百年前の世界に比較するまでもなく、五十年前の世界に比較しましても実 に別世界の感が起こらざるを得ないのである。この縮小せられたる世界において、 数多の民族、数多の国家か対立している。そのうえ人口は増加する。生存競争は いよいよ激しくなって来る。民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起こ らざるを得ない。しかして国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、 この世界において国家が対立しておりまする以上は、戦争の絶ゆる時はない。平 和論や平和運動がいつしか雲散霧消するのはこれはやむを得ない次第でありま す。 もしこれを疑われるのでありますならば、最近五十年間における東洋の歴史を 見ましょう。先ほど申し上げました通りに、我国はかつて支那と戦った。その戦 いにおいても東洋永遠の平和が唱えられたのである。次にロシアと戦った。その 時にも東洋永遠の平和が唱えられたのである。また平和を目的として戦後の条約 も締結せられたのてありまするが、平和が得られましたか。得られないではない か、平和が得られないからして今回の日支事変も起こって来たのである。
また眼を転じてヨーロッパの近状を見ましょう。ご承知の通りに二十幾年前に ヨーロッパはあの通りの大戦争をやった。五か年の間、国を挙げて戦った戦争の 結果はどうなったか。敗けた国はいうに及ばず、勝った国といえども徹頭徹尾得 失相償わない。その苦き経験に顧みて、戦争などはやるものでない。およそこの 世の中において戦争ほど馬鹿らしきものはない。それ故に未来永久、この地球上 からして戦争を絶滅する。その目的、その理想をもって国際連盟を作った。我か 日本も五大強国のーつとしてこれに調印しているのであります。平和は得られま したか。国際連盟の殿堂はどうなっているか。民族の発展慾、国家の発展慾は、 紙上の条約などでもって抑制することが出来るものでない。十年経ち、二十年経 つ間においてまたもや戦争熱か勃興して来る。ヨーロッパの現状は活きたる教訓 を我々の前に示しているのであります。
ある者は言うている、このたびの戦争は「ベルサイユ」条約が因である、「ベル サイユ」条約においてドイツに向って苛酷なるところの条件を課したから、その 反動として今回の戦争が起こったのであるとこう言うている。一応の理窟である に相違ない。しかしなから[ベルサイユ」条約がなかったならば戦争は起こらな かったと誰が断言することか出来るか。第一ヨーロッパ戦争の前におきましては 「ベルサイユ」条約はなかったのてありますけれども、戦争は起こったのである。
即ち人間の慾望には限りがない、民族の慾望にも限りがない。国家の慾望にも 限りがない。屈したるものは伸びんとする。伸びたるものはさらに伸びんとする。 ここに国家競争が激化するのであります。なおこれを疑う者があるならば、さら に遡って過去数千年の歴史を見ましょう。世界の歴史は全く戦争の歴史である。 現在世界の歴史から、(発言する者多し)戦争を取り除いたならば、残る何物が あるか。そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争 いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争 いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、 これが戦争という意味でない。先ほど申しました第一次ヨーロッパ戦争に当りま しても、ずいぶん正義争いが起こったのであります。ドイツを中心とするところ の同盟側、イギリスを中心とするところの連合側、いずれも正義は我に在りど叫 んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか。正義が勝って不正義が敗けた のでありますか。そうではないのでありましょう。正義や不正義はどこかへ飛ん で行って、つまり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであ ります。今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わしておりますが、この 正義論の価値は知るべきのみであります。つまり力の伴わざるところの正義は弾 丸なき大砲と同じことである。(拍手)羊の正義論は狼の前には三文の値打もな い。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。
かくのごとき事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直 の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(拍手)世にそうでないと言う者が あるならばそれは偽りであります、偽善であります。我々は偽善を排斥する。あ くまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄 は何であるか。曰く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即 ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれ である。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。(拍手) この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹 尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これよ り他に国家の向うべき途はないのであります。(拍手) かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。彼らは……。 (「もう宜い」「要点要点」と叫び、その他発言する者多し)
議長(小山松寿君)
静粛に願います。 斎藤隆夫君(続)彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、 ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らか してしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。これが即ち人類の歴史で いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、日く国際正義、日く道義 外交、日く共存共栄、日く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ 立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかあ りましたならば (小田栄君「要点を言え、要点を」と叫び、その他発言する者 多し)
議長(小山松寿君)静粛に願います、小田君に注意致します。
斎藤隆夫君(続)現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。 私はこの考えをもって近衛声明を静かに検討しているのであります。即ちこれ
を過去数千年の歴史に照し、またこれを国家競争の現実に照して (発言する者多し)
議長(小山松寿君)静粛に願います。 斎藤隆夫君(続)かの近衛声明なるものが、果して事変を処理するについて最
善 を尽したるものであるかないか。振古未曽有の犠牲を払いたるこの事変を 処理 するに適当なるものであるかないか。東亜における日本帝国の大基礎を確
立し、 日支両国の間の禍根を一掃し、もって将来の安全を保持するについて適
当なる ものであるかないか。これを疑う者は決して私一人ではない。(拍手)
いやしくも国家の将来を憂うる者は、必ずや私と感を同じくしているであろう と思う。それ故に近衛声明をもって確乎不動の方針なりと声明し、これをもって 事変処理に向わんとする現在の政府は、私が以上述べたる論旨に対し逐一説明を 加えて、もって国民の疑惑を一掃する責任があるのであります。(拍手)
私はさらに進んで重慶政府と、近く現われんとするところの新政府との関係に ついてお尋ねを致したいのであります。昨年八月、阿部内閣が成立致しました当 時においては、汪兆銘氏を首班とするところの新政府は今にも現われんとするが ごとき噂か立てられたのてありますが、それかだんだんと延引して今日に至って いるのである。しかし聞くところによれば、いよいよ近くその成立を見んとする のでありますから、これは日支両国のためにまことに慶賀に堪えないことであり ます。我国はさきに蒋政権を撃滅するまでは断じておさめない、国民政府を対手 にしては一切の和平工作をやらないと宣言している。しかる以上は新たに生るる ところの新政府、これを援けてもって和平調整をなさねばならぬ。これについて は誰一人として反対する者はないのであります。 しかしながら退いて考えて見ますると、一体この新政府はどれだけの力を持っ て現われるのであるか。これが私どもには分らないのであります。 申すまでも なくいやしくも国際間において、また国際法上において、政府として立ちまする 以上は、内に向っては国内を統治するところの実力を備え、外に向っては国際義 務を履行するところの能力を有するこの内外両方面の条件を兼備するものにあ らざれば、政府として立つことも出来ねば、政府としてこれを承認することも出 来ないはずであります。その実力とは何であるか、即ち兵力であります、軍隊の 力であります。如何に法制を整えても、如何に政治機構を打ち建てても、また如 何に文章口舌に巧みでありましても、兵力を有せざる政府の威令が行われるわけ がない。ことにこれを支那歴朝創業の跡に顧みましても、旧王朝を滅して新王朝 を創業する、旧政権を倒して新政権を建設する者は、ことごとく武人であります。 即ち兵馬の間に天下の権を握らざる者はないのである。
かの孫逸仙か革命事案に向って一生の精力を傾倒したにかかわらず、その業が 成らず志を得ずして終に最後を遂げたのは何が故であるか。つまり彼が武人にあ らず、武力を有しなかったからであります。これに反して彼の後輩でありまする ところの蒋介石が、一時なりとも支那を統一したのは何か故であるか。彼が武人 であって武力を有しておったからであります。ことに近頃支那の形勢を見渡しま するというと、我軍の占領地域であり同時に新政権の統轄地域であるところにお いてすら、匪賊は横行する、敗残兵は出没する、国内の治安すら完全に維持する ことが出来ない。加うるに新政府と絶対相容れざるところのかの重慶政府を撃滅 するにあらざれば、新政府の基礎は決して確立するものではない。それ故に新し き政府を打ち建てる第一の条件は何といっても兵力でありまするが、まさに現わ れんとするところの新政府にはその力があるのであるかないのであるか、これに ついてご説明を煩わしたいと思うのであります。 次に新政府が現われましたならば、我国は何としてもこれを承認せざるを得な いのであります。これを承認すると同時に、この新政府の発展に向っては極力こ れを支持せねばならぬのである。支持すべきことをすでに声明せられている以上 は、この声明をどこまでも履行しなければならない。即ちこれがためには政治上 においても、軍事上においても、また経済上においても、その他あらゆる犠牲を 払ってこの新政府を援けねばならぬのである。そうして新政府を援けて将来名実 ともに完全なる独立政府としたその後において、我国との関係が極めて円満に持 続せらるるものであるかないか、これも大切なる問題であるのであります。我々 は決して新政府を疑う者ではない。殊に汪兆銘氏を初めとして、身を挺して和平 救国のために奮闘しているところのかの支那の政治家諸氏に対しては、衷心より 敬意を払う者であります。 しかしながら、国の異なるに従って国民性にも違いがある。これは仕方がない。 現に汪兆銘氏は一昨年の暮に重慶脱出以来しばしば声明書を発表して、蒋介石に 向って和平勧告をしたのでありまするが、蒋介石はこれを一蹴して顧みない。そ こで昨年の七月には断然として蒋介石に向って絶縁状を送っている。しかるにも かかわらずつい最近一月の十六日でありまするか、それこそ辞を卑くし、言葉を 厚くして蒋介石に向って停戦講和の通電をうっている。これは支那の政治家にお いて初めて出来ることでありまして、我々日本の政治家においては想像も及ばな いことである。それ故に新政府を援助することは宜しいが、新政府の将来に向っ て決して盲目であってはならない。これについて総理大臣はどういう考えを持っ ておられるのであるか、これを一つ承っておきたいのであります。 次に新政府が出来た後において重慶政府との関係はどうなるものであるか、こ れにつきましては前内閣の阿部首相は新聞を通じて、こういう意見を述べておら るるのであります。即ち新政権が出来たならば、新政権は重慶政府に向って働き かけるであろう。新政権樹立の趣旨が徹底したならば、重慶政府も一緒になって 和平救国の途に就くであろう。こういう意見を述べておられるのであります。し かしてこれは決して前阿部首相一人のみの意見ではない。今日政府の要人の中に は、確かにこの意見を持っている人があるのであります。これが私には分りかね るのである。新政権と重慶政府、どう考えてもこれが将来一致するものであると は思えないのであります。なぜに一致しないか。ご承知の通り重慶政府は徹頭徹 尾、容共抗日をもってその指導精神となし、これを基として長期抗戦を企ててい るのである。しかるにこれに反して新政府は反共親日をもって指導精神となし、 それをもって新政府の樹立に向って進んでいるのである。 この氷炭相容れざる二つのものがどうして一緒になることが出来るか。我々に おいてはどうもこれは想像がつかない。しかしてこれはただ理窟ばかりの問題で はなくして支那の現状を見ましてもかようなことは到底想像することが出来な いのである。ことに先ほど申しましたように、蒋介石を徹底的に撃滅するにあら ざれば断じて戈をおさめない。この鉄のごとき方針が確立して、これをもってあ らゆる作戦計画が立てられているべきはずであるのであります。先ほど引用致し ましたところの文書の中におきましても、確かにその意味は現われているのであ る。 「即ち新政府が出来たところが蒋介石は決して兜を脱がない、重慶政府が屈服 しない限りは日本軍はあくまでも重慶征伐に向って進軍するのである。汪兆銘は 日本の重慶征伐に便乗して戦うのである」これが軍部の方針であるに相違ないの であります。しかるに前内閣の首相及び政府の要人はかくのごとき気楽なる考え を持っておる。支那事変処理の根本方針について政府と軍部との間において何か 意見の相違があるらしくも思えるのであります。これは前内閣のやったことてあ りまして、現内閣のやったことではないのてありまするが、しかし支那事変の処 理については前内閣の方針を踏襲すると言われたところの現内閣の総理大臣は、 これについても相当のお考えがあるには相違ないと思いまするから、この点も併 せて伺っておきたいのであります。 次に重慶政府に対する方針、重ねて申しまするが、蒋政権を撃滅するにあらざ れば断じて戈はおさめない、蒋介石の政府を対手としては一切の和平工作はやら ない、この方針は動かすべからざるものでありまするが、その後蒋介石は敗戦に 次ぐに敗戦をもってして、今日は重慶の奥地に逃げ込んで、一地方政権に堕して いるとはいうものの、今なお大軍を擁して長期抗戦を豪語し、あらゆる作戦計画 をなしているように見受けられるのであります.もとよりこれについては我方に おきましても確乎不抜の方針が立てられているに相違ありませぬが、しかし前途 のことは測り知ることが出来ない。しかるに一方においてはどこまでも新政権を 支持せねばならぬ。あらゆる犠牲を払ってこれを支持せねばならぬ,即ち一方に おいては蒋介石討伐、他の一方においては新政権の援助、我国はこれよりこの二 つの重荷を担うて進んで行かなければならぬのでありますか、これが我か国力と 対照して如何なる関係を持っているものであるか,私ども決して悲観するもので はない。悲観するものではないが、これが人的関係の上において、物的関係の上 において、また財政経済の関係において如何なるものであるかということは、国 民が聴かんとするところであると思うのであります。(拍手) それ故にこの点につきましては総理大臣は申すに及ばず、関係大臣において出 来得る限りの説明を与えられたい。我々はもとより言えないことを聴こうとする のではない。外交上、軍事上、その他経済財政の関係におきましても、言えない ことがあることは能く承知しているのでありますから、言えないことを聴かんと するのではない。この議場において言えるだけの程度において、なるべく詳しく ご説明を願いたいと思うのであります。 最後に支那全体を対象として、今後の形勢について政府の意見を聴いておきた いことがある。申すまでもなく支那は非常な大国であります。その面積におきま しても日本全土の十五倍に上っている、五億に近い人口を有している。我国の占 領地域が日本全土の二倍半であるとするならば、まだ十二倍半の領土が支那に残 されているのであります。この広大なるところの領土に加うるに、これに相当す るところの人口をもってして、これを統轄するところの力を有する者でなければ、 支那の将来を担って立つことは出来ない。近く現われんとするところの新政府は これだけの力があるのであるか。私ども如何に贔屓目に見ましても、この新政府 にこれだけの力があるとはどうも思えないのであります。 そうするとどうなるのでありますか。もし蒋介石を撃滅することが出来ないと するならば、これはもはや問題でない。よしこれを撃滅することが出来たとして も、その後はどうなる。新政府において支那を統一するところの力があるのであ りますか。あると言わるるならばその理由を私は承っておきたい。もしその確信 がないとせらるるならば、支那の将来はどうなるか。各所において政権が分立し て、互いに軋瞭して摩擦を起こす。新秩序の建設も何もあったものではないので あります。(拍手) そうしてかくのごとき状態が支那に起こるのは何が基であるかというと、つま り蒋政権を対手にしては一切の和平工作をやらない、即ち一昨年の一月十六日、 近衛内閣によって声明せられましたところの爾来国民政府を対手にせず、これに 原因しているものではないかと思うが、政府の所見は如何であるか。 しかしてもし今後この方針を固く守って進みますならば、表面においても裏面 においても、公式非公式を問わず、一切重慶政府を対手としてはならないのであ る。また我国がこれを対手とすることが出来ないのみならず、近く現われんとす るところの新政権も、断じて重慶政府を対手にすることは出来ないはずなのであ ります。我が日本は対手にしはしないが、新政府はこれを対手にしても宜いとい うことは、これは言われない。なぜならば新政府に対しては日本は干渉はしない が指導するのである。即ち新政府に対して日本は指導的立場に立っているのであ りまするから、もし新政府が重慶政府に向って何か交渉の途を開くと仮定致しま するならば、これは誰が見たところが日本の指導に基づくものに相違ないと思う。 また思われても仕方がないのであります。そうすると支那の将来はどうなるも のでありますか。いつまで経ってもこの現状をば精算することは出来ないと思わ れるのでありまするが、政府はこの点についてどういうお考えを持っておられる のでありますか、これもあわせて伺いたいのであります。(拍手) 私の質問は大体以上をもって終りを告げるのでありまするが、最後において一 言を残して、あわせて政府の所信を質しておきたいことかある。改めて申すまで もござりませぬが、支那事変は実に建国以来の大事件であります。建国以来二千 六百年、この間において我国は幾度か外国と事を構えたことはありまするけれど も、今回の事変のごとくその規模の広大なるもの、その犠牲の大なるものはない のであります。したがってこの事変が如何に処理せられ如何に解決せらるるかと いうことは、実に我が日本帝国の興廃の岐るるところであります。事変以来今日 に至るまで我々は言わねばならぬこと、論ぜねばならぬことはたくさんあるので ありまするが、これは言わない、これは論じないのであります。我々は今日に及 んで一切の過去を語らない、また過去を語る余裕もないのであります。一切の過 去を葬り去って、なるべく速やかに、なるべく有利有効に事変を処理し解決した い。これが全国民の偽りなき希望であると同時に、政府として執らねばならぬと ころの重大なる責任であるのであります。(拍手) 歴代の政府は国民に向ってしきりに精神運動を始めている。精神運動は極めて 大切でありまするが、精神運動だけで事変の解決は出来ないのである。いわんや この精神運動が国民の間にどれだけ徹底しているかということについては、この 際政府としても考え直さねばならぬことがあるのではないか。(拍手) 例えば国民精神総動員なるものがあります,この国費多端の際に当って、ずい ぶん巨額の費用を投じているのでありまするが、一体これは何をなしているので あるかは私どもには分らない。(拍手) この大事変を前に控えておりながら、この事変の目的はどこにあるかというこ とすらまだ普く国民の間には徹底しておらないようである。(「ヒヤヒヤ」拍手) 聞くところによれば、いつぞやある有名な老政治家か、演説会場において聴衆に 向って今度の戦争の目的は分らない、何のために戦争をしているのであるか自分 には分らない、諸君は分っているか、分っているならば聴かしてくれと言うたと ころが、満場の聴衆一人として答える者がなかったというのである。(笑声) ここが即ち政府として最も注意をせねばならぬ点であるのである。 ことに国 民精神に極めて重大なる関係を持っているものであって、歴代の政府か忘れてい るところの幾多の事柄があるのであります。例えば戦争に対するところの国民の 犠牲であります。いずれの時にあたりましても戦時に当って国民の犠牲は、決し て公平なるものではないのであります。即ち一方においては戦場において生命を 犠牲に供する、あるいは戦傷を負う、しからざるまでも悪戦苦闘してあらゆる苦 艱に耐える百万、二百万の軍隊がある。またたとえ戦場の外におりましても、戦 時経済の打撃を受けて、これまでの職業を失って社会の裏面に蹴落される者もど れだけあるか分らない。しかるに一方を見まするというと、この戦時経済の波に 乗って所謂殷賑産業なるものが勃興する。あるいは「インフレーシヨン」の影響 を受けて一攫千金はおろか、実に莫大なる暴利を獲得して、目に余るところの生 活状態を曝け出す者もどれだけあるか分らない。(拍手)戦時に当ってはやむを 得ないことではありますけれども、政府の局にある者は出来得る限りこの不公平 を調節せねばならぬのであります。 しかるにこの不公平なるところの事実を前におきながら、国民に向って精神運 動をやる。国民に向って緊張せよ、忍耐せよと迫る。国民は緊張するに相違ない。 忍耐するに相違ない。しかしながら国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の 能事ではない。(拍手)これと同時に政府自身においても真剣になり、真面目に なって、もって国事に当らねばならぬのではありませぬか。(「ヒヤヒヤ」拍手) しかるに歴代の政府は何をなしたか。事変以来歴代の政府は何をなしたか。 (「政党は何をした」[黙って聞け」と叫ぶ者あり) 二年有半の間において三なび内閣が辞職をする。政局の安定すら得られない。 こういうことでどうしてこの国難に当ることが出来るのであるか。畢竟するに政 府の首脳部に責任観念が欠けている。(拍手)身をもって国に尽すところの熱力 が足らないからであります。畏れ多くも組閣の大命を拝しながら、立憲の大義を 忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もな い。しかもその器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する。国民的支持を 欠いているから、何ごとにつけても自己の所信を断行するところの決心もなけれ ば勇気もない。姑息倫安、一日を弥縫するところの政治をやる。失敗するのは当 り前であります。(拍手) こういうことを繰り返している間において事変はますます進んで来る。内外の 情勢はいよいよ逼迫して来る。これが現時の状態であるのではありませぬか。こ れをどうするか、如何に始末をするか、朝野の政治家が考えねばならぬところは ここにあるのであります。 我々は遡って先輩政治家の跡を追想して見る必要がある。日清戦争はどうであ るか、日清戦争は伊藤内閣において始められて伊藤内閣において解決した。日露 戦争は桂内閣において始められて桂内閣が解決した。当時日比谷の焼打事件まで 起こりましたけれども、桂公は一身に国家の責任を背負うて、この事変を解決し て、しかる後に身を退かれたのであります。伊藤公といい、桂公といい、国に尽 すところの先輩政治家はかくのごときものである。しかるに事変以来の内閣は何 であるか。外においては十万の将兵が斃れているにかかわらず、内においてこの 事変の始末をつけなければならぬところの内閣、出る内閣も出る内閣も輔弼の重 責を誤って辞職をする、内閣は辞職をすれば責任は済むかは知れませぬが、事変 は解決はしない。護国の英霊は蘇らないのであります。(拍手)私は現内閣が歴 代内閣の失政を繰り返すことなかれと要求をしたいのであります。 事変以来我が国民は実に従順であります。言論の圧迫に遭って国民的意思、国 民的感情をも披瀝することが出来ない。ことに近年中央地方を通じて、全国に弥 漫しておりますところのかの官僚政治の弊害には、悲憤の涙を流しながらも黙々 として政府の命令に服従する。政府の統制に服従するのは何がためであるか、一 つは国を愛するためであります。また一つは政府が適当に事変を解決してくれる であろうことを期待しているがためである。 しかるにもし一朝この期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国 民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある。(拍手)しかもこのことが、 国民が選挙し国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならばなお忍 ぶべしといえども、事実全く反対の場合が起こったとしたならば、国民は実に失 望のどん底に蹴落とされるのであります。国を率いるところの政治家はここに目 を着けなければならぬ。 繰り返して申しまするが、事変処理はあらゆる政治問題を超越するところの極 めて重大なるところの問題であるのであります。内外の政治はことごとく支那事 変を中心として動いている。現にこの議会に現われて来まするところの予算でも、 増税でも、その他あらゆる法律案はいずれも直接間接に事変と関係をもたないも のはないでありましょう。それ故にその中心でありまするところの支那事変は如 何に処理せらるるものであるか、その処理せらるる内容は如何なるものであるか これが相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ないのである。私が 政府に向って質問する趣旨はここにあるのでありまするから、総理大臣はただ私 の質問に答えるばかりではなく、なお進んで積極的に支那事変処理に関するとこ ろの一切の抱負経綸を披瀝して、この議会を通して全国民の理解を求められんこ とを要求するのである。(拍手)
私の質問はこれをもって終りと致します。 (拍手)(発言する者あり)
議長(小山松寿君)野溝君にご注意致します。 (国務大臣米内光政君登壇) 国務大臣(米内光政君)お答致します, 支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります..政府はこの 方針に向って邁道せんとするものてあります。戦争と平和に関するご意見は能く 拝聴致しました,以下具体的問題についてお答を致します。 支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります汪 精衝氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同 じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、か つ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立発展を 極力援助せんとするものであります。(拍手) その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありま するが、新政府が出来上りまして、差当り重慶政府と対立関係となるということ は、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新 政府の傘下に入ることを期待するものであります。 次に国内問題でありまするが、政府は東亜新秩序建設の使命を全うせんがため に、鞏固なる決意のもとに手段を尽して断乎時局の解決を期している次第であり ます。この興亜の大事案を完成しまするためには、労務、物資、資金の各方面に 亘りまして、戦時体制を強化整備致しまして、国家の総力を挙げて、本問題処理 のために総合集中することが肝要てありまして、これがために真に挙国一致、不 抜の信念に基づきまする国民の理解と協力とを得ることが必要であると存ずる のであります、(拍手) (斎藤隆夫著「回顧七十年」中公文庫より)
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■2、無産政党政治家の戦争遂行協力責任
――三宅正一の思想と行動をめぐって
飯田 洋
─────────────────────────────────── ◇始めに 今回、オルタ編集部より三宅正一の戦時中における思想と行動を通じて無産政 党政治家の戦争遂行協力責任についての考察を書くようにという依頼を受けた。 恐らく、4月に、私の「農民運動家としての三宅正一 その思想と行動」(新風 舎刊)が上梓されたのに関連しての依頼であったと思う。三宅の活動は、大別す れば、 1)農民運動を中心にする社会運動 2)無産政党、日本社会党における政党活動 3)衆議院議員としての国会議員活動に分類出来るが、
当著は、表題が示す通り、三宅の農民運動家としての活動、特に新潟における 小作争議の指導を中心にしての三宅の活動とそれに関連した人達、とりわけ一般 民衆、農民がどのように反応し、評価したかを、私の手元にある未公開の資料や 生の証言を検証することによって三宅の実像を描くことを目的としたものである。 従って、編集部から与えられた課題の、戦中期における無産政党政治家の戦争遂 行協力責任については、今後の研究課題として僅かのスペースを割くにとどまっ ている。 確かに、戦前、戦中(本稿では、戦前、戦中、戦後という語句を使用する場合、 戦前とは1937年(昭和12年)7月の日中戦争勃発以前を、戦中とはそれ以後1945年 (昭和20年)8月第2次世界大戦終了までを、戦後とは、それ以後を示すものとす る)における農民運動の指導者の戦争体験を分析することは、彼らが目指した改 革と戦争遂行の係わりを明らかにするために不可欠である。しかしながら、これ らの研究は、最近やっと緒についたところで、具体的な検証は、まだまだ充分に はなされていない。 社会運動家として、また政治家として、戦前、戦中に三宅がくぐり抜けた試練 は、第2次世界大戦の暗い影であった。大戦中議席をもったことによる戦争遂行 協力責任については、同時代の政治家や思想家がそうであるように三宅も多くを 語っていないため、本人の考えを直接確かめるすべがないことも事実である。 私にとっては、このテーマは、上述したように次の研究課題である。戦時中に おける合法的無産政党の持つ役割と限界の中で、現実的政策の実現を第一義とし た現実主義政治家三宅正一の行動の分析、評価を通して、当時の社会状況におけ る無産政党政治家の戦争遂行責任問題についてこれから研究を進めたいと思って いる。 従って、本稿では、戦時中に三宅が関係したいくつかの運動の性格と三宅の係 わり方を挙げ、感想を述べるという問題提起の段階にとどまることになる。
◇三宅正一の経歴と研究対象としての意義 まず読者の理解を深めるために三宅の略歴を紹介する。 三宅正一 (1900〜1982年)岐阜県の素封家に生まれ、 1918年、早稲田大学政経学部卒。早稲田在学中から、和田巌、浅沼稲次郎らと 共に建設者同盟を創って社会運動に入り、卒業後、新潟県各地で小作争議を指 導する。 1922年、日本農民組合の結成に参加、労働農民党、日本労働党などの無産政党 の中央執行委員を歴任、 1936年、社会大衆党から衆議院議員に当選,以来15期。1942年の翼賛選挙に 非推薦で当選、 1946年の戦後第1回の総選挙には、戦時中「護国同志会」の結成に加わったこ とから、追放令には該当せずとされながら立候補該当者の証明を得られず立候 補を断念、 1949年の総選挙で、日本社会党から政界に復帰した。党内では、河上丈太郎派 に属し、一貫して党内右派・中間派としての道を歩み、1946年の分裂時は右派 社会党国対委員長、 1955年の左右両社会党統一の際は、準備委員長を務め統一に尽力した。晩年は 党長老として社会党副委員長(1968〜1970年)衆議院副議長(1976〜1979年) となり、まとめ役としての本領を発揮した。
このように三宅は、農民運動家としても、政党政治家としても、またその議会 活動に於いても、常に中心的存在であった。その意味で、農民運動指導者の動静 分析、戦時中の無産政党第一党であった社会大衆党の議会活動、農民運動指導者 の戦時下における政治行動の分析を行う際に最も対象として適した人物であると いえる。 しかしながら、これまでに公にされた三宅の自伝や伝記を見る限り、三宅の戦 中下における国家体制に対する姿勢、戦争遂行協力責任については、本人の口か らも、伝記の著者からもほとんど語られていない。 三宅著の自伝的社会運動史『幾山川を越えて 体で書いた社会運動史』(恒文社、 1966年)は、三宅と私が1963年から三年がかりでまとめたものであったが、三宅 から当時の運動の位置や個人の心境を聞きだすことは、殆ど出来なかった。 その結果,当書における総力戦体制下における状況の叙述は「一時は三十六名 の盛大さを誇った無産政党は全く凋落し、右翼軍国勢力の跳梁する中に肩身の狭 い存在を続けるにすぎなくなった。かくして無産政党は戦後の再建に至るまで全 く時流の潮流の中に埋没してしまった。」(1)としか書けなかった。 三宅個人としては、1943年、日本育英会の成立を成し遂げたことについての感 想として「私は、戦前、国会に議席を持った者として、多くの責任を感じなけれ ばならないことがあったと思うが、ただ育英制度を作ったことだけは、国民に対 する大きな貢献だったと思い、敗戦の責任についてもいささか慰めるところがあ る」〈2〉と述べている。 また、三宅の追悼伝記『三宅正一の生涯』において、最も三宅を知る一人であ る沼田政次は、太平洋戦争の試練について「これは、三宅正一ばかりではない。 戦争を生き抜いた全ての人々、特に、指導者として第一線にあった人々にとって、 夢魔にひとしい一時期であった。海外や刑務所の中にいて戦争反対を叫んだ人々 はいたが、大衆の中で公然と戦争反対を叫んで命を失った者のなかった日本にお いて、ことさら戦争協力者を見つけ出すことは、およそ空しい業であろう」(3) と述べて、真正面から三宅についての戦争遂行協力責任に触れることを避けてい る。 このように、自伝や伝記からは、直接三宅の心情を窺い知ることは不可能であ るので、三宅が係わったいくつかの運動を分析することによって、戦争遂行協力 責任について、考えてみたい。
◇産業組合運動の遂行 三宅は、「農政の神様」とよばれた石黒忠篤を中心とする新官僚グル−プによっ て推進された産業組合(現農協)運動に積極的に参加した。三宅の運動の中でも 最大の成果とされる1934年に完成をみた中越医療組合病院創立も産業組合運動の 一環として行われた。 産業組合は、農民組合が,第1次世界大戦以後、小作争議の激発を背景にして 結成され社会問題化するのに対応して、地主・小作間の階級宥和機関として新た な役割をもって農村に普及していった。産業組合運動は、その本務である農村へ の資金供給と流通過程の合理化によって「農民の大本たる隣保共助」(産業組合五 ヶ年計画)の精神を基に、村を単位とした組織化を図るものであり、その組織網 をバックに「農村中心人物」を軸として、民衆を国家建て直しという同方向へ動 員することを目的とした。いわば、戦時体制を整える役割を担った地主・小作間 の階級宥和機関であったことは事実である。そこには、頻発する小作争議により 農民運動が高揚するのを避けると同時に、体制側の反動的対応によって農民運動 のエネルギーをより反体制側に追いやるのを防止するという危機感があった。 新官僚が推進した農民経済推進運動、産業組合拡充運動への三宅の傾斜に対し ては批判もある。当時も、「産業組合運動は、小作組合の立場を捨てるものだ」と いう非難の声が左翼陣営から起こった。 三宅が、産業組合運動と連携を深めた理由の一つは選挙事情である。三宅が始 めて衆院選に立候補した1935年は、すでに農民運動のピークは過ぎており、農民 組合員数も、漸減しつつあった。従って、小作農民の票数だけでは,当選圏内に 遠く及ばないことは明らかであり、当選するためには、小作農民一辺倒にこだわ らず、中農層までの支持層の拡大は避けられない課題であった。しかしながら、 三宅の方針が選挙事情のみによって変化したとみるのは間違いで、やはり小作争 議の指導を通じての農民運動に原点があり、その上で従来の枠組みを越えて中農、 貧農を含めた幅広い運動を展開したと見るべきであろう。 政策の実現のためには既成政党(無産政党)の枠を越えても推進するという三 宅の姿勢と、同じく既成政党(政友、民政党)に飽き足らず社会民主主義的な政 策をもって国家革新を目指した新官僚がいわば、両極から歩み寄り接点を見出し たといえる。このように、三宅の産業組合による運動は、政策実現のための選択 でもあったが、彼の思想の中には、農本主義を基盤とする協同体による農村の自 立への志向があり、産業組合に対してもある種の共感を有していたと思われる。 なお、三宅と新官僚との関係については、前褐拙書『農民運動家としての三宅 正一』を参照されたい。 産業組合史の研究は農民運動史の研究にくらべて遅れている。したがって三宅 の医療組合、産業組合を推進する活動の意味についても充分に解明されていると は言いがたい。石黒を中心とする新官僚の目指したものが何であったかも同様で ある。農本思想をもった農政家といわれた石黒が、産業組合運動により、農村の 振興と自立を目指すことによって、当時の重化学工業の発達をもとに国家の威容 を高め、海外進出を目論んだ国策に対抗したということも充分考えられる。 今後、研究が進み、産業組合の果たした役割が明らかになれば、おのずと三宅 に対する新しい評価と批判もなされることになろう。
◇護国同志会への参加 三宅は、1943年に結成された院内交渉団体である護国同志会に参加した。その ことをもって三宅を戦争遂行協力者と看做す論がある。護国同志会は、しばしば 政党と誤解されているが、(例えば原彬久は『岸信介証言録』の中で「岸氏を 影の主役としてつくられた政党」としている)政治団体ではなく、院内交渉団体 として衆議院事務局に届けでた議員グループとして発足した。従って、綱領もな ければ、政策も規約もなかった。 旧社大党からは、三宅正一、川俣清音、杉山元次郎,前川正一などが参加,戦 後の保守有力者となる船田中、赤城宗徳等も参加した。構成分子もまちまちで、 もともと政治畑に育った人々のほか、軍人、官僚、翼賛壮年団、農協、町村長出 身者の寄り合い所帯であった。思想的には、国家主義者あり、民族主義者あり、 自由主義者あり、それに旧社大系の社会民主主義者が加わった。その中には、東 条内閣で商工大臣となり、東条と衝突してやめた岸信介をかついで岸新党を目論 む者もいた。共通していたのは、反政府的(反東条)、反翼賛会的性格である。議 員一人一人が、集団の枠にとらわれることなく、独自の立場で行動したといわれ る。従って、参加した人々の思惑は異なっており、当然のことながら、それぞれ の回顧録や伝記等にみられる護国同志会の性格づけも異なっている。研究者の見 解もまちまちで、護国同志会の統一的イメージを描くことはまだ困難である。 戦後の追放指定においても護国同志会は、追放該当の国家主義団体(D項)に 指定されず、三宅も個人として国家主義者(G項)としての追放該当者ではなか った。たたまたまこの会に、戦後A級戦犯の指定を受けた岸信介がいたことから、 この会を犠牲にして、他の多数議員を救済したともいわれている。 三宅は自伝『幾山河を越えて』の中でも護国同志会については、全く触れてい ない。その理由は明らかでないが、内心忸怩たるものがあったのは事実であろう。 ただ、参加の一つの理由が、東条の一党独裁による翼賛政治に対する反抗であっ たことは想像出来る。 護国同志会が結成された前年(1942年)東条首相は、戦争遂行のため、政府、 軍部に全面協力する議会を確立、議会を彼の独裁下に置く意図のもとに推薦候補 を選ぶいわゆる翼賛政治を実施した。推薦候補には選挙資金を与えるなどの全面 的援助を行う一方、非推薦候補には、警察の露骨な干渉を通じて徹底的弾圧が行 われた。「好まざるもの」として非推薦候補として闘った三宅はトップ当選を果 たした。この時の選挙について、三宅の長男新一は「翼賛選挙の際の人の集まり、 盛り上がりは、子供心にも興奮したもので、父の最も高揚した幸せな時代であっ た」と述懐している。生涯を通しての貧乏選挙の中で、多額のカンパが集まり、 唯一経済的に楽な選挙であった。国民の反東条の感情がいかに大きなのもであっ たかが分かる。保坂正康は、三宅の東条に対する感情を「左派社会党につながる 教条主義者が公式的に東条批判(帝国主義者とかファシストの親玉といった類の 言い方だが)を行うのとは質が全く異なっていた。むしろこうした公式的な東条 批判に欠けている"人間的な憎しみ“を三宅は代弁していた」として三宅を「真の 反東条派の歴史的存在」と書いている。(4) このような思想的立場にあった三宅の現実的な動きについて一つ一つここで検 討する余裕はないが、護国同志会に参加したことのみをもって戦争遂行協力者と 決め付ける論は拙速にすぎるといえよう。
◇農地制度改革同盟の結成 戦局の進展に伴う当局の弾圧により、農業団体が次々に消滅していく中で、三 宅を中心として、1939年11月に農民団体最後の生き残りを賭けて農地制度 改革同盟が結成された。そのことが、ファッショ的戦争遂行運動に組みしたとし ての批判がある。 当時、政府は、食糧増産確保のため生産者である農民の地位を保証する必要に 迫られ、農地調整法や小作料統制令など戦時統制を実施した。これによって農民 組合が多年要望して運動してきた小作条件の改善と土地制度の改革に一歩前進す る可能性が生じたとして農民組合議員を中心に「農地制度の合理的改革」を共同 の目的にした統一的政治運動を展開しようとして結成されたのが農地制度改革同 盟である。1940年に入り、農民組合は全て解散消滅したが、辛うじて政治活動を 許された農民運動関係議員を中心に結成された農地制度改革同盟のみが、唯一の 運動組織として残った。 社会民主主義農民運動と右翼農民運動の統一戦線といわれ、最後の農民団体と してその存在を続けたが、太平洋戦争の勃発によって、1942年、東条内閣により 解散させられた。「その根本思想は社会主義に発し、その性格並びに運動形態は 階級的闘争的」というのがその理由であった。当時の軍部政治が戦時下の農民組 織の存在を如何に敵視したかが窺い知れる。 農地制度改革同盟については、研究者の間でも、ファッショ的戦争遂行団体で あるとする一方で、時局を利用して、地主的土地所有解体を促進したとするもの もあり、評価はまだ定まっていない。 なお、三宅は、三輪壽壮とともに1940年12月、方針をめぐっての内部お意見 の違いを理由に同盟の解散を提唱し、その後自ら離脱している。三宅の発言によ れば、「同盟の存在が、近衛新体制促進を阻害するものであれば、解散もやむを 得ない」とう理由からであった。三宅の近衛新体制に対する見方を示すもので、 興味があるが、ここでそれを分析する材料はまだ持ち合わせていない。 以上、産業組合、護国同志会、農地制度改革同盟と三宅の係わりについて述べ てきたが、それだけからも分かるように未だ運動の評価は定まっていない。更に、 運動における三宅の役割を検討するためには、資料を綿密に分析することが必要 であるが、それは今後の課題として、本稿では事実を羅列するにとどめたい。 これらの運動については、多くの資料が残されている。その中には関係者に関 する著作や論調、大会などの声明書や発言の議事録の類や、特高なども含む当局 側の資料など多種にわたる。これ等の資料を丹念に分析することが必要であるこ とは言うまでもないが,注意しなければならないのは、それらの資料が必ずしも 真実を伝えているとは限らないということである。 特に戦時中の弾圧と言論統制の中で活動した運動当時者の発言や著作などには、 やむを得ず真意とは異なった表現をしているものも多い、例えば、三宅は、育英 制度の建議案提出の際の説明で「大東亜全域に指導者を送りだすために」と述べ たが、これは、あくまで当時の情勢の中で法案を成立させるためのカモフラージ ュで、真の狙いは、教育の機会均等の実現にあった。この事実は多くの関係者が 後に証言しており、三宅自身も、「こうした社会主義的な案を露骨に提出すること は出来ない。そのために、戦争への協力のための動員計画として表面を粉飾した」 と述懐している。 研究書の中には、資料の文言をそのまま根拠にして結論を導き出しているもの も散見するが、その裏側に潜んでいる事実や真意を資料の紙背や行間から読み取 るという緻密な作業が必要であろう。
◇結び
三宅は、すぐれて現実的な政治家であった。「政策を実現するのが本当の革新 なのだ」を口癖にした三宅は、既成政党の枠にとどまらず、時には、大胆な妥協 すら厭わなかった。このことが、軍部や保守政党との妥協のそしりを受け、時と して戦争遂行協力責任を問われる一つの根拠となっているといえる。 保坂正康は、三宅が1973年に著した『激動期の日本社会運動史』について「麻 生久、浅沼稲次郎、賀川豊彦など、いわゆる社会党右派者につらなる自からの同 志やその足跡を改めて検討しているのだが、それはとりもなおさず自らの政治的 立場を確認しようと試みている書ともいえる」と述べて、三宅の現実性を実証し ている。この中で三宅は、麻生の「戦争反対をこのまま進めればわれわれは殺さ れるであろう。殺されることは、すでに覚悟しているところだが、ただ、下手な 戦術を取って無為に殺されるのではなく、納得のいくやりかたで、出来るだけの ことをやって死にたい」という言葉を引用した上で、「無産階級の解放と無産政 党の結集こそ麻生の生涯を貫く政治目標で、そのために麻生にとっては柔軟な現 実主義こそ必要だったのだ」と述べている。保坂は、三宅が麻生に託して語った 「権力のしめつけが厳しければ厳しいほど、それに対応する戦術は柔軟でなけれ ばならない」という言葉は、三宅自らの考えであったのだろうとしている。(5) それを「仕方なしの協力」とみなすか、「ギリギリの抵抗」と見るかは、論が 分かれるところであろう。 河上民雄は、「三宅を含む日労系の政治家は、麻生の影響もあり、多くが翼賛会 に走り、戦後追放で数年間のブランクを持った。そのことで、彼らには、他の左 翼指導者と異なって,悔恨と贖罪の意識が強く、戦後の時代を先取りする革新と しての明るさの中に、何か暗い影のようなものをひきずっていたような気がする」 と述べている。 三宅に限らず、戦争を生き抜いてきた人達、とりわけ指導者として政治の第一 線にあった政治家の戦争遂行責任を追及することは、非常に難しいといわざるを 得ない。 坂野潤冶の「歴史を『結果』から後知恵的に解釈すると、国民的支持をある程 度得るのに成功した勢力は、すべて戦争協力者として糾弾されかねない。反対に、 左翼的言動に陶酔して国民的支持に失敗し、逮捕され投獄された人々のみが英雄 視されることになる」(6)という言葉は、この問題を考える重要な方向を示唆し ているといえよう。その視点に立って坂野は、戦中における社会大衆党の躍進を 戦後日本社会党の歴史的基盤(日本における社会民主主義の伝統)として捉えそ の意義を問い直す必要があると主張している。この問題については、いずれ稿を 改めて考察したいと思う。
(1)三宅正一『幾山河を越えて』(恒文社、1966年9月)p295 (2)日本育英会編『日本育英会二十年記念誌』(日本育英会、1964年3月)p192 (3)三宅正一追悼刊行会編『三宅正一の生涯』(三宅正一追悼刊行会、1983年10月)
p333 (4)保坂正康『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社、2004年12月)p315 (5)同書 p316,318 (6)坂野潤冶『昭和史の決定的瞬間』(筑摩書房、2004年2月)p173 (筆者は元パラマウントベット(株)専務・立教大学大学院法学研究科政治学専攻在籍)
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■3、藤田若雄の足跡をたどって
--労働組合研究と無教会キリスト教--
木村 寛 ─────────────────────────────────── ◇1.はじめに
知る人ぞ知る藤田若雄(1912〜1977)について簡単な素描を描いてみ たい。藤田は矢内原忠雄門下の三世代目(内村鑑三から数えて)無教会キリスト 者であった。彼には二つの著作集、労働組合研究の『藤田若雄著作集』1983 (三一書房)全四巻と、『藤田若雄キリスト教社会思想著作集』1983(木鐸 社)全四巻とがある。藤田に関する研究書には大河原礼三『藤田若雄研究ノート』 −キリスト教社会思想の探求−2000(木鐸社)がある。 心情的傾向の強い無教会キリスト教の中にあって、藤田の特徴は労働組合の調 査研究を自身の職業課題(東京大学社会科学研究所)としたことであり、これは 敗戦直後の住友鉱業における職員組合の委員長(1946.1.10から退職 (1947.5)まで)としての原体験に始まる。この原点は矢内原門下の誰も 持っていないだけでなく、無教会の中で探したとしても皆無であろう。藤田の親 友渡部美代治は「貧者弱者に対する本能的同情を藤田が持っていた」と記してい る(『藤田』192頁)。 藤田は「無教会信徒の世代的差異」(『信仰と生活の中から』1958、東京大 学出版会、東京大学聖書研究会による矢内原への献呈文集、『キリスト教著作集』 第一巻80頁、藤田『矢内原忠雄』1967、教文館193頁にも所収)の中で、 「無教会の人々が労働組合運動に反感を持ちつつ資本家の政策に順応してきた」 と批判する(原島圭二『三一著作集』第三巻月報)。 藤田は信仰は信仰、職場は職場と分けて器用に生きるキリスト者(藤田はこれ を「人格分裂」と言う)を嫌った。藤田は信仰によって生涯を貫く人生を求め続 けた(矢内原五周年記念キリスト教講演会、1966「礎をすえるもの」、同名の 本所収72頁、1970、福村出版、『革新の原点とはなにか』1970、三一書 房付録2、172頁、『三一著作集』第一巻81頁にも所収)。それだけが日本に 礎をすえることができると確信していたからにほかならない。藤田は自分の集ま りの中に農民や現場労働者が参加していることを誇りにしていた。 藤田の主張は「職場で重荷を負え」であった(『三一著作集』第四巻の月報、拙 稿「支配の構造が見えてきたか」)。こういう明確な主張(ある意味で宣教)を打 ち出した教会人あるいは無教会人がかつて居ただろうか?このメッセージは職場 (労働組合問題)と重荷(キリスト教的理解)とが緊密に結合したものであり、 三世代目無教会キリスト者として課題を限定した藤田の真骨頂を示している。藤 田は誰よりも実践的であった。 「生きた宗教性(私見、ポテンシャル)は生きたエートスを作り出そうとする」 (マルチン・ブーバー『隠れた神』著作集第五巻、三谷、山本、水垣訳、196 8、みすず書房132頁、なおこの箇所の教示は稲村秀一『マルチン・ブーバー の研究』2004、渓水社228頁による)ことから言えば、藤田の信仰には生 きたエートスを生み出すものが濃厚にあった。 労働者にとって職場はある意味で「戦場」ではないのだろうか。「職場に労働組 合を」というのが戦後労働運動のスローガンだった。 松沢弘陽(丸山真男門下)によれば、「藤田の職場という言葉には「イエス・キ リストに従って十字架を負う生き方と、この世の秩序や利害関係とが、最も深く 抜き差しならぬ形でぶつかりあう場」という意味が終始はっきりしていた。別な 面からいえばそれは、日本の知的風土に根強い抽象的一般論崇拝、自分が立って いる足元の具体的問題における鈍感・無責任・逃避という傾向に対する鋭い批判 を含んでいた」(『職業』199頁)。 藤田は労働組合の実態調査を行ってその中から現実把握と進路をつかみ取る方 法論を駆使してきたから(ある意味で実験屋)、「大塚史学は後ろ向きじゃ」と 罵るように甥の若い伊藤邦幸に言い聞かせた(伊藤『藤田』302頁)のもうな ずける。 藤田は『労働組合運動の転換』(1968、日本評論社)から『革新の原点とは 何か』(1970、三一書房)で、「誓約集団論」を主張する。一方で「内村鑑三 を継承した無教会二代目の人たち」の戦争中の言動に対してキリスト教社会思想 的研究を有志たちと行ない、藤田編著『内村鑑三を継承した人々』上『敗戦の神 義論』、下『十五年戦争と無教会二代目』1977(木鐸社)が没後出版された。 この本は無教会の中で好評をもって迎えられなかったらしい。 無教会は師弟関 係を中心とするから、自分の師を批判しないという暗黙の了解が日本的雰囲気と してある(自分に合わないと思えば離れる自由はある)。しかし藤田は無教会のタ ブーめいたこの一点を突破しないと無教会に前進はないと見ていた。 信仰者の言動がいくら心情的純粋性に基づくものであるとしても、それが持つ 社会思想的側面を覆い隠すことはできない。二代目無教会キリスト者の人たちも また、この思想史からの問いかけに対して自由ではありえない。信仰の世界は現 実世界から遊離したものではなくて、少なくともその世界の一部は現実世界の中 に貫入しているからである。 「心情倫理(私註:信仰の世界の主観的意図)と責任倫理(私註:現実世界に おける客観的成果への責任)のかい離という二律背反に耐えて、矛盾なく生きよ うとすると非常に難しいのです」と中村勝己は言う(『現代とはどういう時代か』 2005、江ノ電沿線新聞社、68頁)。
◇2.労働組合研究 戦後、雨後の竹の子のように発生した「労働組合」の実態を明らかにする研究 が東京大学社会科学研究所を中心に行われた。1950年代の労働組合論につい ては、氏原正治郎が『藤田』(40〜125頁)にまとめている。 その調査に参加していた藤田には労働組合での「原体験」があった。「住友鉱業 で敗戦を迎えた藤田は、戦後の動乱期に職員組合委員長として大活躍をし・・・ そうこうしているうちに藤田の動きはけしからんという動きが係長の中から出た。 会社の考えは藤田は係長だから、会社を助けて鉱員組合を負けさせるべきだ。し かるに中立面して鉱員組合を勝たした。会社側は勝てるのに藤田が居たばかりに 勝てなかったということから、私の悪口を言うのがたくさん出てきたのです。課 長や係長が本社の石炭系最高重役(専務)に訴えて藤田追放が始まるのです。・・・
突然、第二組合が旗上げした。調べさせたら、職員組合員のほとんどが向こうに 行っている。大変びっくりした。それから戦いが始まるが、結局私は勝ったので す。十月闘争と二・一ストへ世の中が昂揚していく波に乗っていたからね。その 時に、以前に見ていた忠誠と反逆が、組合運動の中ではどういうふうに出てくる かがはっきり見えたのです。(藤田『第二組合』1955、日本評論社参照)・・・ しかしその時ひそかに辞職を決意した。私を傷つけまいとして安井富士三さんは ずいぶん苦労したようでした。私はこの人に対してはっきり責任を取ろうと考え た。1947年5月住友鉱業退職」。(『回想』154〜157頁) 1949年3月東京大学社会科学研究所に就職する(36歳)。 1959年、大河内一男、氏原正治郎、藤田の共著『労働組合の構造と機能』 東京大学出版会が出版されるが、この本の序章「理論仮説と調査方法」は藤田が 執筆したものである。「年功制度」は藤田の造語であった。 1961年5月に同出版会から出版された藤田の『日本労働協約論』は信仰の 師矢内原忠雄に献呈された。 松沢によれば、「東京大学社会科学研究所の同僚の間でも学界でも、藤田はしば しば軽んじられていた。学界のタブー−例えば労働運動や学界への日本共産党の 介入とその責任のごまかし−にも遠慮なく踏み込むために、忌避されることも稀 ではなかった。そのような評価を受けながらまた万年講師という不利な条件に置 かれながら、一貫した関心で多くの仕事が産み出されている事実に私は驚き、学 界で羽振りがよく藤田を軽んじる人々と、どちらが真の意味で学問的に生産的か、 いずれ事実が証明するだろうと思った」(『職業』196頁)。 鼓肇雄によれば、「藤田さんは自分の方法論を確立するに当たって、マックス・ ヴェーバーの方法論を大いに参考にされたようである。しかし、藤田さんはこの ことをひた隠しに隠していた。マルクスの理論が自明の前提となっている労働問 題研究者の間でヴェーバーなど持ち出したら、村八分の目にあうだろうという、 藤田さん独特の被害者意識が強く働いていたのではないかと思う。私が「先生の 方法論はヴェーバーでしょう」と言った時、藤田さんはいささかショックのよう であったが、それからは観念してか、ヴェーバーに依拠していることを積極的に 表明されるようになった。誓約集団、キルヘとゼクテについて、晩年の藤田さん は情熱を込めて語った」(『藤田』149頁)。 高橋克嘉によれば(『イギリス労働組合主義の研究』1984,日本評論社、序 章)、 「大河内一男らによる一連の調査から「企業別組合」が発見され、西欧の労働 組合を念頭においていた労働組合法制定に関係した人たちにとって思いがけない 驚きであったろうが、・・・ここで注目すべきことは、すでにこの日本的労働組合 の発見の当初から、大河内氏がこの「企業別組合」につきまとう旧い身分的観念 や経営に対する物的依存を組合の未成熟とみて、当面の組合に(政治活動への進 出や「街頭化」への傾向の前に)「何よりもまず労働組合活動における近代的精神 を打ち樹てる」ことを求めていたことである。 日本の「企業別組合」に対して、組合思想から迫って、これを克服しようとす るこの視点(*)は、1960年代末の藤田若雄氏による「誓約集団」論にその 系譜をたどることができる。(*:清水慎三編著『戦後労働組合運動史論−企業社 会超克の視座』1982、日本評論社)」。 藤田の言葉で言えば(『時論』133頁)、「私は『革新の原点とはなにか』とい う書物で、革新の原点は誓約集団であることを言い、日本の革新運動が戦後華々 しく見えたが、今日腐敗しているのは組織の基本原理が丸がかえ組織原理である からだとした。・・・日本の革新運動は、日本の前近代的なものに深くおかされて いることを知った。そこで、私は戦後における前近代的なるものの再生を追及し た。それは日本における前近代的なるものを崩す条件を明らかにするためでもあ った。」。 「誓約集団という語は、私の用語のように言われている。しかし、これほど理 解されずに使用されたり、反対されている用語はないであろう。・・・私が誓約集 団という語にもたせようとする意味内容は我々の日常の生活関係には極めて異質 なためであろうと思う。英米はピュリタン革命でゼクテの社会的基礎が置かれた」。 (『時論』173頁、1971) 中村勝己の『前掲書』28頁によれば、「クエーカー(私註:17世紀の中頃イ ギリスに起こったキリスト教のゼクテの一つで、良心的兵役拒否を主張した、牧 師のいない集会を持つ)の影響が今でも強い(イギリスの)湖水地方の小さな村 を訪ねますと、何でもない普通の住宅のような建物の入口の上に「クエーカーズ・ ミーティングハウス」と書いてある」と出てくる。この存在の歴史的重みは何と 言えばよいのだろうか。 1973年にあいついで出版された藤田の『日本労働法論』木鐸社と『日本労 働争議法論』東京大学出版会に対する若手研究者らによる研究討論の記録は渡辺 章により、『東京学芸大学紀要』第三部門社会科学第31集、1980、1〜31 頁にまとめられている。 藤田の労働組合研究は晩年にはその法的整合性構造を明らかにすることに注が れたとはいえ、一方で現実の職場に存在する労働組合の可能性の探求にも向けら れていた。三菱長崎造船の「社研」(1960年に発足)の活動記録が『新左翼労 働運動の10年』I、II、『左翼少数派労働運動』(1970、三一書房)として 藤田も編者として加わった形で出版された。社研の活動はその後「第三組合」と して登場するが、従来の第一組合、第二組合(御用組合)という理解の枠からは み出した新しい「思想別組合」の可能性を示したと言える。 藤田が清水一と編集していた『労働問題研究』(亜紀書房1970〜1974) は「既成革新からの離脱」、「総評のゆくえ」、「新左翼の労働組合論」、「続 新左翼の労働組合論」、「労働運動の合法的領域」、「春闘方式の止揚をめざし て」と今後の実践的活動の方向を目指したものであった。
◇3.補論、私の労働組合体験 1960年、工業高校卒業後に就職した堺化学には「臨時工」が居た。同じ村 の一年上の人が臨時工のつらさを私に少し話したので、入社感想文に臨時工政策 はけしからんというふうなことを書いたら、一月で解雇されることになった。 同年12月に就職した三菱電機の中央研究所にも臨時工は居た。当時の労働組 合は臨時工の本工化を運動目標にしており、三年間の低賃金に堪えた人たちは本 工になった。臨時工期間は勤続年数に加えられた。こういう運動目標がうまく達 成できた事情には企業が右肩上がりの成長を続けていたことも大きかったと思わ れる。 1969年4月28日、社外の政治活動によって逮捕された従業員(反戦青年 委員会のメンバー)に対して、企業が企業内の就業規則を持ち出して懲戒解雇を 打ち出した(同年5月26日、「前原事件」、『季刊労働法』1976年夏季号76 頁、横井芳弘ほか「企業外政治活動と懲戒解雇」参照)。支部段階では支部執行部 が懲戒解雇に対して異議申立をする予定であったが、支部委員会(職場委員によ る決議機関)にはかると執行部に対処を一任する案が15対14で否決され、そ の後の票決(無記名投票)では19対10で異議申立が否決され、結果的に労働 組合は懲戒解雇を追認することになった。他支部(同じ敷地内)のこととはいえ、 ユニオンショップの労働組合で、組合員が労働組合によって切られることに私は 納得できなかった。門前では新左翼の人たちがビラマキをしていた。 藤田先生に手紙を出したら、『労働通信』(藤田により1966年発刊されたガ リ版同人誌)と東芝茨木工場に勤める浅田隆正さん(「キリスト同信会」の教役者 二代を続けた人の息子で無教会キリスト者)を紹介された。浅田さんの紹介で、 甲南大学経済学部の熊沢誠教授が主催されていた「労働分析研究会」に数年間参 加し、熊沢誠編著『働く日常の自治』1982、田畑書店に浅田さんと私が自分 たちの職場体験を踏まえた補論、「ベルトコンベアの職場と労働」(202頁)と 「日本の労働者の自立」(184頁)を書くことになった。浅田さん自身、『喜望 峰』というミニコミ新聞を自分で編集し、会社前で配っていた。熊沢教授は藤田 の問題意識を継承したような側面を持つ研究者である。 前原事件以後、私は7 年間大会代議員に匿名に近い立候補をしたり(立ち会い演説会以外の選挙運動は しない)、一票差で当選した支部委員(職場委員)を一年間勤めた。 電機労連ではその後、沖電気で18年ぶりの「指名解雇」が打ち出されたが(1 978年、78名)、沖電気労組の「ことは済んだ」という声明と沖電気労組の独 立性を尊重するという電気労連の美しい大義名分の下に指名解雇者が切り捨てら れた。労働者にとっての悪夢の復活。 50歳近くなって受験した係長待遇試験 には合格したが(それ以前、三歳年下の養成工の人の給料の方が自分よりも高か ったらしい)、課長待遇試験を三人が受け、私だけが落とされた。社外発表論文の 数も登録特許の数も合格した二人(一人は私より10歳年下の工業高校卒)より は、私の方が三倍以上は多いと思うが、企業の持つ「底無しの不合理性」を見た 思いがした。博士号を持つのは私だけだったから、アメリカ人が聞いたら飛び上 がるほどびっくりするだろう。雑誌『世界』に「歯止めなき企業内差別」を投稿 したら採用された(1994年5月号20頁)。当時の部長は今、社長になってい る。 藤田が「先任権の確立」(昇格はトコロテン式に勤続年数順とする)を主張した ことはわかる。結局労働組合がそれを確立できなかった。査定が企業側にしっか りと握られている以上、労働組合員は大きな不利益を覚悟せずに自分の考える方 向の労働運動を展開することができない。御用組合を内側から批判しようとする だけでどれだけのものを失うか、私の体験は小さな一例に過ぎないのだが、よほ どの決心がないと普通の労働者にこんなことはできないだろう。職場でただ黙っ ていさえすれば失わずに済むのだから。前原事件が起きた時、誰だったか「会社 の聖書研究会は何も言わないのか?」と私に尋ねた人が居た。もの言えば唇寒し 秋の風。 たまたま私は中立と言われる電機労連の一労働組合組織の中で、その堕落ぶり を目撃してきたわけであるが、時代の変化はいつも「中立と思われている存在」 の中で初めに生じるのではなかろうか。ドイツのナチを分析した住谷一彦は親ナ チ、反ナチのほかに、非ナチという「耐え抜く思想を持った中間層」を想定して いるが(住谷一彦『思想史としての現代』1974、筑摩書房中の「バビロン捕 囚」)、この層は歯止めとしてのなんらかの思想を持たない限り浮草的存在である 気がする。普通の日本人はいったい「何を媒介として」、また「どこで」労働組合 の魂(精神)を学ぶことができるのだろうか。 研究所支部には田中豊という教会員の活動家(大正初め頃の生まれ)が居た。 日本キリスト教団の職域伝道の一つの試みとして新聞『働く人』が1958年に 発刊されたが、彼は数十部購入して若手に配っていた。 1964年から全国のキリスト者組合活動家が年に一回集まるようになり、キリ スト者の組合活動家延べ400名に知り合ったと戸村政博が書いている(『藤田』 235頁)。彼らはその後どうなったのだろうか? 藤田に指導を受けた『労働通信』では、会員の大河原礼三が進学高校内でおき た学園闘争で生徒たちの問題提起を受け止めようとして、教員集団から村八分に され、「自宅待機」扱いを受け、半ば強制的に同じ学校の定時制に移された(大河 原『われらの課題』−矢内原十周年記念文集−1971、41頁)。彼の編著とし てその後『日比谷高校闘争と一教員・生徒の歩み』1973、現代書館が出る。 労働組合の役員になるのと、会社側推薦の市議会議員になるのは二つの出世コ ースだと思う。尼崎市議会の「カラ出張」に連座して辞職した旧社会党員の人間 が営業所の片隅で所在気なく机に座っている姿を目撃した時には地に堕ちた革新 のエートスを見た思いがした。 私の体験の結論として、労働組合運動が明確な「二つの歯止め」(役員層人間の 思想的歯止めと組合組織の構造的歯止め(熊沢編著『前掲書』拙稿190頁「労 働組合組織の構造」))を持っていない以上、時代の変化にずるずると流されてい くのは当然であり、その歯止めを堅持するのが「誓約集団」としての活動家集団 (前衛)だと思うし、それは労働組合の中にいくつ併存してもいいと思う(藤田 『革新の原点とはなにか』115頁には、三菱長崎造船の第一組合(〜800人) の中に社研セクト、共産セクト、社会セクトの三つがあり、それぞれがメンバー とシンパ層をかかえ、その上それ以外の反刷同闘争支持者層を含んだ図があげら れている)。 現代ほどまともな労働組合を必要とする時代はない。藤田は「・・・高度経済 成長の下では生活自体が豊かになるから、労働組合運動の解決が不毛であっても 大して問題にはならない。しかし高度経済成長が終えんし、労働者の生活が雇用 不安におびやかされるようになってくるとすれば、「イギリスへの関心を呼びお こす」ことで足りるであろうか。・・・我が国の労働問題研究者(法と経済を含 めて)や労働運動家が断固として固執している考え方は、「階級的観点」である。 階級的観点が直ちに悪いことにはならないが、階級的観点に立つ人が事実を十分 につかみ出さないことが問題なのである。 かくて筆者(藤田)は、西欧における誓約集団的労働組合を一の典型と考えると 共に、これに対しソ連・日本・東南アジアの諸国のいわゆる労働組合を非決断丸 抱え組織として典型化しこの二つの組織の運動法則を探求することが不可欠と考 える。これらがいかなる外的条件の下でそれに固有な爆発的な力を噴出するもの であるかは二つの集団の過去における活動の歴史を知る以外にない。・・・ 学際的な手法を採用するのでなければならない。
古い時代の素材を今日の問題の解決に役立てることを可能にするのは、その人の 構想力による以外にない。・・・この種の学問ということになれば、今日生まれつ つある平和学のごときものであろう。これからの労働組合活動は従来のような経 済学や法律学のみでなしに、平和学を運動の基礎に持つことによってのみ起死回 生の道を開拓することができる」(『時論』284頁「労働組合運動は平和学の上 に立て」、『総評新聞』1975)。
◇4.キリスト教への取り組み 1912年北海道の小作農家に生まれた藤田は滝川中学を卒業後、1930年 大阪高等学校に入学(竹内好は二年上)、四国の平尾権之助宅で結核の療養中に矢 内原に出会い、復学後大阪の無教会キリスト者黒崎幸吉の集会に通う。1933 年、矢内原の内村鑑三記念キリスト教講演「悲哀の人」を大阪で聞き、また彼の 個人伝道冊子『通信』(創刊は1932年11月)の読者となった。1934年東 京帝国大学法学部に進学、矢内原の集会に通う。 1933年3月には無教会の政池仁が平和論のため静岡高校教授を辞職し、1 936年9月に『キリスト教平和論』を出版。
§戦前(1)、日中戦争勃発(1937年7月〜) 1937年4月藤田は大学を卒業し、産業組合中央金庫に就職。1940年に は産青連支部委員長となり、矢内原の指導で集会の伊藤時子(伊藤祐之の妹)と 結婚。矢内原のキリスト教講演会の設営をしたり、自分たちの集会を作ったりし ていた。 1937年は国内の締め付けが厳しくなった年であった。矢内原の論文「国家 の理想」(『中央公論』9月号)が全文削除。また矢内原の鳥取大山聖書講習会の 参加者たちが調べられ、鳥取の藤沢武義は3ケ月留置(藤沢の『求道』廃刊)。東 京での藤井武7周年記念講演会の講演をのせた金沢常雄の『信望愛』、伊藤祐之の 『新シオン』、矢内原の『通信』が発売禁止、金沢と伊藤が検事局の取り調べを受 けた。同年12月、矢内原は先の論文「国家の理想」を追及され東京帝国大学教 授を辞職(大河原礼三『矢内原事件50年』1987、木鐸社参照)。矢内原は『 通信』を『嘉信』に変更(1938年1月)。 政池の『キリスト教平和論』第二版は1937年10月直ちに発売禁止、更に 1938年6月に罰金(120円)。 藤田の1938年『葡萄』(矢内原集会の文集)の「平信徒の信仰」(『キリス ト教著作集』第一巻17頁)は彼の信仰の特質と立脚点のすべてが明瞭に述べら れている気がする。 「我々は今どのような時代に住んでいるのでしようか。大きな過渡期に住んで いると言えましょう。国の内にはくびき負うもののしん吟と、国の外には流され た血の叫びを聞きます。自由平等の旗の下に建設せられた社会も今は隷属と貧富 の懸隔を見るばかりです。再び自由と平等とが主張されねばなりません。世の中 のことは世の中のこととしてどうして棄てておくことができましょう。信仰はこ ういう世の中の状態を見て、被抑圧者・隷属者に自由と平等を与えようとする熱 心と勇気を興すものであると思います。かかる精神に把握せられた社会科学の知 識は有力な武器であります。もし信仰にこういう方面が無いとしたら、信仰は確 かに支配階級に奉仕するものです。国民の罪の赦を神様にお祈りすることも同様 な信仰の作用だと思います。信仰にはこういう方面がある。 これも戦闘的信仰です。こういう信仰を持って社会の一局部を担当しているのが 凡人の社会生活です」。 ここには現実を突き放してしっかりと見据える精神(『時論』55頁「対象化す ること」)と、社会科学の知識が有力であることが明記されている。人が現実にか かわろうとした場合、イデオロギーでない最低の社会科学的知識が必要なことは 言うまでもない。 この短文の前半には既に「継承」が構想されている。継承は 続く世代の実践的課題にほかならない。「我々が信仰を護って次の時代に渡すと いう公の義務を負っています。信仰の本質を次の時代に渡すということです。キ リスト者であるということだけで世間の人に容れられない。だけれども我々は信 仰を護らねばならぬ。キリスト者たることは一面戦であります」。 1939年の『葡萄』に「戦闘的平和論」を投稿する(『同上著作集』19頁、 藤田『矢内原忠雄』181頁所収)。これは非戦論、階級関係、神に対する平和、 結論と分けられ、非戦論の中にははっきりと「戦争は直接的暴力による生命の殺 りくである」、・・・「我らは更に暴力を否定する」、・・・「我らは生命の殺 りくと暴力との故に戦争一般を否定する」、・・・「従軍は思想として戦争を是 認したということには絶対なり得ない」と書かれている。 内村鑑三の非戦論は「非戦主義者の戦死」という形をとる。本人の兵役拒否は 代人を生み出すだけだというのである。内村の『聖書之研究』読者、花巻の斎藤 宗次郎への非戦論をめぐる常識的忠告(斎藤による言葉として、1)自身の不運、 2)家族同志らへの迷惑、3)聖書の曲解)は有名である(1903.12.1 9)。しかしその日の午後、斎藤との散歩中に内村は「もし、良心の命令であるな らばやりたまえ」と言ったという(『時論』406頁)。 矢内原も「国法に従って国民の罪を負って戦死する」という。矢内原には若い 集会会員の入隊が切迫した問題としてあった。その一人秋山宗三はガダルカナル 島で1942年10月に戦死する。海軍航空隊で約一年間軍務に服した矢内原集 会の中村勝己は、友人に「君は日本軍の手でよく殺されなかったな」と言われた (中村『前掲書』222頁)。藤田には1939年9月に招集がきたが、肺結核の 病歴のため即日帰郷となった。しかし当時、藤田は矢内原に「戦場で死ねと言わ れた時、戦場で自分一人の責任で反戦行動をとって死ぬことだと理解した」とあ る(『時論』404頁)。後年になって藤田は、「この内村・矢内原の戦争に関する 考え方は極めて日本教的であろうかと思う」と述べている(藤田『時論』178 頁、「戦場で死ぬということ」1971)。 非戦論は単純に言えば、旧約聖書のモーセの十戒「汝殺すなかれ」からストレ ートに出てくる。内村や矢内原が、なぜこのような屈折した思案をしてまで、国 法順守を優先させようとしたのか、私には絶対天皇制からの呪縛であるとしか考 えることができない。なお藤田の「内村・矢内原の非戦論」『時論』400頁、1 974では、「内村の神中心の非戦論(しょく罪死)から抵抗権の思想は出てこな い」と言い切っている。後年、藤田は内村・矢内原の考え方と良心的兵役拒否と を併置して考えるようになった(『回想』148頁)。 1939年6月、灯台社の人たちの一斉検挙が行われた。 1940年8月、大阪の黒崎幸吉の『永遠の生命』が痛烈なヒットラー批判記 事のため、発行停止(廃刊)。 プロテスタント各派の合同による「日本キリスト教団」創立は1941年6月 である。同年9月にはプリマス・ブレズレンの指導者六名が検挙された。
§戦前(2)、太平洋戦争の開始(1941年12月〜) 藤田は1941年12月には活動の困難さ(産青連の活動家はみんな逮捕され、 藤田も裁判所から証人喚問を受けた)などから黒崎の紹介で住友鉱業に入社する。 日中戦争の時点では非戦論の立場に居た黒崎と金沢が、1942年1月と2月 に、それぞれの伝道冊子で、「日本は米英を打つ神の鞭」、「日本は神の杖」と発言 し、非戦論の立場を捨てた。 藤田が青年期に直面したキリスト教の集会問題については、拙稿にまとめた(「 藤田若雄、青年期の自画像」、拙書『生きるためのヒント』2002東方出版、付 録一185頁参照)。この体験は後年の無教会二代目の人たちの社会思想的研究の 原点となった。戦時下、非戦主義者でない先生(黒崎)の集会に非戦主義者であ る自分がなぜ参加せねばならないか?という問題である。「戦争賛成者も戦争反 対者も含みうるような脊椎骨を持たない集会−かくのごとき集会は戦争責任なぞ 問題にしようがない(藤田『時論』234頁、「誓約集団について」1973)。 無教会の主だった人たちの伝道冊子は敗戦までにほとんどが廃刊に追い込まれ、 名前を変えたガリ版ずりの「地下出版」という形を取ったものが多かった。例え ば矢内原の『嘉信』は1944年7月に警視庁から年末廃刊を言い渡され、19 45年3月から同年8月まで『嘉信会報』を発行。1944年7月には政池が憲 兵隊に連行された。 内村門下で最大の勢力を形成した塚本虎二の『聖書知識』だけは戦中一切迫害 も受けず発行が公認されていた。塚本だけは1932年7月頃から早々と時局批 判を回避したからである。原島圭二はこう指摘する、「問題は、世俗社会への中途 半端な無関心さを示す傾向(私見:仏教的だと思う)を持った塚本が無教会陣営 内で多数の若い追随者を見いだしたことである」(藤田編著『内村鑑三を継承した 人々』下55頁)。当局は無教会の戦争批判者を訓戒する時、「あなたは同じ無教 会であっても、なぜ塚本さんのように戦争協力しないのか」と責めたほどであっ た(『内村鑑三を継承した人々』上11頁)。この証言が明らかにするように、戦 時下の無教会陣営は一つではなかった。 なお普通の市民である札幌の無教会キリスト者浅見仙作の冊子『喜の音』は非 戦思想のため1937年10月に発売禁止、1941年10月彼の『純福音』廃 刊、1943年7月検挙され7ケ月留置、1945年6月大審院で無罪判決を勝 ち取った。有名人よりも無名人の迫害の方がひどかったと言いうる。
§戦後 矢内原は敗戦直後に六つの講演を日本各地で行なった。政池は「日本友和会」 などの活動に尽力する。無教会の伝道者たちの個人冊子もそれぞれ復活した。黒 崎は政池に「自分が間違っていた」と個人的にあやまったので二人の関係は回復 したが、無教会陣営の中で塚本一人に対する批判の風当たりが強く、なかなかお さまらなかった。「無教会の人たちの戦争責任問題」はその後どう取り組まれたの か?原島圭二は「いわゆる無教会陣営の戦争責任の総括が、政池が『聖書の日本 』で問題にした以外には結局あいまいにされた」と述べている(『内村鑑三を継承 した人々』下70頁)。塚本集会につながる手島郁郎は異言・神癒運動を起こし、 一つの勢力を形成した。 1961年12月25日、矢内原の死去とともに藤田の独自活動が開始される。 個人伝道冊子『東京通信』の発刊は1962年10月、藤田聖書研究会の開始は 1962年1月である。その後矢内原集会の若手の一部もその集会のメンバーに 加わる。
◇5.あとがき
藤田の信仰を支えた原動力はいったい何だったのだろう。私には感覚として「心 情的ラジカリズム」ではないかという思いがある。藤井武(藤井の死後(193 0)、矢内原が藤井の全集を編集した。藤田は結核療養中の旧制高校時代にその藤 井武全集を読んだ)や伊藤祐之につながるものを明らかに藤田も持っている気が する(例えば『時論』301頁、「時のしるし」1976)。二人と違うところは、 藤田には自分を対象化できる「すべ」があって、その上社会科学的分析法を身に つけていたことであり、心情的原動力はいわば地下水になっていたのではないか。 そうであるが故に『伊藤祐之追憶集』に次のように書くことができたと私は思う。
「私は、人の真情というものは火で焼かれない限り不断に退廃すると考える。に もかかわらず、人は真実を求める。己が真実を求めるのみならず他の人の真実に 接しなければ死するほど苦しむこと、あたかも鹿が谷川の水を求めるごとくであ る。河上肇博士や藤井武先生との出会いはそれであったと思う。両先生と出会う ことにより両先生も伊藤祐之も息がつけたのである。この両先生に共通の特徴と して、伊藤祐之は真実を指摘していたことを思い出す。伊藤祐之は、河上肇や藤 井武の人生苦難の砂漠の中で、共に真清水を分かち合った人であった。(1971、 待辰堂、155頁)。 藤田に教えを受けた20人が没後20年を記念して、阿部健、奥田暁子、中島 正道編著で『職業・思想・運動』を1998年に出版した(三一書房)。副題の「マ イノリティの挑戦」の意味は三重である。キリスト者としてのマイノリティ、そ の中の無教会としてのマイノリティ、そして社会問題や労働問題にも取り組む無 教会の中のマイノリティという意味である。 この本の蓮池穣の指摘(213頁)、「藤田の著作の中で私が一番好きだと思っ たのは、『キリスト著作集』別巻の書簡であった。キリスト教でいう「牧会的」と も言えるのだろうか、他者への細やかな配慮が行きとどいている。私が藤田の著 作に近付いたのも、そのせいだったのであろう。いささか感性的な理由ではある が。」には私も同感である。 「戦争出前噺」を1125回もされた本多立太郎翁(〜92歳)が推薦された 三冊の本の中に、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』1937(岩波文庫19 82)がある。旧制中学生のコペル君は大銀行の重役の父親を失っても悠々と生 活できているのに反して、豆腐屋の同級生浦川君は一家総労働の生活をしている。
私はこの本から彼ら二人のもう少し先の人生を考える。 1)もしこの二人が卒業後企業に就職したとすればどうだろう。コペル君に労働 者の問題は見えないだろうし、浦川君は労働者の問題に取り組まざるをえないだ ろう。 2)あるいは二人がキリスト者になったとすればどうだろう。浦川君に見える問 題がコペル君には見えないかもしれない。新約聖書の『使徒行伝』にはパウロに 見えなかった問題が出ている(22−28)。千卒長が「私はこの市民権を多額の 金で買い取ったのだ」と言った(「解放奴隷」の問題)のに対して、パウロは「I
was free
born」と(冷やかに!だと私は思う)答えるシーンである。 古賀俊隆(第 一薬科大学教授)が指摘した「基礎体験の相違からくる信仰の質の相異というも のは、なかなか理解しあえない」(『藤田』256頁)という問題である。両者の 実践的課題に共通部分があれば徐々にその溝は埋まっていくと私は思うのだが、 もしそうでないとすればその溝はそのまま残存せざるを得ない。
引用本リスト 1.『回想』:「藤田先生に聞く」戸塚秀夫、『社会科学研究』24巻4号 (1973)p137〜203. 2.『時論』:藤田『時論』、1977、キリスト教図書出版社 3.『藤田』:『藤田若雄』−信仰と学問−藤田起編1981、教文館 4.『三一著作集』:『藤田若雄著作集』編集委員会編1983、三一書房 5.『キリスト教著作集』:『藤田若雄キリスト教社会思想著作集』著作集刊行会 1983、木鐸社 6.『職業』:『職業・思想・運動』阿部、奥田、中島編1998、三一書房 原島圭二氏から引用の承諾、大河原礼三、阿部健、浅田隆正各氏から貴重なコ メントを戴きました。また京都北白川集会の高井博子京都女子大学名誉教授から 教えてもらった中村勝己慶応義塾大学名誉教授(矢内原忠雄門下)の近刊『現代 とはどういう時代か』にいろいろと教示を受けました。
(筆者は社会福祉法人中途障害者作業所「麦の会」相談役、理学博士)
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■4、栃木でも始まった「憲法九条の会」 大原 悦子 ───────────────────────────────────
憲法九条を守り生かす運動の広まり
憲法記念日と九条の会 今年の憲法記念日は、いまだかつてない「憲法の危機」の中で迎えた。昨年9月 の衆議院選挙での改憲勢力の大幅な議席増、11月の自民党の「新憲法草案」の発 表、マスコミによる改憲への世論誘導的な報道、今国会では改憲のための『国民投 票法案』が提出され審議入りするかも知れないという状況である。 一方、草の根の国民レベルでは、憲法はかえない、憲法九条は守る、今こそ憲 法を生かそう!という声も決して少なくない。 2004年6月10日、日本の良識を代表する有識者9人によって発足した九 条の会は、 「日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、一人ひとりができるあらゆる努力 を」とよびかけた。有識者9人とは、上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、 小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子の各氏であり、九条の会は以 下のようなアピールを発表して、憲法改悪に反対する大きなネットワークをつく る決意を明らかにした。
「九条の会」ニュース第68号では、06年4月24日 現在、地域・分野別の九条の会結成は、全国で4770と報告されている。
「9条の会」アピール (全文)
日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。 ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命 を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のため であっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしま した。 侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放 棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市 民の意思を実現しようと決心しました。 しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改 正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、 日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのた めに、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束 を実際上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策 を無きものにしようとしています。そして、子どもたちを「戦争をする国」を担 う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは、日本国憲法 が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的 に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許 すことはできません。 アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに 非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国 と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。一九九〇年代以降の地 域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。 だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって 解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。 二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲 法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が 歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかあり ません。
憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、 アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主 性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつ この国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学 技術などの面からの協力ができるのです。 私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条 を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である 国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々 行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責 任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手を つなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、 いますぐ始めることを訴えます。
2004年6月10日 井上 ひさし(作家)、梅原 猛(哲学者)、大江 健三郎(作家)、奥平 康 弘(憲法研究者)、小田 実(作家)
加藤 周一(評論家)、澤地 久枝(作家)、 鶴見 俊輔(哲学者)、三木 睦子(国連婦人会)
「九条の会」QandA・・九条の会ホームページ(http://www.9-jo.jp/)から
☆Q1.「九条の会」とはどのようなものですか? A.「九条の会」は井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤 周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子の九氏が立ち上げた会で、思想・信条・立 場などの違いを超え、九条改憲を許さないという一点で共同する運動です。現在、 改憲派のターゲットとなっている9条の改憲に反対する各地・各領域での諸運動 のネットワークの結び目となりたいと「九条の会」は思っております。 「九条の会」は「上から」各地を指導するというようなものでもありませんし、 できるものでもありません。あくまで、みなさんの主体的な、自発的な運動が発 展するのを支持するという立場です。
発足の記者会見で小田実さんは「憲法九条、いまこそ旬」と訴えましたし、大 江健三郎さんは「憲法を護る数多くの運動が集まってくる、大きなネットワーク にしたい。考え方や動きが、まとまってある点になるという。憲法9条を護ると いうさまざまな人々のタイプの声が動いていく間に、重なっていくある場所(別 に特権的なものではない)、そういう『萃点』の一つになるような、この会がそ ういうものとして皆さんが使ってもらえたらどんなにいいだろうかというのが1 つの希望であります」と語りました。
☆Q2.「九条の会」の活動方針を教えてください A.活動方針については、7月24日の結成記念講演会で「3つの提案」を発表 しました。、 (1)各地・各分野で「アピールに賛同する会」をつくる。(それは「九条の会・ ○○県」あるいは「○○・九条の会」あるいは「●○者・九条の会」のような名 称がベターだと思います) (2)7月24日の講演会の記録のビデオやブックレット、「九条の会」のポス ターなどを全国に広げ、活用する。 (3)大小さまざまな講演会、学習会などをひらく、です。 各地の運動との連携は「九条の会」の電話・FAX・メールと、ホームページな どを「結び目」にして積極的にすすめます。HPも体制が整い次第更新していき ます。
☆Q3.「九条の会」の規則を教えてください A.「九条の会」はまだ規約などはありません。当面は規約を作る予定もありま せん。
☆Q4.入会を希望します。会費はいくらですか? A.「九条の会」は呼びかけた9人で構成される会です。ひろく会員を公募する 方式をとっておりません。アピールの趣旨に賛同される方はぜひ各地・各領域で 「アピールに賛同する会」を自発的に作り出してください。この場合、一部の気 のあった人だけで作るのではなく、アピールの趣旨に賛成できる人びとを思想、 信条、立場の違いを超えて、できるだけ広く集めるのが基本だと思います。その ために多少、時間がかかってもいいと思います。従って会費もありません。しか し、会費ではありませんが、「九条の会」が事務所を維持していく上では経費が かかります。「九条の会アピール」に賛同し、この会の活動を財政面からも支え てくださる意志のあるかたは、ぜひ賛同カンパをお願いいたします。 郵便振替は 00180−9−611526「九条の会」です。
☆Q5.賛同人になりたいのですが・・・ A.いま集めている「賛同人」のかたがたは、「九条の会」の独自の判断で、今 後、各地・各分野で「アピールに賛同する会」を作る上で、先頭に立っていただ きたいと思う方に「九条の会」から直接お願いしております。そうしないと、賛 同者が膨大な数になり、事務作業に耐えられませんので、一般に広く賛同を募集 することにはしておりません。 各地で「賛同する会」をつくる時に、各地の責任で賛同人の募集をするという ケースはあります。
☆Q6.私たちは「九条の会」にどのような関わり方ができるでしょうか。 A.ご自分の周囲で「アピールに賛同する会」をさまざまな方々と幅広く共同し て作ることができればいいですね。最初はビデオを広めたり、ブックレットをひ ろめたり、ポスターをはったり、勉強会をするのでもいいでしょう。近く、リー フレットもできます。 相手のご都合もあるでしょうけれども、賛同者の中にお近くの方がいれば相談 して、「アピールに賛同する会」の準備をするのも良いでしょう。いくつかの地 域では「アピールへの賛同署名」を集めながら、「アピールに賛同する会」を準 備している人びともいます。「九条の会」の動きはサイトで情報を把握すること ができます。
☆Q7.呼びかけ人、もしくは賛同人に講演してもらえますか? A.呼びかけ人はお忙しい方々で、年内に「九条の会」が各地で行う講演会や、 既に約束している講演などで手一杯で、大変、難しいと思います。 賛同人の講演というのは事務局では特には斡旋していません。まず、自分たち でお願いしたい方に当たってみてください。どうしても自分たちで当たるのが難 しいところは、とりあえず、企画を事務局にだしてみてください。事務局もなか なか手が回らないのですが、検討し、追って連絡致します。
☆Q8.九条の会の資料をください A.「アピール」が基本です。公表された資料はHPに資料が掲載されています。 HPで見ることのできない方は、裏面に「アピール」が印刷された「結成記念講 演会のチラシ」を郵便で送ることもできます。
☆Q9.今後の講演会の予定はありますか?「九条の会」のバッチやビラは作ら ないのですか? A.「九条の会」としては、年内に大阪、京都、福岡、札幌、仙台、那覇の各地 で講演会を開きたいと思っております。全国各地、および様々な領域に「九条の 会」ができ、ネットワークが組める形になるのが理想型です。 また、みなさんの運動に活用してもらえるようにポスター、ビデオや、リーフ レットなど、宣伝の各種グッズを作っていきたいとおもいます。ワッペンやバッ チを作ったらどうか、という提案なども来ています。さまざまな提案をうけて、 順次、取り組んでいきたいと思います。ビラもHPからダウンロードできる形で 作ることができれば便利だと思っております。少し時間をください。体制が整い 次第、順次、取り組みたいと思っております。
☆Q10.会費をとり、機関誌を発行しないのですか? A.いまは考えておりません。当面は、「九条の会」の情報はWebサイトでご 覧ください。 ただ各地の「支持する会」がそうした会報(機関誌)などを作ることはよいと 思います。 そして、賛同カンパや、様々なグッズを普及し販売してくださることは「九条 の会」の財政的な支えになります。ぜひご協力ください。
☆Q11.賛同署名運動はしないのですか? A.「九条の会」としてはいま、おこなう予定はありません。すでに各地域では やっているところもあり、それをその地域の「支持する会」の立ち上げのきっか けにしようという動きもあります。これも一つのやり方だと思います。各地で取 り組む賛同署名は「九条の会」がやっていると混同されないためにも、主催者や 連絡先の明記をお願い致します。
☆Q12.「行脚の会」との関係はどうなっていますか? A.同時期に結成され、雑誌「世界」に並んで発表されたことから、両者の関係 を心配される方もいますが、「九条の会」と、土井たか子さんや佐高信さんが結 成された「行脚の会」は対立する関係ではなく、友好的な、相互乗り入れの協力 関係にあります。現に「行脚の会」の呼びかけ人の三木睦子さんは九条の会の一 員であり、同じく土井さん、辛淑玉さんなどは「九条の会」の賛同者でもありま す。ほかにもさまざまある憲法関連の運動との関係も同様です。
以上で、九条の会へのみなさんのご質問への回答になったでしょうか。これか らもご意見、ご質問をお待ち致します。 (「九条の会」事務局)
九条の会の広まり・・「九条の会」講演会の記録 《2004年》 【九条の会・発足記念講演会】参加者1000人 ◇日時 7月24日(土) ◇会場 ホテルオークラ別館 ◇講師 井上ひさし、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、 鶴見俊輔、三木睦子 【大阪講演会】参加者3700人 ◇日時 9月18日(土) ◇会場 中之島中央公会堂 ◇講師 井上ひさし、小田実、澤地久枝 【京都講演会】参加者2500人 ◇日時 9月25日(土)◇会場 京都産業会館(シルクホール) ◇講師 大江健三郎、奥平康弘、鶴見俊輔 【仙台講演会】参加者4500人 ◇日時 11月21日(日)◇会場 国際ホール ◇講師 井上ひさし、加藤周一、澤地久枝、三木睦子 【札幌講演会】参加者3000人 ◇日時 11月25日(木)◇会場 札幌市民会館 ◇講師 奥平康弘、小田実、鶴見俊輔 【那覇講演会】参加者2000人 ◇日時 12月1日(水)◇会場 札幌市民会館 ◇講師 大江健三郎、奥平康弘、小田実 《2005年》 【九条の会・憲法学習会】参加者
300人
◇日時 1月10日(月)◇会場 日本教育会館 ◇講師 小沢隆一(静岡大学教授)、小森陽一(九条の会事務局長) 【横浜講演会】参加者5000人 ◇日時 2月25日(金)◇会場 神奈川県民ホール ◇講師 大江健三郎、小田実、加藤周一 【広島講演会】参加者2700人 ◇日時 3月12日(土)◇会場 広島国際会議場 ◇講師 大江健三郎、澤地久枝、鶴見俊輔 【福岡講演会】参加者3000人 ◇日時 3月19日(土)◇会場 福岡サンパレス ◇講師 奥平康弘、鶴見俊輔、小森陽一(事務局長) 【九条の会・有明講演会】参加者9500人 ◇日時 7月30日(土)◇会場 東京・江東区・有明コロシアム ◇講師 井上ひさし、大江健三郎、奥平康弘、小田実、鶴見俊輔、三木睦子
※午後1時から、及び講演の途中で、荘村清志さんのクラシックギター演奏 【10・22新潟のつどい】参加者2200人 ◇日時 10月22日(土)◇会場 県民会館大ホール
◇講師 大江健三郎、澤地久枝 【あいち'05県民の集い】参加者3200人 ◇日時 11月3日(木)◇会場 名古屋市公会堂大ホール ◇講師 奥平康弘 【くまもと九条の会結成1周年記念講演会】参加者1500人 ◇日時 11月22日(火)◇会場 県立劇場コンサートホール ◇講師 小田実、石坂啓(漫画家)、福島将美(元県連合熊本会長) 【九条の会・シンポジウム】参加者
260人
◇日時 11月27日(日)◇会場 東商ホール ◇講師 加藤周一、山内敏弘(龍谷大学教授) 《2006年》 【九条の会・埼玉講演会】参加者3500人
◇日時 5月9日(火)◇会場 大宮ソニックシティ ◇講師 大江健三郎、加藤周一、澤地久枝
九条の会の新しい訴え
「九条の会」は05年7月30日、つぎのような訴えを発表し、さらなる運動の 広まりをつくろうと呼びかけた。 ◎「九条の会」アピールに賛同し広範な人びとが参加する「会」を、全国の市区 町村、学区、職場、学校につくり、さらに広げましょう。 ◎相互に情報や経験を交流しあうネットワークを広げ、来年、全国的な交流集会 の開催をめざしましょう。 ◎大小無数の学習会を開き、日本国憲法9条の意義を学び、改憲キャンペーンを はねかえしましょう。 ◎私たちひとりひとりが、ポスター、ワッペン、署名、意見広告、地元選出の政 治家・影響力をもつ人びとやマスコミへのハガキ運動など、9条改憲に反対す る意思を、さまざまな形で表明し、大きな世論をつくりだしましょう。
栃木県内の九条の会 【九条の会・栃木の結成】 栃木県では、弁護士さんたちが中心になり、県内有志の名で以下のような呼び かけをして、会の発足をめざした。何度かの準備会を経て、2005年8月6日 に発足会をもち、9月24日に早乙女勝元氏を招き、記念集会とした。 事務局連絡先は、「とちぎ市民法律事務所(弁護士 田中徹歩)」(住所:〒 320-0808 宇都宮市宮園町8−2松島ビル)である。
《呼びかけ》 皆様ご承知のように、いま日本国憲法を「改正」しようとする動きが急になっ ています。 私たち21名は、このたび、このような動きに対し、同封しました「アピール」 にそって、「九条の会・栃木」を結成し、多くの方々の賛同を得て、「改正」を させない活動を行うことといたしました。 まず手始めに、21名が、「アピール」の賛同者を募って、それらの皆様に呼 びかけ人となっていただき、輪が広がった段階で、結成準備のための集まりを持 ち、そこで、あらためて県内の多くの方々へアピール賛同の呼びかけを行おうと 考えています。 呼びかけ人の集まりは、本年5月21日(土)午後2時から、栃木県総合文化 センター(宇都宮市本町1−8)第一会議室で行うことを予定しています。 私たちのアピールに賛同し、呼びかけ人となっていただけますようお願いする 次第です。同封しました書面でご返事をいただければ幸いです。 あわせて、上記の結成準備の集まりにもご出席いただき、ご意見等を頂戴できれ ばと存じますので、何分よろしくお願い申し上げます。 2005年4月
石川浩三 石川輝雄 今井行康 いわむらかずお 采澤良浩 大木一俊 大貫正 一 落合雄三 北島滋 さきやあきら 鈴木解子 須藤博 曽根敷史 田坂興亜 田中徹歩 人見照雄 笛木隆 増山均 宮本栄三 吉川水城 渡部静子
《「九条の会・栃木」設立記念集会》
2005年9月24日(土)に栃木県教育会館大ホールにて実施した。当日は、 小雨の中を630名前後の参加があった。
オープニングに「九条の会」アピール
朗読とビオラ「鳥の歌」(演奏:粂川吉見、伴奏:田中純子)があり、代表の宮 本栄三氏(宇都宮大学名誉教授)の主催者挨拶、そして、早乙女勝元氏が講師と なり「憲法9条の伝書鳩に−ある作家の体験から」〜ビデオ「軍隊のない国・コ スタリカ」をはさみながら〜と題して講演した。参加者アンケートによる感想で は・・・「有効な機会だった。賛同者が多いのに自信が持てた。」「アピール賛 同者を広げ、地域・各分野の会の結成に尽力いたします。」「世界に誇れる9条 を絶対子や孫に伝えなければ・・大人の責任です。」「九条が変えられたら日本 はどうなっていくかという事が、今の若者はわかっていないと思います。平和の 大切さを伝えていきたいです。」等々の声が聞かれた。 会では、呼びかけ人である、作家のいわむらかずお氏作の「鳩の九ちゃん」カ ンバッチ(シックな五色、1個300円)を販売して、会のメッセージを広めて いる。
【「太平山麓九条の会」の結成に向けて】 栃木市周辺の人達が、九条の会をつくろうと手を結ぶこととなった。 2005年12月17日「地域懇談会」の呼びかけで、第1回準備会議が持た れ、31名の参加で、事務局体制をつくることとなった。以後、何度かの事務局 会議と準備会議を重ねた。そして、会の名称は、「太平山麓九条の会」と決定。 事務局所在地は地元の弁護士事務所に置く、会費はとらずカンパで運営するとし、 呼びかけ人・呼びかけ文の検討をかさねた。 こうして、以下のような呼びかけ文で、賛同者を広めようと決まった。
《私たちは呼びかけます 平和を願う栃木市とその周辺にお住まいのみなさんへ》 自然と交通の便とに恵まれた私たちの街は、大きな災害もなく営々と歴史を 重ねてきました。自然の恵みの中で、人と人とが助け合って穏やかに暮らして いけたら、どんなに幸せなことでしょう。 「三度のごはん きちんと食べて 火の用心 元気で生きよう きっとね」 (井上ひさし『兄おとうと』より)
つまり生活保障と無病息災が、庶民のささやかな、でも最大の願いではない でしょうか。 さて、おびただしい犠牲と惨禍を経て生まれた日本国憲法は、戦争放棄・戦 力不保持をうたい、私たちの平和な暮らしを支え、またアジアからの信頼を得 てきました。 ところが今、「軍隊をもち戦争のできる国」に変えようと、改憲の動きが強 まっています。 これに対して2004年6月、日本を代表する9人の知識人(井上ひさし 梅原猛 大江健三郎 奥平康弘 小田実 加藤周一 澤地久枝 鶴見俊輔 三木睦子)が、改憲のくわだてを阻むため「九条の会」を発足させました。発 表された「九条の会アピール」は大きな反響を呼び、全国で続々と「九条の会」 が生まれてきています。
「戦争は、もう二度とごめんだ」 「殺されるのはいやだ、殺すのはもっといやだ」 「意見の違いは、暴力では解決できない」 こう考えるみなさん! 九条を守りたいという一点で、同じ思いを持つみなさん! その一人一人の思いを持ちよって、みんなの声にしませんか。 21世紀の世界がめざすのは「力によらない平和」です。憲法九条を世界に 広め、地球憲法として輝かせましょう。 晴れやかに誇らしく平和のバトンを子や孫の代に渡せるように、太平山に抱 かれたこの地域で、ともに知恵を出しあい手をつなぎましょう。 「九条の会アピール」へのご賛同と、活動へのご参加を心よりお待ちしてお ります。(2006年2月18日)
《呼びかけ人》 ・赤池 康(医師)・石田よし宏(栃木県現代俳句協会長)・梅澤
錦治 (弁護 士)・笠原 昭二(社会福祉法人あゆみ学園理事長)・齋藤 昭俊 (大正大学名誉 教授・真言宗寶蓮寺住職)・須黒 延佳(弁護士)・鈴木
解子(じょりんぼ)・ 田上 中(日本キリスト教会栃木教会長老)・舘野サク子(元教員)・殿塚 治 (栃木市商店会連合会副会長)・富田 昌宏
(俳句結社「渋柿」代表同人)・長 谷川恵子(おたまじゃくし文庫)・長谷川建夫(田中一村会会長)・林 由多可 (大平酒造)・松本
正美(松本ぶどう園)・渡邉 全一 (マロニエ医療福祉専門 学校講師) 《代表》齋藤 昭俊 《副代表》石田よし宏・富田
昌宏・舘野サク子
《これまでとこれから》 4/22 定期学習会・・弁護士 田中
徹歩さんを招いて「国民投票法案」 7/1 結成記念集会・・記念講演は九条の会事務局長 小森
陽一さん 8/6 松元ヒロソロライブ 毎月、ニュースを発行して、活動の様子・計画などを多くのみなさんへお送り することとしている。 (太平山麓九条の会 事務局 大原悦子)
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■5、ナマクラ右翼と腰抜け左翼の憲法対決 仲井 富
=徴兵制タブーの右翼と国民投票怖い左翼= ───────────────────────────────────
●徴兵制をいわぬナマクラ右翼 近年、靖国神社周辺は右翼の兄さん、おじさんたちが元気だ。私は叔父二人が 靖国に祀られているので、ときおり散歩がてら靖国で掌を合わせる。むかしは静か で絶好の散歩コースだったが、小泉参拝以来、騒々しく品位がなくなった。右翼の 宣伝カーが暴力的な騒音を轟かせ走り回る。靖国神社や無名戦士墓苑の戦士たち は安んじて眠ることも出来まい。
「靖国は蝉の声だけあればよし」といいたい。また「戦士らの哭く声聞けや蝉時雨」 とも思う。右翼の兄さんたちはそういう繊細な思いとは無縁らしい。意気揚々と 「今日は自民党に投票してきた。やはり安倍晋三を総理にしなくっちゃあ」などと 話しかけてくる。そこでやむを得ずおじいさんは、兄さんたちと対話する。「わし やあ憲法改正どころかもっと先のことを考えとるんじゃ。いまの脆弱な若者をこの ままほっといてあんたら国を守れると思うとるんか。
あの戦争好きの石原も、あんたが総理にしたがっている安倍も憲法変えろとは いっとるが、兵役制はどうするかいうとらんぞ。世界の軍隊は徴兵制が大半で、中 国も韓国もスイスもみんな徴兵制だ。兵役制度もはっきりしないで憲法改正、自衛 軍なんておこがましいわい」。右翼のおじさん、兄さんたち、「じいさん、過激じ ゃなあ」といって退散する。 ちと気のきいた若い右翼は「わかりました。これから演説するときに言わせても らいます」という程度だ。右翼改憲派もどうやら平和ボケに陥っていて、現在の自 衛隊を自衛軍と言う名前に変えれば、集団的安全保障の名において、外国に軍隊 を送って戦えると思っているらしい。がそれは勘違いも甚だしい。相次ぐ防衛施 設庁の談合汚職にみられるごとく、「戦わぬ」ことを前提にして数十年間、天下り の心配しかしてこなかった現在の腐敗しきった防衛庁に国家・国民の安全をゆだ ねることなど論外である。防衛庁を即時解体してあらたな国防軍として再スター トする以外に方法はない。 石原慎太郎を先頭とする右翼的人士たちの論調はまさに戦争前夜である。「米中 もし戦わば、アメリカは負け、日本を捨てられる」とか「少なくとも報復能力あ る核兵器を搭載した原子力潜水艦を日本自身が持つべき」などと日中戦争の危機 をあおっている(石原慎太郎「封じ込めの大戦略を持て」『別冊正論・軍拡中国と の対決』2002年2月)。にもかかわらず皇国史観の右翼諸氏、評論家をふくめて、 兵役制度という肝心な国防の基本を忘れて、あるいは意図的に隠して、自衛軍だの 愛国心だのとオダをあげるのを称して、わたしは「ナマクラ右翼」と呼ぶのである。 真の右翼ならば、正々堂々と、憲法改正、自衛軍または国防軍として、国家のため に死を恐れぬ軍隊をどうつくるかを訴えるべきだ。
改憲派の及び腰はどこから来ているのか。小泉内閣の直属諮問会議として、「安 全保障と防衛力に関する懇談会」が『未来への安全保障と安全保障・防衛力ビジョ ン』をまとめているが、ここでも兵役制度には触れていない。委員の一人に、なに ゆえ兵役制度にふれないのかと聞いたところ「これはいまのところタブーなんです」 という答えが返ってきた。 徴兵制などに触れると小泉劇場に熱狂したおばさんでも、わが子の問題となれば 真剣に考える。政治に無関心な若者も、俺たちのことかと気付けば、学園で反戦運 動など起きてきてややこしくなる。だから自衛軍・集団安全保障だけ通しておけば、 後でなんとかなるという考え方らしい。(注1・参照) 住民運動の仲間や事業をやっている友人にも、けっこうまじめな右翼の方がい て、たまに議論することがある。憲法改正、自衛軍までは威勢がいいが、わたし が「あんたそれはいいけど、ではその軍隊なるものは徴兵制でいくのか志願兵で いくのか、戦争をしにいく軍隊なのだからはっきりしなければ無責任だ。わたし はスイスのように国民皆兵、徴兵制でいくべきだと思います」というと「仲井さ ん、過激だなあ、そこまでは考えていなかった」と、いつのまにか右翼過激派に されてしまう。会社をやっている友人でいつも社長室に日の丸の旗をかざってい るT社長に聞いて見た。「なんで石原も安倍も兵役制度や徴兵制をはっきり言わ ないんだろう」。
社長曰く「君い、今の政治家や右翼にそんな胆の座ったやつはひとりもいないよ。 だから日本はダメになるんだ」と慨嘆しきりだった。自民党がまと めた桝添試案をもとにした九条改憲が、現行憲法を大きくいじらないで最小限の 九条二項の改正だけにとどめたのも、国民投票を意識して“騒ぎ”を大きくした くないという魂胆がありありである。 (注・1)(「近代日本では。1?85年に国民皆兵を目指す徴兵令が出された。の ちに兵役法となった。大日本帝国憲法にも兵役の義務が盛り込まれた。だが第二 次世界大戦に敗れた1945年に廃止された『フリー百科事典・ウィディぺディキ ア』」)。
●国民投票を恐れる腰抜け左翼 もうひとつ気に食わないのが護憲派と称する人たちのだらしなさだ。護憲だの 九条守れなどと何十年もいい続けているが、それだけでは説得力もないし、国民投 票を見据えた戦略もない。ここで一勝負して改憲派の息の根を止めてやろうじゃ ないか、という気概はまったく感じられぬ。言説だけの護憲派の主張がハートに 響かないのはなぜか。第一に戦後60年の間に、戦争を知らぬ世代が圧倒的になっ たという現実認識の欠如、と同時にこの世代はオギャーと生まれたときから、世界 有数の戦力を持った「自衛隊」という軍隊を見て育ってきた。いまさら「憲法で軍 隊保持を禁止しているからイケン(違憲)」といったところで現実との乖離があり すぎて納得しがたい。第二には護憲の本家のような顔をしている社民党は、村山連 立政権の下で、一夜にして戦後半世紀の護憲、反安保の旗を投げ捨てて「安保容認、 自衛隊容認」に変った。そして自民党の復権、延命に最大限の貢献をした。結果は 社民もさきがけも生き血を吸い取られて崩壊した。いまさら護憲だの九条守れな ど、恥ずかしくていえないはずである。
もしもこれからも護憲、九条守れ、という伝統的な主張を繰り返すのであれば、 「よろしい、では国民投票でいちど国民すべての意見を聞きましょう」というとこ ろまで徹底しなければ、所詮犬の遠吠えに終わるだろう。そこまでいえないのは理 由がある。それは過去に解釈改憲で、自民党と馴れ合い妥協して来たこと、さらに 村山連立政権で自衛隊、安保容認によって、多くの社会党支持者から見捨てられた。 その結果、国民投票では勝てない、という敗北主義が根底にある。わたしはこれを 称して「腰抜け左翼護憲派」と呼ぶのである。このことはすでに15年も前に指摘 されていた。護憲派の弱腰、逃げ腰を批判していたのは社会党周辺の左翼理論家故 清水慎三氏である。
「党改革討議に関する若干の意見と提言・四、パックス・アメリカーナと安保・自 衛隊問題」と題した論文のなかで改憲・護憲を国民に問えと、次のように述べてい る。(注・2参照)「社民系既成勢力の合同や大連立を第一義とするのであれば、 わかりにくい議論を積み重ねるよりこの際、はっきりと改憲の必要を唱えたほうが 国民サイドからはわかりやすい。警察予備隊創設から40年、誤魔化しに誤魔化しを 重ね、今やなしくずし改憲では、与野党ともに収拾のつかないところにきた。 かくならしめた責任は、明文改憲をめぐる大勝負を回避しつづけた護憲陣営の弱腰 の側にある。真に護憲を強調するのであれば逃げ腰に終始するのでなく、護憲攻勢 のための一大キャンペーンを組織すべきではないか」(1991年6月12日)。
これを清水慎三氏は村山連立政権成立の三年前に当時の土井たか子社会党委員長に 宛てて、岩垂寿喜男中執を通じて提出した。ところがその後、岩垂氏から一片の回 答もなかったという(清水慎三氏令息克郎氏の話)。 おそらく岩垂氏は「土井さんは回答できないだろう」との判断で握りつぶしたのだ ろう。その後の社会党は共産党を加えても議席の十分の一に満たないまでに転落 した(480議席中社民7、共産9)。村山前総理を始め当時の閣僚諸侯は勲一等に 輝いたが、護憲政党社会党は沈没した。まさに「一将功成って万骨枯る」である。 そろそろ国民への最後のご奉公または罪滅ぼしとして「国民投票による護憲か改 憲」かの清水氏いうところの大勝負を挑む覚悟を決めるべきである。 (注・2)(「89年の冷戦崩壊確定後、東西対立に変わって世界政治をリードし ているのは、事実において軍事力を基礎とするアメリカのグローバル・ポリシイ であり、パックス・アメリカーナこそが冷戦にかわる世界秩序であり、それこそ が平和秩序といわんばかりに横行している。
日米安保と日本の自衛隊は冷戦対応から自動的にパックス・アメリカーナの中 に組みこまれ、機能し、機能を要求されていることこそが現実ではなかろうか。 してみれば、今日の安保自衛隊問題は、パックス・アメリカーナは望ましい世界 秩序なりや否やの議論から始めるべきで、違憲・合憲の議論は、政治の現実のも とでは、パックス・アメリカーナへの貢献の仕方、度合いの問題に矮小化されて しまうと思われるがどうなのか。違憲合憲論から言えば、かって石橋委員長が唱 えた違憲合法論が法理論的には正しく実態認識として正確である。わかりにくい とか、政治的対応からも都合がつかぬとか言われているが、わかりにくいものに したのは政治の側に責任があり、安保条約を超憲法的国是にしてしまった結果で ある。 現在、違憲合法論で処置できないのは民社党との合同ならびに社公民連立政権 への政策構想である。社民系既成勢力の合同や大連立を第一義とするのであれば、 わかりにくい作業を積み重ねるよりこの際、はきっりと改憲の必要を唱えたほう が国民サイドからはわかりやすい。警察予備隊創設から40年、誤魔化しに誤魔化 しを重ね、今やなしくずし改憲では、与野党ともに収拾のつかないところにきた。 かくならしめた責任は、明文改憲をめぐる大勝負を回避しつづけた護憲陣営の弱 腰の側にある。真に護憲を強調するのであれば逃げ腰に終始するのではなく、護 憲攻勢のための一大キャンペーンを組織すべきではないか」)。
●国民投票で憲法改正、国民皆兵・徴兵制を問え
わたしは別に「右翼過激派」ではない。しかし左右ともに及び腰で、改憲、護 憲を言い争っていることに我慢ならないだけである。明治27年(1894年)の日 清戦争以来、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、ノモンハン事件、 太平洋戦争、そして敗戦(1945年)までの50年間はまさに戦争の時代だった。
この50年間に太平洋戦争の戦死者約213万人を含め計246万人弱の戦死者を出し ている。それに加えて、太平洋戦争では民間人約110万人が原爆や東京空襲、沖 縄戦などで犠牲となった。このような犠牲のうえに“与えられた平和憲法”の下 でよくも悪くも戦後60年間の「平和な時代」が存在し得たのである。
この間、世界はどうだったか。第二次大戦後の六十年間に世界各地の武力紛争 は九十八件に上る(『防衛ハンドブック平成17年版』朝雲新聞社刊)。そのなか で戦争と名づけられた主なものだけでもインドシナ、朝鮮、ベトナム、アルジェリ ア、中東(四次)、イラン・イラク、湾岸戦争などが挙げられる。戦後の六十年間は戦 争と殺戮のつづく世界だった。「九条」を掲げる日本はただの一度も軍事力を行使 することなく、一兵も失うことなく、一人の人間を殺すこともなかった。この奇跡 的ともいえる六十年間の意味を総括することがまず必要だと考える。しかし時代 も変わる、世代も替わる。あれだけの戦争をやっても、懲りない人もおれば、戦 争を知らない世代が多くなるほど、戦争の痛みを実感できない人々の数が増えて くるのも当然だ。
憲法制定以来59年、自衛隊発足以来56年、ぼつぼつこのあたりで、憲法をめぐ る最大の焦点であるところの九条改正の是非を国民投票によって決することが必 要であり、結果については1億国民が責任をもつという、開闢以来の民主主義の実 験を行うチャンス到来と考える。憲法改正、自衛軍、愛国心などを口走っている のは、石原慎太郎、安倍晋三など「自分は絶対に戦争で死なない」という安全地 帯にいる連中だ。「ナマクラ右翼」のまやかしの憲法改正ではなく、「改憲、国 民皆兵・徴兵制」を明確にかかげて国民投票に問え、というのがわたしの主張で ある。また「腰抜け左翼」には国民投票法制定に賛成し、自らも「護憲」の内容 を明らかにして国民投票で堂々と戦え、といいたい。一人一人が緊張感を持って 自らの子や孫の運命も含めて日本の行くべき方向を選択すべきである。この道し か沈み行く日本を再生させる方法はないと確信する。具体的な提言は別の号に譲 りたい。
(注・3)拙稿について西村徹氏から以下のような示唆を戴いた。「石原、安倍 その他のタカ派は軍事を知らないからタカ派なのです。アメリカでも軍事に無知 な文民がタカ派で軍人はハト派です。すこしでも軍務を経験したほうが慎重にな ると思います。旧日本軍部がやめるしおどきを弁えずに暴走したのは、同じ佐官 でも要注意人物ばかり(たとえば杉本五郎中佐)を懲罰的に前線に出して、自分 らは前線に出ない卑怯な参謀どもが牛耳ったからです。
徴兵だと兵士の意識水準が高くなりますから軍のあらゆる面での暴走の歯止め にもなります。最近の戦争はハイテク化して練度の低い徴兵では役立たないとも いわれますが、最後の決め手は歩兵。歩兵が足りなくてアメリカはイラクで失敗 しています。国民皆兵徴兵制をじっくり論じ合えるようになるのは民主主義成熟 の証しにもなることでしょう」。
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■6、偽善のすすめ (LETS PRETEND) 西村 徹 ───────────────────────────────────
日本の自衛隊は、中身は紛れもない軍隊なのに軍ではないとして、それを自衛 隊と呼び続けるのは偽善である。読売新聞の渡辺恒雄氏はそのようにいう。まっ たくそのとおり間違いなく偽善である。そして渡辺氏は「偽善である」と言い切 ったところで、同時に偽善は解消されるべきことを自明としている。 もし解消されるべきものだとすれば、二つの道がありうる。「戦力は、これを 保持しない」という憲法の理念と、紛れもない戦力を保持している現実との乖離 を埋めるには、どちらか片方に手を加えて辻褄を合わすことになるのだから道は 二つに一つということになる。氏は理念を現実に合わせる道を自明の選択として いるが、そう考える自由は直ちにその逆を選択する自由を奪うものではない。 理念から遠ざかってしまった現実を元に戻して理念に合わせる道もある。実際 にそのように主張し続けている人たちはいる。ただそれはもはや現実的でないと する勢いが強くなって、理念派は少し劣勢になっているらしい。しかし理念派の いうことも、よく聞いてみると、それほど非現実的でなくて、現実を元に戻すの は気長にやればよく、なにも慌てて理想を捨て去るには及ばないといっているだ けのようでもある。 しかし、どちらも二者択一としてしか考えないからガチンコになる。二者択一 でなく、どちらをも選ばない第三の道はないか。なにもいじくりまわさないで、 どちらの立つ瀬もあるような手立てはないか。偽善を解消しないという「解消」 は考えられないか。つまりは偽善を承知で偽善を続ける道はないものだろうか。 額面と株価は違うように、どこの国にも類似のことはあるはずだ。日本国憲法そ のものの中にも矛盾はある。人間そのものが矛盾に充ちた存在だ。 C.S.ルイスという人に"LET'S
PRETEND"という文章がある。ラジオ放送を記 録した"BEYOND
PERSONALITY"という1944年に出した冊子の中の一文であ る。「その振りをしよう」とでもいうことだろうが、拙文の標題はそれを借りた。 ちなみにこの人は今ごろ映画で評判の『ナルニア国物語』第1章「ライオンと魔 女」の原作者である。この文章の中で「きわめて多くの場合、ひとつの美質をほ んとうに身に付けるには、すでにそれが身に付いているかのように振舞うことか ら出発するのが一番だ」という。 ルイスが使っているpretenceという語は「偽りの演技」「偽装」のことだから、 つまりは「偽善」でもあるだろう。この偽善には二種類ある。人を助ける振りだ けして実はまったく助けようともしないのは悪い偽善だ。ところが、助ける振り をしているうちに、だんだんとその気になって偽善が偽善でなくなってゆくよう なら、それはよい偽善だ。格別優しさはないが優しくすべきだという分別がある なら、優しい振りして実際より善人らしく振舞うのが一番よい。数分もすると誰 にもよくあるように、今までの自分より、ほんとうに優しい人間になっているだ ろう。 そのようなことをルイスはいう。子供は兵隊ごっこや、お店屋ごっこをして、 大人のふりをしては現実の大人になる素地を身につけてゆく。『美女と野獣』の 物語では、野獣と結婚する羽目になった美女が、その野獣をまったく人間扱いに して接吻すると、野獣は美貌の男子になった。醜男が美貌の仮面を被り続けて永 年を経て、仮面を脱いだら仮面どおりの美貌になっていたという物語もある。こ ういうことからルイスは話しを起こしているが、逆に偽悪を続けていると、それ が偽悪でなくてほんもののワルになってしまうことも思い出してみるとよいだ ろう。現に悪しきアメリカ人の振りをし続けて、ついに悪しきアメリカ人のクロ ーンになってしまった日本人も、政界やメディアの世界には見受けられる。 ルイスはクリスチャンの立場でものを言っているから、日本ではあまりなじま ないかもしれないが、義理立てして付け加えると、「主の祈り」こそ、よい偽善 の極みだという。「主の祈り」は「われらの父よ」で始まる。神の子イエス・キ リストによって発せられた言葉を、資格もない私たちが唱えるのは、資格もない のに自分を神の子の立場に置くことであり、とりもなおさずキリストを装うこと である。したがって唱えると同時に、それが佯わりであり、自分が神の子などで はなく、自己中心の怖れ、望み、欲張り、嫉み、自惚れのかたまりで、ひとしく 死に定められていることを痛切に自覚する。しかも、その自覚を神は命じるので ある。つまりはキリストに倣うことによって、限りなく遠いキリストに限りなく 近づくことができるようにとの、それは神の計らいだという。これがルイスの、 偽善のすすめの理由である。 この際クリスチャンとか神とかキリストとかの詮議は棚にあげる。棚にあげた 上で「主の祈り」の位置に憲法を、とりわけ9条を持ってくるという類比は考え られないだろうか。 護憲派の中にはガンディーのアヒンサーを貫いて非武装を唱える絶対平和主 義の人々もいる。その中にはクェーカーなどの宗教者も多い。それを貴いものに 思うし、そういう人はいてもらわねばならぬ。それを嘲笑するような昨今の風潮 には与しがたいが、しかしまた同時に、「鳩のように素直である」だけでなく、 その前に「蛇のように聡く」もあらねばならぬようにも思う。なぜならば、残念 ながら人間はみな性善ではない。ふたたびルイスによれば人は罪に堕ちている。 C.S.ルイスは1958年『宗教と宇宙開発』という文章の中で、その後に現実と なる米ソ宇宙開発によって、もし仮に他の星に住む生物に出会ったとして、その とき生じるであろう惨禍について、ほとんど絶望的な予言と警告を発している。 その十年後の1969年、はやくも無菌清浄の月面に滅菌処理のないまま人間の征 服欲の旗印が打ち込まれたことを私たちは知っている。中東の主権国を侵略した 帝国が、侵略された国の元首の銅像を引き倒した跡に建てたのと同じ旗印であっ たことをも知っている。 このルイスの文章は『栄光の重み』(新教出版社)に拙訳があるが、アマゾン にもリストアップされないほどみごとに売れていない。誰も読んでいないと思う ので、しかるべき箇所を、少し手を加えて引く。 「その思考の根底に、わたしたちとは全く異なる構造をもつ(感覚も欲望も異 なる)生物、・・・ことによるとわたしたちより秀でた、しかもそれゆえにこそ、 わたしたちの水準に歩み降りることのできる知性、・・・わたしたちほど強くは なく、また才走ってもいないが、汚れなく幼な児のような被造物に会うならば」 そのとき人類はなにをするものか。 「人はできる限りのすべての種を滅ぼし、奴隷にする。文明人は蛮人を殺し、 奴隷にし、欺き、堕落させる。無生物をすら人は砂塵と瓦礫の山にする。・・・ 彼らが自分より弱いものに出会う時どうなるかは黒人とネイティブアメリカン が知っている。・・・仮に私たちが、人間とは違うが理性をもった被造物に出会 えば、・・・できるかぎりのあらゆる罪を、・・・顔かたちと皮膚の色の違う被造 物に対して既にわたしたちが犯してきたあらゆる罪を犯すだろう。・・・ひとし きり強掠に耽ったあとで、・・・たぶん宣教師を送るだろう。・・・『大砲と福音 と』は、過去においておぞましくも結びついていた。」 いま「福音」は「民主化」と「拝金宗」とに世俗化しているが、これが地球上 の現実であり、これからも変わらぬとするペシミズムを私はC.S.ルイスと共有 する。それゆえ、大方の風潮に抗して非武装を唱える人々には深く敬意を払いつ つも、その高邁を共有する血気を私は持たない。人間の環境破壊がこのまま進め ば人類の寿命は200年だと多田富雄氏はいう。僅かそれまでの間ならば、それ ならばこの美わしき偽善を抱きしめて、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ」その 刺の痛みに、むしろ歯噛みして耐えようではないかと思う。 野獣に対するに美女として振舞うことは叶わずとも、仮面がいつか肉となり生 身の顔にならぬともかぎらぬ。少なくとも、後ろめたさが後ろ髪を引っぱって、 独善排他の驕慢に陥ることから、悪魔の僕に堕ちる事から私たちを救うであろう。 それが諸国それぞれにも良心の刺となり、それぞれの隠す偽りを、それぞれの胸 の底のひそかな後ろめたさを、およそ国家というもののまぬがれ難い原罪を炙り 出す篝火になるやもしれぬ。G.K.チェスタートンは言う。「屈めば高くなる」(We
become taller when we bow)のだ。 [付記]
これを書き終わって後、丸山真男に全く同名の「偽善のすすめ」が『思 想』の65年12月号にあることを人づてに知った。偶然ながら、不明について は苦笑のほかない。 (筆者は大阪女子大学名誉教授)
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■7、北から南から
1 北のたより(北海道) (11) 南 忠男
2 老農夫のつぶやき(栃木)(4)
富田 昌宏 ─────────────────────────────────── ─────────────────────────────────── ◇北の便り(11) 南
忠男 (1) 萱野茂さん(アイヌ民族初の国会議員)逝去 (2) 市町村合併にノー ─────────────────────────────────── (1)萱野茂さん(アイヌ民族初の国会議員)逝去
5月6日 アイヌ民族初の国会議員(元参議院議員)萱野茂さんが逝去され た(79歳)。 同氏はアイヌ文化の伝承、先住民族の権利獲得、環境保護運動等 に多大の貢献をされた。「日本はアメリカ等々と異なり単一民族なので優秀」(中 曽根総理在職中の失言)をはじめ、この種の現職閣僚の発言があとを絶たず、ま た、「先住民族」と言う言葉が法的な概念として未確定だからとの理由で、札幌 市の環境基本条例(案)の前文から削除される(1995年12月の札幌市議会)な ど北海道自身の問題としても反省しなければならないことも多い。萱野さんの遺 志を継ぎ、先住民族アイヌの人々の知恵に学びながら北海道の大自然を守ってい かなければならない。
(2)
市町村合併ノー ◇合併のすすまない北海道 平成の大合併がこの3月末で一段落した。中央政府のアメとムチによって強引 にすすめて来た市町村合併、「市町村の合併の特例に関する法律」が今年4月1 日に失効し、アメの政策が無くなるために駆け込み合併が行われ、一応区切りが ついた形である。
20世紀末に全国で3232あった市町村が、この4月1日には、56%、約 半数の1820になった。北海道においても、極くわずかであるがこの駆け込み 合併が見られた。市町村の数は212から180に減少したが、減少率は15% で微々たるもの(全国平均は43%の減少率)である。大阪府・東京都・神奈川 県の大都市に次いで全国四番に遅れている。 ◇強くなる総務省の圧力 道にたいする総務省(旧自治省)の圧力もいっそう激しくなり、道はようやく 重い腰をあげて、合併の組み合わせを示す「市町村合併推進構想」なるものを来 月・6月にも策定して市町村を合併に誘導しようとしているが、そんなに簡単に すすむわけがない。 しかも、今回の合併が目の前にぶら下がったニンジンにつられた駆け込み合併 のため、いびつな形も多く、ひと月も経たないうちにさまざまな問題が浮かび上 がって来ている。合併の成果が乏しく、ほころびばかりが拡大されれば、「合併 ノー」の声はさらに強まるだろう。以下、北海道の合併市町村のほころびの現状 について紹介する。 ◇「百年の大計」なく「目先のアメ」に惑わされる さきにも述べたように今回の合併は、合併特例法で用意されたアメ(主として 合併特例債〜合併に必要な施設整備費について地方債をくみ、その元利金の返済 について国が地方交付金で面倒を看るというもの等々)に惑わされた駆け込み合 併が多いため、合併協議がまとまらず一部の町村が脱落したままの飛び地合併や、 ウナギの寝床のような細長い形など、いびつな形が多く見られ、行政の効率化と はとても言えない結果となった。 また前号で紹介した、根室市に隣接する別海町のように東西61キロ南北44キロ の広大な面積に人口1万6千という北海道の特性から、今回の合併によっても人 口1万前後という、ミニ合併も多く見られる。 ◇合併により希薄化した住民の自治意識 「大きくなれば遠くなる」と言われるように、合併によって住民の自治意識の 希薄化が見られることである。合併により新しく誕生した自治体の首長選挙では 投票率が、旧自治体の直前の首長選挙に比較して大きく低下している。例えば去 る4月23日実施された洞爺湖湖畔の町〜洞爺湖町での、町長選挙の投票率は 74.13%で直近の1998年の旧虻田町長選挙(86.25%)97年の旧洞爺村村長選挙 (93.92%)をともに10%以上下回っている。 ◇消えるマチの個性 ユニークな町づくり村おこしで発揮した町や村の個性が、合併で消えることは 大変遺憾なことである。オホーツクに近い新遠軽町は旧遠軽町・白滝村・丸瀬布 町・生田原町の4町村が合併して誕生した人口2万3千6百の町。旧生田原町が、 文学のまちづくりをすすめ「まちの顔」としてきた「オホーツク文学館短歌賞・ 俳句賞」が今年から廃止されることになった。 この短歌・俳句賞は9年の歴史を重ね、毎年、道内外から小中学生を含む一千 人の応募が集まる道内有数の文学賞に成長しており、その消滅が惜しまれている。 文学賞と言えば、私の住む旭川市も、旭川ゆかりの詩人・小熊秀雄の精神を継 ぐ優れた現代詩に贈られる小熊秀雄賞が、財政難から次回の第40回を最後に終 了することになった。「貧すれば鈍する」とはこのことである。 小熊秀雄は1901年小樽に生まれ幼少期をカラフト、青年期を旭川(新聞記者) でおくり、27歳のときに上京して39歳に没。 ここに理想の煉瓦を積み ここに自由のせきを切り ここに生命の畦をつくる つかれて寝汗掻くまで 夢の中でも耕やさん (無題・遺稿)旭川市常盤公園小熊秀雄詩碑碑文
私が旭川大学で講座をもっていた折、長野県から来ていた女子学生に「旭川を 選択した動機」について聞いたところ「三浦綾子さんに魅せられた」とのことで あった。三浦綾子さんはとくに女子学生に人気があったようで、私の娘も学生時 代、旭川出身だと言うと、三浦綾子さんが話題になり、「親戚のお菓子屋で〜氷 点〜という美味しい和菓子を作っている」という話をしたら、「是非食べてみた い」とのことで、夏休みで帰郷の際お土産に買って帰ったことなどを憶いだして いるところである。ハコモノをいくら並べても所詮は金太郎アメに過ぎないこと を銘すべしである。 ◇
合併で崩壊した予防医療 先駆的予防医療で全国から注目されていた「瀬棚方式」が合併で崩壊した。函 館に近い、せたな町は瀬棚、北檜山、大成の旧3町が合併して生まれた人口1 万8百の町である。旧瀬棚町は全町民へのインフルエンザの予防接種や、全国初 の65歳以上町民肺炎球菌ワクチン接種の助成など予防医療を次々に打ち出し、 老人医療費の削減などで成果を挙げ、全国の注目を集めていた。
せたな町は、旧3町時代からある3つの国保病院により医療体制をすすめて来 たが、旧瀬棚町での予防医療は、新しいせたな町の財政で支えていくのは無理だ として、「瀬棚方式」を放棄することになった。「悪貨が良貨を駆逐する」とはま さにこのことで、市町村合併のひとつの側面を有名に物語っている。
◇
合併をしない宣言 福島県矢祭町が01年10月「市町村合併をしない矢祭町宣言」を町議会の全会 一致で可決しているが、北海道でもこのような事例は沢山ある。住民投票、アン ケートによる意向調査、地域別住民集会による意向集約等々形式はさまざまであ るが、いずれも住民意思を基本にした意思決定である。 (筆者は旭川市在住・元旭川大学非常勤講師)
─────────────────────────────────── ◇「老農夫のつぶやき」(4) 栃木
富田 昌宏
大岡信先生「折々のうた」で手書きを推奨 ─────────────────────────────────── 『オルタ』の4月号が出た翌々日4月22日の朝日新聞朝刊の一面に、大岡信先 生の次の一文が発表された。短い文章なので全文を引用してみる。
《手書き文字の一字だに無き手紙を寄せ 返事待つとぞ未知なる人が 辻下 淑子
『神話』(平成17年)所収。あとがきによれば作者は昭和19年に新詩社の「冬 柏」に入会し、本格的に作歌を始めたという。今度の歌集で8冊目の、長い歌暦 を誇るベテラン歌人である。この歌は、手書きの文字が一字もないワープロだけ の手紙をよこして、返事を待つと言ってきた未知の相手の無礼を怒っている。 日本人の「礼儀」の激変ぶりを象徴的に語っている歌だろう。せめて自分の名 前くらいは手書きでありたい。》 私は『オルタ』3月号で、ワープロ文字がまかり通っている世の中に、“蟷螂 の斧”よろしく手書きの好さを主張した。その私の真意が、200字少々のこの言 葉の中に余すところ なく書かれている。手書きの主張は私だけでないことを知って、ホット胸をなで おろしているところである。 ワープロ文字でも真意は通じる。細かい心理描写も可能である。しかし、人肌 の温かみという点では、手書きに及ばない。大岡先生が言うように、自分の名前 くらいは手書きでありたい、という主張に私は賛成である。
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■8、オルタのこだま 羽原 清雅 ─────────────────────────────────── 28号の木下先生のマスコミ論は、それはそれで経験、印象としては分ります。 しかし、ひとつは同じ土俵で言い切れずに、別の舞台で、というあり方はいかが か。 また、一部の事例ですべて、という論評は残念ですね。具体性がなく、ばっさ り切りつける手法は説得力をちょっと欠くのでは。言われていることは確かに見 受けることもあり、否定はないのですが、いささか感情論に走ったかのように読 ませてもらいました。ぜひ、マスコミを叱咤激励して、良い方向にリードしてく ださい。
(帝京大学教授・元朝日新聞政治部長)
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■9、私と『新憲法』のかかわり 今井 正敏 ───────────────────────────────────
私が始めて『新憲法』とかかわったのは1949年(昭和22年)5月、新憲法が施 行されて間もなくで、この年の4月から始まった6・3・3制の新制中学で生徒たち に『新憲法』について話はじめたときからである。 私は太平洋戦争の末期、1944年に19歳で生まれ育った村で青年学校の教員に なり、戦後、青年学校の廃止とともに1947年に開校したばかりの新制中学の教 員に移ったが、3年生を担当し、戦後の混乱が続く中で「文化国家」の建設を目 指し、新しい教育に青春の情熱を傾けた。 新しい『日本国憲法』が前年11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行さ れることは知っていたが、その内容については主権在民、天皇象徴制、戦争放棄、 人権尊重、男女同権、集会・結社・言論・出版・居住・就職・結婚・信教等の自 由、三権分立、地方自治制、健康で文化的な最低生活を営む権利・・・・・等な どのことは新聞やラジオ(NHK1局だけ)で、その項目ぐらいは知っていたが、 中身は十分に理解していなかった。 新聞やラジオをよく読んだり聴いたりした私がこの程度だから、一般村民の 『新憲法』理解はかなり低かったように思う。政府もこれを知っていて新憲法普 及運動を大々的に展開するが、特に学校教育・社会教育には力を注いだ。文部省 は新憲法を分かりやすく解説した手引書『新憲法のはなし』を大量に作成し、こ れをテキストに各学校や社会教育の現場で指導を行った。これをうけ栃木県でも 教員対象の講習会を各地で開いたが、3年生担当で新教科の「社会科」を受け持 っていたこと、青年学校からの関係で、新しく結成された青年団に深く関わって いたなどから、私は学校から選ばれて受講させられた。これが私の『新憲法』と の関わり始めであった。
講習会に出席した私は、学校の職員会議(全員8人の新制中学)で、この『新 憲法のはなし』をテキストに2年生・3年生に授業することを提案、全員の賛成 で決まった。以後、私の新憲法授業は始まるのだが、このテキストで内容とは別 に私の目にとまるものがあったのは、奥付けの「教育図書株式会社」という「発 行所名」である。この会社の前身は「青年学校教科書株式会社」で戦後、青年学 校が廃止になり「教育図書株式会社」と名を変え、国定教科書発行会社(当時は まだ検定教科書発行前だった)として出発した会社であった。 その「青年学校教科書株式会社」は青年学校用の教科書を発行していた財団法 人日本青年館、社会教育協会、実業之日本社などの会社が1942年に統合してでき た会社であることを私は知っていた。(青年学校は1939年から義務制)そして、 その会社が発行する教科書を2年前まで使っていたから「教育図書株式会社」と いう名には親しみを感じていた。ところが、この会社とのかかわりはこれでは終 わらなかった。 私は、1950年に中学校を退職して青年団活動に専念し、日本青年団協議会(日 青協)の結成(日青協の成立は1951年5月)に関与していたが、1953年に教 育図書の専務(日本青年館の常務理事が兼務)から会社に入らないかと声をかけ られた。(当時私は日青協の青年団研究所に関係していた)思ってもいなかった のでびっくりしたが、結局、この一言で入社が決まった。村の教員をしていた時 には、遠くの存在だった教科書会社に入社することになり大いに喜んだ。 さらにこの流れは、あらたな出会いを生むことになる。以前、『オルタ』への 投書で触れたが、教育図書に入社した私の仕事は会社の関連組織である「教育文 化研究会」が発行する機関紙の編集であった。そしてこの会の会長は元法制局長 官金森徳次郎氏で、氏は新憲法制定国会では憲法担当国務大臣として政府側答弁 の主役を務め、特に象徴天皇制をめぐる答弁では有名であった。私が入社した頃 は国会図書館長の要職にあり、館長室は現在の赤坂離宮内にあった。私が館長室 に伺うたびに金森先生は、用件がすんだあと国会論戦の秘話を聞かせてくださっ た。それを聞くのが楽しみで、月に何度も赤坂離宮に足を運んだ。 このように私と『新憲法』のかかわりあいは、公布直後の『新しい憲法のはな し』から始まり、その発行元の教育図書(株)との関係、そして新憲法制定で主役を 務められた金森徳次郎先生との出会いえと続いた。 「日本国憲法」については「第九条」は云うまでもないが、強い関心を持って最 近の改憲の動きを厳しく見つめていきたいと思う。 (筆者は元日青協本部役員)
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■10、俳句 富田 昌宏
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武器持たぬ者こそ勇者若緑
八州はゴッホのタッチ麦の秋
麦の秋授乳スナップ絶えて久し
田植機に乗りて一歩も田に降りず
一族の墓は植田のど真中
甚平や一病息災ほどが良き
削られし山立膝のまヽ苦笑
金輪際寡黙貫ぬく蝸牛
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■編集後記 ──────────────────────────────────── ◎今月は憲法月間として、私たち一人一人が憲法と向き合い、そして深く考える ために「日本国憲法」のなかった時代の斎藤隆夫演説全文資料を軸に、日々厳し くなる戦時体制の下で窮乏化する農民の先頭に立つ農民運動家三宅正一の思想と 行動を飯田洋氏に、そしてキリスト者藤田若雄の戦中から戦後直後にかけての実 像を木村寛氏にそれぞれ描いていただいた。
この号の斎藤演説は昭和15年2月2日の第75議会における「支那事変処理に 関する質問演説」(俗に反軍演説)であるが、護憲政治家として著名な斎藤隆夫 代議士には他に名演説として2・26事件直後の昭和11年5月7日第69議会で軍 部の政治介入を糾す「粛軍に関する質問演説」(粛軍演説)と昭和13年2月24 日第73議会で「法の支配より命令の支配」を実現しようとする悪法であると糾 弾した「国家総動員法案に関する質問演説」の二つがある。そのいずれも時代を 画す重要演説であるが、これらの演説は「昭和史の決定的瞬間」が1936年(昭 和11年)であるという板野潤治教授の説を裏付けている。私たちは歴史の過ち を繰り返さないためにも、この三つの斎藤演説を徹底的に検証し日本現代史を総 括する必要があるように思う。
わけても、政党政治幕引の契機にされたこの「反軍演説」は、「支那事変処理」 について、近衛内閣の『国民政府(=蒋介石)相手にせず』という「近衛声明」 に縛られた日本政府が、依然として日本の何倍もの広大な大陸の土地・人口を支 配し、いわゆる援蒋ルートによって補給を受け続ける蒋介石軍との和平の途を自 ら閉ざしたうえ、日本が武力占拠した同じく広大な土地・人口に汪兆銘傀儡政権 を育て支配させるというおよそ実現の可能性がない無責任政策を質したものであ る。
そして、現在の私たちには、歴代の日本政府が中国大陸で何をしてきたかを教 え、『話し合おうとしない相手のほうが悪い』『心の問題だ』『アメリカと良け れば大丈夫』などと詭弁を弄して靖国参拝にこだわり、中韓首脳と会談もできな いコイズミ政権の無責任外交を質すことにも通ずる。
◎古来、高麗兵を先頭に押し寄せた「蒙古襲来」に見るまでもなく、戦争の勝者 は敗者の軍隊を再編し次の戦争の前線に駆り出すのは鉄則である。もし、「日本国 憲法」に「九条」がなかったとしたら朝鮮戦争・ベトナム戦争・第一次湾岸戦争 とつづく「アメリカの戦争」に敗戦国日本の「軍隊」は確実に駆りだされ、徴兵 制の韓国軍と同じように最前線で「勇猛」に戦わされたに違いない。
朝日新聞によれば日本の若者は憲法意識が薄く改憲指向(男性の20代30代で 62%が憲法を殆ど知らないといい、20代の66%、30代の58%が改憲は必要と 答えている)が多数だというが「九条」がなくなるとき何が彼らを待っているの か。その時、徴兵制は夢物語ではない筈である。彼らはこれを「想定外」として いるのだろうか。
若者の意識を示すこれらの数字は、戦争体験をもつ世代がその経験を確実に次 世代に伝えることに失敗したことを示している。これを取り戻すには市民の草の 根パワーが重要となるが、その一つに「九条の会」運動がある。 いま「九条の会」は、この1年で4倍と急速に全国で広まり、約4700グル ープになったと言う。「オルタ」の共同代表者冨田昌宏や以前「オルタ」で紹介 した元国分寺町長若林英二氏らも「大平山麓九条の会」で活動している。今号で は「オルタ」が新しい広がりの一翼を担えればと願い、その生々しい運動の記録 を「大平山麓九条の会」メンバーの大原悦子さんにまとめていただいた。
◎さらに仲井富氏からは改憲が徴兵制に連なる一里塚であるとの主張を逆説徴兵 制論として提起をうけ、西村徹先生には完全な軍隊である自衛隊を軍隊と呼ばな い矛盾を「偽善のすすめ」という切り口で論じていただき、今井正敏氏からは 「新憲法」との数奇な個人体験を頂戴した。
◎前号での木下真志氏の論考に読者の立場として帝京大学の羽原教授から具体的 なご指摘を受けたのは嬉しい反響として「オルタのこだま」に掲載した。
◎この号に寄稿されている飯田洋氏が、この4月、『農民運動家としての三宅正 一―その思想と行動―』(新風舎・¥1400)を上梓されたが、予想以上の売れ行 きという嬉しいニュースが届いた。飯田氏は東大在学中から三宅正一に私淑し、 何回もの選挙を献身的に戦いながら、三宅氏の自伝『幾山河を越えて』をまとめ られた。現在は有名なパラマウントベッド(株)の専務を定年退職し、立教大学大 学院博士課程で「三宅正一」研究に取り組むユニークな政治学者である。さらに 精進され、是非、戦前の無産政党史に新たな光をあて、昭和史の見直しを進めて いただきたいと思う。
◎メデイアを完全に支配し、派手に対米追随外交を展開して、わが世の春を謳歌 しているかに見えたベルススコーニ内閣が中道左派に敗れ、イタリア政界は 久しぶりに熱い。そのイタリアから初岡昌一郎氏が4月末に帰国されたので急遽、 連載中の「回想のライブラリー」をホットな「イタリア紀行」に切り替えていた だいたが、憲法特集で頁数が大幅に増えたため残念ながら次号に譲ることになっ た。なお、力石定一先生からも日本の参議院制度が機能していないことについて の提言があったがこれも次号に載せることになり、お二人にお詫びしたい。 (加藤宣幸記)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【メールマガジン「オルタ」】2006/5/20 編集責任:メールマガジン「オルタ」代表:加藤宣幸・富田昌宏 加藤宣幸の知人の方、名刺を頂いた方、オピニオンリーダーの方にもおくらせて いただきました。 今後メール配信ご不要の方はご連絡ください。発信名簿より削除いたします。 編集部では忌憚のないご意見・ご要望をお待ちしております。
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